F022

 景色は殆ど代わり映えがなく、同じ場所をぐるぐると無為に巡っているかのような錯覚を抱かせた。
 リュイの話だと、本来、今私達がいる場所は行商人や旅人が行き交う街道からそう離れてはいないはずなんだって。もう少し歩くと森が前方に控えているらしい。街道を通らないのは一日ではウルスの村に辿り着けないためで、どうしてもどこかで野宿する必要があるから、ひらけた道へ出てしまうと身を隠せる場所がなく危険が増すみたい。それに街道を行くとなると迷う心配はない代わりに目的地まで少し迂回することになり、時間をその分無駄にしてしまうらしいので、森を突っ切った方が近道なのだという。
 小川がこの辺に流れていたみたいなんだけれど、蛇行している長い窪みがあるだけで地面はひたすらに乾いている。
 森を通るのは、時間短縮や危機に備えてのためだけじゃなく、水を確保したいっていう切実な理由もあるらしかった。何か嫌な予感がするんだけれど、この世界、どこもかしこも乾き切っているから、水を手に入れるのにとても苦労しそうなんだ。そういえば、リュイに初めて会った時、渡した水を殆ど飲んだあとでとても申し訳なさそうな顔をしていたものね。すごく貴重なのかもしれない。
「今までずっと森にいたの?」
 町や村にいたほうが、水や食料を手に入れやすいのではないかなあ。
「そちらのほうが、獣と遭遇する危険を考慮したとしても町に残るよりは安全なんだ。とくに夜は。町にいれば夜通しレイムの襲撃に悩まされる」
 あ、そうか。それじゃあとても睡眠を取れない。
「食料を探しに獣が町まで降りてくる。また、神殿などが建設された大きな街では召喚の戒めから解き放たれた魔がさまよっている。獣も魔も、昼夜を問わず襲ってくる。どちらにしても獣の襲撃を受けるのならば、レイムが現れる確率の少ない森に身を潜めていた方が都合がよかった」
 過酷であり合理的な説明に言葉が詰まった時、リュイが真剣な顔をこちらに向けた。
「ヒビキ、約束をしてほしい。決して私から離れないように。この時間――朝が比較的、他の時間よりも危険が少ないが、絶対に安全とは言えない。私の目が届く範囲にいてほしい」
「う、うん」
 何かひしひしと緊張感が伝わって、私の返事も自然と深刻な響きを帯びた。
 私はぎゅっとエルの毛を握った。手綱なんてつけてないので、他に掴める場所がなかったんだ。
 エルは私の不安を嗅ぎ取ったのか、小さく振り向き甘えるように唸った。うん、私、独りじゃない。
 リュイは獣の襲撃があると懸念しながらも、やはりレイムが出現しない昼の内に村へ辿り着きたい様子だった。時間を計算して、休憩を取ったり道を確認したりしていた。あまり変化のない景色のために私は方向感覚が狂っていたので、正しく村に近づいているのかさえ分からなかった。
 役に立たないなあ、私。
 少し落ち込みながらもリュイの指示に大人しく従って旅を続けている内に、黒く陰る森が前方に見えてきた。
 
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 大袈裟な表現なんかじゃなくて、ホントに「死の森」っていう表現が似合うような、不穏な気配が漂う森だった。
 辛うじてぽつぽつと葉を垂らしている木々は、どれもこれも固く、瀕死の状態に見える。伸びゆく無数の枝は、まるで縦横無尽にひた走る茨の蔓のように鋭利で、巨大な檻の中に足を踏み入れているみたいな圧迫感を抱かせた。
 ただエルの背に乗っているだけなのに、ずっと気を張りつめていたせいか、私はすごく疲れていた。情けないけれど、黙っているだけでも意識が時々ふっと途切れて身体が斜めにぐらついてしまう。
「ヒビキ、腰をかけるのではなく、寄りかかった方がいい」
 見かねたのか、リュイが穏やかにそう言った。一番楽をしている私を、なじるどころか休ませようとしてくれる。
 エルはオーリーンを乗せていたくらいなので、とても体躯が大きい。背の上で私が身を伏せて眠れそうなくらいに。
「異変時には、呼ぶから」
「……でも」
 私は唇を噛み締めた。リュイは昨夜も焚き火の番をしていて、ろくに眠っていないはずなんだ。私はきちんと睡眠を取っていたし、激しい運動をしていたわけでもない。比べるまでもなく、身を休ませなきゃいけないのは絶対リュイの方だ。
「女性の身であるあなたと、身体を鍛えている私では体力に差があって当然だ。少し休んで欲しい」
 リュイはどこか躊躇いがちに腕を伸ばし、俯く私の肩をそっと押した。こんなんじゃいけないって分かっているのに、身体が重たく感じて焦れったかった。
「心配ない、眠りなさい」
 リュイの言葉が身体の奥に響いて、それで――
 
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 ふと身体が大きく揺れるのを感じて、私は目覚めた。
 意識がすぐには現実に追い付かなくて、真っ暗な部屋の中に眠らされていたかのような不安定な気持ちが芽生える。
 何だか嫌な悲鳴が聞こえる。硝子を思い切り引っ掻いた時のような、喉がぎゅっと痛くなるような、不愉快な咆哮。テレビをつけっぱなしにしたまま眠ってしまったんだろうか、なんて寝惚けたことを考えた。
 身体のすぐ下から、警戒を伝えるエルの低い唸り声が聞こえて、それでようやく意識が明瞭になった。
 はっと顔を上げると、周囲は既に霧のような重みのある薄闇に包まれていた。闇よりも色濃い木々の輪郭がはっきりと浮かび上がっていて、一層周囲を暗く陰らせていた。
 そんな不吉な気配の中、ぴしゃりと水滴がはねるような音、何かを叩き斬る恐ろしい音、低い丈の野草を踏みにじる音などが響き、私の耳に突き刺さった。
「リュイ?」
 きらりと闇を弾く巨大な剣が、白い軌跡を描いて蠢く影を斬り払っていた。
 
 ――嘘!
 
 獣か魔獣かは判断できない。でも、何かに襲われていることは確実だった。
「リュイ!」
 私が叫ぶと同時に、リュイの剣が最後の一頭を地面へなぎ倒した。愕然としながら目を凝らすと、剣を掲げるリュイの側には数匹の大きな生き物が倒れていた。
 リュイは剣を強く握りしめたまま、木陰に待機していたエルと私の方へ大股で近づいてきた。
「血が流れた。他の魔物が押し寄せてくる。すぐに移動しよう」
 リュイは、私に言い聞かせるというより傍観していたエルに言葉をかけた。利口なエルは了承するように喉を鳴らし、躊躇いなくリュイのあとを追った。
 
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 遠くで獣達が唸る声に、私は身を震わせた。
 さっきの場所からだいぶ距離を稼いだとは思う。それでもリュイは警戒を緩めなかったし、エルも息を潜めるようにして木々の間を突き進んだ。
 ――その後、身を休められる場所を探すまでに、二度ほど獣の襲撃を受けた。リュイが、リュイだけが戦いの中に身を投じて、私はそれをただ離れた安全な所から眺めているだけで。
 
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 獣が捨てた巣穴のような、歪な段差が続く斜面の下の空洞に、私達は身を落ちつけた。
 リュイは視線を周囲に怠りなく配りながら、途方に暮れている私を空洞の奥へ押し込んだあと、すぐさま外へ飛び出した。大きな声を出すのは得策じゃないと気づいたので、呼び止めることもできない。
 リュイが出て行ったあと、空洞の入り口を塞ぐようにエルがそこへうずくまった。
 
 ――ああ、中にいる私を守るために。
 
 リュイもエルも、まるで打ち合わせをしたかのようによどみなく行動していた。
 私はぎゅっと身を縮めて、リュイの帰りを待つしかなかった。心臓が凄い速さでどきどきと鳴っている。馬鹿だ、何で一人だけ暢気に眠っていたんだろう。
 私は膝を抱えて、強く目を閉じた。何もできていないじゃないか、私。
 守られるために、この世界へ来たんじゃないのに。気持ちとは裏腹に、現実はこうしてただ、存在するだけ。
 私が何もできないから。
  
 ――何もしようとしないからだ。
 
 すっと心が冷えていった。本当に情けない。リュイに全部責任を押し付けているだけじゃないか。
 私は腰を上げて、荷物の中からオーリーンに貰った剣を引っ張り出し、外へ行こうとした。でも、入り口の所にはエルがうずくまっていて、私が近づくと「駄目だ」というように身を起こし、いくらお願いしても動いてくれなかった。
「エル、お願い、どいて」
 何度頼んでもエルは引かず、無理矢理出ようとする私の胸を鼻先で押し返す。エルに乱暴することなんてできないし、動きの俊敏さも比較にならない。
「エル!」
 私が少しだけ強く叫んで抗議すると、エルは小さく唸った。それでも絶対に外へ出してくれない。
「やだよ、エル、こんなのっ」
 私は縋るように剣を抱きかかえて呟いた。
 エルはどこか困った様子で私の腕に鼻を押し付け、すり寄ってきた。慰めようとしてくれている。それが分かって、余計に情けなさを感じた。
 奥歯をきつく噛み締めて身体の震えをやり過ごそうとしたら、エルがぺろりと私の頬を舐めた。甘えるような素振りに、何だか全身の力が抜けてしまった。
 くたりとその場に座り込む私を、エルが長い尾で包んだ。あたたかいエルの腹部に顔を押し付け、心の中で自分の頼りなさを恨んだ。
 
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 リュイが戻ってきたのは、かなりの時間が過ぎたあとだった。
「リュイ!」
 無事だったんだ。
 私が最初に思ったのは、リュイが深い傷を負っていないか、ということだった。
 リュイは巨大な剣を空洞の内壁に立て掛けたあと、エルと私を交互に見て、柔らかく笑った。
「火を起こす枝を、拾ってきた」
 確かにリュイは、焚き火に使えそうな枯れ枝を片腕に抱えていたけれど。
「違う!」
 私はたまらずに叫んだ。
 
 ――嘘だ、嘘だ、そんなの。
 
 私はエルの尾から飛び出して、目を見張るリュイに腕を伸ばした。
 戸惑うリュイの腰にぎゅっとしがみつく。ああ、ほら、血の匂い。すごくすごく強い。
 私は想像するしかない。でも、きっとその考えは当たってる。
 もしかしたらここへ来るまで、ずっと獣にあとをつけられていたのかもしれない。リュイはなるべく争いを見せないようにという配慮から、私を安全な空洞へ押し込んだあと、一人で出て行ったんだ。
 多分、自ら囮となって獣の意識を引きつけるために。
 どこか十分な距離を置いた場所で、獣を始末してきたに違いない。
 待っている私を不安にさせないよう、その辺の様子を窺ってきただけだと優しい嘘をつくために、帰り際に枯れ枝を拾ってきたんだ。
「ごめんなさい」
 危険なこと、辛いこと、恐ろしいこと、全部リュイにまかせてしまっている。
「怪我はない? どこか痛いところ、ない?」
 他になんて言っていいのか分からない。
 必死になって見上げると、リュイは地面に膝をつき、抱えていた枝を脇に置いたあと、私と視線を合わせた。
 恐ろしい目にあってきたはずのリュイはなぜか、はにかむような柔らかい表情を浮かべていた。
「怪我などはしていない――ありがとう」
 どうして、ありがとうなんて言うの。
 私に責める権利は何もないのに、感情の高ぶりをおさえられなくて、思わずリュイを睨んでしまった。
 リュイは不満を見せたりせずに、ぎこちなく私の腕に触れた。
「……あなたの声が聞きたい」
 意味が分からなかった。そうじゃなくて、本当に怪我とかしていないの?
「リュイ、駄目だよ、こんなの、ずるい。異変があったら起こしてくれるって言ったのに!」
 狡いのは私だ。子供みたいに癇癪を起こして!
 別のことにも気づいてしまう。
 私が能天気に居眠りしている間にも、獣の襲撃を受けていたんじゃないか。
「一人で危険の中に行くのは駄目!」
 私の身を心配して、一人で危険と立ち向かっているリュイに、随分勝手な文句を投げつけていると思う。
 言わずにはいられない自分の傲慢さが、すごく嫌だ。
「ああ――ありがとう、ヒビキ」
 リュイは切ないような潤んだ眼差しを隠すように、私の肩に額をことりと落とした。お礼を言われる理由が分からない。
 どうしよう、怪我しているのを我慢しているのかな。ホントは立てないくらいに疲れているんじゃないだろうか。
「奥で休んで。今度は私が見張りをするから。少し眠ってよ」
 手を握って促すと、リュイは何も言わず小さく頷いただけで、しばらくの間、顔を上げようとしなかった。

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