F004

 ――白昼夢を見ていたのかと思った。
 
 ふと周囲の景色を見回す。鬱蒼と生い茂る木々。天を遮る無数の枝。湿った地面。
 
 ――ここ、彼岸の森……?
 
 私は戻ってきたの?
 恐る恐る自分の手や足を確かめる。どこにも怪我はない。バッグもちゃんとある。無意識に強く握り締めていたみたい。
 私は恐る恐る、もう一度辺りに視線をさまよわせた。
 天へ伸びた無数の枝と、青々とした葉のせいで、空は見えない。すごく深い森。植物の甘い匂いは感じなかった。何だか森全体が深く怒りを秘めているような、息を呑むほど剣呑な雰囲気が満ちている。
 ここが彼岸の森なのか判別できないけれど、とりあえず地鳴りは聞こえないし、大地に亀裂も見えなかった。
 
 ――フォーチュンは?
 
 私は思わず声に出しそうになり、慌てて口を押さえた。
 
 ――口を開いちゃいけないって。
 
 動くなとも言っていた。自問するなとも。
 あとは何だっただろう?
 
 ――自問せずにはいられないよ。
 
 自分以外に誰も訊ねる相手がいないのだから。既にこう考えることで、フォーチュンとの約束は破られていると思う。けれど、あまりにも理不尽で一方的な約束じゃないかな。
 力。フォーチュンは〈無限〉の力と言っていた。どんな力でもかまわないけれど、とにかくフォーチュンの言葉を守れば、三春叔父さんのもとに帰れるんだろう。
 
 ――動いちゃ駄目。
 
 私は再度周囲を見渡したあと、地面に這い出ている太い木の根に腰を下ろした。ぬかるんでいる土の上に直接座る気にはなれない。
 この状態で、一昼夜をすごせということなのかな?
 
 ――また、自問してる。
 
 私は溜息をついた。自問するなってことは、何も考えずに心を無にしろって意味なのかもしれない。でも、私は僧侶じゃない。状況がど変化するか分からない中で、忘我の境地へは到達できそうにない。
 もういいや。どうせ心の中までなんて誰にも分からない。万が一、どこかでフォーチュンが監視している、という可能性がないわけじゃないから、とりあえずは大人しくじっと黙っていることにしよう。
 
 ――叔父さんはどこにいるんだろう。それに、賢治さんは無事なの?
 
 二人の顔が脳裏に浮かび、いてもたってもいられない気持ちにさせられる。叔父さん、私のこと心配してくれているかな? 賢治さん、もしかしたらすごい怪我をしているかもしれない。私を逃がそうとして、囮になってくれたんだ。
 どうしよう。
 賢治さんが死んじゃったら、どうしよう。
 じわりと目の奥が熱くなった。駄目だ、二人の無事を確かめるまでは、泣けない。
 泣くなんて、いつでもできる。涙を流して、それを逃げ道にするのは、卑怯だ。
 
『泣けば許されると思ってるの!?』
 
 昔、そう言われたことがある。
 だから、泣けない。
 泣いてはいけない!
 
 ――叔父さん、賢治さん。怖いよ。
 
 私はバッグを抱え込んで、そこに顔を埋めた。眠ってしまいたい。そうすれば拷問のようなこの時間が早く終わる。何も考えずに、何も見ずに、一昼夜をすごせる……。
 
 ――何?
 
 過敏になっている神経に、何かが引っかかった。
 
 ――今、音が。
 
 確かに、何かの音が聞こえた。
 私は顔を上げて、緊張に身を強張らせる。足音だろうか。藪を走り抜けるような音。群生する雑草が人為的に揺れる音。
 まさか、山犬?
 
 ――どうしよう!
 
 こんな所に座っていたら間違いなく襲われる。
 どこかに身を隠さないといけない。
 木の上に登る?
 でも、フォーチュンは動くなって。
 これが、試練?
 私に、山犬と戦えって言うの?
 
 ――無理だよ!
 
 いくらなんでも、ひどすぎる。武器も何も持っていない。素手で山犬を追い払えって言うの。
 顔から血の気が引いたのが分かる。無茶だよ。あんなに大きな獣になんて、勝てない。
 腰を浮かして周囲を必死に見回したけれど、どちらへ向かって逃げればいいのかも分からなかった。都合よく猟銃やナイフが落ちているはずもない。仮に狩猟用の銃を持っていたとしても、自分の手で生き物を殺すのはとても怖い。
 まごつく間にどんどん音が接近してくる。
 私は震える息を吐き出した。動けない。両足が地面にくっついてしまったように、一歩も動けない。
 ざっ、と目の前の、背の高い雑草を振り払う音がした。
 
 ――えええ!?
 
 山犬、じゃなかった。
 
 ――に、人間……!?
 
 忘我の境地、じゃなくて、混乱の極地に私は陥る。
 唖然とする私の前に出現したのは、凶暴な獣じゃなくて、一人の人間。
 
 ――誰!?
 
 フォーチュンの仲間だろうか。日本じゃ絶対見かけないような人。すごく背が高い。後ろで縛られた長めの髪は、なんていうんだろう。プラチナ・ブロンドって言うのかな。ごくごく淡い色の髪。その綺麗な髪の色よりも濃い、褐色の肌。スポーツ選手のように引き締まった身体つきをしている男の人だ。まるで獣のようにしなやかで強靭。虎とか豹とか、そういう獰猛なんだけど美しい野性の獣のような印象があった。
 私は想像の範疇を超える人物の出現に驚いて、間抜けな顔で立ち尽くしていた。
 私がその人を観察できるってことは、勿論、その人からも私の姿がばっちり見えるってことだ。
 でも……何かがおかしい。
 もしかして。
 
 ――私の姿が見えていないの?
 
 男の人は、私の姿なんて眼中にないのか、ひどく警戒した様子で透き通った金色の目を鋭く周囲に投げかけている。よく見れば、一風変わった剣士のような衣服もぼろぼろだった。剥き出しの太い腕にはたくさんのかすり傷があって、血が滲んでいる。まるで激しい戦闘をしてきたみたいだ。そのことを証明するかのように、男の人の手にはぎょっとするくらい巨大な剣が握られていた。私なんて簡単に叩き潰せそうな、大きな剣。飾り物じゃないことは一目瞭然だった。だって、その剣には、べったりとどす黒い血糊がついている。確実に生き物を切り裂いたに違いない、危険な凶器だ。
 男の人は油断なく辺りを見回している。一度鋭い瞳が私の前を通過したけど、やっぱりこちらの姿が見えていないようだった。見惚れるほど綺麗な透き通った目を私は眺めながら、もしかして、と頭をめまぐるしく働かせた。
 フォーチュンは口を開くなと言った。動くなとも言った。
 それって、つまり。
 
 ――今、私が見ている光景は現実のものじゃないとか?
 
 試練のためにフォーチュンが創り出した幻影だとしたら?
 私は声を出しちゃいけない。男の人に話しかけちゃ駄目なんだ。目の前の展開を見守るだけ。
 そう、フォーチュンは、手を差し伸べるなって言ったんだ!
 男の人はかすり傷以外にも、どこかに致命的な怪我をしているのかもしれなかった。瞳の威力は陰りが見えなかったけれど、辛そうに膝が落ちる。
 思わず駆け寄りたくなったけれど、私は我慢して、バッグをきつく抱きしめた。
 だって幻なんだ。本当に男の人が死ぬわけじゃない。
 現実じゃない、と私は胸の中で繰り返した。心のどこかが、ちくりと痛む。その痛みの名前は、罪悪感っていうのかもしれなかった。
 男の人が不意に身構え、小さく舌打ちした。その綺麗な月色の目に、わずかに焦燥感が揺らめき、一瞬後には掻き消える。不様にもがくのでもなく、観念して剣を放り出すのでもなく、ただひたすらに前のみを見据える静かな瞳。この人は強い。私はわけもなくそう思った。ぴりぴりと肌に突き刺さるような覇気をその人は発していた。
 男の人が空気を動かさず、すっと剣を水平に構えた。
 その瞬間、草むらから見たこともない赤い獣が飛び出してくる。耳障りな咆哮を上げて踊りかかる獣に、閃光が走った――男の人の剣が、凶暴な獣を一刀両断したんだ。
 
 ――すごい!
 
 怖いのか感動したのか自分でも分からないけれど、身体が一度震えた。男の人はその大きな身体からは信じられないほどの敏捷さを発揮し、次々と出現する獣を斬り伏せた。まるで剣舞を見ているようだ。躊躇いなく確実に敵を仕留める巨大な剣が、その人の身体の一部であるかに見える。だけど、男の人は既に体力の限界を迎えているようだった。次第に剣の動きが鈍くなってくる。地に倒れた獣を飛び越えながら懸命に切っ先を閃かせているけれど、まだ動ける敵が五頭もいた。
 男の人の荒い息遣いが、ただ眺めているだけの私にも伝わって苦しくなる。
 どうしよう、本当にこれ、幻なの?
 斬り付けた獣の血液を浴びたのか、それともその人がやっぱり怪我をしているのか、腕や顔から滴る赤い血が気になった。錆びた血の匂いに、気分が悪くなりそう。
 殺意を漲らせる獣も、剣を操る男の人も、私の存在には気づいていない。だけど、このまま傍観者でいていいのだろうか。
 
 ――男の人も、死んじゃうんじゃないの?
 
 どう見ても、男の人の動きは鈍くなっている。最初は容易く切り伏せたかのように見えたけれど、今は仕留めるのに、何度も剣を振り回さなくちゃいけなくなっている。あと、三頭。
 
 ――あっ!!
 
 私は胸の中で声を上げた。
 獣の長い鋭利な爪が、男の人の左腕を切り裂いたんだ。
 苦痛に顔を歪めながらも男の人は次の一手を繰り出した。私の胸にまで突き刺さるような断末魔を轟かせて、目を抉られた獣が飛びのく。男の人はその一瞬を見逃さず、宙を駆けるように距離をつめて剣先をもがく獣に突き立てた。あと二頭。でも、男の人は立ち上がるのも辛そうだ。
 剣を杖代わりにして男の人は身を起こし、再び駆け出そうとする。
 
 ――駄目!
 
 草を黒く染める血糊に、男の人は足を滑らせて倒れそうになったけれど、すぐに何とか体勢を整えて、飛びかかろうとする二頭の獣を睥睨し、牽制している。
 私は、男の人の背後を見ていた。とどめを刺しきれなかった獣が最後の力を振り絞って、すぐ側にある男の人の足首を食い千切ろうとしていたんだ。
 男の人は目前の敵を倒すことに集中していて、振り返ろうとしない。他に気を配るだけの体力がないんだ。
 
 ――どうするの!?
 
 私は青ざめた。見過ごせば間違いなく、男の人は獣に足首を噛みちぎられるだろう。前方にいる二頭の獣は歓喜の雄叫びを上げて、男の人の肉体を蹂躙するだろう。
 でも、これは幻影。試練の一つにすぎない。
 そう必死に自分を抑える私の脳裏に、賢治さんの姿が浮かぶ。
 私を助けるために、犠牲になった賢治さん。
 飛びかかる獣。
 でも。
 約束を破れば、帰れない。二人に、会えない!
 
 ――じゃあ、この人を死なせる?

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