F017

「あなたの国は、無事なのか?」
「え……? ううん、水害がひどいみたい」
 私は考えに沈んでいたので、返答するのが遅れた。確か、こっちの世界と私の世界は裏と表だから影響し合うって神様達が言っていた気がする。エヴリールが旱魃の被害に遭えば、逆に私の世界は水脈が乱れて水の災いが降り掛かるって。
「ねえリュイ」
「何か?」
「地図とか、持ってる? できれば世界地図を見たいんだけれど」
「世界地図?」
 そう訊ねると、とても驚かれた。変なこと聞いたのかなあ? まずは位置を探る為の地図がなきゃ、どこへどう進んでいいのか全く分からないもの。
「国の地図ならば勿論あるが、世界の地図などは聞いたことがない」
 その答えに私の方が驚いた。じゃあこっちの人達って自分達の世界がどんな形をしているのか、どこまで大陸が続いているのかとか、知らないのかな。そもそもこの世界って……地球のように球体を保つ惑星なのかな。何か違うような気がする。
「もしかして、他国とあまり交流がないの?」
「国交ならば勿論あるが、なぜ、世界の地図を必要と?」
「色々な国を回らなきゃ駄目なの」
 そう、私の目的は世界を正気に戻すこと、ひいては幽鬼と化した人々を人間に戻すこと。
「でも、とりあえずはこの国。うん、国の地図ならあるんだね? じゃあ、全ての街や村が詳しく掲載されてるものってある?」
 奇妙な質問をする娘だと思われているみたい。
「さて……その詳しいというのは、どの程度だろう」
 うん、リュイってば頭の回転が速い。私が単純に街の名前のみを記載したものを求めているわけじゃないって気づいたみたい。
「そうだね、勿論正確であることは絶対条件。ちゃんと方位が示されていて、縮小された距離の表示もあって、ルート……大きな道なんかも掲載されているものがいい。あとは、その町々がどの位の規模があるかが分かると嬉しい。住宅地図があれば、なおいいんだけれどね」
 この程度の地図、日本なら当然のごとくコンビニで見かけるだろう。だけど、どうもリュイの話を聞いていると、日本で当たり前に入手できることがここではとても困難みたい。ううん、日本って先進国だったんだなあってしみじみ思う。正確な戸籍とかも期待できそうにないだろう。
「悪いが……そういう細かな情報を記した地図は見たことがない」
「でも一応、地図はあるんだよね。じゃあ、どこでその地図を手に入れられるか、分かる?」
 地図を手に入れてもあまり意味がなさそうだったけれど、とりあえずはどの程度詳細に描かれているのか、確認したかった。
「それは、町へ行けば入手できるだろうな」
「ここから一番近い町は?」
「ここから、そうだな。恐らく百オード西南へ向かった所に村があるはず」
 オード、という単位が分からなくて、困ってしまう。
「ええと、歩いてだとどの位かかる?」
「――丸二日は必要だな。いや……女性の足ならば、三日は要するだろう」
 頭の中で距離を計算する。徒歩で二日。エルに乗せてもらえば多分一日で行けるだろう。
「姫君……いや、ヒビキ殿」
 私が睨むと、リュイは言いにくそうに名前を発音した。ヒビキ殿っていうのもなんだかなあ。
「呼び捨てていいんだよ」
 リュイは曖昧に頷いたあと、表情を引き締めた。
「村へ行かれるのか?」
「うん」
「お一人で?」
 また言葉遣いが堅苦しいものに戻ってる……と文句を言おうとしたけれど、妙に迫力のある眼差しを向けられたため、つい身を引き、口ごもってしまった。ああこの表情、三春叔父さんと共通してるものがあるよ。つまり……お説教する時の苦い顔なんだ。
「本気で行くおつもりか」
「おつもりですとも」
 雰囲気を変えたくて、明るい口調を意識しつつまぜっかえすと、リュイは刃物のような鋭い目でひたと私を見据えた。
「……こ、怖いんだけど」
「それは、恐ろしいでしょう。魔物だけではなく、レイムが待ち構えているのですから」
 レイムというのは、幽鬼達の名称らしかった。
 今、私が怖いって言っているのは、リュイのことなんだけどな。
「この国について知りたいのであれば、いくらでもお話しして差し上げよう」
「それも嬉しいんだけど、行かないと意味がないし」
「なぜです」
「百聞は一見にしかずというでしょう?」
「何ですって?」
 諺ってこの国にないのかな?
「あなたは……村へ行くことがどれほど危険かご存知ないようだ」
 ご存知ありませんとも。何せ平和な日本生まれだし、と私は視線をさまよわせつつ内心で零した。
「はいはい、分かりました。危険な場所へは行きません」
 そう言わないと、リュイの瞳は厳しいままの気がした。
「――あなたは」
 びっくりするほど暗い悲痛なリュイの声に、私は驚いた。
「何もお分かりではない」
 リュイは苦い笑いを浮かべた。絶望的な瞳が私の胸に突き刺さる。
「正直にお答えください。あなたは、村へ行かれるのか?」
 嘘をつくべきか迷う。そうすれば、この人をすごく傷つける。でも正直に言うと恐らく止められる。
「あなたは、この国の生き残りが私しか存在しないと知っている。その上で、自ら死地へ向かうと言われるのか」
 あっと頬を打たれた気分だった。そうだ、この人しか、クィーヌ・ガレ新国には残っていないんだ。
 
 ――私がいないくなれば、この人はまた一人?
 
 だけど、リュイを連れていいんだろうか。オーリーンの言葉が蘇る。普通の剣ではレイムを斬れない。仮に斬れたとしても、魂まで滅してしまうって。
「よろしいか、レイムは人を襲うのです。襲われれば、あなたまでもレイムと化す。そしてレイムは殆どの魔術、剣が通用しない」
 ああ、なんかリュイの性格、理解できてしまう。普段は寛容で優しいんだろうけど、実はすごく頑固なんだよね。まさに叔父さんの性格がそうなんだ。私は逆で、一応真面目な振りをしていても実は結構いい加減で流されやすく、考えもころころと変わる。
「リュイ」
 ぱちりと焚き火がはぜた。闇の中、赤く揺らめく炎が、地面に落ちた私の影を歪ませる。
 炎の輝きを反射させたリュイの顔を、思い切って直視した。鼻梁や目元の陰影がはっきりと出て、ちょっと見惚れてしまうほど凛々しい。私を見返す月色の目までが炎の色を飲み込み、深い赤に染まって見えた。やっぱり綺麗な目だなと思う。
「人には色々事情があるんだよ。私はどうしても、それぞれの町や国を回らなくてはいけないの」
「なぜ」
「事情があるから」
 語彙に乏しい自分に苛立ってしまう。処世術なんてこの年で身につけられるわけがない。
 リュイはふと皮肉な微笑を浮かべた。
「私は信用できない相手だろうか?」
「……そういうことじゃなくて」
「あなたは先ほどから、何一つ真実を語ってはくださらない。だが、あなたの言葉に悪意はない。私が事情を訊ねるのは、許されないことだろうか」
 私は本当に困ってしまった。
 しばらく気まずい沈黙が続く。
 エルがふわりと欠伸をしたのをきっかけに、リュイが深い溜息をついた。
「あなたを困らせてしまったようだ。私の問いは、忘れてください」
 ああ、絶対傷つけた。じわじわと罪悪感が募ってしまう。
 
 ――どうしよう。
 
「ねえリュイ。この国に、安全な場所はある?」
 リュイは訝しげな顔をした。
「つまり、あなたが身を寄せられる場所が、どこかにあるのかな?」
 この国の、最後の生き残りである彼を、危険に巻き込んじゃいけないんだ。
 私は一度、試練の場となった森で、この人を見捨てようとしたことがある。
 もうそんな卑怯な真似はしたくない。
 オーリーンは、私に感謝をしていたけれど、本当はそんなことされる資格はないんだ。
 答えを待ったけど、リュイは唇の端を歪めて笑うだけで何も言わなかった。言外に安全な場所は存在しないと答えてくれたんだ。
「あなたは死んでは駄目。だから、なるべく安全な所に行ってね」
「なぜ?」
「なぜって……」
「私一人が生きて、どうしろと?」
「リュイ、そんなふうにいうのはよくない」
「あなたは、どうなのだ? 私に死ぬなと言うあなたは? 自ら危機の中へ飛び込もうとしているのではないのですか」
「それは、そうしなきゃいけない事情があるの」
 ああもう、堂々巡りだ。
「私は死なないから、リュイもちゃんと生きなきゃ駄目だよ」
 リュイは目を伏せた。私は少し迷ったあと、彼の隣に座って、悲しみを滲ませる横顔を見上げた。
「大丈夫だからね」
 そっと腕を伸ばして、リュイの手を握る。
 リュイはぴくりと身じろぎし、自分の手に重ねられた私の指を握る。
「あなたは――」
 ひどく倦んでいるような、喪失の痛みを秘めた月色の瞳が、私へ向けられた。
 
「――神なのか?」
 
 
 告げられた言葉に、私は息をとめた。

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