F011

「あの、ここは天界なんだよね?」
「そうだ」
「それで、私は、すごく久しぶりにここへ来た人間なんだよね?」
「ああ」
「神様達はとっても強大だから、地上の世界や皆をどんなに救いたくても、勝手に動いちゃいけないんだよね」
 オーリーンは不意にすごく悲しそうな顔をした。私の言いたいこと、気づいたのかな?
「ええと、エヴリール……だっけ? こちらの世界と私の世界は、裏と表なわけで」
 神様達が教えてくれた話を思い出しながら、ゆっくりと言葉を紡ぐ。次第に心臓が早鐘を打ち始めた。
「ということは、こっちの世界の歪みを元に戻せば、私の世界も正常に戻る。さっきオーリーンは、幽鬼に変えられた人を助けられるって言っていたよね?」
「ああ、お前」
 じっと見上げると、オーリーンは心底悲嘆するような辛い顔をした。
「私は今天界にいるけど、神様じゃないからエヴリールに降りても平気なんじゃないかな。こっちの世界を立て直すことはお詫びにもなるし、自分のためにもなるし、一石二鳥なんじゃないかって思うんだけど。もしかしてすごく難しいことなの?」
「お前は全く……困った娘だ」
「ええと」
「なぜなのか分からぬ。なぜ、ここに来たのがお前のような稚い者なのか。せめて屈強な男であれば、同情などせぬのに」
 オーリーンはまるで怒りを覚えたようにぎゅっと眉間に皺を寄せると、戸惑う私を突然抱き寄せた。私は奇声を上げつつ、慌ててもがく。苦しいのかどきどきしているのか分からない! 自分でしがみつくのと相手から抱きしめられるのって、全然違うんだ。
「お前がもう少し愚かであれば」
「あの、あの、オーリーン」
 自分でも、吃って何を言いたいのか分からず、混乱状態に陥ってしまう。背中に回された腕は深く強く私を捉えて、身動きしてもびくともしない。壁のように頑丈な胸元を飾る緋色の首飾りが、目の前で揺れる。オーリーンの速い鼓動が私にまで伝わり、そのせいなのかくらくらした。
「お前は、望めば、天界に留まり俺の守護を受けられるのだぞ」
 そんなことできるはずが……っていうより、腕を離してよ!
 何だかもう、違う意味で窒息しそうになる。
「い、いいよ、そんなこと、望んでないし! それより、手を、離して」
 オーリーンはようやく腕を緩めてくれたけど、絶対私、誤摩化せないくらい赤面してると思う。恥ずかしくて俯いたのに、オーリーンはわざわざ私の顔に手を添えて上向かせた。
「よいか、神々と一度誓約をかわせば、果たされるまで永劫に囚われるのだ。フォーチュンがいい例であろう。不用意に俺の頼み事など引き受けてはならぬ」
「不公平のないように、お互いの頼み事を一つずつ聞くっていうのはどう?」
 私の提案に、オーリーンは目を瞬かせた。
「世界に干渉できないって言ってたけど、見ることはできるんだよね? 私の叔父さんと賢治さんが無事なのか、見てほしいの。その代わり私は、オーリーンの世界の人達を、元に戻すよ」
「馬鹿者……俺の話を聞いていたか? 俺とて神なのだ。誓いを交わせば、最早俺にも手出しができなくなるのだぞ」
「誓いって、守るためにあるんだよ?」
「呑気な! どれほどの苦難が待ち構えているか、ろくに考えていないのだろう? エヴリールを救うということは、畢竟、フォーチュンの後継者と対峙することに他ならぬ。かの者が抱く計画を阻止し、民を救うなど、容易きことではない。お前は、後継者にも睨まれ、幽鬼と化した民にも襲われる羽目になる。そのような苦労を引き受けずともよい」
「でも、他に誰か頼める人、いるの? ここには滅多に人が来ないんでしょう?」
「お前な……」
「それに、このままじゃ私、元の世界に帰れないんだよね?」
「――エヴリールならばともかく、次元の異なる世界へ続く扉を開くとなると、一大事だな。いや、可能ではあるが、今、その業を行えば、おそらく」
「おそらく?」
「幽鬼と化した我が民が、お前の世界に流れ込むだろう。そうなれば、両の世界はますます混迷の一途を辿る」
「じゃあ、やっぱり私、こっちの世界が正常になるまで帰れないんだ」
 予想はしていたけれど、簡単には戻れない事実をはっきり教えられると、さすがに気分が沈んだ。オーリーンに抱きつかれて不自然に高鳴っていた心臓も、急に落ち着いていく。
「私は役に立たない? 見た目が弱そうだから? でもなんとかしないと、オーリーンも困るし私も困る。叔父さんも賢治さんも助からないし、こっちの世界の人達も人間に戻れない。ううん、後継者はエヴリールの世界を壊滅させて新しい世界の神様になりたいんだよね。だとするとそれは、他の神様達にとっても迷惑な話なんじゃないかな。それなのに不可侵の誓約が邪魔をして、神様達はやめさせたいと思ってもただ傍観するしか許されないんだ。だって、その後継者は、フォーチュンの力を貰っているんだものね」
「ああ参った」
 オーリーンは降参するように、自分の髪の毛を乱暴にかき回した。乱れた赤い髪がさらりと衣服の上を滑る。
「お前のいう通りだ。神々にとってもフォーチュンの行動は決して歓迎できるものではない。我ら神は、エヴリールの民の信仰があるゆえに、存在していられるといっても過言ではないのだ。新たな世界と神が誕生すれば、我らは支えを失い行き場をなくす。それこそ、俺達にとっても生死に関わる一大事。見過ごせぬのに、愚かな誓いが我らの行動を妨げる」
 人々の信仰によって神様は生かされているってことなんだろうか。つまり、存在が忘れられたら死んじゃうってこと? よく分からなかったけれど、神様であるオーリーンに詳細を訊ねるのは気がひけた。想像するに、エヴリールの民は神様への信仰が厚く、生活の一部となっているのかもしれない。日本人がお正月には神社へお参りに行ったりするようにね。仮に普段意識していなくても、実は意外なものに宗教的意味が含まれているってことがあるみたいだし。でも、神様達を大切に想い祈りを欠かさなかった人々が皆死んでしまって、新しい神様が――フォーチュンの後継者ってことになるけど――元々の文化や宗教や生活習慣なんかを一掃し、全く別の新世界を創造してしまったら、オーリーン達の存在は無意味なものになってしまう。だって新たな世界で生活を営む人々は、きっとその後継者を神と崇めるだろうから。なんかそれって、中世の宗教戦争に似ているよね。古い神と新たな神の対立。もし敗北すれば邪教だ異教だと糾弾され、容赦のない手酷い弾圧にさらされて、衰退しちゃう。
 そういえば叔父さんが以前言っていた。
 宗教観の相違による闘争は、永遠に終幕を迎えないだろう。なぜなら、己のアイデンティティに関わる問題だからって。それほど宗教っていうのは危険な側面を孕んでいるし、簡単には切り離せないほど人々の心の中に深く根付いているものらしい。政治よりも血腥く、無数の権力欲が渦巻いているんだ。
 
 ――まあ、これ全部、テレビのニュースを見ていた叔父さんが零した言葉の受け売りなんだけれど。
 
 大人って時々難しいことを考えるよね。
 私は頭の中の考えを振り払って、別の話を口にした。
「で、私はこんな大変な時に、運命の悪戯で天界に飛ばされちゃったんだね?」
 オーリーンは盛大な吐息を落とした。
「本当にどれほど危険か、承知しているのか?」
「くどいよ、オーリーン」
「忠告しても聞かぬ相手ゆえにくどく言っているのだ」
「それ、私のこと?」
「他に誰が……」
 オーリーンは途中で言葉を失い、感極まった様子でもう一度私を腕の中に包む。
「苦しいよ!」
 本当はそんなに苦しくなかったけど、そうでも言わなきゃ離してくれない気がした。
「ああ、すまない」
 オーリーンは焦った顔で、私を解放する。
 私は顔の火照りをさますため、深く息を吐いた。
「それで、どうすればいいの?」
 怒ったような口調になってしまうのは、この場合仕方ないと思う。
 オーリーンは、私の機嫌を損ねたと勘違いして、少し困った表情を浮かべていた。
 
「――随分、親しくなったものだな?」
 
 不意に至近距離から不機嫌そうな低い声が響いて、私とオーリーンは同時に振り向いた。
 祠に寄りかかるようにしてシルヴァイが腕を組み、私達を見下ろしていたんだ。
 全然気配を感じなかったけれど、一体いつからそこに立っていたんだろう? 私は驚いて、シルヴァイをじっと見つめた。
「二人で仲良く神々を嘲笑していたのか?」
 棘のあるシルヴァイの言葉に、オーリーンが苦笑した。
「何を拗ねている?」
「馬鹿なことを言う」
 シルヴァイは眉をひそめて、苛々した様子で顔を背けた。なんだか本当に我儘な子供のようだ。
「シルヴァイ、さっきはごめんね?」
 とりあえず、私が謝った方がいいんだと思う。何せ相手は神様だし。
 シルヴァイは長い繊細な髪をかき上げて、不機嫌な表情のままちらりと私を一瞥した。ああ、まだ怒ってる。
 美人なだけにもの凄く迫力があるんだよね。
「大人げない。このような幼き娘の言葉を真に受け、怒りにとらわれるとは」
 オーリーンがそんなことを言って、意固地になっているシルヴァイの気を宥めようとしていた。
 私はついオーリーンを睨み上げた。こっちを見るオーリーンの目が必死に、ここは抑えろ、と訴えている。
 
 ――つまり私が大人になれってことね。
 
 幼い娘って言われたことは不満だけれど、ここで私が反論すると、更に事態は悪化するんだろう。
 全く、神様の相手をするのって大変だよね。
「この私より、体躯しか誇れるところのない者に懐くとは」
 私が内心で深々と溜息をついた時、シルヴァイがぼそりと腹立たしそうにそう呟いた。
 一瞬、オーリーンも私も固まった。
 なんか、怒っている場所が違わないだろうか。
 それに、体躯しか、って……。ううん、オーリーンも散々な言われよう。ちょっと同情してしまう。
「シルヴァイ」
 さすがにオーリーンはかちんときたのか、唇の端を歪めて抗議しようとした。でもここは堪えなきゃね。私は、オーリーンの柔らかな袖を軽く引っ張り、我慢我慢、と声に出さず口を動かす。
「人とは真の価値が分からないものなのだな。この者など図体しか取り柄がないというのに。それが分からないとはな」
 更に皮肉を言われて、オーリーンの身体が一瞬震えた。どうしよう、なんか周囲の空気が急に冷たくなって剣呑な雰囲気が漂い始めた気がする。ここでシルヴァイの嫌味に同調するわけにもいかないし、かといって否定すれば、ますます機嫌を悪くするだろうし。
「私の方が位も力も容姿も優れている」
 うわあシルヴァイ、まさに禁句って一言だよ、それ。
「それはそれは」
 呟くオーリーンの声が明らかに低い。こ、怖い。二人とも、目が完全に据わってる。
「ええと、シルヴァイはとても綺麗だよね。オーリーンは格好いいよね」
 とりあえず公平に二人を褒めておこう。
「どちらが、上だ?」
 シルヴァイは気持ちがおさまらなかったらしく、私が答えにくいことを聞いた。言えるわけがない、この緊迫した状況で。
「ええと」
 困った神様達だと思う。うろたえる私を抱えるオーリーンの腕に、力が入る。もうどうしろっていうの! 斜めを向いているシルヴァイの気分を戻すはずだったのに、オーリーンまでもが一緒になって、むきになるなんて。
「二人とも、喧嘩をしないで……」
「なぜ私が目下の者と競わなくてはならない」
 微妙に火花を散らしている二人の間を取り持とうとしても、シルヴァイが即座に拒絶する。
「誰が目下だ?」
 オーリーン、怒っちゃ駄目だよ。
 シルヴァイは冷ややかな目でオーリーンを見下ろし、ふとこっちに近づいた。
「え? え?」
 シルヴァイが腕を伸ばし、硬直する私をオーリーンから引き離して、ひょいと抱きかかえたんだ。
「可哀想に。この者に不埒な行為をされたか?」
「お前ではあるまいし、するはずがないだろう!」
 ゆらりとオーリーンが立ち上がる気配を感じる。うあぁ、今は絶対振り返りたくない! というか、降ろしてほしい……。
「私の祝福を先に受けるだろう?」
「祝福?」
「――ならぬ!」
 なぜか、オーリーンが怒気を消して慌てた表情で鋭く制止の声を上げた。
「何をしようと私の勝手ではないか」
 シルヴァイは意地悪そうに目を細め、動揺するオーリーンへ視線を投げた。
「その娘への祝福はいけない」
 渋面を作るオーリーンを小馬鹿にするように、シルヴァイは鼻を鳴らす。
 祝福の意味が分からない私は、ただ呆気に取られていた。どうしてオーリーンはこんなに焦っているのかな。
「ヒビキを地上へ降ろすつもりなのだろう?」
「――盗み聞きでもしていたか」
 舌打ちでもしそうな顔をして、オーリーンが唸る。
「……あの」
 どうも話の内容は、私に関わることみたいだ。
 恐る恐る口を挟むと、シルヴァイは片腕で私を抱え直し、びっくりするほど穏やかな微笑を浮かべた。細い体つきなのに意外と力があるんだ、なんて私は変なことを考えて感心していた。でも、重くないのかな。オーリーンみたいに大柄な人ならともかく、シルヴァイのような一見華奢な体形の人に軽々と抱き上げられると、すごく驚くし焦ってしまう。
 それに、もう私に対して腹を立てていないのだろうか。
「この娘を地上へ降ろす気なのだろう? それなのに、何一つ祝福を与えないというのか。それでは見殺しにするのと何らかわりがなかろう」
 
 ――見殺し?
 
 私はぎょっとしてシルヴァイの鮮やかな瞳を凝視した。長い水色の睫毛がゆっくりと上下し、どこか痛ましげな色をたたえて一対の宝石に似た瞳が私を捉える。
「平和な国に生まれ、魔術も剣技も知らぬ無垢な幼き娘を、闇に覆われた世界にただ一人降ろし、さまよわせるというのか。それは――」
 シルヴァイは深い溜息をついて、こう続けた。
 
 
 いかな神でも罪深い、と。

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