F003

 ――ここは……?
 
 何だかすごく頭が痛かった。まるで金縛りにあったみたいに全身に嫌な疲労感が残っていて、気分も最悪だった。
 
 ――私、一体どうしたんだろう?
 
 私はゆっくりと瞼を開き、身を起こした。固い床の上で長時間居眠りした時のように、背中がひどく強張っている。意識はまだ朦朧としていて状況を正確に把握することができなかったし、霧がかかっているように視野が悪い。
 私は指先で強く瞼を押さえたあと、気分を落ち着かせるために深呼吸した。
 
 ――ここ、宿の客間じゃないの?
 
 私はぼんやりと視線を周囲にさまよわせた。一体何が起こっているのか全く分からず、私は呆然と冷たい床の上に座り込んだまま、身動きできなかった。
 窓も、扉も、家具も、何一つ見当たらない。天井にも照明が取り付けられていない。一切の装飾が排除された、ひどく無機質な部屋だった。窓もないため、息苦しくなるほどの閉塞感に苛まれる。
 
 ――ここって、まるで箱の中みたいだ。
 
 何気なく胸中で呟いて、私は我に返り戦慄した。何、ここ。
 どうして私、こんな所にいるの。
 全身が一度大きく震えた時、氾濫する川のように、唐突に記憶が蘇る。
 そうだ、私は彼岸の森を散策していて、その途中で賢治さんに会ったはずだ。
 すると突然、凄まじい地鳴りが響いて……。
 
 ――賢治さん!
 
 私はぎゅっと胸を押さえた。脳裏に蘇る、蛍のように瞬く不吉な金色の瞳。森の奥から出現した凶暴な山犬の群れが、賢治さんを襲ったんだ。
「賢治さん、どこ!?」
 私は賢治さんを探すため、立ち上がろうとした。その拍子に、床に投げ出されていたバッグが膝に当たり、思わず小さな悲鳴を漏らしてしまう。
 切迫した自分の悲鳴がどこまでも反響して、私は息を呑んだ。得体の知れない場所に一人でいるという恐怖のせいか、指先が氷のように冷たくなっていく。私は慌ててバッグを胸にかき抱き、もう一度辺りを見回した。
「やァこれはこれは! 随分若いお嬢さんが選ばれたものだ」
 突然、重苦しい沈黙を破って朗とした声が響く。
 私はぎょっとして振り向いた。
 いつの間に背後に忍び寄ったのか、視線の先には奇妙な格好をした人間が立っていた。
 私は自分が置かれている不可思議な状況や恐怖を忘れて、ついまじまじとその人を観察してしまった。すごい変な人。髪の毛が繰り返し脱色したかのように真っ白だ。雪を思わせるさらさらした純白の髪は綺麗かもしれないけれど、腰の位置まで長さがあるせいか、かなり異様な雰囲気を醸し出してると思う。肌は多分、普通の色……多分、って曖昧な言い方をしたのは、顔半分がくすんだ銀色の仮面で覆われているから。
 これだけでも十分異様なのに、その人が纏っている服も奇怪だった。袖下が床につくほど長い服は、一見着物のようでいて、実は日本のものとは全然違う。うまく表現できないけれど、中国風と洋風が融合しているような、本当に奇妙な服なんだ。微かな風にもふわりと舞い上がりそうな柔らかな生地の薄い衣服は、同系色のものを何枚か重ねて着ているみたい。腰帯の代わりに刺繍を施した布が使われていて、その他にも、小さな宝石を埋め込こんだ細い鎖が何重にも巻きつけられている。日本にある流し着をもっともっと軽く薄手にして、袖下や裾を長くした感じだろうか。でも、不思議なことに、上着と似たような色のズボンや乗馬用のブーツみたいな長い靴を履いていた。このせいで、何だか洋風にも見えるみたい。
「ふふ、好奇心に殺されるのは、猫ばかりとは限るまい」
「……あなた、誰?」
 顔を覆う仮面のせいで、何歳くらいの人なのか判断できない。声も性別をつけにくく、おまけに体つきも微妙だった。男性にしては華奢だけど、女性にしては線が固い。
「フォーチュンとでも名乗っておこうか。お前達の世界でいうところの《運命》よな」
 その人は優雅に袖をひらめかせ、口元を覆って忍び笑いを漏らした。仕草は上品なのに、なぜか笑い方が卑しく見えた。
 両極端の性質が、この人の中にあるらしい。
 悪人なのか善人なのかも判断できなくて、私はどう振る舞っていいのか決められず困惑していた。フォーチュンと名乗ったその人は、私の様子なんかお構いなしに、あらかじめ手に持っていたと思われる数枚のコインを一枚ずつ器用に指先で弾いた。手品師みたいに滑らかにコインを宙へ飛ばしては受け止めている。
 何なんだろう、この人。
「お前は日本という国の娘なのだろう?」
「当たり前でしょ」
「当たり前と思うのは、お前が世界を知らぬ証拠。手が届く場所以外の画を見ようとせぬ、愚かな盲人。お前を中心に時が巡っているのではあるまい」
 すごく失礼! 私はこの人が一瞬で嫌いになった。こういう屁理屈をこねて、相手を屈服させようとするなんて、かなり性格が歪んでいると思う。確かに、私の態度も突っ慳貪な感じだったから悪かったとは思うけれど、ここまで言うことはないんじゃないかな。
「日本という国は興味深い」
 フォーチュンはコインで弄ぶのをやめて、口を開けずにいる私を見下ろした。
「お前が生まれし国の硬貨には、呪術の痕跡があるなァ」
 手の中のコインを恍惚とした表情で見つめるフォーチュンの言葉が突飛すぎて、私には理解できなかった。でも、フォーチュンは、怪訝な表情を浮かべた私のことなど全く無視して先を続けた。
「硬貨の値を全て足してみるとよい」
 硬貨の値――私はつい、頭の中で計算した。1円。5円。10円。50円。100円。500円。
 金額を合計してみる。
 
 ――666だ。
 
 悪魔の数。偶然の一致だろうけれど、私は少し驚いた。今まで考えたこともなかった。
「ふふふ、人とは全く奇なるもの。悪の種、善の種、二つを内に抱きながらも矛盾を感じぬ。時に醜悪を愛で、時に聖者を賛美する。人の心はどれほど淫らで貪欲か。欲しても欲しても欲望は枯渇を知らぬ泉のごとく湧き上がる。人の内には無限が在り、宇宙が在る。どこまでも深く果てがない我欲。その広さはいずれ滅びに至るというなァ」
「な、何なの、あなた」
「暗愚とは、まさに典雅な悪の花――そうは思わぬか」
 私はだんだん腹が立ってきた。わけの分からない言葉に翻弄されたくない。それに、私は一番重要で肝心なことを思い出した。
 言うまでもなく賢治さんのこと。
 悪魔の数、という言葉から連想して、森の中で遭遇した凶悪な獣の目が脳裏に蘇ったんだ。
「ねえ、あなた……フォーチュンっていったよね。私の他に、男の人を見かけなかった? 三十代半ばで、結構背が高くて痩せてる人。私達――そう、森の中にいたはずなんだ。それで、すごく凶暴な獣に襲われそうになったの。ひょっとして、私を助けてくれたのはあなた? ここはどこなの。賢治さんは無事なの?」
 矢継ぎ早に質問する私を、フォーチュンは冷笑を浮かべて見下ろしていた。
「さてなァ」
 素っ気ない返答に、私は言葉を失う。
「お前は愛しいほど愚かよなァ。あらゆる問い掛けに、必ず答えが返されると信じて疑わぬ」
「そんな言い方、ひどいじゃない!」
「何がひどいのか? おのれが愚劣であることを、私の過ちとするのか」
 冷ややかに突き放されて、私は絶句した。
 フォーチュンの口調は穏やかなのに、鋭利な刃を向けられているような気がする。言葉はあまりにも容赦なく、まるで悪意の塊を投げられているようだけれど、フォーチュン自身によこしまな気配が一切感じられないせいなのか、苛立ちをぶつける前に躊躇いが生じてしまうんだ。そのせいで、さっきはすごく嫌いだと思ってしまったのに、感情のままにフォーチュンを罵倒する気持ちにはどうしてもなれなかった。
 なんて掴みどころのない人だろう。
 こんなにどう接していいのか分からない相手は初めてかもしれない。
「ねえ、ここがどこなのか、あなたも分からないの?」
「狂界と呼ばれる場所よな」
 狂界? どういう意味だろう?
「賢治さんは、叔父さんは、どこ?」
「さて」
 フォーチュンは、興味がないことについては一切説明してくれないみたいだ。
 どうしよう。ここがどういう場所か分からないけれど、普通じゃないってことくらいは判断できる。
 何だか、尋常じゃない事態に私は巻き込まれているようだ。
「お願い、助けて」
 見ず知らずの人に助けを求めるのは勇気がいる。でも、自分の力じゃ現状を変えられないのであれば仕方がなかった。悪い夢なら本当に早く覚めて欲しい。
 神様、こんなのあんまりだ。
「神は救ってはくれないぞ」
 まるで私の心を透視したかのようなタイミングでフォーチュンが笑った。私の心臓が早鐘を打つ。
「神はいかなることがあれども、決して手を下さぬ。それが掟。盗人のごとく覗き見て嘆くのみよな」
 くだらない、という表情でフォーチュンは吐き捨てた。
「お前を救うのは、この私」
「だったら叔父さんの所に連れて行って!」
「アァお前は、全く盲目だ」
 苛々が募ってくる。冷静になれと自分に言い聞かせて、私はバッグを強く抱きしめた。
「お前は、私の後継者候補の片割れサ」
「後継者……?」
「陰陽。人は男と女で一つの完全体。ゆえに、私に選ばれしは、男が一人、女が一人」
 私は唖然としてしまった。この人、現実逃避のしすぎじゃないかな。
「私は言ったはず。善の種、悪の種を両方抱くが人なのだと。だが、人は善を装いたがるものサ」
 なんと言うか、返事のしようがない。
 この人、もしかして頭がおかしいの?
「私は日本という国が気に入った。悪魔を硬貨に封じるその歪な島国が」
 すごく嫌な予感がした。単なる冗談とかで悪魔の数について、話したのではないと気づいた。
  
 ――だって、私は。
  
「お前の生まれし日は、6月6日よなァ」
 私は目を瞑る。
 そうなんだ、私の誕生日は6月6日。でも、私以外にもこの日に生誕した人なんてたくさん存在すると思う。
 悪魔なんて、今時誰が信じる?
「そしてお前の片割れも同じ。お前達は黎明の空の下、6時に産声を上げた」
 片割れ……そういえば、選んだのは男が一人、女が一人とフォーチュンは言った。
「愉快よな。悪の数を身に宿す者が、限りなく善を求める。その矛盾が、何より愉快」
「何を言いたいのか、全然分からない! 後継者って何? 誕生日が何だって言うの? あなたが私をここに連れてきたんだね?」
「絶望的な希望の意味を、お前は知っているか?」
「絶望的……?」
 話の内容がどんどん飛躍して、考えが追いつかない。私が言葉の意味を咀嚼する前に、フォーチュンは別の話題を口にする。何一つ、まともな返答はくれないのに。
「そうとも。絶望的な希望。どれほど諦観を抱いても、心の片隅に蔓延る都合の良い期待。人は希望を失えぬ生き物。奇跡は起こらぬと知りながらも抱く希望こそが、絶望ではないか?」
 フォーチュンは途端に意気消沈して、溜息を漏らした。わずかに肩を落として項垂れる姿がとても演技とは思えなくて、どう接していいのかまた分からなくなる。
「この世でもっとも悪徳に満ちた絶望。それは、退屈サ。私は退屈でならない。過去を忘却することさえ許されず、未来に神秘を感じることもない。全てが見通せる。時すらも、私の前にひれ伏してしまう」
 悲嘆に暮れるフォーチュンには悪いけど、滔々と紡がれる言葉の内容に私は閉口してしまった。この人、ものすごく自意識過剰か、極端なペシミストのどちらかだと思う。
「私は飽いたのサ。この退屈を紛らわすにはどうすればいいか。私は私であるがゆえに、その答えを知っている。不確定な未来を、我が手におさめるための手段を」
 フォーチュンは赤い唇を吊り上げて笑った。
  
 ――え!?
  
 瞬きした瞬間に、仮面をつけたフォーチュンの顔がくっつきそうなほど接近していた。
 瞬間移動したとしか思えないほど、本当に一瞬で、私のすぐ側に近づいたんだ。
「容易きこと。なァに、我が力を譲り渡せばよいのサ」
「は……?」
 私はどきまぎしながら、顔の半分を覆うフォーチュンの仮面を見返した。いぶし銀の仮面には、不思議な鈍い光沢があった。
「私は言っただろう? お前を後継者候補の一人にすると」
「か、勝手にそんなこと決められても!」
 馬鹿正直につい反応する自分が、少し憎くなる。
「私の力の名は〈無限〉。十の神々に愛でられし強大な力。我が力の全てを受け継げば、お前の前にありとあらゆるものがひれ伏すだろう。ふふ、神々は決して干渉せぬゆえ、何も懸念することはない。不可侵の条約は、今も私と神々の間に成立している」
 何だか頭がくらくらしてきた。これって、何の冗談なの?
「私の後継者となれば、与えられし力を望むままに操れる」
「力って……」
「お前は、世界の覇者となるか、栄光の王となるか――それとも」
 
 新世界を創造し、神となるか?
 フォーチュンはそう囁いた。
 
「何事も、お前の気の向くままに。私の力に果てはない」
 私は語られる話の突飛さと異様さに、意識が完全に凍り付いてしまった。
 フォーチュンはおかしそうに袖口で口元を覆い、くすくすと笑っている。
「あァお前はよい! その愚かさ、何ものにもかえがたい!」
 長所を賞賛されるならともかく短所を褒められるなんて、皮肉としか思えない。
 つまり、見下されているってこと!
 私はようやく平常心を取り戻して、楽しげに笑うフォーチュンを睨んだ。
「他人を馬鹿にする人が一番愚かだってこと、知らないの!?」
「己の論を残らず垂れ流さねばならぬ者が、何より愚かよなァ」
 即座に切り返されて、私は再び凍りついた。
「自論に酔う姿、醜悪よな。だが、私はその醜さ、愚劣さを愛する。人とは、かくも脆く、穢れに満ちたもの」
 もう泣きたくなってくる。見ず知らずの人にどうして馬鹿にされなきゃならないんだろう?
「傲慢、怠惰、醜悪、我欲、瞋恚、嫉妬、偽善。どれも全て愉快でならない。敬虔さなど銅の剣にも劣る。愛の言葉はいつしか色褪せ、真実などは茨の冠でしかない。栄華の錫杖にとまるのは、裏切りを謳う黒い蛇」
「あなた、まともに他人と向き合ったことがないでしょ! 自分が一番賢くて、他人は皆、頭が悪いって勘違いしてない?」
「おやおや」
 フォーチュンはますます面白そうに私を覗き込んだ。私は顔を背けようとしたけど、さっと伸びたフォーチュンの手に顎を掴まれ、動けなくなる。そんなに力はこめられていないのに、私は全然抵抗できなくなった。
「我が力、求めぬのか?」
 誰がそんなもの! 内心でそう叫んだけれど、胸の中で色々な感情が奔流していて声が出せない。
「ふゥん、これはまた、対極的な者を選んだものだ。もう一人の候補は我が力を望んだのに、お前は拒絶する。まァそれもよい。選別とは、対比せねばならぬものよな」
 苛立ちが爆発しそう。私はかっとして、フォーチュンに詰め寄った。
「力だかなんだか知らないけど! 欲しいって言ってる人がいるなら、その人にあげればいいじゃないか! 私は何もほしくない、ただ叔父さん達の所に帰りたいだけなの!」
「無力なままでは、お前の愛する者の側には戻れまい」
「どうして!」
「あァお前は全く愚昧よな」
 フォーチュンは愛しそうに私の頬を撫でた。指先が悲しいくらい冷たくて、はっとしてしまう。
「お前の世界も狂いつつある。あの地鳴り、お前も耳にしただろう?」
 
 ――何?
 
「地鳴り……?」
「そうとも。震災が――。さァて、目覚めた大地は、人を裁くか、許すか」
「……帰して」
「さて」
「お願い、今すぐ叔父さんの所に帰して!!」
 私はフォーチュンの胸に縋り付いた。
「ならば、我が力、望むのか?」
「嘘、こんなの、嘘……」
 混乱して、自分でも何を言いたいのか、分からなくなる。
 どうしよう、賢治さんや叔父さんは無事なの?
 どこかでこれは悪夢じゃないかって疑ってる自分がいる。起きてしまえば忘れられる夢。
 そこにはいつものように叔父さんがいて。空は青く晴れていて。
 ああよかった夢だ。私はそう呟いて目覚める――。
  
 違う。これは、現実だ。
  
「我が力の加護があるからこそ、お前はこの狂界に無傷でいられるのだぞ」
「力……」
 私はぼんやり考えた。
 力? この人の力があれば、叔父さんのいる場所へ戻れるの?
「どうすればいいの……」
 うまくいえない苦い敗北感と絶望感が心の中に広がる。低い声が、自分のものじゃないみたい。
「さてなァ。私は後継者とは言っていない。後継者候補と言ったのだ。候補者は二人選んだが、我が力を二分するつもりはない。どちらかにのみ、譲り渡す」
 急にフォーチュンの声が冷淡なものへと変わる。
 私は見放された気がして、胸が苦しくなった。
「受け継ぐにはやはり、試練を乗り越えねばな」
「試練……?」
 駄目だ、頭が痛くてすごく辛い。フォーチュンの声も自分の声も遠い。
「私の力を受け継ぐに相応しい強靭さがあるか、詮議しよう。悲嘆も愛も憎悪も乗り越えた者が、我が力に触れられるのサ」
 突然、足元が大きく揺れた。
  
 ――崩れる!
  
 まるでパズルのピースが剥がれ落ちるように、ぽろぽろと狂界の壁が剥がれ落ちていく。
「フォーチュン!」
「試練は、そうよなァ――お前の国に倣ったものにしよう。沈黙は尊ぶべきと。よいか、決して動いてはならぬ。口を開いてはならぬ。手を差し伸べてはならぬ。自問してはならぬ――。一昼夜、耐えてみよ」
 私の足元に、暗闇が広がった。果てのない深淵。気がつけば、フォーチュンの姿も狂界も存在しない。
 ぞっとするような浮遊感に襲われたけど、自分が落下しているのか虚空に浮いているのか判断できなかった。
 私は恐ろしさのあまり、目を瞑った。
  
  
 見たくない。
 絶望なんて――もう、見たくない。

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