F005

 死なせていいのか。自分の心に響いた声に、私はぞっとした。
 本当にそれでいいのか。このまま見過ごして、私は何一つ罪悪感を抱かずにすむの? 他人を犠牲にして叶えられる望みって、何?
 
 ――でも。
 
 男の人の足元を狙う獣が牙を剥いた。ああ駄目。自分で自分を許せなくなる。
 後悔する。見捨てれば絶対に後悔する。
 たとえ現実のことじゃなくても、他人を犠牲にして帰ってきた私を、叔父さんはきっと抱きしめてくれない。
 
「――後ろ!!」
 
 私は叫んだ。
 男の人が驚愕で瞠目し、反射的といった様子で身をよじって、足首に食らいつこうとしていた獣の顔を剣で叩き付けた。
「危ない、前!」
 前方で隙を窺っていた二頭の獣は突然響いた私の声に一瞬戸惑っていたけれど、すぐさま身を屈め、後方の獣に注意を向けた男の人へ飛びかかる準備をした。
 男の人は体勢を整えながら、私の姿を捉えた。月の光を封じ込めたような鮮やかな金の瞳だった。
 
 ――よかった。
 
 これでよかったんだ。心からそう思った。
 男の人は、勢いを取り戻して二頭の獣の間に飛び込んだ。円を描くようにひるがえる剣。獣が飛びのく間も与えず、脇腹を切り裂く。そのまま跳ね上がるように身体を捻って、間近にせまった獣の首を狙い違わず斬り落とした。剣の先はそのまま獣の首をはね飛ばし、残った一頭の顔面に命中させる。男の人の巨躯が滑るように地を駆けた。はね飛ばされた味方の首が顔に直撃して痛みに呻く最後の一頭を、正面から斬り捨てたのだ。
 どさりと最後の獣が血溜まりの中に斃れた。あとは、男の人の激しい息遣いと、胸を圧迫する濃厚な血の匂いが辺りに漂っているだけだった。
 未だ荒い呼吸を繰り返しながら、男の人が振り向いた。
 声を発したせいか、私の姿が男の人の目にも見えるようになっているらしかった。
 お互いに無言でしばらく見詰め合う。何を言っていいか分からないし、ずっと覗き見するだけで手助けしなかったことに対する後ろめたさも感じる。
 男の人の瞳は、厳しかった。激しい戦いの名残を、まだ瞳に留めている。なんだか私までもその巨大な剣の餌食になりそうな錯覚を抱いて恐ろしくなった。
 私が怯んだのに気づいたのか、男の人の目がふっと戸惑いを映してゆっくり瞬く。あり得ないものを見ているような、幻影じゃないかと疑念を抱いているような、たくさんの感情を宿した複雑な眼差し。私も困って、呆然と男の人を見返すしかない。
 こんな異常な状況、どうすればいいのか全然見当がつかないよ。
 男の人が一度困惑したように自分の剣を見下ろし、再び私へ視線を移した。意を決したらしく、私の方へ近づこうとしたみたいだけど、身体がいうことをきかないのか、その場にがくりと膝をついた。
 私は呪縛がとけたように、うずくまる男の人の側へ駆け寄った。
「あ、あの、大丈夫?」
 間抜けな問い掛けかもしれないけど、他に適当な言葉が思いつかない。
 男の人は驚いたように私を凝視した。間近で見る男の人は全身血塗れだったのに、なぜかもう恐怖を感じなかった。この人は悪人じゃないって思える。
 すごく澄んだ目をしているんだ。吸い込まれそうなほど深くて透き通った目。外人さんだ、と私は場違いなことをちらりと思った。彫りの深い顔立ちは、男性的な美しさがあった。美丈夫とか、そんな言葉が当てはまりそうな人だ。あまりじっと見つめられると反応に困ってしまう。
「あの」
 男の人は我に返ったように何度も瞬いた。口を開こうとして、ぎゅっと顔をしかめている。
「怪我!? どこか怪我してる!?」
 私は慌ててその人の全身に視線を注いだ。もうどこも血塗れで、ひどい怪我しているのか獣の血糊を浴びただけなのか、見ただけじゃ分からない。
 男の人が大きく咳き込んだ。ひび割れた唇を見て、私ははっと自分のバッグの存在に目を留めた。
 
 ――水があるじゃん!
 
 確か、飲みかけのペットボトルが入っているはずだ。
 女の子っていざという時、強いよね。旅行に行く時って男性が呆れるほどたくさんの荷物を用意するけど、ちゃんと役に立つんだよ。
 私が持ち歩いているバッグの中にもいつ使うのか分からないような余計な物がたくさん入ってる。これって女性だけの特権みたいなものだと思う。
 私はバッグの中を探り、ペットボトルを発見した。やっぱり持ってきてる。
「これ、飲んで」
 男の人は咳き込みながらも、ぎょっとしたようにペットボトルと私を交互に見つめた。
 焦れた私は、無理矢理男の人の口元にボトルを持っていく。
 男の人は一瞬物凄く焦った表情をしたけれど、すぐに水だと分かったらしく貪るように飲んだ。
 咳き込みながら水を飲む人なんて、初めて見た。
「あ、待って、全部飲まないで」
 私がそう言うと、男の人ははっとして慌てたように身じろぎした。心底申し訳なさそうな困った顔で、少ししかなくなった水を見つめる。
 私はバッグからハンカチを取り出して、わずかに残った水を含ませた。
 とりあえず、剥き出しの腕の傷が一番目についたため、ハンカチを濡らして血を拭おうと思ったんだ。
 まだ出血が止まらないらしい腕に、私はハンカチをそっと押し付けた。すごく痛そう。これ、病院に行って縫ってもらわないと絶対駄目だと思う。応急処置の仕方なんて知らないけど、映画なんかで見た知識を総動員して傷口にハンカチを固定し、宿で貰った薄いタオル(こんなものまでバッグに入れてるんだ)を包帯代わりにする。
 男の人はさっきの凄まじい戦いぶりが嘘のようにじっとして、私の不器用な手当てを受けている。
「えっと……」
 さすがにそう何枚もハンカチやタオルがあるわけじゃない。
 あとはティッシュで男の人の顔を拭った。ちょっと気まずそうな顔をされたけど、罪悪感に捉われていた私は少しでも謝罪のつもりになればと思って、男の人の手当てをした。腹痛の薬とかコンビニで買ったビタミン剤とかは持っているけど、外傷用の薬は持っていない。これ以上できることがなくて私は途方に暮れた。どうしよう?
 男の人は、私が怖気づくくらい、じっと見つめてくる。なんか自分以外の人間を初めて見たんじゃないかって思うくらいの真剣な眼差し。柔らかな月色の瞳にふわりと影が落ちる。まるで縋り付く様な必死な色が滲んでいる。
 そんなに一途な目を見たことがなかったから、私はすごく動揺した。恋焦がれるような熱を帯びた瞳だった。勿論、一目ぼれされたとか、そんな単純な感情じゃないみたい。
「あ、あの」
 私は男の人の目を見ているのが恥ずかしくなって誤魔化すためにバッグの中を漁る。そうだ、疲れている時は甘い物を取るといいんだよ。
 土産物屋で店員のおばちゃんに貰った味つきの氷砂糖があるんだ。何せそこは温泉街。普通の飴とかじゃなくて、珍しい氷砂糖なんかがあって面白い。
「これ」
 私は手本を見せるように淡いピンク色の氷砂糖を自分の口に入れ、もう一つを男の人の口に入れる。
「飲まないで、舐めるんだよ」
 口の中に甘い味が染み込み、ほっと緊張感が解けた。男の人も一瞬硬直していたけど、甘い味にわずかに表情を緩めた。
「甘いでしょ?」
 私は男の人に話しかけた。先程までの凛々しい姿からは想像できない控えめな微笑が返ってくる。私より全然年上だと思うけど、何となく可愛い人だ。ほんの少しだけ三春叔父さんに似た優しい雰囲気を持っているみたい。
 私はそこで肝心なことを思い出した。
 しまった。フォーチュンとの約束を破ってしまった。
「ど、どうしよう」
 和んでいる場合じゃない。
「――――」
「……え?」
 低い穏やかな声がすぐ側で聞こえて、私は驚いた。勿論、男の人が声を出したということは、わかる。
 ……でも、何て言ったの?
 私はまじまじと男の人を見つめた。男の人も強い瞳で私を見返し、噛んで含めるように、ゆっくりと言葉を発する。
「――――」
 私はしばし絶句してしまった。聞いたことのない言葉。英語でもないしフランス語でもない。発音の仕方は少し英語に似ているかもしれないけど、全然違う。道理で私が話しかけた時、奇妙な顔をしていたわけだ。というか、日本人にはありえない彫りの深い端正な顔貌をしているんだから、同じ言語を話す人種でないことは明白だよね。
「――――」
「待って、分からない。あなたの言葉は分からない」
 私は理解できないってことを伝えるために、首を横に振った。私の意思表示を正しく受け取ったらしい男の人は、考え込むように眉を寄せて視線を虚空へさまよわせる。
 不意に、男の人は立ち上がろうとする仕草を見せた。
「怪我しているから、まだ動かない方が……」
 言いかけて、視界に血塗れの獣の屍が入り、私は口を噤んだ。身体中の熱がすっと冷めていくような感覚を抱く。とても幻影とは思えない生々しさに、私は今更だけど悪寒を感じた。この血も匂いも全てがリアルすぎる。
 硬直する私の視野が暗くなった。見上げると、気遣わしげな金の瞳とぶつかった。男の人が自分の身体を盾にして、不吉な殺戮の光景を遮断してくれたんだ。
「あ――ありがとう」
 男の人は、大きな手を一旦地面に向け、それから親指を森の奥へと向ける。どうやら、ここを離れよう、と合図しているみたい。確かにこんな気持ち悪い場所にいつまでもいたくない。ううん、感情的な問題よりも、濃厚な血の匂いを嗅ぎつけて新たな獣が出現するかもしれないという問題の方が重要なんだ。
 私は空になったペットボトルをバッグに戻し、肩に提げた。男の人は不自然すぎない距離を保って、私の準備が終わるのを待っていた。すごく紳士的な態度が板についていて、まるで中世の名誉ある騎士みたいだった。それに、間近で見上げると、本当に背が高い。三春叔父さんや賢治さんも結構身長が高い方だと思うけど、この人は飛び抜けていると思う。もしかして二メートル以上あるんじゃないかな。とにかく抜群に高く、胸板も物凄く厚くて、なんだか堅固な壁が立ちはだかっているみたい。腕にも筋肉がついていて全身鍛え上げているって感じだけど、鈍重そうな印象がないのは、均整の取れた体形をしているからだと思う。絶対日本人には見られない丈夫な身体つきなんだ。
 多分、横に並べば背が低い私なんて、この人の胸の位置に届くかどうかも怪しい。
 どう見てもこの人が背負っている剣の方が、私の身長より大きいし。
 こんな時に何だけど、少し自分が情けなくなって、吐息を落としてしまう。
 男の人が、落ち込む私を見て、不思議そうに首を傾げた。私は力ない笑みを返して、男の人の側に近づこうとした。
 
 ――うわ!
 
 足元の草が血で滑りやすくなっていたのか――私は間抜けにも転倒してしまった。
 尻餅をついてしまい、腰の痛みに一瞬顔が歪む。
 男の人が意表を突かれた表情で凝固していた。恥ずかしい。
 だけど、転んだのは、私が鈍いだけっていう単純な問題じゃないとすぐに気がついた。
 男の人の顔色が、突如険しいものに変わる。
 
 ――何?
 
 全身に鳥肌が立った。背後に闇が立ち上ったかのように、悪意ある気配が漂う。
 何これ? 私は呆然と自分のブーツを見つめた。血が、まるで意志を持っているかのように、白いブーツに絡み付いていた。
「やァれ、困ったものだ」
 
 ――この声は。
 
「フォーチュン!」
 私は驚いて、振り向いた。血溜まりの中にフォーチュンが立っていたんだ。
「口を開くな、自問するなと忠告したのに、お前は聞かぬ」
 明らかな失望の声に、私は顔を強張らせた。
「試練と私は言ったのに。お前は乗り越えられなかった」
「……だって!」
 私は呆然と、冷たく突き放すフォーチュンを見上げた。
「愛も憎悪も悲嘆も捨てよと言っただろう?」
「でも」
「そして、お前は手まで差し伸べる。私の言葉を残らず無視したのだなァ」
 嘲りの声に、気が遠くなりそうになった。
「――――!」
 男の人の警戒心と怒りを露にした叫びが聞こえる。だけど、それは不透明な膜を挟んでいるようにくぐもって聞こえた。
 どういう特殊な力が働いているのかは説明できないけれど、男の人の動きが封じられているようだった。
「お前は敗者となった」
「そんな!」
「やはりお前は愚かよなァ」
 この状況を見通していたかのような軽蔑を含んだフォーチュンの声音が、私を追いつめる。
「お前はまるで甘い。善行などに私が心を打たれるとでも?」
 胸中の思いを見透かされて、私はかっと頬を赤らめた。
 そうなんだ――私は、どこかで甘い考えを持っていた。男の人を助けたことは、もしかして有利に働くかもしれないと。いい心がけだ、と人は感心してくれる。きっと褒めてもらえる。そんな風に都合のいい考えを、どこかで抱いていた。なんて欺瞞。
「愚かよな。全く救いがたい愚かさ」
 フォーチュンの声は甘く、それだけに毒を含んでいる。
「お前は、私の与えた試練から脱落したのサ」
「――私、どうなるの?」
「さて。お前に我が力を渡せぬことはこれにて確定」
 じゃあ、もう一人の候補者が試練を無事乗り越えた? 
「……お前一人どうなろうと、知ったことではないなァ」
「ひどい!」
「何がひどい? お前が自ら望んだ道であろう?」
「勝手なことを! あなたがいきなり私を巻き込んだんでしょう?」
「おやおや。自分の無力さを棚に上げ、望む通りに事が進まぬ時には、他人を非難するか」
「そんなつもりじゃないよ!」
「運命とは、かくも皮肉で残酷なものサ。お前に対しても、誰に対してもなァ」
 男の人は、ふと細い指先を虚空にひらめかせた。
「後始末も面倒なこと。どこへ飛ばされるかは、お前の運次第よな」
 容赦のない言い方に、私は戦慄した。フォーチュンは私の命なんて、ほんの欠片も惜しんでいない。すぐ側に転がる獣の肉塊と何の差異もないんだ。
「フォーチュン!」
 それでも私はフォーチュンの情けを期待してしまう。もしかしたら助けてくれるんじゃないかって。
 私は本当に、ずるくて甘い人間だ。
「慈悲などは――」
 くすりとフォーチュンが笑った。縋ろうとする私の姿が滑稽に見えたようだった。
 草を黒く染めていた血が触手のように伸びて、私の身体に絡みついた。大蛇のように円を描き、やがて立ち上がる血の壁。まるで堤防を破壊する高波のよう。
 
 ――嘘!
 
「涙ほどの価値もない」
 フォーチュンの最後の言葉を合図に、視界が血で覆われた。
 私は悲鳴を上げ、バッグに縋りついた。飲み込まれる。穢れた血が無力な私を嘲笑い、叩き潰そうとしている。
 どうして。
 どうして、私、こんな目に遭わなきゃいけないの――。
 
 
 自分の悲鳴が反響していた。
 上も下も右も左も、血で染まる。
 身体の中も、目の中も。
 そして、意識も。

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