F019

「頼むから、置いていくな」
 悲痛な叫びに似た懇願と共に、リュイが呆然とする私を抱きしめ返した。力の強さで抱きしめられたというより、壊れそうな心で触れられた気がした。そのまま地面に私を引きずり倒すようにして、リュイの身体が崩れ落ちる。
「一人にするのなら、殺してほしい。俺に、安息を」
 背中に固い地面の感触がする。リュイは縋り付くような仕草で、狼狽える私の肩を抱え、一瞬だけ視線を合わせたあと、耳元で囁いた。
 揺らぎのない逞しい身体に押さえつけられて、息が苦しかった。それと同時に身体の隅々にまで、痛切な思いを宿した熱い体温が伝わった。
「う、うん、分かった……一人にしないよ」
 それだけ言うのが精一杯だった。
 ここで彼を拒絶しては絶対に駄目なのだと、暗い色の月を見上げながら思う。
 そんな真似をすれば、おそらくリュイは何のために生きているのか、理由を見失ってしまうんだろう。
 闇の淵に立つ人の背を押すようなことはできない。
 
 ――一緒にいよう。
 
「大丈夫、側にいるよ」
 リュイは私を押し潰すようにして腰に腕を回し、更に力をこめた。私は自分が怖くて震えているのか、それともあまりに深い嘆きに感化されて震えているのか分からなかった。リュイは長い間、私を手放さなかった。肩や背中の線を大きな長い手でなぞられ、私は身を強張らせた。熱情が秘められた、優しい感触だった。きっとリュイは、私の存在を確かめずにはいられなかったんだろうと思う。この時間が現実なのか、彼は混乱しそうになる意識の中で必死に確認しようとしているんだ。手を放せないのは、その瞬間に私が消えてしまうことを恐れているためで、そう思いつめてしまうほどこの人の嘆きは深く、孤独にさらされすぎたのだろう。
 とっくに正気を失っていてもおかしくはないと思う。広い世界に、ただ一人、自分だけが生き残っているなんて、それは一体どれほどの恐怖と絶望だろうか。耐えても耐えても決して報われない寂しい日々を、リュイは歯を食いしばって、身も心も血を流して、生き抜いてきたんだ。
 たとえば人ごみの中で、誰かの笑い声を聞いて孤独を感じる時がある。周囲は色彩に溢れているのに、自分の存在だけが異質な何かに変わり灰色に見えてしまうような苦しい瞬間がある。誰の言葉だったっけ? まわりにどれほど人がいても、自分が一人と感じればそれは壮絶な孤独なのだと。
 
 ――でも。
 
 たった一言だけでも、声を発すれば、誰かが振り向いてくれるかもしれない。そういう小さな希望があるのではないか。仮に心は通じ合えなくても、辛い気持ちを持て余す結果となっても。だって友人や知人とかじゃなくたって、たとえば道を訊ねた場合、見知らぬ人であっても答えてくれる時がある。ちょっとした会話が、そこで成立する。
 リュイの場合は、そういった希望や可能性の余地が一切許されていなかったんだ。
 誰もいないのだもの。道を聞きたくても答えはなく、挨拶をしても返ってくる笑顔はなく、ざわめきも足音も笑い声も、何も、何も――ないのだ。
 そんな虚しい場所にただ一人取り残されたら――、一体誰が、彼の名を呼んでくれるのだろう。誰が彼の身を案じて、その存在を確固としたものだと認識してくれるのだろう。
 自分の存在が不安定になるほどの根源的な恐怖を感じないだろうか。どこまで歩いても耳に届くのは自分の足音だけなんて。
 無音の恐怖を知る人に今以上の絶望を与えてはいけない。
 騎士である彼からすれば頼りなく見えるだろう私の存在にさえ救いを求めずにはいられないほど、精神が追いつめられ疲弊している。こんなに無力な私じゃなくて強そうなオーリーンとかだったら、もっとリュイの負担を取り除き心を軽くしてあげられるんだろう。そう思うと、ひどく悲しくなった。
 
 ――……違う、そんな単純な話じゃなくて。
 
 ふと胸の奥に滑り込んできた自分の声に、私は愕然とした。無力であろうがそうでなかろうが関係ない、と否定する自分がいる。
 ただ、出逢ってしまった。
 この邂逅は、リュイにとっては命を左右するほどの運命の転機となる可能性がある。
 私はリュイの名を呼べる。存在を目にできる。
 精神の図を根底から描き換えるほどの驚異的な出来事として、リュイの目に映るのではないだろうか。
 どんな世界に暮らしていようとも、人間は生きるだけで誰かの人生に影響を及ぼすものだと思う。その影響は果てしなくどこまでも波紋のように広がり、時間と共に積み重なってやがて歴史と名付けられる。
 でも、それはきっと意識してはいけないことなのだ。
 一秒一秒時間が過ぎる中で、自分の些細な言動が発端となり、その時居合わせた誰かの人生を変えているかもしれないと思って生きることは不可能だから。悲劇の始まりとなる、そういう見えない引き金に、誰もが指を乗せているんだ。 
 言葉の一つでも、取るべき行動が変化する。
 よくあるたとえ話だけれど、タクシーを誰かと譲り合ったとして、その人が乗車した場合、一瞬後に交通事故に巻き込まれるという災難が待ち構えているかもしれない。それが現実になったら、きっと私は考える。もし自分が乗っていたらと。
 じゃあその人が未来に歩むはずだった道のりはどうなるだろう。また生まれるはずだった子供は、家族は。将来深く関わるはずだった人間は。
 全てそこで断ち切られてしまうんだ。
 恋や夢、願望も全て。
 途方もない。
 運命はこんなにも巨大で複雑なデザインなのだ。
 一人の手では創れない。たくさんの人の命で描かれた荘厳なデザイン。
 些細なきっかけでさえも激しく歴史を変えるというのに、これほど明確な出逢いを果たした私とリュイはどうなるんだろう。
 私がリュイの立場なら、この際、相手が子供だろうが大人だろうが関係ないと受け止めるに違いない。
 生きて、目の前に存在するだけで、もう十分だって感謝する。
 リュイが言っているのはこういうことなんだ。
 神のように、奇跡を具現したように見えるって、そういう意味。
 私は少し目眩がした。
「ごめんね」
 私の手はあまりに小さくて、彼の身を苛む痛々しい傷の全てを包んであげることができない。
 代わりに私は、リュイの淡い色の髪を撫でた。さっき獣の血糊を浴びたせいか、所々が固まっている。そのごわついた感触に、更に胸が締め付けられた。ちゃんと洗って丁寧に梳かせば、きっとすごく柔らかくて綺麗な髪に違いないだろう。
「リュイ」
 明日、髪を洗おう。綺麗に梳かして、整えよう。私はそう言おうと思って、口を開きかけた。でも声を出す前に、リュイが祈りを捧げるようにそっと囁いた。
「全てを話してくれなくても構わない。俺を、信用しなくてもいい。だが、どうか側に――」
 ああ、本来なら、こんな懇願をしない人だろうに。
 見捨てるな、と口にするのがどんなに辛くて惨めなことか、私は知っている。
 だから、早口で遮った。リュイにその先を言わせたくなかった。
「側にいてくれる? 私といると、とても危険だけど。私、やらなきゃいけないことがあるの。でもそれはすごく大変なことで、一人でできるかどうか分からない。だから、手伝ってくれる?」
 リュイは視線を上げ、私の腰に手を回したまま、身体を反転させた。今度は自分が固い大地の上に仰向けになって、私を鍛え上げた腹部に乗せる。そうして、私の両手に自分の指を絡めて引き寄せた。
「剣にかけて、我が命にかけて、あなたをお守りする。あなたが――望んでくれるのならば」
 不謹慎だけど、騎士の宣誓風なその言葉に、少し胸が熱くなった。というか、絵空事でもなんでもなく、リュイは本物の騎士なんだっけ。心臓を撃ち抜くような強い意志を秘めた月色の瞳が、びっくりするほど綺麗で目を奪われる。寒気がするほど真摯で美しい目だ。
「あの……でも、私を庇って死ぬようなことはしないでね」
「命は惜しくない」
 本気で言っているのが分かるから、困ってしまう。
「あのね、余力があって守ってくれるならいいけど、私を救うために命を投げ出しては駄目」
 リュイは口を閉ざし、少し傷ついた顔をした。騎士って偉い人を身を挺して守るのが仕事なんだっけ。そういう役職の人に、守らないでくれって注意するのは、存在を否定しているように響いてしまうのかもしれないと気づいて、慌てて言い添える。
「リュイが傷つくのをみたくないんだよ」
「ではあなたが死ぬのを黙ってみていろと?」
 リュイは憤慨した様子で、視線を逸らした。
「そうして俺に一人で生きろとおっしゃるか。冗談ではない。あなたを見殺しにしておめおめと生き延びる卑劣な男になれと? 畜生以下の人間に成り下がれと、あなたは本気でそう言われるのか」
 表現がきつすぎると思ったけれど、リュイにしてみれば一番矜持に関わる嫌な言葉だったんだろう。
 私は言葉を探しつつ、繋いでいたリュイの指をぎゅっと握った。
「そうじゃなくてね。ええと、私を助けてくれるように、あなたもあなた自身のことを助けてほしいんだよ。どちらかが犠牲になるなんて、駄目。そういう状況に陥った時は、すみやかに二人で逃げるの」
 リュイは意表を突かれた表情でお腹に乗っている私を見上げた。
「……すみやかに?」
「うんうん。逃げるが勝ちというでしょう?」
「あなたは……不思議な方だ」
「私と一緒にいるなら、守らなきゃいけないことが三つあるの。それ、誓える?」
「何をですか」
 リュイは途端に警戒した。なんか次の展開を読まれている感じがする。
「まず一つ。今言ったように、自分を犠牲にするのは禁止」
 反論しかけたリュイを見下ろし、私は意地悪く言う。
「自分を大切にできない人は、他人を守ることなんてできないの」
 これは三春叔父さんの受け売り。リュイはその言葉がこたえたのか、唇を固く引き結んだ。そんな顔しても、駄目!
「二つ目。敬語は禁止!」
 もう、リュイってばどさくさに紛れてさっきから敬語使っているんだよね。絶対このまま通そうとしているに違いないんだ。
「三つ目。私に剣の使い方を指導すること」
 リュイは唖然として、まじまじと私を見た。いくらなんでもそれは無謀な、っていう顔だった。失礼だよ、その反応。
「剣の使い方を覚えなきゃいけない事情があるの」
 剣道でも習っておくんだった、と私は無意味なことを思う。まさか、こんな状況を迎えるとは夢にも思ってなかったから仕方ないんだけれど。
「この三つ、守ってくれる? ええと、剣とあなたの命と神様に、誓えるかな?」
 リュイはものすごく渋い表情になった。なんとなく恨めしげな目だ。でもすぐ視線を逸らされそうになったので、阻止するために軽く指を揺らしてみる。有耶無耶にするのは、大人げないと思うよ。
「――誓いましょう……いや、誓おう」
 不承不承って感じの返答だったけれど、まあいいか。
 にっこり笑った時、不意に長衣の裾を引っ張られた。蚊帳の外にされていたエルが、拗ねた様子で私を呼んでいる。
「あ、ごめんなさい」
 私はそこで、はたと気づいた。リュイの上に乗ったままだったんだ。
 慌ててリュイの固い腹部の上から降りた時、エルがいそいそという態度で擦り寄ってきた。上半身を起こしたリュイに威嚇の声を発している。なんか、対抗心剥き出しって感じがするのは気のせい……?
「エル、大丈夫だよ」
 エルって意外に人見知りするのかな。
 寂しかったらしいエルを安心させるために、その銅色の長い毛を丁寧に撫でた。エルは心地よさそうに喉を鳴らしたけれど、リュイを見据える丸い目には敵意のような光がちらついている。うーん、可愛いような、意固地のような……。
「リュイ、焚き火の側に戻ろう」
 なぜか不機嫌なエルを宥めつつ、リュイを手招きした。リュイは困惑したようにエルを一瞥したあと、大人しく私の言葉に従った。
 
 
 消えかかっていた焚き火に枯れ木をくべたあと、リュイの顔を正視した。
 全てを話してみよう。リュイは騎士だからっていうんじゃなくて、きっと誠実な人だ。
 私は決意を固め、口を開いた。
 
 
「信じてもらえないかもしれない話なんだけどね――」

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