F002

「彼岸の森、ね……」
 私は三春叔父さんの忠告を無視して、彼岸の森と呼ばれる薄暗い森の中へ入った。
 今日は目の色まで青く染まりそうなほど空がよく晴れているのに、鬱蒼と生い茂る木々が視界を遮断して、森の中は既に夜の気配が忍び寄って来ているんじゃないかと疑うくらい薄暗く、冷気が満ちていて肌寒い。もう少し厚着をしてくるべきだったかな、とちらりと思う。
 今の私の格好は、深い森の中を探検するにはあまり向いていないかもしれない。お気に入りの黒いパーカーは薄手だったし、下はスカート。春用の白いブーツはぬかるんだ地面のせいで、もう汚れ始めていた。私は泥土が付着したブーツを見て、顔をしかめる。
 
 ――あまり、奥まで入らないようにしよう。
 
 深入りは危険だ、と頭の中で警告する声が響いている。天を覆うように縦横無尽に広がる無数の枝が陽光を拒んで、不快な闇を作り出していた。木々が密生しているだけで代わり映えのしない景色が続く上、次第に視界の悪さも増しているから、気を抜けば簡単に迷ってしまいそうだ。
 それに、気味が悪いほど森の中は冷ややかに静まり返っている。
 普通、可愛らしい小鳥の囀りとか、風で木々の葉がこすれる柔らかな音とか、多少は聞こえるものなのに、時が静止してしまったように森は沈黙している。これってすごくおかしなことだ。
 
 ――もう戻ろうかな?
 
 この森は面白くない。私は十分ほど歩いただけで音を上げた。これ以上進むと、叔父さんのいる場所に帰れなくなる気がして、淡い恐怖を感じた。もう駄目、帰ろう。
 私は両手で自分の身体を抱きしめ、踵を返した。
 その瞬間、目の端に黒い影がよぎった。ゆらりと動くその影は、明らかに人の形をしていた。
 
 ――嫌だ!
 
 全身に鳥肌が立った。こんな場所で、もし襲われたりしたら絶対に誰も助けに来ない。悲鳴も泣き声も、この森は意地悪く全てを包み隠すに違いなかった。私は震える吐息を飲み込むと同時に、全速力で駆け出した。
 
 ――追ってきてる?
 
 泥土に足を取られて、思うように走れない。焦燥感ばかりが募るけれど、一向に前へは進んでいない気がした。
 まるで夢の中をさまよっているような気分だ。どんなに一生懸命走っても、いつまでも同じ場所から離れられない。
 私は自分の考えに惑わされ、地面に這い出ている木の根に気づかなかった。
 
 ――嘘。
 
 ブーツの先が木の根に引っかかり、身体が突然傾く。転ぶ、と私は他人事のように胸中で呟いた。
「危ない!」
 地面に身体が衝突する寸前、いつの間にかすぐ側まで接近していたらしい黒い影に私は抱き止められた。
 聞き覚えのある男の人の声。私は驚きながら、その人の顔を確かめた。
「……賢治さん?」
 ぽかんとする私を片手で抱き止めたまま、賢治さんがにこりと笑った。
「何で……ここにいるの?」
 賢治さんは、私と叔父さんが宿泊している温泉宿の経営者の息子だ。つまり叔父さんの古い友人。私とは今日初めて顔を会わせたのに、すごく人懐っこくて昔からの知り合いのように接してくれる。
「それは俺の台詞だろ?」
 賢治さんはにやにやしながら、含みのある口調で言った。
「どうして逃げたんだ?」
 自分の顔が赤くなるのが分かって、狼狽してしまう。
 まさか――痴漢と間違えたなんて失礼なことはいえない。
 でも賢治さんは私の考えなんてお見通しらしく、軽快な笑い声を上げた。痴漢と勘違いされたのに、何がおかしいんだろう?
 首を傾げる私を立たせてくれたあと、賢治さんはまだ笑いながら、頭を撫でてくれた。
「で、愛人はこんな所で何をしている?」
「愛人って言わないでよ」
 私は力いっぱい抗議した。賢治さんは、私を叔父さんの愛人扱いしてからかうんだよね。
 勿論、冗談だってことは分かるけど、つい反応してしまう。
「まだ十五歳なんだよ」
「若いって、スバラシイ」
「これだからオヤジは……」
 いつもの調子を取り戻して軽口を叩くと、唇を歪めた賢治さんに軽く髪を引っ張られた。
「まだまだ現役だよ。失礼な」
「三十五歳でしょ」
 不満そうに口の中でぶつぶつと文句を言う賢治さんを見上げて、私は微笑んだ。
 賢治さんは本気で怒っているわけじゃない。優しい目を見れば分かる。
 
 ――リラックスさせてくれてるんだ。
 
 こういう気配りができる人だから、叔父さんの愛人だと何度からかわれても本気では憎めない。
「もしかして、叔父さんに何か言われて、ここに来たの?」
 三春叔父さんは、私が忠告に背いてこっそりと森へ行くことを予期していたんじゃないか。そのことに気づいて私は賢治さんに確認した。
「あいつに、一人で森へ行くなって言われなかったか?」
 案の定、賢治さんは面白そうな目をして、私を見下ろした。話には関係ないけど、この身長差が少し悔しい。
 私は答えられずに、曖昧に笑った。
「好奇心が旺盛なことで」
「……行くなと言われたら行きたくなるよね?」
 恐る恐る言い訳すると、賢治さんは噴き出した。
「まあ気持ちは分かるが、この森には長居するものじゃないな」
 賢治さんは、項垂れる私の肩を軽く抱いて、歩くよう促した。肩から自分以外の人の温もりが伝わり、水が地面に染み込むように、あたたかな安堵感が身体中に広がる。
「ねえ、なんで彼岸の森って言うの?」
 懲りない子だなあ、という呆れた表情で賢治さんが横を歩く私に視線を投げた。
「そりゃあ……この森が、自殺の名所だからさ」
 私は一瞬、身体を硬直させた。自殺の名所?
「こ、こんな長閑な町の森が?」
「だからこそ、人はやりきれなくなるんだろうよ」
 ふと真剣な目をした賢治さんが、別人のように見えた。
「雨の日ならば安心できる。自分の代わりに空が泣いてくれていると、そう慰められる。だが、晴れた日に――幸福を暗示するような光景を見れば、疎外感に悩まされる」
 普段より低い声で、賢治さんは囁いた。
 賢治さんが何を言いたいのか、本当はよく理解できなかったけれど、私はすごく悲しくなった。
 それに、とても怖くなる。何が悲しいのか分からないせいで恐ろしさを感じるのかもしれない。
「帰りたくなっただろう?」
 賢治さんは何かを誤魔化すように、明るい声を上げた。
 中途半端に子供扱いされたことがやっぱり悔しい。
「平気だよ」
「ほう。じゃあもう少し歩いてみるか? たまに首吊り死体がぶらさがっているんだ」
「……首吊り……?」
「さあ見に行こうか、愛人」
 賢治さんは私の身体をくるりと方向転換させて、有無を言わせぬ力で森の奥へと引っ張っていった。
「ちょ、ちょっと待とうよ」
 情けないけれど、私は慌てて賢治さんの腕にしがみつき訴えた。
 死体なんて、絶対見たくない!
「おやおや」
 顔を引きつらせた私を見て、賢治さんが笑いを堪える。
「可愛いものだねえ」
「何それ!」
 性懲りもなく反発する私を、賢治さんは少し驚かせて反省させようと思ったんだろう。
 不自然なほど鮮やかな笑みを浮かべた賢治さんは、びくつく私の手をしっかりと握って、更に森の奥へと足を進めた。
 
 ――駄目、これ以上は行きたくない!
 
 手を振り回して逃げようとする私に、賢治さんは呑気な顔を向ける。昼下がりの猫のような警戒心の欠片もない表情だ。どうしてこの森の不気味な気配が気にならないのか、不思議だった。
「離してよ!」
「うーん、キミとボクと三春で、昼ドラのような三角関係の始まりか……」
「馬鹿!」
 賢治さんのくだらない冗談に、思わず大声で叫んだ時だった。
 突然――眠りについていた森が覚醒したかのように、凄まじい地鳴りを周囲に響かせた。
「何だ?」
 にこやかだった賢治さんの表情が一変して鋭くなった。そして、呆然とする私を素早く抱きかかえたあと、緊張した様子で身構える。
「何なの?」
「静かに――!」
 ふと、木陰で何かが小さく点滅した。
 
 ――蛍?
 
 邪悪な意識を宿した小さな光が、森の奥で無数に瞬き始める。夜を迎えた街の灯りが一斉に瞬くように。
 でも違う、蛍みたいに美しい光なんかじゃない。
「これは……」
 賢治さんが掠れた声で呟くのを、私は遠く感じていた。
 
 ――山犬……!?
 
 ゆっくりと木陰から身を現す黒い影。明確な悪意を秘めた金色の目を瞬かせる巨大な獣の群れ。
「走れ!」
 大気を切り裂くような賢治さんの鋭い声が、耳に突き刺さる。
 それでも動けずに立ち尽くしている私を見て、賢治さんは舌打ちした。握ったままの手に力を入れて賢治さんは私を引きずるように駆け出した。すぐ側で、獣の咆哮が響く。
 
 ――怖い!
 
 高まる獣の咆哮に呼応して、地面が激しく振動する。とても立ってはいられなくなるほどの絶望的な揺れだ。
「逃げろ」
 賢治さんが不意に私を前へ突き飛ばした。
「え……?」
 振り向いた先に、賢治さんの強張った蒼白な顔がある。
 そしてその背後に迫る獣の群れ。跳躍する、殺意の塊。
「あ」
 賢治さんが振り返った瞬間、接近する獣がまるで踊るように宙を飛んだ。舞い上がる獣の影が、立ち尽くす賢治さんの頭上を覆う。
 
 ――嘘だ……!!
 
 獣の鋭利な牙が、爪が、丸腰の賢治さんを引き裂き、その場に押し倒した。
 私は無意識に、喉が裂けるほどの悲鳴を上げた。これは夢だ。絶対に夢。現実じゃない!
 悪夢なら、どうか覚めて!
 悲鳴さえ掻き消すくらいの轟音が森を襲った。それは大地の鳴動。大気の狂乱。
 がくんと膝の力が抜ける。身体がなぜだか急に軽くなり、浮遊感を覚える。
「響!」
 賢治さんの絶叫が遥か遠くで聞こえた。
 どうして、と私は知らず知らずの内に呟いていた。
 何が起きたのか、これから何が起きようとしているのか、冷静に考えることができない。
 鳴動していた大地までもが慟哭する。狂おしくもがく木々。逆巻く大気の中で踊る木の葉。
 嵐よりも凶暴で容赦のない凄絶な風が、哄笑しながら天へと駆け抜け、再び泣き叫ぶ大地を襲撃した。
 風の脅威に屈服する大地――見えない刃が、あまりに容易く無慈悲に大地を切り裂いた。
「響!」
 
 ――助けて、賢治さん。
 
 朦朧とする意識の中で私は叫ぶ。
 でも、声が出ないよ。
 どうして。
 
 ――どうして?
 
 私の意識はそこで途絶えた。
 
 だから、私は見なかった。
 自分の身体が、二つに裂かれた大地の奥底へ飲み込まれる瞬間を。

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