F015

 ――血の匂いがする。
 
 錆びた鉄のような、濃厚な血の匂いに、私を乗せて駆けるエルも当然、気づいていた。
 夜の大気を穢すよこしまな匂いの中を、エルは一直線に突き抜ける。
 
 ――威嚇の声?
 
 木々を震え上がらせるような凄まじい獣の咆哮が前方から響いた。紛うことなき争いの気配。私の指示に従うエルは足こそ止めないものの、微かに恨めしそうな唸り声を漏らす。きっと、危険な場所にわざわざ舞い戻るような真似をして、と嫌味を言いたいんだろう。
 
 ――あ!
 
 エルに向かわせた先は、さっき私達がいた辺りより大きく右にそれた場所だ。こちらの方が、辛うじて大地に根を生やす木々の数が多いようだった。エルは器用に木々の間をすり抜け、音のした方へと疾駆する。
 淡い闇の中に、巨岩のようにそびえる黒い獣の姿を確認できたのは、まもなくのことだった。その獣は空気をびりびりと痺れさせるような激しい唸り声を上げて、別の何かと争っているようだった。
 エルが走る速度を落とし、咆哮を絶やさぬ巨大な獣に気づかれないよう静かに忍び寄る。私は目を凝らして、凶暴な獣を牽制するもう一つの影の動きを窺った。
 
 ――人だ。
 
 そう、以前に一度、森の中で見かけたことのある男の人が、荒々しく吼える巨大な獣と戦っていたんだ。
 か細い光を投げかける濁った月の下で、弧を描き閃く大きな剣。鋭い切っ先は、今、それを振るう人の体力を示すように危うげだった。このままだといずれ襲いくる獣に押され、地面に叩きつけられてしまうだろう。
 その人に襲い掛かる巨大な獣は、やはり私の世界では存在しない異様な四肢を持っていた。熊に似ているけれど、太い手足は蜘蛛のように長い。力を溜めるようにしてぐっと地に身を伏せ、一気に跳ね上がって攻撃を仕掛ける姿は本当に不気味だった。動作自体はあまり機敏な方ではないらしいけれど、男の人を倒そうとして振り下ろされる腕は、大気を唸らせ、ほんの一撃で木々を叩き割るほどの威力がある。
 剣を振るって獣の執拗な攻撃をかわすその人――フォーチュンから試練を与えられた時に出会った男の人が、ついに獣の力を押し戻せなくなり、苦しげな様子でよろめいたあと、地面にがくりと片膝をついた。
 獣も手負いのようだったが、男の人もひどく疲れているみたいだった。
 彼らの周囲には、獣の屍が数え切れないほど転がっている。これだけの数の獣を、男の人はたった一人で相手にし、倒したんだ。
「エル、あの人を助けよう」
 エルは獲物へ飛び掛る時のように、私を背に乗せたまま低く身構えた。
 獰猛な獣が体勢を立て直し、荒い息を響かせながら長い腕を大きく振り上げる。男の人の身体は一見安直なその攻撃に対して、抵抗の体勢をろくに取ることが出来ないでいる。男の人がどれほど強くても、死に物狂いで襲いかかる獣の攻撃をまともに受ければ、もう二度と立ち上がれなくなるだろう。
「エル!」
 エルは、私が叫ぶと同時に跳躍した。
 獣と男の人の間に、勢いよく降り立ったのだ。
 突然の闖入者に獣も男の人も驚いて、示し合わせたかのようにぴたりと動作をとめた。
 男の人の、月光を封じたような金の瞳が驚愕で見開かれている。
「乗って!」
 はっと男の人が立ち上がり、条件反射のように行動を起こした。
 私の後ろに男の人が飛び乗った瞬間、状況を把握したらしい獣も焦った様子で迫ってきた。
 エルはひらりと身をかわし、強靭な長い腕を振り回す獣の背後に回った。私の後ろに乗った男の人が急な動きに対応しきれず、少し体勢を崩し、エルの背から落ちそうになる。
「掴まって!」
 エルは焦れた獣が振り向く前に方向転換し、勢いをつけて走り出した。だが、突然足を止めて、油断なく身構える。
 
 ――さっきの魔物達が追いついたんだ!
 
 前方の木々の合間から出現したのは、金色の目を持つ魔物の群れ。後方には、手負いの巨大な獣。
 エルは躊躇いなく振り返って、なぜか巨大な獣が待ち構える方へと駆けた。ようやく追いついた魔物達は、魅入られたようにエルの方へ――つまり巨大な獣が待ち受ける方ということになる――接近してくる。
 
 ――魔物同士で争わせるつもりなんだ。
 
 狂った金色の双眸を持つ魔物達は、どう見てもすばしこいエルを追うよりは、熊に似た手負いの獣を狙う方が得策だと考えたらしかった。また巨岩のような体躯の獣の意識も、なかなか仕留められない私達より、殺意を漲らせた残忍な魔物の方へ注がれているみたいだった。エルの作戦通りだ。
 エルは私と男の人を背に乗せても、全く速度を落とさず疾走して魔物達から遠ざかった。
 醜い争いの咆哮が背後で響いている。
 エルは静かに駆けた。
 魔物の叫びが完全に届かなくなり、雑木林が私の目に映らなくなるまで。
 
●●●●●
 
 エルがようやく足をとめたのは、雑木林を遠く離れた窪地の奥、枝が折れた太い老木の側だった。
 いい具合に枝が折れているので、根元の側に座れば、襲撃者達の目から身を隠すことができそうだ。
 そこを休憩場所にしようと思い、私はエルの背から飛び降りた。
「エル、ありがとう。お疲れ様」
 私はエルの顔を労わるように撫でた。
 まだ怒っているかな、と不安だったけれど、エルは丸い目を細めて喉を鳴らし、獅子のような鼻先を私の肩に摺り寄せてきた。男の人を助けるために戻ったんだってことがエルに分かったらしい。うん、少し信頼を取り戻せたみたい。
「あなたも、降りて」
 私はエルの耳を撫でつつ、戸惑った顔をしている男の人に言った。
 見開かれた月色の瞳は私を直視したままだったけれど、素直にエルの背から降りてくれた。
「座ろうよ」
 私はエルの背にくくられていた荷物を降ろしたあと、老木の根元に座って、立ち尽くす男の人を手招きした。エルは、当然といった様子で、私の隣に寝そべった。ボディガードをしてくれているみたい。
「こっち」
 とんとんと手で乾いた地面を叩くと、男の人はどこか呆然とした様子で近づき、剣を抱えたまま腰を降ろした。
 ううん、やっぱりこの人も大きい。オーリーンはもう別格として、私が会った人の中で一番立派な体つきをしている。だけど、初めて遭遇した時よりも傷だらけだ。
「手当てをしようね」
 言葉が通じないと思い込んでいたので、私は勝手に話しかけていた。
 男の人は明らかに放心した表情で私を見つめている。居心地が悪くなるほど強い眼差しだ。
「――君は、誰だ?」
「え?」
 一瞬、エルが喋ったのかと思った。
 そんなはずない。
 私はバッグを引き寄せる手を止めて、男の人と見詰め合った。
 
 ――何で、言葉が分かるの?
 
 前は分からなかったのに!
「言葉が、分かるのか?」
 男の人も不思議そうに瞬いている。
 何で急に意思の疎通が可能になったんだろう。混乱しかけた時、ふとオーリーンに口付けされた記憶が蘇る。もしかして、それのお陰でこちらの世界の言葉が分かるようになったのかな。
 青ざめたり赤くなったりしておたつく私を、男の人はぽかんとした表情で見ていた。
「あ、あの、私の言葉、分かる?」
 男の人は信じられない顔のまま、ゆっくりと頷く。
「君は、誰だ?」
 もう一度、低く穏やかな声で同じ質問をされた。あ、心地のいい声だな、なんて奇妙なことを考えてしまう。
 男の人の精悍な顔が、私の返答を静かに待っていた。日本人離れした彫りの深い端正な顔立ちに今更ながら動揺してしまう。
「ええと、前に一度、会ったよね?」
 覚えているかな?
「ああ――ワーズの森で」
 ワーズ? 耳慣れない言葉だったけれど、今は無視しよう。
 私は気分を落ち着かせて、男の人の目を見返した。
「あなたが……この国の、最後の人、なんだね?」
 
 
 そう言った時、男の人は何かに打たれたかのように、はっと背筋を伸ばした。
 壮絶な孤独が覗く瞳。その奥に燃え上がる渇望の光。自分自身を焼き焦がすような飢餓に苛まれた狂おしい輝きだ。どんな苦難の中を一人で耐え抜いてきたのか、その瞳が物語る。
 私は何も言えなくなった。こんなに熱情を秘めた凄まじい眼差しを見るのは初めてだった。
「……君は」
 男の人は掠れた声で呟いた。私の存在を幻影ではないのかと疑い、だけど信じたいという思いに悩まされているような、色濃い苦悶を滲ませた表情だった。
 それはそうだろう。
 希望は潰えたと感じているところに、自分以外の者が現れたんだから。
 苦しげに眉をひそめる男の人に、私は這うようにしてそっと近づく。
「大丈夫」
 男の人は警戒するかのように身を強張らせた。安心してほしくて、剣を強く握り締めている大きな手にゆっくりと触れる。
「私、生きているよ。ここにいる」
 なんて言えば信用してもらえるのか、自分の存在を分かってくれるのか、迷う。でも、この人はずっと魔物と戦い、そしてきっと辛い思いをたくさん抱えて幽鬼達を眺めてきたんだろうと思う。
 その役目を、今度は私が受け取るんだ。
 私は早鐘を打ち始める胸を押さえて、笑みを作った。少し強張ってしまったかもしれないけれど。
「私は幻じゃない。あなたと同じ、人間」
 男の人の瞳が、かちりと変わったように見えた。枯渇していた泉が再び潤い、溢れ出すように――激しい感情が噴き上がる。男の人は顔を歪め、小さく呻いた。一度かすかに身を震わせて、そんな自分を恥じるように顔を背ける。
「大丈夫、ずっと……一人で辛かったんだよね」
 なんだか私も泣きそうになってしまって困った。痛いほどの悲しみがこの人から伝わってくるんだ。
 触れるだけで、孤独に落ちてしまいそうなほどの苦悩。私はぎゅっと男の人の手を握る。傷つき、血に濡れたあたたかい大きな手だった。
 男の人がゆるゆると顔を上げる。不意に透明な雫が月色の瞳を隠した。涙がいくつもいくつも褐色の頬を伝う。もう一度、男の人は唇を噛み締めて呻いた。私は慌てて身を起こし、その濡れた頬に手を伸ばす。
「泣かないで」
 人が悲しみに耐え切れず泣く姿を見るのはとても辛い。でも、この人の方がもっと辛いんだ。
 男の人が、きつく握り締めていた剣を手放し、縋るような仕草で私を抱きしめた。息ができなくなるくらいの強い力だった。
「あ、あの!」
 突然の温もりに、私は仰天してしまう。熱があるんじゃないかっていうくらい、体温が高い。硬い胸板に身を引き寄せられて、こんな状況なのに、妙に意識してしまった。
 まるで溺れかけている人にしがみつかれている感じだ。男の人は静かに慟哭していた。私の頭に頬をすり寄せ、何度も感触を確かめるように髪や背を撫でる。うう、気持ちはすっごく分かるんだけど。
 泣いている人を振り払うことなんてできないから、私はひどく狼狽しつつもじっとしていた。自分の鼓動が激しくなっているのか、この人の身体が震えているのか、もうよく分からない。あんまり狂おしくて、意識が乱れふっ飛びそうになる。
 くらくらと目眩がし始めた私を救ったのはエルだった。
 すごく不機嫌そうに喉を鳴らすエルの存在に男の人が気づいて、はっと顔を上げる。
「あ、あのう」
 私は目を瞑ったまま小声で言った。とても顔を見れる心境じゃない。
「あ、ああ……すまない」
 男の人は我に返ったらしく、慌てた態度で私を解放した。ふわりと温もりが離れて、少し寂しい気がした。
「え? エル!?」
 突然、後ろに引っ張られたため、何だろうと思って振り向いた。見ると、エルが私の衣服の裾を噛んで、必死に引きずり寄せようとしている。
「どうしたの!?」
 エルは、男の人と十分な距離を保った場所までずるずると私を引っ張ると、ようやく裾から口を離した。
「エル……」
 忠実な用心棒はどうも男の人が気に食わないみたい。明らかに威嚇する感じで鼻を鳴らしたあと、甘えるように私の膝に鼻をすり寄せてくる。ううん、可愛いんだけど、これって一体……。
「そ、そうだ。傷の手当てをしよう」
 私は複雑な心境と困惑を誤魔化すため、そんなことを言った。
 魔物達を振り切った功労者のエルにも、水をあげたい。
 男の人は指先で涙を無造作に振り払うと、微苦笑を覗かせた。エルは男の人からじっと目を離さない。
「エル、駄目だよ、脅かしちゃ」
 注意すると、エルは不満そうにぷいと横を向く。ううん……。
 私は少しエルを見つめたあと、諦めてバッグの中を確かめた。オーリーンが適当に中身を補充しておいたって言ってたけれど、何が入っているんだろう。
「あ、よかった」
 ペットボトルに水が補充されている。私は蓋を開けて、自分の手をエルの前に差し出し、そこに水をゆっくりと注いだ。エルは私の意図を理解したみたいで、手に注いだ水をそろそろと舐め取る。でもほんの数口舐めただけで、もういいよ、っていう仕草を見せた。水分を取らなくて、大丈夫なのかな? 不安になるけれど、エルはそれ以上口をつけようとしない。もしかして遠慮をしているのかなあ?
 しばらく迷った末、エルに飲ませるのは諦めて、男の人にペットボトルを差し出す。困ったように首を傾げるその人に笑いかけて、飲むよう促した。男の人は丁寧に礼を言って、受け取った。その間に私は荷物の中を確認する。オーリーンは私のバッグの他に、もう一つ荷物をこしらえてくれたので、そちらを先に見ようと思った。ええと、着替え? らしき服がある。なぜか、私には大きい服も入っていて、用意のよさに呆れてしまう。オーリーン、この状況、予想していたのかな。
 あとはパンを包んだような袋とか、小さな包みとか、皮製の水筒とかなんかよく分からないものが色々と入っている。正直、用途が理解できないものが多い。男の人に聞けば分かるかな。
 この葉っぱみたいな布で包まれているものは、ひょっとして薬かな、と首を捻る。かすかに漢方薬みたいな匂いがするんだよね。
「ええと、これ使って」
 試しに、その包みと着替えと、タオルらしき(?)布を男の人に差し出した。
「……構わないのか?」
 男の人は包みや着替えの服に視線を落としたあと、困ったように言った。
「うん」
 私じゃ使い方がよく分からないんだよね。
 男の人は躊躇いつつ、小さな包みを開けた。直後、驚いたように私を見る。
「これは、フロンの粉だろう?」
 うーん、意味不明。
「ええと」
「滅多に手に入らない薬草だ」
 あ、やっぱり薬なんだ。
「まあ、使って」
 軽く答えると、心底呆れたような感心するような、微妙な表情を向けられる。だって分からないんだもの!
「君は……いや、あなたは一体、誰なのですか?」
 
 
 男の人は急に表情を改め、口調を正してそう言った。

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