F006

 目覚めは、今までの人生の中で一番最悪だった。
 ハイエナを三倍に巨大化させたような気味悪い灰色の毛を持つ獣が十頭ほど、離れた場所をうろついていたのだ。
 恐ろしいことに、その悪意溢れる獣は、私が目覚める瞬間を待ち構えていたらしかった。
 その方が獲物をなぶる愉楽を存分に味わえるから。
 灰色の獣の群れは、言葉を失い震える私を前にしても、すぐさま飛び掛ろうとはしない。
 その勝ち誇った双眸が、私に逃げろと言っている。逃げてもっと楽しませろ。狩りの楽しみを引きのばせ。
 私は足元に転がっていたバッグを手繰り寄せたあと、獣の群れに背を向けて走り出した。すぐには殺すつもりがないらしい獣達は、私が何度も転ぶたび、故意に疾駆するのをやめ、辺りをぶらぶらとうろつき威嚇する。途中で自暴自棄になって足を止めたり逃げ遅れたりすると罰を与えるつもりなのか、猿のような長い手で私の背中を軽く引き裂くことがあった。悲鳴を上げたりすれば獣達を喜ばせるだけだと分かっていても、恐怖と苦痛に耐え切れなくなり喘ぎ声が漏れてしまう。
 
 ――なぜ?
 
 私は正気を失いかけているのかもしれない。心がどんどん空洞になっていく。
 
 ――私、こんなところで一体何をしているんだろう。
 
 汗だくで逃げ回りながら、ぼんやりと周囲を眺める。無人の乾いた世界。ぽつぽつと枯れた樹木が乾いた大地に根を張っている。倒壊した遺跡の残骸のような石塊があり、あとは広大な大地だけが存在する寂寞とした場所だった。空は鈍い色をした厚い雲に覆われていて、遥か遠くでかすかにオーロラのような淡い光が降り注いでいるのが見えた。
 でもそこまでの距離は果てがないほど遠く感じられる。私の足じゃ辿り着けない。地平線のまだ向こうに存在する楽園は、私のために道を示してはくれない。
 自分がなぜ、こんな寂しい場所を必死に駆け回っているのか分からなかった。背後には狩りのスリルを味わいつくそうと企む危険な獣の群れが迫っている。それだけが、真実だった。
 私は精神的にも肉体的にも憔悴していた。足の感覚はもうなかったし、意識も途切れがちになる。肩に食い込むバッグが、今の私には石を背負っているような気がするほど重く感じられた。投げ捨ててしまいたい衝動を、辛うじて残されている理性が懸命に押しとどめている。このバッグを捨ててしまえば、自分が生活していた本来の世界が遠ざかってしまうような、本能的な恐れがあった。
 
 ――もう嫌だ、こんなの。
 
 これ以上走れない。私は内心で自分の敗北を認める。足の力が抜けてその場に膝をついた時、もとは神殿だったらしい遺跡の残骸が目に映った。私は、斜めに倒れているひび割れた円柱に寄りかかった。つかず離れず追跡していた獣達が、面白くなさそうに鼻を鳴らしたけれど、私の知ったことじゃない。襲いたいなら、好きにすればいいんだ。
 すごく惨めな気分だ。誰だっていつかは死ぬけど、こんな最期なんて救いがなさすぎると思う。
 フォーチュンの言う通り、運命ってすごく残酷だ。宝くじの抽選のように最高の人生を引き当てる人もいれば、坂道を転落するように不幸の一途を辿る人生を背負わされる人だっている。
 わけの分からない獣に生きたまま引き裂かれる私は、不幸な子なのかな?
 私は疲れた笑いを浮かべる。不幸とか幸福とかの基準って、何だろう。本人が不幸だと思えば、不幸? それとも、本人の意思は関係なく、周りがそう思えば、不幸なんだろうか。こうして死の危機にさらされている時でも、誰かの同情を求める自分の弱い心にうんざりするし、哀れにも思う。なんだか自分の姿を頭上から見下ろしているような、奇妙な気分だ。
 もういいや。私は口の中で呟いた。だって、もうすごく疲れたんだ。
 フォーチュンの言葉も実は結構痛手だった。まだ塞がっていない傷口を素手で押し広げるかのような容赦のない言葉に、私は密かに痛みを感じていた。
 救助の手なんて存在しないと分かっているのに、死に物狂いであがくなんて馬鹿みたい。とても格好悪い。そう思いながら、心のどこかでは奇跡が起こるんじゃないかって期待している。
 
 ――これが、絶望的な希望?
 
 人間は最後の最後までも希望を捨てられない。湧き上がる希望に絶望して、死ぬんだ。
 本当に救いがないね。
 私は苦笑いを顔に張り付けたまま、じりじりと接近する獣達を見つめた。泣き叫んで狂えば楽になるのかな。そんなくだらないことを、ちらりと考えた。
 今にも飛びかかってきそうな獣を前にして、私は目を瞑った。覚悟が決まったわけじゃない。自分の身体がぼろぼろに荒らされる瞬間なんて見たくなかったんだ。どのくらい痛みを味わうんだろう。私はその痛みに耐えられるのかな。
 自分が発する荒い息を強く意識した時だった。
 突然、獣達がぎゃっとあわてふためくような悲鳴を次々に上げたんだ。
 
 ――別の、獣?
 
 目前にいる獣達が恐れるくらいの、より凶暴な獣が現れたんだろうか。私は最悪の状況を思い浮かべて戦々恐々としながら目を開けた。灰色の獣達が逆毛を立てて一目散に逃走する姿が目に入り、私は激しく鼓動を打つ胸を押さえて瞬いた。
 その直後、急に頭上が翳った。私は柱に寄りかかったままの体勢で、空を仰いだ。もう悲鳴さえも出ない。馬と獅子を融合させたような、とんでもなく巨大な銅色の獣が、宙を悠々と駆けていたんだ。
 銅色の獣は弧を描いて虚空を旋回したあと、大気を切り裂くようにこちらへ向かって急降下してくる。灰色の獣達はおそらくこの巨大な獣の出現に怖気づいて、逃げ出したんだろうと思う。私だって気力と体力が余っていたら、我先にと逃走していたに違いない。
 
 ――あれ?
 
 私は少しだけ身を起こして、空を駆ける銅色の獣を凝視した。
 人が、乗ってる?
「――無事か?」
 揺るぎのない、強くて太い声が響いた。
 私は言葉もなく目の前に舞い降りた銅色の獣を見つめた。そして、その巨大な獣に騎乗する男性も。
 森の中で出会った男の人よりも、更に大きな人だった。紅蓮の炎のように鮮やかな赤い髪。深紅の上質な珍しい衣服。両脇に三本の長い剣を差している。額や胸元を彩る黒い宝石は太陽の光が届いていないというのに、かちりと輝きを放っていた。
「口がきけないのか?」
 立派な身なりをした男性の声と共に、銅色の騎獣がぶるっと鬣を揺らした。返答を催促しているように見えて、私は、はたと茫然自失の状態から戻る。
 
 ――奇跡って……信じていいの?
 
 この人は、待ち焦がれていた助けなんだろうか。夢じゃないよね?
 私、助かるの?
 にわかには信じられなかった。砂漠で見るという蜃気楼のように、声を出した瞬間、掻き消えてしまうんじゃないかな。
 フォーチュンの、口を開くなっていう警告を無視して自分の身を窮地に追いやったことが、心に歯止めをかけている。
 瞬きも忘れて奇獣と男性を見つめた。獣に追われている時よりも、もっと鼓動が早くなって、今にも胸が破れそうだった。
「致命傷を負っているようには、見えないが」
 男性は、ふと眉をひそめたあと、普通の馬よりも大きな騎獣から降りた。巨岩のような体躯の男性が優雅に長い衣服の裾を払い、私の前で片膝をつく。
 
 ――幻じゃ、ない。
 
 一気に、言葉にならない感情が溢れ出しそうになる。どうしよう、怖い。あんなに切望した救助の手が、死ぬほど怖い。
 だってもし、私が手を伸ばした瞬間に、消えてしまったら――。
 身体が急に震え出して、とまらなくなる。喉の奥が焼けそうなほど熱くなって、滅茶苦茶に叫んでしまいたい衝動が生まれる。
「ああ、もう心配はない」
 男性は私の様子を見て、何かに納得した表情で頷いた。
「怯えるな。お前の嘆きは私に届いた」
 
 ――嘘。嘘。
 
 自分でも何を考えているのか理解できずに、混乱する。嘘、私、本当に助かったの?
 助けて。その一言が、どうしても喉から出ない。失望の目。侮蔑の目。嘲りの目。それらを私は恐れているんだ。
「来い。お前には休息と手当てが必要だ」
 男性は、自分が生み出した恐怖にとらわれて身動きできずにいる私を、軽々と抱き上げた。
「――あ」
 掠れた声を漏らしてしまう。しっかりと抱き上げてくれる腕から温もりが伝わる。
 暖かい。何て暖かい。
「可哀想に。むごい目に遭ったものだ」
 男性の赤い目が、私の顔を覗きこんだ。深い同情と慈しみを湛える目を見返して、私は目眩がした。見知らぬ人の温もりに、これほど安堵したことはなかった。
「少し眠るがいいな。お前の気は今、高ぶりすぎている」
 ふと、意識が急激に遠ざかった。最後に見たのは、薔薇も敵わない赤い双眸。
 
 ――ああ、綺麗だな。
 
 そんなことを考えている内に、柔らかい闇に包まれた。

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