砂の夜[16]


 しばらくの間、シャルは皆をどうやって騙しこの場所から逃げ出すか画策していたらしかったが、結局執拗な責めに屈する結果となった。シャルに覚悟を決めさせたのは、意外なことにユージュの言葉だった。いいじゃないの、魔なら魔でさっさと認めてこの町を出るわよ、という半ば逆上した台詞だったが。
 弱り切った表情のシャルも初めて見た気がする。自分の知らない彼女がこんなにたくさんあったのかと驚きの連続だった。
 もしかしたらシャルはひどく疲れていたのかもしれない。アヴラルと二人だけの旅に倦んでいたのかもしれなかった。
 魔の血を半分継ぐアヴラルと、命を共有していることを、シャルは端的に告げた。グイレにはり付いていた子供達が怯えた目でアヴラルをじっと見つめる。
「なるほど。それで――あなた達は、どこへ向かっているのかな」
 グイレが表面上は平静な顔でシャルにたずねた。緊張感を高めていたアヴラルは、実際のところグイレが顔に浮かべる表情ほど心の中まで冷静ではないことを察していた。
「さあ……安寧の地を探しているだけ」
 シャルは微苦笑して答えた。そうなのだ、この旅は豊かさを目的としているのでも、旅心に誘われたのでもなく、ただ誰にも邪魔されずに生きていける場所を得る、そういったささやかな望みが根底にあるにすぎなかった。
「それは容易いようで得難い。その子は魔の血を継ぎながらも、どうやら人に害をなす者ではないようだ。しかし、他人はそのように楽観的には捉えないだろうね。性を知られれば、排斥される可能性が高い。また、この場合は厄介なことと言えるだろうが、その子はあまりにも目立つ容貌をもっている」
 グイレの言葉が胸に刺さる。存在を非難されているような気になり、アヴラルは俯いた。すると思いがけないことに、アヴラルを抱きかかえていたシャルが、不意に宥めるような動作で軽く身を揺さぶった。
「容姿はともかく、この子の本性が魔そのものであれば、たとえ己と命が繋がれていようとも生かそうとは考えなかっただろう。だが、アヴラルは……そうだね、たまには魔らしく傲慢になれ! と言いたくなるほど平和好きな上、稚く穏やかだ」
 アヴラルは目を見開いた。
 今、シャルは、庇ってくれた?
「そりゃあ、また難儀な……」
 何とも言えない表情を浮かべたグイレが視線をさまよわせて自分の顎をさすったあと、最後にはこらえきれないように破顔した。
「それでも、魔の部分が全くないようではありませんね」
 ラシスが誰よりも冷静な口調で言った。シャルがふと横抱きしていたアヴラルの身体を、赤子を支える時と同様、向かい合わせになるような抱え方をした。アヴラルはあたふたとしたあと、落ちないようにシャルの首へ両腕を巻き付け、しがみついた。そうするとシャルの顔がとても近くなり、我慢しようと思っても頬が勝手に火照ってしまう。
「アヴラル」
「う、う」
「お前、私に逆らう?」
 アヴラルは非常に気恥ずかしさを味わいつつも、ぶんぶんと勢いよく首を横に振った。
「言うことを聞く? 私の命令なしに、他者を傷つけないか」
 今度は頷いた。シャルは、よし、と満足したように微笑し、他の人々へと視線を向けた。
「俺はシャルの方が魔らしく見えるぞ……」
 キカが妙にしみじみと独白した。
「珍しい主従もあるものだが、まあ、なんであれ、安寧の地はそう易々と見つかるまい。どうかな、私がその場を提供しようか」
 微妙な目でシャルとアヴラルのやりとりを眺めていたグイレが、楽しそうな顔をして不可思議な誘いをかけてきた。
「純粋な好意で場を用意するという話ではないのでしょうね」
 シャルが慎重な声で答える。アヴラルは、この抱かれ方は子供のようでとても恥ずかしいと思っていたが、さりとて離れる気にもなれず、大人しくしがみついてシャルの首筋に顔を埋めた。
「そうだね。やはり条件がつく」
「乗る乗らないは別として、うかがいましょう」
「私は仮の統率者。流浪の日々を終わらせて、ぼちぼち落ち着ける場所を作ろうかと考えている。とりあえず、場所については目星をつけている。誰にも手出しされない地。険しくも、地の底に豊かさを眠らせている場所。岳苑」
「岳苑? 藍砂漠――夜の都と呼ばれた場所に?」
 シャルが少し驚いたように答えた。
「そう。見事な青の砂漠。岩も砂も、夜の色をしみ込ませたように深い」
「岳苑は確か、複数の豪族が覇権争いをした結果、資源が涸れて見捨てられた場所では」
「一度滅びているからこそ、人目を集めずにすむ。私達は、勢力も権力も求めていない。夫のもとで、権力者の醜い諍いを幾つも見たからもう懲りた。静かに暮らしたい」
 がくおん――岳苑。残念ながら、その地についての知識はアヴラルの中に眠っていなかった。
「それで、条件とは」
「岳苑には、別名があるのを知っている?」
「隠海、でしたっけ」
「意外に物知りだね。そう、岳苑には険しい岩地が多い。実はね、その岩地は豊富な水源でもある」
「しかし、水源は涸れたはず」
「一度は涸れた。けれども、まだ発掘されていない場所がある」
「大地も乾いているはずです。あの地に樹木は生まれない」
「生まれる。私は、新種を作ったといったでしょう」
 そこで一旦区切り、グイレは不意にキカの方を見つめた。
「もともとの岳苑は、複数の長が地を区分して支配していた。岳苑の神秘性を知らぬ者達が闘争を繰り返して穢す前の話だがね。なぜ闘争の結果、岳苑の地が、人が住めぬほど乾いてしまったか、知っている?」
「いえ、詳細は知りません」
「豊富な水源は、かの地に眠る水神が許した民のみが発掘できると言われている。その許されし民の生き残りが私の横にいるわけだな」
 グイレの視線を受けて、キカが小さく頷いた。
「前に、話したな? 俺は故郷を奪われた人間だと。俺の一族は滅びを辿った。水源地を荒らすならず者どもに追われてだ。豊かな資源が眠る地に目を付けた豪族たちが、次々と乗り込んできたのさ。本来、岳苑の民は領土争いをしない。当時の民は、故郷が奪われる日まで剣など握ったことがなかっただろう。そのくらい平穏な地だったという」
「キカは岳苑の民だった?」
「そうさ。だが、岳苑を制圧しに現れた豪族達は、我が民が水源地を守っていると知らなかった。荒らすだけ荒らし、食い尽くして、枯渇させた。民の大多数は流浪の暮らしを余儀なくされ、命を落としたという。己が岳苑の民の末裔だと知ったのは、流浪の果てに病にかかった父が最後の言葉として事実を語った時。故郷などないと思っていたのにな」
「探し出した許されし民の生き残りは、私が保護している。だが無欲な親切心などではないよ。どこかに眠る貴重な水場を発掘するためにだね。彼らに伝わる秘術のみが、水源地を探し出すことができる」
 グイレが顎に片手を添え、考え深げに言葉を続けた。
「岳苑は他国から離れているし、先程言ったように岩石地帯が多い。自然の砦となるだろう。すぐに豊かな暮らしは保証できないけれど、それでも故郷を作る喜びが得られるよ」
「けれども、目につきにくいとはいえ、岳苑を立て直せば、いずれは他国に知られるでしょう。また攻め入られた時には?」
 シャルの言葉に、グイレが小さく笑った。
「私はこれでも一応、王の妻だったんだよ。モルハイに来るまでに、できるだけの根回しはすませた。北の穂苑は今、内部が荒れているので、安全保障の確約を得ることはできなかったが、西の鞍苑の指導者とは顔見知りでね。岳苑へ手出しはしないという誓約をもらった。勿論、外部に対する保護は得られないけれど、復興のあかつきには貿易をしてもいいという気前のいい言葉をもらったし」
「気前のいい言葉、ですか。何も条件を提示されなかったとは思えませんが」
「いやぁシャルって察しがいいね」
 うんうんと嬉しげに頷くグイレに、シャルはすこぶる複雑な顔を見せた。
「やっぱりね、何かを得るにはそれなりの働きが必要だよね」
「働きですか」
 ああシャルの気配がなんだか冷たくなってきた気が。
「実はねえ、物資の援助をしてもらう代わりに、ひとつ労働力を差し出すことになりまして」
「ひとつ?」
 シャルの目が、だんだん怖くなってきていないだろうか。
「穂苑と鞍苑は今、険悪の仲なんだ。穂苑が鞍苑の資源を狙っているらしい。どうも穂苑内が荒れているのは、豪族たちの意見の対立が原因で……と、まあ、この辺りの詳しい説明は省かせてもらうけれど、とにかくね、鞍苑は現在、不吉な動きを見せる穂苑を監視し、牽制しなきゃいけない状態でね。他の厄介事にまで兵を分散させるわけにはいかないらしい」
「やっかいごと」
 シャルが奇妙な片言口調で呟いた。アヴラルを抱えるのに疲れたのか、シャルはグイレの前に腰を下ろした。膝の上に座らせてもらっていいのだろうかとどきまぎしたが、何も言われなかったので、余計な発言はやめておこうとひっそり幸福感を味わう。
「西南地方の一画に、強大な魔が住みついたらしくて」
 とにっこり笑ったグイレを見つめるシャルの気配が、おそろしく淀んだ。
「南方にも小国や町々がありましたよね。彼らはその魔を退治しないのですか」
「かなり強い魔らしくてね、これが。しかもどうやら、南方にある町を根城にしてしまったようで」
「魔が?」
「利口なんだろうねえ、その魔。更に言えば、鞍苑側に進出してきているのだとか。石界地帯も荒らされたようでね」
 せっかい地帯とは何だろう、という疑問が顔に出たらしく、気づいたグイレが笑いかけてきた。
「石界地帯とはね、天幕のような石が並んでいる地区のことだよ。ここは面白くてね。自然の石倉が豊かな恵みを授けてくれる。獣も集まる上に、貴重な草花を育てるのだね。岳苑内にもこの石界地帯があるよ」
「まさかと思いますが、鞍苑を悩ませるその強大な魔を退治しろと?」
「本当に察しがいいなぁシャル」
 明るく言われたシャルが項垂れた。
「鞍苑は穂苑を警戒しなければいけないために、魔物の排除にまで手が回らないそうでね。かといって、放置しておけば岳苑の内部までが魔の巣と化すので見過ごすわけにもいかない。どうにもならない状況らしいねえ」
「私の力ではその強大な魔とやらを倒せないと思いますが」
「というわけで、その魔を退治できるのなら、色々と物資の援助をしてもよいと言われてしまいまして」
「聞いてますか私の言葉……」
 グイレが目映い笑みを見せ、少女のように胸の前で手を組み合わせた。
「いやはや、キカは運がいい男だね。出会った呪術師はなんと魔の力を借りれる存在だとは。これも巡り合わせというものかな」
「だから私の話を聞」
「私はキカに約束した。もし西南地方に住みついた魔を見事狩れた時は、岳苑の領土の一部を返還すると。とはいえ、正直、期待はしていなかった。戯れ言に近い。キカの民の生き残りは少数で、もともとは温和な性、ろくに戦いを知らぬからこそ破れた一族だから。だが、キカは私に血の誓いを迫った。莱琵(らいび)と呼ばれる岩石地帯が欲しい、必ずその地の自治権を岳苑の民に譲渡せよと。今のままでは復興もままならず、再び流浪の日々を続けねばならない状態だ。莱琵周辺を失うだけですむならば、かまわない」
 無論、期待はしていなかったが、とグイレは苦笑した。
「だが、こうして、鞍苑への根回しを終え、ついでに足を伸ばしてモルハイにまで来てみたら、どうも戯れ言がやけに価値を持ち始めている気がした。キカは兵を集めるために動いていたのだろう? 巡り合わせとは、まことに奇怪なものだね」
「……悪いが、アヴラルは魔の子なれども、争いを好まない」
「好むか否かではない。力があるか否かが問題ではないかな。あなた達は、安寧の地を探しているのだろう?」
「莱琵を望んでいるのはキカでしょう」
 シャルが困惑したように答えると、キカが身を乗り出した。
「手を貸してくれれば、俺の地であり、お前の地となる。魔の子を連れて永遠に大地を巡るか? 事情を知った俺は、お前も、その子も排斥はしない」
 シャルはしばらく考え込んでいた。
「仮にキカの話に乗ったとして、運良く魔を狩れたあと、あなたたちが誓いを守る保証は?」
「それは信用してもらうとしかいいようがない。キカは水源地を知る民だ。許されし民が多く失われた時、倣うように水源地までもが枯れ出した。だからこそ、私は残り少ない彼らを保護している。もし約束を破れば、なんとこの者達は皆自害するとまで言い切った。死なれては困る。ゆえに約束は必ず果たす」
 シャルは僅かに視線を落とした。そこへ切り込むようにして、グイレが毅然と言葉を紡ぐ。
「キカ達は自治権を望んでいるが、私達はそもそも彼らを支配したいなどとは考えていない。ただ、誰もが笑って生きていける故郷を作りたい。その日に食べるものがあり、喉を潤す水があり、愛する者と安らかに眠りにつける、そういった平穏を求める」
 視線を上げたシャルに、グイレが柔らかな笑みを見せる。
「私の故郷に、奴隷はいらない。月日とともに疲労や憎しみを重ねるのではなく、心と喜びを重ねたい。誰もの胸に知恵がある。各々ができることをして、責任を負う。そして安らぎという風を、大地の隅々、空の果て、身の爪先にまで巡らせる」
 グイレの言葉が、奇麗な水のように身体にしみる。シャルもそう感じはしなかっただろうかと、瞬きさえ忘れているような彼女の顔を覗き込む。
「やりましょう、シャル。何躊躇ってんのよ。各地を這い回って騒動起こして、行き場なくなるよりも、ここで腹をくくった方がいいじゃないの」
 突然ユージュが口を挟んだ。
「いや、ユージュ、あのね」
 我に返った様子で慌て始めるシャルを置き去りにして、勝手に話がまとまっていく。
「まずは、岳苑においでよ。実は少しずつ復興の準備をしているんだ」
「ああ、ならば、俺は声をかけた兵達を呼んでこようかな」
「私達はトビの宿で待っていることにしよう。のちほど合流だね」
「一刻ほどでそちらへ向かいます」
「おお、了解」
 キカとグイレが軽快に会話するのをシャルは目を見開いて聞いていた。
「じゃあシャル、あとでな。逃げるなよ」
 キカがさっさと立ち上がって、出ていった。引き止めようとするシャルを完全無視してだ。
「なんで、こうなる……?」
 唖然と呟くシャルの肩を、ラシスが諦めなさいというように軽く叩いた。
 
●●●●●
 
 放心しているシャルを無理矢理連れてトビという名の宿へ向かう途中の話だ。
 ユージュとグイレが交わす言葉に、アヴラルは耳を傾けた。シャルが騎乗する従寄に同乗しつつだ。
 ユージュを騙してリタルまでも売買の対象にしたコロノとハスライという男の行方は、残念ながら追えぬだろうということだった。既にモルハイを離れている可能性が高いらしい。ユージュはひどく悔しそうな顔をしていた。
 二人が小声で話し合っている間、ハルヒとラシスが子供達の手を取りはぐれぬようにしていた。ハルヒの身もグイレが預かることに決まり、少しだけアヴラルの胸がざわめく。ハルヒは最初、娼館に多額の借金があると言ってグイレの申し出を断ったのだが、その問題は既に解決したとラシスから聞き、皆と同行する覚悟を決めたようだった。
 ラシスは館主に二百万ラレィを渡す時、その時点ではまだろくに詳しい事情など知っていなかったであろうに、ハルヒの身が無事だった場合は引き取らせてほしいと交渉をしたのだという。どうやら二百万ラレィとは別に、幾らか支払ったらしい。
 詳細を知らずともここでハルヒの身を自由にできればシャルを誘う時有利になるかもしれないと考えたのだ、とラシスはあっさり種明かししてくれた。この説明を聞いたシャルは、放心状態から今度は脱力状態に突入した。これでもうグイレの誘いに乗らざるを得なくなったと言っていいだろう。実に淡々としているため一見つかみ所のない女性のようだが、確かにラシスは切れ者であるらしい。
 リタルは、アヴラルが魔の血を確かに継いでいると理解した後、一言も発していなかった。アヴラルもまた、話しかける気にはなれなかった。姉のようなリタル。やはり、仲良くはなれないのだろうか。
 
●●●●●
 
 皆の疲労を考慮して、トビの宿で一泊することになった。
 宿に戻ってきたキカによると、仲間となる人々は明朝モルハイを出る時に合流するという話だった。
 久しぶりの、穏やかな夜だ。
 アヴラルはシャルと同室で、ようやくといっていいのか、他の人達から離れ二人きりの時間を持つことができた。少し幸せな気持ちで寝台の端に腰掛けつつ、横に座って項垂れるシャルの横顔をちらちらと見てしまった。
「あの、シャル」
「……何?」
 どうもシャルは、皆に乗せられてとんでもない成り行きを迎えているこの状況にたそがれているらしい。
「教えてほしいことが……」
 全てを隠しはしない、といったシャルの言葉を思い出しながら、アヴラルは決意を固めて声を発した。
「何を?」
 訝しげにこちらへ顔を向けたシャルを凝視した。澄んだ紫色の瞳に見蕩れそうになり、慌てて表情を引き締める。
「ハルヒさんとは、一体どこでお知り合いになったんですか」
 これが気になってたまらなかった。ハルヒの言葉にも、ひどく不安をかき立てられていたのだ。
 シャルが呼吸を忘れたように固まり、アヴラルを見返した。その後、気のせいでなければ、わずかに狼狽した態度で視線を逸らされたような。
「忘れた」
「え?」
「あー、キカと飲みに行った先で知り合ったんだったかな」
 誤摩化されている気がする、とアヴラルは衝撃を受けた。
「本当ですか」
「……」
 沈黙された。何だか涙が滲んできた。
「アヴラル、そんなことより着替えなさい。その恰好、派手すぎる」
 急に渋い顔で説教されてしまった。しかし、シャルの目は明らかに動揺を見せている。
「耳飾り、贈ったと……」
 そう言うと、シャルの動きが再び止まった。
「シャル」
「分かった。お前にも何か買ってあげるから」
 じわじわと泣き出したアヴラルに、妙に焦りを含んだ声でシャルが言った。
 物が欲しいのではないと、どうしてか、言えなかった。
 
●●●●●
 
 ――深夜。
 アヴラルは寝台から身を起こした。
 隣で安らかに眠るシャルへ、一度視線を向ける。
 もう自分は無垢ではないことを知ってしまった。
 けれどもシャルが、無垢である自分を望んでいるから事実を告げられない。
 暗闇の中、アヴラルは目を凝らす。
 心の中で、空気を乱さぬように呼びかけた。イース。
 この場に召喚すればシャルに気づかれるため、あくまで声のみを届ける。
 アヴラルは、一つ小さく吐息を落とした後、厳かに命じた。
 ――我らを追う者があれば、殺せ。
 イースの受諾を聞き取ったあと、アヴラルはまた静かに寝台へ横たわった。
 人が恐ろしく、欲を抱くものだと知った。コロノの目、ハスライの悪意。
 それだけではない。アヴラルは、館主も、その妹のラシュも信用していない。彼らが再び欲に駆られ、シャルや自分を追うかもしれぬ。そうすれば自分はシャルと引き離され、望まぬ騒動に巻き込まれるのだ。
 ゆえに、その懸念が現実となった時には始末せよ、とイースに命じたのである。
 自分達の歩みをとめる者などいらないと思う。
 無論争いも殺し合いも嫌いだ。
 だが、感情と選択は必ずしも同じ道を目指すとは限らない。
 アヴラルは目を閉じた。
 人の欲を知って濁り始めた自分の心。目覚め出す魔の力。
 けれども、変わらぬ望みだとてある。
 シャルさえ苦しまねば何でもいいのだと、改めて思った。
 そのためなら、誰であろうと殺せる。
 そういう自分をアヴラルは受け入れた。
 静かな夜だった。
 目を閉じても開けても、夜の静けさは変わらない。

第四章・砂の夜END

|| 小説TOP || 砂の王TOP ||  ||