砂の夜[2]


 その日、ユージュが住居へ顔を見せにきた。
 嬉しそうな笑顔でユージュへと駆け寄るリタルが羨ましくて、アヴラルは少し落ち込んでしまった。ユージュはシャルと行動を共にしているのではないのだろうか。なぜシャルは戻ってこないのだろう? まさか狩りの時に負傷して動けないのだろうかと悪い考えばかりが脳裏によぎり、いてもたってもいられぬ重苦しい気分を味わう。
 思い切ってシャルの様子を訊ねてみようと思い、リタルと楽しげに会話をかわすユージュへ近づいた。
 近い距離で見上げたユージュの顔には、どことなく疲労が滲んでいた。
「あの、シャルは」
 シャルの名を出した途端にユージュの顔から笑みが消え、表と裏が入れ替わったかのように眼差しが険しくなった。何だろう、嫌な予感がする。シャルと喧嘩でもしたのだろうか。
「あたしが知るわけないじゃない、あの人のことなんか」
 突き放した物言いに、アヴラルのみならずリタルも驚いた目をした。
「あの人、何なの? すごい高慢よね。もっと協力してくれると思っていたのに。まあ、皆そんなものよね。自分が可愛いのは当然だし」
 虚空を睨んで口早に罵るユージュの言葉は、こちらの問いに対する返答というよりも、胸に溜まっていた憤りをあらわしているように思われた。
 アヴラルは狼狽えた。そうだろうか、シャルは高慢な人間だろうか? 確かに態度は素っ気ないし、時に冷然としていて、口も悪いかもしれないが、少なくともアヴラルにとっては他人を踏みつけにして喜びを得るような驕りたかぶった人間には思えなかった。いや、不遜な態度がシャルらしいというか。言葉ではなく行動に注意してみれば、情けというものを蔑ろにはしていないはずだ。
「ね、本当はシャルの実の弟じゃないんでしょ? だったら気をつけた方がいいんじゃないの。あの人、面倒と感じたら簡単に他人を切り捨てるのよ」
 違うと叫びたいのに、心に刻み込むかのように強い口調で断言され、否定の声を外へ出せない。どうしてそういう悲しい言葉をユージュが口にするのか、混乱と戸惑いのために考えが追いつかなかった。シャルが本当に冷たいだけの人間ならば、自分のような役立たずはとうに放り出されていると思う。
 ――それができないのは、命を共有しているから?
 違う、違う! とアヴラルは懸命に己の内に浮かんだかすかな疑念をかき消した。このような疑念を抱くのは、これまで面倒を見てくれたシャルに対する立派な裏切り行為で、あまりにも身勝手すぎる。
「姉さん! アヴラルが本気にするじゃない。泣かせちゃ駄目よ」
 険悪な空気を察したリタルが取り持ってくれたが、その努力も虚しく、ユージュが冷ややかな嘲笑を浮かべて「本当のことだもの」と一言鋭く告げ、再び気まずい沈黙を招いた。
 孔衛団へ向かう前との態度の落差に、愕然としてしまう。一体、二人の間で何が起きたのだろう。シャルが一度受け入れた人間を自分可愛さのために陥れるだろうか。そんなはずはないと思うのに、ユージュの影を帯びた荒んだ顔は冗談を言っているようには見えず、更に混乱を招く。
「姉さん、疲れているのよ。アヴラルは部屋に行っていて。ね?」
 リタルに諭され、緊張する心を抱えながらぎくしゃくと二階へ続く幅の狭い階段へ足を向けた。
 調理場から出てきたコロノの不自然なほど上機嫌な声とユージュの笑い声が、ひどく不安をかき立てた。
 
 
 ユージュはその後、もう一度、顔を見せにきた。
 やはりシャルは同行していなかった。これは決定的な決裂が二人の間にあったのではないかと嫌でも思わざるをえなかった。
 また、ユージュが初めて顔を出した日以来、アヴラルは絶えず居心地の悪さを感じて、鬱々と部屋にこもる時間が多くなった。コロノと顔を合わせたくないのだ。以前のおおらかな笑みは変わらないが、こちらを見る目の中にねっとりと絡み付くような光をいつも宿すようになったためだった。リタルも肌で異変を感じているようで、眠る前に「何か、変よね」と不安そうに零すことがあった。
 シャルの安否が気になって、アヴラルは次第に眠れなくなった。
 
 
 食事も美味しくない。悪いとは分かっているが、コロノが作った料理だと思うと、食欲がなくなり、胸につかえる。
 瞳の奥に宿る粘着質な輝きは、もうアヴラルの勘違いなどではない。
 真夜中――リタルが熟睡し、アヴラルも浅い眠りを繰り返していた時、古びた階段が軋む音が聞こえ、誰かが部屋に近づいてきたことがあった。
 この気配はコロノだ、とアヴラルは悟り、寝台の中で冷や汗をかいた。眠りの余韻も一気に消え、聞こえてしまうのではないかと危惧するほど心臓が激しく鳴った。なぜコロノが真夜中に部屋の前まで来て、こちらの様子を窺うのか理由が分からなかったが、これだけは断定できた。
 アヴラルの身を、純粋な意味で心配しているのではないと。
 
 
 気疲れする日が続き、リタルが困惑するほどアヴラルの口数が減った頃だった。
 不意に――どくりと心臓が痛みを訴えた。
 薄闇がそろそろ町に漂い始める時刻だ。
 その時、アヴラルは夕食の準備を手伝うリタルの頼みで、離れた場所に設けられている水路付近まで足を運んでいた。時間の狭間に迷い込んでしまったみたいに、周囲の人気は不思議と絶えていた。
 突然襲った胸の痛みに驚き、よろめいて背の低い石垣に片手をつく。何だろう、この不穏な痛み。
 シャル?
 脳裏に、苦しげな色を宿した紫色の瞳が浮かび、アヴラルは目を見開いた。繋がれた生命が危機を訴えている。
 まさか!!
「シャル」
 アヴラルは透明な青い闇が満ち始めた寂しい景色を呆然と眺めた。水路に沿って植え付けられた樹木の影が、不吉な何かの象徴のように映る。
 嘘でしょう、シャル。
 天地が鳴動するかのような目眩と吐き気に、身体が痙攣し始める。違う、この苦痛はアヴラルのものではなく、シャルが今、味わっているのだ。
 どうして!
 死、という壮絶な言葉が心を貫く。自分だけが死ぬのならばいい、だがシャルは!
「嫌だ」
 脂汗がにじみ、頬を伝って顎から滴り落ちた。嘘だ、シャルが死ぬなんて。
「あぁ、駄目だ、そんなの駄目!」
 火花が散るように激しい拒絶の念が身体中に広がった。強い願いが、神経を焼き切ってしまいそうなほど威力を増して暴れ出す。
 死ぬことは駄目だ、認められない、許せない――許さない。
 怒りなのか、痛切な祈りなのか、苛烈なほどの思いが胸の内に咲いた。景色は群青色に染まり、夜という密やかな時間が太陽の余韻を押し潰す中、ただひたすら憤りに似た激しい願いを独白する。
 死の影を払わねば、とアヴラルは必死に胸中で繰り返した。どうする。遠く離れた地にて命を失おうとしているシャルを、どう救い出せばいいというのか。魔力が救済の手と変わるのならば、最後の一滴まで惜しみはしないものを。
「力を」
 救えるのか、本当に我が内に眠る魔力ならば?
 どくどくと、血の巡りが速くなり、呼吸すらも乱れ始める。何かが覚醒する。卑小な肉体を突き破るほどの巨大な衝動が外へと放出され、青く染まる大気を震撼とさせる。亀裂の入った器から少しずつ、そしていつしか深い穴を開けて水が溢れ出すように、これまで目を背けて抑制し続けていた魔の核が脈動し、呪わしい気配が滴った。
 アヴラルは己の変化に戦きながらも、来い、と小さく告げた。今シャルを救えるもの。どのような状態にあるか窺えぬ彼女の身を救うもの、何よりその手段を求めた。
 暗く淀んだ魔物の性にアヴラルは一瞬囚われ、全てを解放したいという危険な誘惑に酔いかけた。それは目眩がするほど甘美な誘いで、身も心も預けてしまえば枷はなくなり、いっそ清々しいほどに愉快なのだろうと確信していた。けれども、瞳の色が落ちるよりも先に、ふわりと美麗なしもべの影がアヴラルの前に出現した。以前、望まぬ内に隷属させた、砂漠の王と称される美しい羽根の蝶だった。そしてただ一匹、紫の模様を持つ、王たる王にアヴラルは名を与えた。
「イース?」
 アヴラルはふと全身の力を抜き、戸惑いを露にしながらもおずおずと指を差し出した。そこへひらひらと羽根を泳がせつつ、イースがとまる。
 アヴラルは今し方、己の魔力の片鱗を外へと放った。その結果としてイースが姿を現し、宣下を待つかのように大人しく指にとまっている。
「僕……シャルを、助けたいです」
 アヴラルは考え考え、それだけを静かに告げた。独白のような言葉は、しかしイースにとって厳然たる命令だった。
 イースは一度、目映い鱗粉をまき散らすかのように大きく羽根を開いた。了承の証だと気づいた瞬間、飛散するようにしてイースの姿が指の上から消失した。残像だけが、青く沈む景色の中に漂っていた。
 
●●●●●
 
「アヴラル! 遅かったじゃないの、心配したんだからね!」
 夜の色に包まれて輪郭が曖昧になった住居に戻ると、扉の前で仁王立ちしていたリタルがきつい顔つきで威勢よくアヴラルに叫んだ。怒りを見せるリタルの顔に安堵と色濃い不安が隠しようもなく滲んでいるのが分かり、魔力を僅かに解放した直後のために疲労していたアヴラルだったが、素直に罪悪感を抱き、ぺこりと小さく頭を下げた。
「もう、私がいないと、駄目ね!」
 強く罵り声を上げていたリタルがふと溜息をつき、アヴラルの手から水袋を取り上げて、少し戸惑いを漂わせた。
「どうしたの? 具合悪いの? 誰かに嫌なことでもされたの」
 まさか自分の正体を何も知らぬリタルに説明するわけにはいかず、アヴラルは無言のまま微笑を作った。不思議なことにアヴラルが笑うと、コロノもリタルも口を閉ざし優しく接してくれる。シャルの場合はこういう時、しかめ面を見せたものだが。
「いいわ、中に入って。食事しましょ」
 リタルは追及をやめ、照れたように笑ってアヴラルを中へ招いた。
 アヴラルは頷き、明かりが漏れる室内へと踏み出したが、一度だけ振り向いて闇に覆われた外の世界へ沈痛な視線を巡らせた。胸の痛みはここへ戻るまでの途中で奇麗に掻き消えていた。イースは多分、アヴラルの願いを叶えてくれたのだろうと分かっていたが、それでもまだ危機の気配は完全に去っていないと確信していた。
 
●●●●●
 
 月さえ阻む暗い夜。
 アヴラルはなかなか寝付けず、固い寝台の上で何度も寝返りを繰り返していた。隣の寝台で眠るリタルの穏やかな寝息のみが生温い空気の中に溶けていた。
 寝返りを打つのにも飽きて、仰向けになった胸の上で両手を組み合わせ、室内に充溢している闇を静かに眺めた。
 シャルは大丈夫だろうか。早く迎えに来てほしい。リタルはとても気さくで姉のように優しく、楽しい時間を与えてくれるけれど、最早それだけではもの足りず、アヴラルは焦れるような思いでシャルが戻ってくる時を待ち望んでいた。これほどリタル達には世話になったのでひどく後ろめたい気持ちに潰されそうになるが、それでもシャルと二人で制限のない旅を延々と続ける方が余程幸せに感じられるのだ。
 感傷はいよいよ深刻さを増して、気が触れそうになるほど切実な願望へと変化を見せる。もっと自分が成長し、従順であればシャルは満足してくれるのだろうか。理解できることよりも解決手段が見えぬ悩みの方が断然多く、聡明な者にはなれぬ自分の限界に失望と悲しみを抱く。
 光明が見えない闇の中、深まる感傷を誤摩化すためにぼんやりと意味もなく目を凝らし続けていた時、眠れぬ神経に何かが引っかかった。
 物音。アヴラルは緊張し、組み合わせていた指にぐっと力を込めて意識を階下へ集中させ様子を窺った。歪みのある扉が音を立てて開閉したようだ。誰かの来訪があったのか。このような闇深き時刻に?
 ならばそれは、コロノが見知った人物ではないのか。
 シャルではないだろう。近隣の知人か。いや、一番自然な考えは、孔衛館へ出稼ぎに向かっていたユージュの帰宅ではないだろうか。
 何だろう。話し合いでもしているのか。それにしては様子がおかしい。人の気配が濃厚にすぎる。刺々しいというよりは、緊迫感が強いように思える。
 ――逃げなければ。
 無意識のように浮かんだ自分の切迫した思念に驚き、はっと息をとめた。
 何を今、自分で思ったのだろう。逃げる? どこへ。けれども逃げなければ災いの帳が目の前に降りてしまう。なぜそのような不確かな焦燥感を抱いてしまうのか、詮索するのはあとでいい。逃げねばきっと、予想もつかない嫌な現実を引き寄せてしまう。
 アヴラルは一瞬、身を震わせた。上半身を起こして、闇に閉ざされた狭い室内を見回す。逃げ道を探さねば。階段を使用すれば、階下の者と鉢合わせしてしまうだろう。ならば地上に降りるまでに難儀しそうだが、窓から逃げ出すより他にない。すぐさま行動を起こそうとして、安らかに眠っているリタルの姿に気がつき、迷いが生じた。彼女の存在をどうすればいいのか。アヴラルにとっての危機は、リタルにも脅威となるのか、その判別がつかない。
 自分だけがのうのうと逃げ出していいものか、適切な判断が下せず呆然としてしまい、その僅かな時間が行く末を決してしまった。全身が痺れるような緊張を意識した瞬間、ふと肩に手を置かれたのだ。
 首の後ろにまで鳥肌が立った。悲鳴を辛うじて堪え、戦々恐々と振り向くと、固く濁った気配を漂わせるユージュがそこに立っていた。
「アヴラル? 起きていたの」
 リタルに配慮しているのか、声音を抑えた低い問いかけだった。
「ねえ、悪いけれど、ちょっと来てほしいの」
「ど、どこに……」
「あのね、シャルが、重傷を負ったのよ」
 アヴラルは息を呑んだ。
 確かに――確かに、シャルは重傷を負ったのだろうと思う。薄闇が漂う時刻にアヴラルは胸の痛みを覚え、シャルの危機を察したのだから。イースの力では、彼女を完全には救えなかったのか。
 ユージュの言葉に嘘はないとアヴラルは唇を噛み締めた。なぜ逃げようと思ったのか、その疑問も今や霧散しており、ただシャルの安否のみに全ての意識がとらわれる。
「それで、酷な話だけれど、危険な状態なのよ。分かるでしょう? すぐに来てほしいの。シャルに会いたいでしょう」
 アヴラルは身体の震えを抑えることなく、何度も必死に頷いた。警告と緊張感と悲嘆と絶望。どれを最優先と定めてこの現実を判断せねばならぬのか、もう冷静な思考を持てず、ユージュの暗示のような言葉にすがりついてしまう。
「さあ早く。今シャルは薬師のもとにいるの。迎えの人が外にいるから、行きましょう」
 有無を言わせぬ強さで手を引かれて、よろめきながらアヴラルは足を動かした。
 薬師のもとにシャルが。それほど傷は深いのか。
 会いたくて、本当にそれだけの願いが全てで、殺伐とした闇に潜む謀の糸に気づくことができなかった。



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