F013
最初は目眩のせいで、シルヴァイの姿が曖昧に見えるのだと思った。だけど、すぐにそれは錯覚なんかじゃないと気づく。
「なあに、千年の眠りなど――」
軽く笑って嘯くシルヴァイの周囲に、どこか幾何学的な形をもった銀色の鋭利な檻が出現する。
「刹那のことさ」
その鋭利な檻はシルヴァイを中心にして円を描くように素早く動き、空気を裂いた。一度楕円形に大きく膨張し、中に佇むシルヴァイをくびり殺すかのように急激に縮小する。
「シルヴァイ!」
オーリーンの悲痛な叫び声が響くと同時に、悪意を秘めた檻がシルヴァイを切り裂いた――その瞬間、花が散るように、シルヴァイの姿が掻き消える。
つかの間の出来事だった。
辺りは何事もなかったかのように、しん、と底冷えのする静寂に包まれているばかりで、シルヴァイの姿も銀の檻も、もう見当たらない。まるでシルヴァイの存在が最初から幻影であったかのような呆気なさだった。
「シルヴァイ……?」
僅かな名残すら許さないあっという間の消失に、息が苦しくなるような不安を覚え、小さく呼びかけた。
何かとてもよくないことが起きた。シルヴァイに災いが降りかかったんだ。
「オーリーン、シルヴァイはどこ?」
もしかして今の口付けが原因?
「馬鹿なことを……!」
オーリーンは短い時間、私を抱き上げたままどこか呆然とした様子で立ち尽くしていたけれど、我に返ったあと、厳しい口調で吐き捨てた。悔しそうな、そしてひどく辛そうな眼差しを先刻までシルヴァイが存在していたはずの場所に向け、大きく舌打ちした。
「どういうこと? シルヴァイはどこに消えたの?」
奇妙に感じていた額の熱は既にもう治まっていたし、それどころじゃない深刻な事態が起きたことも分かっている。
「戒律に背いたのだ。単に祝福だけならいざしらず、シルヴァイは……」
オーリーンが痛みを堪えるかのように途中で言葉をとめ、腕の中に抱えている私を見下ろした。鮮やかな赤い色の目が、私の額の上に向けられる。
視線につられ、私は何かを思うよりも早く、条件反射のように片手で額を押さえた。あるはずのない異物の手触りに、ぎょっとしてしまう。
「え? 何これ?」
小さな固いものがいつの間にか額にはり付いている。表面は冷たいのに、なぜか温もりのような感覚が指先に伝わった。
――違う、はり付いているんじゃなくて、額の中から出現した?
「術も剣の技も知らぬ今のお前では、フォーチュンの力に到底太刀打ちできない。ゆえにシルヴァイは、かの貴人に選ばれた後継者と拮抗しうるだけの力を、お前に与えた。シルヴァイは条約を破った」
「もしかして不可侵の誓約のこと……?」
「違う。この場合は、神々の間で定めた戒の一つに触れた。神が人に施せるものは清静なる祝福と慈愛のみ。お前は、フォーチュンのように演儀、魔力の楽律を読み解いて天門をくぐる資格を得ていない。そのお前に独断で直接力を注ぐのは許されぬ」
「シルヴァイはどうなったの」
「摂理を汚した者は断罪される。シルヴァイは千年の間、神の座を剥奪される。犯した罪の重さによって、受けねばならぬ制裁は異なる」
「剥奪……!?」
オーリーンが口にした言葉の全部は理解できなかったけれど、それでも大変な状況なんだというのは感じ取れる。私はシルヴァイがいた場所を必死の思いで見つめ、自分の手を強く握ったあと、オーリーンと向き合った。
「どういうことなの? 剥奪されて、どうなるの?」
オーリーンは、私がどんなにせがんで返答を求めても、首を振るばかりで教えてくれなかった。言えないほど屈辱的で苦痛を味わうことなんだろうか。
「ああ、他の神々に気づかれた」
オーリーンの顔色がさっと変わる。
「時間がない」
「オーリーン」
「すまない。どうやら説明している暇はなさそうだ。他の神々は、お前の存在を拒絶する恐れがある」
虚空を睨むオーリーンの厳しい横顔に、私は息を呑んだ。
「全く、シルヴァイも困ったものだ。俺が先にと思っていたのにな。対抗しようとでもしたのか」
オーリーンは不意に表情を緩め、小さく苦笑しながら私を地面に降ろした。不安になって腕を伸ばす私を止め、腰に差していた三本の剣の内、一番短いものを素早く抜き取る。
短いといっても、私からみれば十分長い剣だ。黒い柄の一部分に複雑な紋様が描かれた剣。鞘の先端部分と柄の頭に、同じ形の赤い宝石が埋め込まれている。
「よいか、この剣で幽鬼を斬れ。これは破魔の剣をも凌駕する。人は斬れぬが人にあらざる者のみを滅する」
狼狽する私の手に、オーリーンはその剣を押し付けたあと、視線を後方へ向けた。いつの間にか姿を消していた銅色の獣がどこからか駆け戻ってきて、オーリーンの前に回り、服従を示すように少し頭を垂れた。その獣はこっちの世界に持ち込んだ私のバッグをくわえていた。オーリーンは一つ頷くと、バッグを獣の口から受け取り、それも私に差し出した。誰がその支度をしたのか、獣の背には既に旅の必需品といった感じの荷物がくくられている。
「適当に必要な物を入れておいた」
「入れて、って……」
どうして急に慌しい態度を取るの?
状況が飲み込めず戸惑う私の前に、オーリーンが跪く。きっと目線を合わせるためなのだろう。
オーリーンは唇を引き結んで、虚空を仰いだ。つられて私も空を見上げる。雪を連想させる白い空の一点に浮かぶ黒い染み。それが徐々に大きくなり、接近してくる。
もしかして、他の神々?
「シルヴァイが先に力を与えたがな。俺だとて、お前の負担を少しは軽くできるさ」
それって、オーリーンまでも神様の席を奪われちゃうってことじゃない!
慌てて後退りしようとしたけど、オーリーンの行動の方が早かった。長い腕で私を捕まえ、真摯な目を向けてくる。
「すまぬ。問答無用でシルヴァイはお前に我らの罪を押し付けた」
「そんなことない」
「忘れるな。俺もシルヴァイも、お前を祝福する。お前は人の身でありながら、シルヴァイの眷属であり、俺の眷属になる」
オーリーンは凛とした感じの口調でそう言ったあと、私の手の甲にさっと唇を押し付けた。まるで騎士が主へ忠誠を誓うように。
シルヴァイにされた時と同様に、かっと手の甲が熱くなる。その場所で小さな炎が燃えているみたいな感じだった。私は絶句したまま、自分の左手を見下ろした。額はともかく、左手の甲に変化は見られなかった。
硬直する私を見上げて、オーリーンが一瞬くすぐったそうに頬を緩めた。
「さて。何から何までシルヴァイに遅れをとっては面白くない」
「オーリーン」
ぎくしゃくと見返す私を、オーリーンは強い力で引き寄せた。気づいた時には、赤い瞳が触れそうなほど側にある。
「許せ」
言葉と共に、吐息がかかった。ふと唇に被さる柔らかな感触。意外な温かさを持った溶けるような優しい口付けに、頭の中が真っ白になった。
――……何を!
「残念だ。お前がこの天界に留まるといえば、妻に迎えたのに」
冗談めかした言葉で、忘我状態から引き戻される。
「……!……!!」
驚きで声が出ない。
信じられない、信じられない! シルヴァイならともかくオーリーンがこんなことを。
私は口をぱくぱく動かして、身を震わせた。了解もなしに、ひどすぎる!
「許せと言ったろう」
「……ゆ、許せ!?」
ようやく声を絞り出せたと思った瞬間、私の身体は突然宙に浮いた。
ううん、違う。オーリーンに片手でひょいと抱え上げられたんだ。
――人を荷物のように!
「エル、この娘を連れていけ」
エルと呼ばれた銅色の獣は心得たように身を寄せてきた。オーリーンは、憤慨して暴れ出そうとする私を軽々と肩に担いだあと、バッグと剣を手際よくエルの背中に固定させた。それから、私までもエルの背中に降ろす。
「オーリーン!」
抗議の叫び声を上げた時、オーリーンがはっと空中を睨んだ。
「行け!」
――檻が!
シルヴァイを捕えたのと同じ、銀色の檻が出現する。神を呪縛する断罪の檻。だけどオーリーンは最後まで怯まなかった。素早く腰の剣を引き抜き、ざっと大地を斬りつけた。
まるでレーザーを浴びたように、簡単に大地が二つに割れる。
銀の檻は一瞬、オーリーンが振るう剣の凄まじさに、躊躇したみたいに動きを停止させたが、すぐに膨張した。
「忘れるな。我らがお前の守り手であることを」
「オーリーン! 嫌!」
私を背に乗せたエルが一度しなやかな動作でオーリーンの側を駆け回り、低く咆哮したあと、割れた大地の底へ飛び込んだ。
「オーリーン!」
――ああ、また!
森の中で大地が裂けたように、天界の大地までもが。
私はエルと共に暗闇に飲まれる瞬間、オーリーンを見上げた。
オーリーンはこっちに強い視線を向けて、王者のように凛々しい微笑を浮かべていた。
その逞しい姿が銀の檻に縛られ、霧散した時、私の意識もつかの間掻き消えた。
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