F014
生ぬるい闇。
まるで水中を漂っているかのように、身体に大気が絡み付く。
私はふと息苦しさを覚え、顔を上げてゆっくりと瞼を開いた。
くう、とすぐ側から甘える獣の声が聞こえた。
銅色の毛並みを持つエルの上で、私はつかの間意識を失っていたらしい。
最初は闇しか目に映らなかったけれど、次第に周囲の全貌が明らかになる。
視界に映った景色――それは、霧がかかった不穏な薄闇に彩られた、命の気配に乏しい廃墟の世界だった。
「……ここ、どこ?」
緊張感のない間抜けな自分の声が、余韻を残す間もなく淀んだ薄闇に飲み込まれる。
「エル……ここ、どこか分かる?」
人語を話せない獣に思わず訊ねてしまうくらい、目に映る世界の異様さに動揺していた。
エルは少し振り向き、獅子に似た鼻をひくりと動かしたあと、背に騎乗している私をなんだか持て余すといった感じの困った空気を漂わせた。
「もしかして、ここがエヴリール?」
私は独り言を次々と闇に放った。そうしていないと、不安でたまらなかったんだ。
会話ができるわけじゃないけど、エルが一緒にいてくれてよかったと思う。もし、こんな不吉な場所に一人で取り残されていたら、恐怖で発狂しかねない。
エルも周囲に充満する殺伐とした気配を敏感に察したのか、警戒するように時々小さな唸り声を漏らしてそわそわと身じろぎした。一刻も早くここを立ち去りたいというように何度も私を振り返り、少し固い手触りの鬣を揺らす。
主のオーリーンと離れたせいで、エルも凄く不安がっているんだ、きっと。
おまけに、お供の私は全く頼りにならないどころか、むしろ足手まといでしかないだろう。
でも、エルは利口で忠実な獣らしく、私の指示が与えられるまで、勝手に動こうとはしなかった。
とはいえ、エルがしきりに移動しようと懇願しているのは事実。ここは獣の直感を信用した方がいい。そう判断して、行こう、とエルの背を軽く叩き、合図する。
エルは明らかにほっとした様子で歩を進めた。
どこへ向かうか、その判断は、危険な空気を読み取れるらしいエルにまかせて、私は周囲の様子を観察することに専念した。
多分、銀の檻に囚われる前にオーリーンは腰の剣で大地を割いて、エヴリールの世界へ私を降ろしてくれたんだろう。
あの奇怪な檻が出現したということは、シルヴァイと同様にオーリーンまでもが神様達の間で交わされた誓約を破棄したということに他ならない。一体どんな恐ろしい罰が待ち受けているのか、何度せがんでもオーリーンは決して口を割ろうとしなかった。それはつまり、私には聞かせられないような残酷な処罰が待ち受けているという証拠だった。
自分に与えられた責任の重さに、ぐっと奥歯を噛み締める。
二人の神様が自分の身を犠牲にして、剣も魔術も使えずどう考えてもあまり役には立たない私に一縷の望みを託したんだ。
藁にも縋らなければならないほど事態は深刻で逼迫しているに違いない。視界に映るこの荒れ果てた光景を眺めれば、いやでも分かる。
私とエルがいる場所は、どうも雑木林のようだった。濁った灰色の月らしきものが天空にぷかりと浮かんでいるけれど、悲しいほど弱い光しか注いでくれず、雑木林の全貌を明らかにするまでにはいたらない。夜空にぽつぽつと散りばめられた星屑も、まるで死の間際にいるかのように弱々しい輝きしか見せず、困難を極めるに違いないこの旅路を祝福する光とはならなかった。目を凝らして、ようやく近くの景色がおぼろげに認識できる、といった厳しい状態だ。
――静かすぎる。
生きとし生けるものが皆死に絶えてしまったかのように、空気が重く沈んでいる。空も木も大地も世界に蔓延る絶望と死の気配に畏怖を抱いて、沈黙しているようだ。
涼を運ぶ風もなく、ただエルが密やかに先を急ぐ足音が響くのみで、それ以外は傲然と無音が支配している。
――ああ、この世界は荒廃している。
私は心の中で溜息を落とした。救いがたいほど壊れた世界。きっとどこまでも滅びが広がり、荒涼とした大地が続いているのだろう。点在する木々のなんて頼りないことか。幹は痩せ細り、乾ききっている。枝に力なくぶら下がる葉は、既にもう枯れているのに違いない。まるで世界の全土が、墓場と化したかのようだ。
寒々しいという言葉では、この枯渇した虚ろな世界を表現するのは不十分だった。
軽く揺さぶるだけで世界は脆い土塊のようにいとも容易く崩壊し、砂塵へ変わってしまいそうだった。
――本当に、私なんかに救えるんだろうか。
気分が急激に下を向く。とてもじゃないけど、私の手には余る大仕事に思える。
――これは無理かも、オーリーン。
情けないことだけれど、何かを始める前から私は泣き言を漏らしていた。どう考えてもこの崩壊した世界を正気に戻せるだけの力が私にあるとは思えなかった。
私の胸中に生まれた怯懦の念を感じ取ったのか、エルが振り返って勇気付けるように小さく唸る。
――駄目だ、弱気になっちゃ。
繰り返し深呼吸して、弱気になる自分を鼓舞した。ここで匙を投げたら、何のために二人の神様が自ら罪を被ったか分からなくなる。望みを託して力を与えてくれた二人を失望させるような真似はしたくない。
諦めるのは、何の打つ手もなくなった時でいい。
――でも、せめて、この世界について、詳しい情報がほしかったな。
つい本音が出てしまう。はっきりいって、この世界に関する知識など皆無だった。オーリーンはとにかくこの剣で幽鬼を斬れって言ってたけど……斬る斬らないを論議する前に肝心の剣の扱い方が分からない。まさか魚をさばくのとはわけが違うだろうし。
大体、幽鬼って、一目見てすぐに分かるものなのかな。
もう不安と謎だらけで、何をしていいのかさっぱり判断できない。今いる場所が、エヴリールのどの辺りなのかも分からなければ、これからどこへ向かっていいのかも全く見当がつかないんだ。
再び挫けそうになって頭を抱えた時、ふとエルが警戒を強めて体勢を低くした。普段オーリーンのお供をしているためだろうか、背中に人を乗せるのが上手で殆ど揺れない。
そのエルが、急に疾走する構えを取る。私は慌ててエルの鬣を掴んだ。
「エル?」
唸り声一つ漏らさず、いつでも動き出せるように身構えるエル。どうしよう、剣を取って危険に備えるべきなんだろうか。
私は緊張しながら後ろに括りつけられている長い剣へ視線を走らせた。
「誰か、いるの?」
そんなはずはない。この地に存在するのは幽鬼だけのはず。
――違うんだろうか。
私ははっと背を伸ばした。
何か、いる!
痩せた木の背後で、何か得体の知れない影が蠢いている。
「エル」
小さく呼びかけると、エルは心得たように勢いよく疾駆した。
私は地面に投げ出されないよう、必死の思いでエルの鬣にしがみついた。身を起こしていると空気の抵抗をまともに浴びてしまうことに気づき、エルの背に押し付けるようにしてうつ伏せの体勢を取る。
だけど、顔は上げて、周囲の状況を把握しようとした。
――幽鬼じゃない!
幽鬼がどんな姿をしているのか分からないけれど、木々の合間に潜む色濃い影は漲るほどの闘争心をこちらに向けていた。きっと幽鬼とは違う。だって。
緊張感の高まりと共に心臓がどくどくと激しく音を立てる。金色の丸い光。蛍のように瞬くもの。星の輝きよりも強烈で残忍な意思を秘めている。
――襲われる。
はっきりと危機を悟った瞬間、木陰に隠れて息を潜めていた獣達が一斉に身を躍らせ、牙を向いた。
エルが更に速く駆ける。こちらの方へ接近して濃厚な殺意を窺わせる獣の影を通り過ぎた時、その邪悪な姿をしっかりと目に焼き付けてしまった。見たこともない四肢を持つ生き物だ。長い首の先に醜悪なケダモノの顔を持つ四足の魔物。ウサギのように垂れた耳の側まで裂かれている巨大な口。
まるで、嘲笑っているように。
どこか金属音めいた耳障りな威嚇の鳴き声を上げて、魔物がエルの後を追ってくる。
私という余計な荷物を乗せている分、エルの方が圧倒的に不利のように思われた。魔物達は一様に飢えているようだ。その飢餓が満たされるかもしれないという歓喜に狂い、ますます大地を蹴る速さが増すだろう。そうだ、追われる者より追う者の方が、有利だというのは当然だ。この地へ降りたばかりの私とエルに道案内は存在しないのだから。
「エル、逃げて!」
掌や額、背中に嫌な汗が伝った。魔物達の荒い息遣いが聞こえ、なす術もなく背を見せて逃走する私達を追いつめる。逃げ切れなければ一巻の終わり。ゲームと違ってやり直しはきかない。
エルはさすがにオーリーンの獣騎なだけあって、こんな緊迫した恐るべき状況であっても自分の役割を正確に理解しているようだった。頭の高い位置で一つに縛った私の髪の毛が後ろへ水平になびくほど速度が出ているというのに、馬と違って振動は殆ど感じない。文字通り、大地を滑るように疾駆している。しかも、この薄闇の中でも十分夜目が利くらしく、軽やかに木々の間を駆け抜け、時折、背後につく魔物達を撹乱するように左右へ飛び、方向を変えているんだ。魔物達も多少夜目は利くようだけれど、エルみたいに知能がそれほど高くはないらしく、不規則的な方向転換に、見事に翻弄されている。お陰で、次第にエルと魔物達の間には距離が開きつつあった。私は何度も振り返り、後ろを駆ける魔物達の気配を窺った。
「エル、偉い!」
私は思わずエルに呼びかけた。勿論、逃げるのに集中しているエルから返事はなかったけれど。
エルは、もう追いつけはしないだろうと感じるほど魔物達を遠くに置き去りにしても、疾駆する速度を緩めなかった。
私が魔物達とは異なる別の気配を感じたのは、ようやく安全地帯まで辿り着き、雑木林が途切れてひらけた場所へ出た時だった。なぜその気配を感知できたのか、自分でも不思議だった。もしかすると、オーリーン達に与えられた祝福のせいかもしれないと思う。
「待って」
私の制止の声に、エルは明らかに戸惑ったようだった。ふるりと鬣を揺らしつつ走り続けるところを見ると、もっと遠くに離れるべきだ、とエルは考えているに違いなかった。
だけど……ほら、今、魔物の断末魔みたいのが、確かに聞こえたんだ。
「エル、今の音、聞こえた?」
エルは喉を震わせて唸った。なぜ止まる! そんな切迫した鳴き方だった。
「――音がした方に行って」
無茶な命令に、エルはかなり渋った。でも、頑として引き下がらない私を見て、諦めたようにくるりと身を翻す。なんだか自棄になっているのか、それとも私に対して怒りを感じているのか……ううん、失望しているのかもしれない。さっきまでとは明らかに違う、どこか乱暴な走り方だった。きっとオーリーンに頼まれたからという理由だけで私に信頼を寄せていたんだと思うけれど、それが裏切られた気持ちなんだろう。折角危険な魔物の群れから無事に逃げおおせたのに、わざわざ戻るなんて自殺行為としか取れないだろうし、ここまで走り続けたエルの苦労も水の泡となる。
――でもね、エル。
もし、私の勘が正しければ。
そう、魔物の不自然な断末魔を、以前、耳にしたことがあるんだ。
だから、私は、賭けてみる。
その勘が外れていた時には――
責任をもって、私が囮になるから、エルは逃げて。
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