F016
男の人の問いに答える前に、私はとりあえず傷の手当てを優先させた。
フロンの粉と呼ばれる粉末状の薬草は、水をたっぷりと含ませて使うらしい。薬を調合するのに適した容器なんて持っていないから、目に付いた丈夫そうな落ち葉を利用することにした。一掴みの濃緑色の粉末を葉に乗せ、水を加えてしばらく混ぜると、まるで片栗粉を溶かしたようにとろみが増し、量も多くなる。水を吸収したせいなのか、鼻がつんとするほど匂いがきつくなり、思わず顔をしかめてしまった。
どうやらこれは塗り薬らしい。
布で血糊を丁寧に拭いたあと、傷口にたっぷりと塗ると出血がとまるのだという。とても効能が高い貴重な薬らしくて、かなり深い傷であっても数日で治癒できてしまうと男の人が教えてくれた。
目が届かない背中とかに自分で薬を塗布するのは大変だろうから、手伝おうとすると、丁寧に断られてしまった。ううん、なんか若い女性にそんな真似はさせられないって感じの雰囲気なんだ。そりゃ私にだって一応、異性に対する羞恥心くらいあるけれど、重傷といってもいいような怪我を負っている時にそんな些細なことを気にする方が不自然だと思うよ。
遠慮する男の人を制して殆ど無理矢理手伝い、包帯代わりの布を傷口に巻きつけたけれど、私は傍目にも分かるほど青ざめていたかもしれない。すごく下手な刺繍が施されたハンカチみたいに、男の人のがっしりとした大きな身体の至る所、深い傷跡があったんだ。古い傷、新しい傷。この人は文字通り身も心も消しようがないほど傷ついているんだ。そんなことを考えて自然と気分が重くなった。
腰から下の傷についてはさすがに自分で手当てをしてもらった。
怪我の処置を終えたついでに着替えもすませてもらう。だって、男の人が着ていた服はちょっとどうかと思うくらいぼろぼろだったし、何より血塗れで嫌な匂いを発していたんだ。
男の人は着替えをすませると、すっきりしたような、幾分落ち着いた表情を浮かべた。口にはしなかったけど本音では彼も血だらけの服を着てて気持ち悪かったんだと思う。
肝心なことを終わらせたその後、私達は小さく焚き火を起こした。私、かなり空腹を感じていたんだよね。最後に食事をしたの、いつだったかな。時間の経過がよく分からない。
オーリーンが用意してくれたパンみたいな薄くて固い食べ物を火であぶると、お餅のようにふっくらと膨れ上がって、ボリュームが妙に増した。それだけだと寂しいので、干し葡萄みたいなものを副食にする。
……実は私、干し葡萄と干し柿は苦手。だから一粒だけつまみ、あとはパンだけ食べることにして、残った分はエルにあげた。エルはこの食べ物が好きみたいだった。
質素な食事を終えたあと、焚き火を囲みしばしの平穏を味わうことにした。
少し距離を置いた場所に座っている男の人が、聞きたい事が山ほどある、という真剣な顔をこちらに向けていた。私にしてもこの世界について、色々知らなければならない事柄が無数にある。
でも、なんだか最初に会った時より、気後れしてしまう感じが強くなっていた。
その理由は、男の人の態度が妙に改まったためだ。
「あのね、さっきみたいな普通の態度でいいんだよ?」
むしろ、私こそ丁寧な言葉遣いをするべきなんだと思うけど……。どう見ても、この人の方が年上だし。三十歳くらいなのかな? なんか老成した雰囲気があるんだけど、笑みを浮かべると若々しいんだ。
「あなたの名前をうかがってもよろしいか?」
男の人は慇懃な態度を崩さず、探るような目をして静かにそう言った。
「響。三島、響」
男の人は奇妙な顔をして沈黙する。この世界ではきっとおかしな名前に聞こえるんだと思う。
「あなたの名前は?」
「リュイ=マーヴェルと申します」
なんか警戒されたのかなあ、と思って少し落ち込んでしまう。
「失礼だが、随分珍しい名に聞こえますが……あなたの出身はどの辺りなのでしょう」
「教えない」
わざと視線を外してそう答えると、男の人――リュイは絶句した。
「その口調と態度、普通にしてくれなきゃもう喋らない」
丁寧語って苦手! 馬鹿にされているみたいだもの。時と場合によっては必要なんだろうけど、できることなら気軽な口調で喋りたい。だって尊敬語とか謙譲語とかいまいち区別がつかないし、おまけに舌を噛みそうになるし、普段から話しなれていないので会話の中身より言葉遣いの方に気を取られ、言いたいことをうまく伝えられなくなりそう。
「だが」
リュイは逡巡するように視線を揺らし、自分の片足を抱えた。
「あなたは……身分ある姫君なのでしょう?」
――姫君!?
予想外のとんでもない言葉に、卒倒しかける。どこをどう見たら私がお姫様になるんだろう。
もしかしてこの人すごく目が悪いんじゃ、と思いかけて、はたと気づく。
――この格好のせい?
私は自分の身体を急いで見下ろした。オーリーンの所で着替えさせてもらった服は、確かに目を見張るほど華麗なものだった。なんで今まで気にしなかったかというと、答えは簡単。私よりもオーリーンとシルヴァイが着込んでいた衣装の方が断然派手だったから。宝石とか、歩く度に音がするくらいじゃらじゃらつけてたし。二人と比べると、私の今の格好なんか地味にしか思えなかったんだよね。
だけど、改めて自分の姿を眺めると、この世界ではかなり豪奢に映るのかもしれない。
耳には砂色の精緻な飾りを下げていたし、小さな宝石を連ねたペンダントみたいなのもしている。
それに、複雑な模様の入った腕輪もしていた。透かし彫りみたいな感じになっていて、これも所々に宝石がちりばめられている。すごく高価そうだ、というのは素人目にも読み取れて、今更ながら焦ってしまう。
売るとどの位の価値がつくんだろう、なんて思わず不埒なことを考えてしまう庶民な自分が情けない。
肝心の衣服の方はさらりとした上等の生地が使われていて、ごく淡い暗めの深紅色でまとめられている。袖下と裾の長い上着のようなものの下に、袖のない前合わせの白い服を着ている。ボタンやチャックとかはなくて、どれも日本の着物のように腰帯でたるみを押さえているんだ。少し違うのは、割合ぴったりめなズボンと長いブーツみたいな靴を履いているところだった。確かフォーチュンもこれと似たような服を着ていたはずだ。こちらの世界では、社会人が着るスーツみたいに、ごく一般的な格好なのかもしれない。すごく着心地がよくて軽いためか、長い袖下が気にならない。
リュイに渡した男物の服も、私のとそう大差はなかった。袖下の長い部分がないけれどね。
「私がお姫様のように見える? それ、恐ろしい勘違いだよ」
もしかして、この世界って……本当にドレスを着た金髪のお姫様とかいそう。
どうもその予感は的中しそうな感じだ。ということは、王様とか貴族とか騎士とかも存在するのかな。なんといっても、魔術師とかいるもんね……。うわあ、じゃあこの国、絶対的な身分制度なんかもあるわけ?
ちょっと頭痛くなりそう。
「しかし、そこらの町娘にはとても見えませんが……いや」
リュイが慌てふためいたのは、私が睨みつけたためだ。丁寧語をまだ続けるんだもの。
「あのね、私、身分なんてないよ」
「ない……?」
「お姫様でも町娘でもないってこと」
きっぱりとした否定の言葉に、リュイは少し混乱したようだった。
「どういうことですか」
私は口を噤み、黙秘する。しばらく見合った末、リュイは根負けしたように微かに吐息を落とした。
「どういうことか、説明してくれるだろうか」
うん、よろしい。かた苦しくすればいいってものじゃないからね。
私はそこで、さっきから考えて用意していた言葉を語った。全てをありのままに話すわけにはいかない。大体、出身は日本という次元を超えた異郷の地で、二人の神様に頼み事されてこっちの世界にやってきましたなんて言ったら、絶対頭がおかしい人間だと思われるだろう。嘘をつくのは少し罪悪感があるけれど、今は仕方がないので目を瞑る。
私の故郷はすごくすごく遠方にある閉鎖的な小国ってことにした。事情があって名前を出すわけにはいかないけれど(というより名前がどうしても思いつかなかったんだけど)、そこでさる高貴な方の命を受けて、異変をきたした世界の様子を偵察する運びになった。従者がいたけれど、運悪く途中ではぐれてしまい、一人で困っていた。
ああ、もうどうしようもないほど下手すぎる嘘だ!
リュイの目が明らかに猜疑の光を湛えている。こんな矛盾と穴だらけの話、信用しろって方が無謀だよね。
「それで、私の国は、あまり身分の上下を気にしないの。殆どないっていっても過言じゃない」
「身分がない?」
リュイは驚愕し、ますます不審の色を強めた。
「私のことばかり話している。あなたのことも聞かせてほしいな」
私の目的は世界の偵察、と付け加えてみる。
リュイは私の話を整理しきれず、というか矛盾がありすぎる内容に納得できないらしく、随分戸惑った様子だったけれど、視線で訴えたらぽつぽつと話してくれた。リュイはなんと騎士! なんだって。何気ない顔で聞き流したけれど、要するにこの世界は中世時代の外国みたい……うーん、中世よりももっとファンタジーかも。
リュイは私を警戒してか、あまり彼自身の情報については公開してくれなかった。悲しかったけど、これは嘘つきな自分がまいた種だ。
その代わり、世界の状態に関しての事情は色々聞かせてくれた。
法聖六千七百一年の冬……ちょうど三年前に、暗黒の宴が始まりを告げたのだ、と。
最初は、数年毎に必ず広がる流行病が今年は早めに発生し人々を襲ったのだろう、と楽観視していたらしい。流行病の蔓延についてはどの国も必ず想定した上で対策が立てられているから、際立って緊急度の高い害とは誰も考えていなかったようだ。しかし、風邪の症状によく似た倦怠感を訴えていたもののそれほど危惧する容態ではなかったはずの者達が、突然自我を失い暴れ出す。次第に、身体が変形していく。その奇病は瞬く間に、家族から隣人へ、町から町へと伝染した。国の有力者達が、早急に対処を必要とする重大な事態だと認識した時にはもう手遅れだったらしい。なす術もなく次々と人が幽鬼へ変貌し、町が淫らに滅びていく。〈威者の目〉と呼ばれるこの国……クィーヌ・ガレ新国を中心にして腐敗は浸透し、更に速度を増して終わりなく広がっていく。蔓延する汚穢の脅威に恐れをなして国外脱出を図る者も大勢いたが、逃亡を果たした先の国までもが阻止の手だてもないまま脆く朽ちていった。これが単なる奇病ではない証拠に、有数の魔術師や魔法使い達の稀なる能力をもってしても、腐敗と闇を払拭し平穏を取り戻すことは不可能だった。人の歴史に終止符を打つかのような突然の災いに、誰もが戸惑い、迅速に対処することができなかったのだ。神威すら感じるほどの、滅びを願う強大な魔力が、大地を凍てつかせる真白な雪のように降り注ぐ。急ごしらえの神への祈りと儀式は、なんの効果も発揮しなかった。人々の声は神に届かない。奇跡の欠片すら見えてこない。胸に抱いたのは絶望だろうか、失望だろうか。悲嘆も愛も憎しみも、全て平等に終焉の幕で覆われ、最早、風の息吹に命の輝きを予感することはない。彩り豊かな季節は失われ、天候は荒れ狂った。わずか三年。たったそれだけの歳月で、世界は狂気に染まった――。
世界はまさしく狂気に飲まれたのだ、とリュイは最後にそう呟いた。
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