F010
よくテレビで高い場所から人間が飛び降りるシーンがあるけど、まさか自分が実際に体験するとは思わなかった。
重力に引っ張られて全身の骨が軋むような不快な感覚に襲われ、吐き気が募る。胸の中が滅茶苦茶にかき回されるような気持ち悪さ。あ、本当に死ぬかも、なんて妙に冷静なことを考えてしまった。
テストの点が悪かった時とか、自分の至らなさに落ち込んで、無力だと嘆いたことがある。努力なんて全然してないのに精一杯頑張っている気になって、都合よく自分を正当化し本音を誤魔化したりしたことも。
私ってすごくズルイ人間だ。いつもいつも片意地張って格好いい言葉で飾ってるけど、本当は誰よりも臆病だから、いざという時はこうやって目の前の問題を回避しようと逃げ出すんだ。
――これじゃあ、フォーチュンに選ばれなかったのも無理ないよね。
私は鋭利な刃物に似た風に嬲られながら、落下していた。悲しみとか自分に対する失望までも身を切る風の轟音と共に遥か彼方へ消え行き、あとには空洞化した肉体が残される。
その身体も、次の瞬間には大地に叩きつけられて、粉々になるんだろう。
「――この、馬鹿者!!」
瞼を閉ざした時、鋭い叱責の声と共に、身体に鈍い衝撃が走った。衝撃といっても、全く痛みは感じない。
「なんという無謀な真似をするのだ!」
頬を打つような厳しい怒声に、恐る恐る目を開く。風の音も、不愉快な浮遊感も気がつけば一切消えていた。
――私、死んでいない?
「何を呆けている!」
視界に、燃え盛る炎のような深紅の髪と瞳が映った。
「オーリーン?」
私はなんだか夢でも見ているような気がして、ぼんやり呟いたあと、周囲を見回した。
――あれ……?
いつの間にか私は地上にいて、聖獣に跨ったオーリーンに横抱きされていた。視線をずらすと、その先には優美な半円状の都城があり、淡く輝く光の粒子をまとっている。
「不老不死である神といえども肉体が再生できぬほど砕け散れば、蘇生は果たせぬのだ。人にすぎぬお前など、この高さを飛べば間違いなく命はない!」
呆然と城を見上げる私の顔を長い指先で捉えたあと、オーリーンは怒り覚めやらぬといった険しい表情で怒鳴りつける。
「馬鹿なことを!」
吐き捨てるような強い声音に、私はようやく我に返った。今更ながら恐ろしさで身体が震え出し、涙が滲みそうになる。私、ホントに何をしたかったんだろう?
オーリーンが本気で怒っている気配が伝わる。だけど、私を抱え上げる腕は温かくて、心地いい。ああまだ私は生きているんだなって実感できる。
私は無意識に、オーリーンにしがみついた。ふとオーリーンの気配が、戸惑いを含んだ柔らかいものに変化した。
「全く……神が人を試すというならばいざしらず、人が神を試すとは」
何ともいえない微妙な口調でオーリーンがこぼした。
「ごめんなさい」
私の声は震えて、みっともなく掠れていた。オーリーンの太い首に腕を回し、命綱のようにしっかりとしがみつくと、少しだけ死の恐怖が紛れた。オーリーンは微かな溜息を落としたあと、子供をあやすように私の背を優しく叩く。聖獣が羨ましそうにくぅん、と甘えた声を上げていた。
「……お前の指摘する通り、俺は自分の国の民を見殺しにしたのさ」
私は、はっと顔を上げた。間近で見るオーリーンの瞳には自嘲の他に癒しようのない痛みまでが宿っていた。
オーリーンはそっと視線を外して聖獣の背を叩き、進むようにと合図する。獣は一度、主人を気遣うように振り向いたあと、従順に歩き出した。どうやら、あちこちに点在する遺跡の一つへ向かっているようだった。オーリーンは私を自分の前に座らせ、緩く獣の手綱を握った。
「命に代えても助けたいと切に思う。万物の条理にひれ伏すつもりなど毛頭ない。だが、俺が直に動けば、更なるひずみをこの世界に与える。神々は天界を降りてはならない。俺達がまとう神威とやらは、地上の世界にとってはあまりに脅威らしいのでな。神は神であるべしと。ゆえにこれも条約の一つ。人の世に手出しはならぬ」
悲嘆の滲む沈んだ口調が、私の胸を抉った。
――何も知らないくせに、分かったようなことを言って、傷つけてしまったんだ。
「ごめんなさい」
今更謝罪しても一度口にした言葉は取り消せない。私はすごく後悔した。絶対に言ってはいけないことをこの神様にぶつけてしまった。
「いや、お前の非難は正しいのさ」
ああ、ほら、オーリーンは私が放った無責任な言葉を真剣に受け止めて、自分を責めている。
人って勝手だ。都合のいい奇跡を望んで叶わなければ神様を呪い、成就した時には存在を忘れてしまう。
「だが、俺を罵るにしても、次はもう少し穏便な手段を取ってほしいものだ。若い娘の死に際などあまり目にしたいとは思わぬ」
「二度としません。ごめんなさい」
「おや、随分素直になったものだな」
意外そうにオーリーンは笑った。
「オーリーンは、いい神様だね」
「今更ご機嫌伺いをされてもな」
「そんなんじゃないよ……」
声に力が入らない。もう、穴があったら入りたいくらいの心境だった。傷つけるだけ傷つけて何のフォローもできない自分の馬鹿さ加減が憎いし、恥ずかしくてたまらない。
私は激しく落ち込んでいたし、オーリーンは思索に耽っているようで、しばらく沈黙が続いた。
私達を背に乗せる獣の、草を踏む静かな音だけが耳に届く。
やがて到着した場所は瓦解しかけた祠の前だった。祠に使用されている石は珍しい琥珀色をしていた。光の反射の加減によって、わずかに緑色が含まれているのが分かる。
オーリーンは項垂れる私を抱きかかえて聖獣から降り立ったあと、祠の縁に溜まっていた塵芥を無造作に払い、そこへ腰掛けた。なんとなく癖になってしまったのか、オーリーンは私を当たり前のように膝の上に乗せて、物憂げな感じで頬杖をつく。
私は少し座る位置をずらして、オーリーンの顔を覗き込んだ。よく考えたら神様の膝に座っているのって、途轍もなく大それたことだよね。
「あの……ごめんね?」
オーリーンは、ただ微笑のみを返した。子供には甘いのか、もともと寛容なのか、もう私を叱責しようとはしなかった。
「なに、お前は天界へ久方振りに現れた、生きた人間だ。多少の奇矯な振る舞いには目を瞑ろう」
奇矯な振る舞い……。私はがっくり項垂れる。
「年頃の娘というのは、全く複雑だな。唐突に無鉄砲な行動を取るかと思えば、次にはしおらしい顔を見せる」
「……娘がいるの?」
何気ない質問だったのに、オーリーンはなぜか口ごもり、物凄くうろたえた。触れてほしくない話題だったのかな? これ以上困惑させるつもりはないので、私はすぐに違う話へ切り替えた。
「あのね、何かお詫びに、私にしてほしいことはない?」
「詫び?」
驚いた表情の中には、ほんのかすかに、躊躇いとも呼べない微妙な感情が含まれていた。
「何でもいいんだよ。何かお願い事とかない?」
オーリーンが真摯な瞳で私を長い間凝視した。視線の強さに思わず怯んでしまうほどだった。
「お前は身内の者を救いたいか?」
「それは勿論だけど……今は、オーリーンのことだよ?」
「では、俺の頼み事が生死に関わるほど危険なものならば、どうする?」
口調はとても優しかった。でも、本当はその言葉が迷いに迷った末、放られたものに違いないって分かる。
「すっごく危険なの?」
「ああ、そうかもな」
憂鬱そうに笑うオーリーンが少し可哀想に見える。神様って大きな力を持っているからこそ、きっと我慢しなきゃいけないことがたくさんあるんだろう。人間よりももしかすると、不自由なのかもしれない。
私はさっきのオーリーンのように、考えの中に沈んだ。オーリーンがいいたいこと、私、見当がついたかも。それで、なぜオーリーンが気鬱そうにしているのか、理解できたと思う。勿論それが全くの勘違いって可能性も捨てきれないけれど。
――自分の言葉や行動からちゃんと逃げずに責任を持たなきゃ。
神様の心に傷を与えた罪は重いんだ。私は償わなきゃいけなくて、それは同時に、自分の大好きな人達を助けることになるかもしれなくて。
私は深呼吸をしたあと、覚悟を決めて、オーリーンを見つめた。
(小説トップ)(Fトップ)(戻)(次)