F024

 エルはもの凄く嫌そうだったけれど、非常事態だと何度もお願いしたら、リュイを背に乗せることを許してくれた。
 私とリュイを乗せたエルは、完全に夜が明けるまで一度も休まずに森の中を駆け続けた。その途中で二度ほど獣と遭遇してしまったけれど、動作がそれほど俊敏じゃなかったので戦わずして振り切ることができた。
 騎乗している間、私の後ろに乗っていたリュイは一言も口をきかなかった。
 
******
 
 エルがようやく止まったのは、もとは泉だったらしい痕跡が残されている窪地の側に辿り着いた時だった。
 私なんて殆ど身体を動かしていないのに、一晩中気を張りつめていたせいか肩に石を乗せているのかと思うくらい疲労していた。それにずっと体勢を変えないでエルに乗っていたため、太腿が筋肉痛になっていたし、腰も凄くだるかった。
 魔と戦って傷を負ったリュイや夜通し走り続けたエルの方が、よっぽど疲れているだろうな。
 エルの背から降りたあと、足に力が入らなくてそのまま地面にへたり込んでしまった。エルが心配そうに、きゅうん、と鼻を鳴らして頬を舐めてきた。ごめんね、エルの方がもっともっと疲れているのにね。
「わっ?」
 お疲れさまの意味をこめて、すり寄るエルの顔を撫でていた時、突然身体が宙に浮いた。リュイがそっと抱き上げてくれたんだ。
「わ、わ」
 リュイは丁寧に私を横抱きして、窪地横に生えている樹齢百年は越えていそうな太い木の方へ歩き出した。
「駄目だよ! 腕、怪我しているのに!」
 焦って訴えてもリュイは降ろしてくれず、無言で歩き続ける。
 何か……リュイ、怒っているのかな。
 私は急に悲しくなり、厳しい気配を漂わせるリュイの顔を恐る恐る窺った。
 リュイは近寄りがたい表情を見せつつも、狼狽する私を静かな動作で大きな木の根元に降ろした。この辺りの木はどれもすごく巨大で、幹が太かった。
 エルが足音を立てずに近づいてきて私の横に腰を落とし、労うように尻尾でふわりと腕を撫でてくる。その間にリュイはエルの背から荷物を下ろした。私は這うような動作で慌てて荷物の方へ近づき、紐解いた。
 
 ――リュイの傷、手当てしないと!
 
 そう思って急いで薬を取り出そうとした。リュイの態度がおかしかったし、まだ身体が緊張で強張っていたせいか、手元が定まらなくてぼろぼろと余計なものまで地面に散乱させてしまった。
 ああ、どうしよう。どの薬を使えばいいんだっけ。
 それに、エルにも水をあげないと。ずっと走り通しで喉がからからだよね。
 焦れば焦るほど混乱して、余分な動きが多くなるみたいだ。
「ヒビキ」
「う、うん!」
 抑揚のない声でいきなり名前を呼ばれたため、不必要に飛び上がってしまった。うわあ、恥ずかしい。声が裏返ってしまった。
 リュイは片膝を立てて地面に腰を降ろした。目を合わせようとはしてくれず、更に焦燥感や心細さが募った。
「あのね、ごめんなさい。あまり役に立ってないよね、私。エルがいないと、何も出来なくて」
 何でこんなに私は饒舌になって、下手な言い訳をしているんだろう。
「ヒビキ――先に行けと言ったのに」
 リュイの口調に責める響きはなかったけれど感情が何もこめられていなかったし、未だ雰囲気も硬いままだった。態度に表して怒ってくれた方が、まだましかもしれない。
「あ、でも……駄目だよ、そんなの」
「あなたを守るため側に、と私は誓った。そのあなたを危険の中に」
 私は勢いよく首を振った。
「リュイ。私ね、自分が嫌だと思うこと、リュイにもしたくないんだよ」
 リュイはようやく私に視線を向けてくれた。どこか悲しげな……何かを恐れているような色がリュイの目に浮かんでいた。
「うん、さっき、私とリュイの立場が逆だったとして、もし置き去りにされたりしたら、凄く嫌だもの。きっと一人は寂しいし怖い。安全なところへ逃げてほしいって気持ちの方が強くても、私は卑怯だから、やっぱり心のどこかで、行かないで、って思うんだ」
 これが私の正直な気持ちだった。実際にそんな状況に立たされた場合、行かないでほしいと思いつつも、最終的には安全な場所へ避難してくれた方が嬉しいだろうけれど。感情って、一つだけじゃなくて色々な形がある。その形の中で最もはっきりとしたものが、他を圧倒して意志になるんだ。
「それに私、エルの速さを信じているの。絶対何とかしてくれるって思ったし」
 と、付け足したあと、私はエルの額を撫でた。
 少しだけつまらなさそうにしていたエルは、額や耳の側を撫でると機嫌を直したみたいで嬉しそうに私の太腿へ鼻をすり寄せた。可愛いなあ、エルって。
「息がとまりそうに――あなたが、魔と私の間に割り込んできた時」
 うっと私は冷や汗をかいた。つい気を緩めて身体の力を抜いてしまい、エルの背から落下したんだっけ。
「ごめんね、私、重かったよね。背中、打たなかった?」
 私はおろおろとリュイの全身を見回した。って、そうだ、リュイ、腕を怪我しているんだった!
「手当て、しようね?」
 リュイは少しだけ苦しそうな表情で、一度目を閉ざした。
 
*****
 
 傷の手当てとかを終えたあと、しばらく仮眠を取った。
 そして、お昼過ぎからまた、ウルスを目指して森の中を旅した。
 
*****
 
 夕方頃、時間はまだ早かったけれど、もう休もう、という話になった。
 理由として、この一帯は木々が密生しているため、危険な獣の目から姿を隠すのに適しているということがあった。
 他に、早めに身体を休めておいて夜の内に出発したいっていう理由もあったんだ。ウルスにはレイムが出現しない日中の間に到着したいってリュイが真剣な顔で言った。
 私としては、一人でも二人でもレイムに変貌した人達を元に戻した方がいいんじゃないかなって思ったんだけれど、リュイは頑として首を縦に振らなかった。二人の王子様を一刻も早く助けたいという強い思いが透けて見える。
 少しだけ私は落ち込んでしまった。
 口が裂けても自分が頼りになる存在だなんて言えないけれど、リュイってば、私を頭数に入れていないんだよね.
 神様に頼まれたのは私なんだけどなあ、ってちょっと思って、なんだか疎外感を抱いてしまった。
 
*****
 
 食事を取る時にはどうしても火が必要だったから、近辺に落ちている枯れ枝を集めないといけなかった。
 私はこの時、少しでも何かできるってところを見せたくて、困惑するリュイを無理矢理説き伏せ、焚き火に適していそうな枝を一人で探しに行ったんだ。エルまでが不安そうに唸って同行しようとしたけれど、私がぎゅっと睨むと大きく尾を振りそわそわとした様子で座り直していた。
 と言っても、絶対にリュイの目が届く範囲の外へは行かないようにってきつく約束させられたんだよね。
 我が子の危なっかしい行動を心配そうに見守るお父さんのようなリュイの眼差しに、私は不満を抱いた。もう、私、そんなに子供じゃないんだよ。
 私は眉を寄せながら、長衣の裾を勢いよく翻して足音荒く歩き出した。
 リュイとエルは、両手を左右に伸ばしているかのように長い枝をつけた木の下で休んでいるので、そこを中心にぐるっと回って枯れ枝を探そうと思った。
 焚き火をするのにも適している枝と、燃えにくい枝があるんだよね。あと、枯葉も必要だったりするんだ。
 地面に落ちている枝を拾ったり、手が届く範囲に垂れ下がっている木の枝を折ったりしている内に、私は不思議な樹木を発見した。
 とっても太い幹で、固い鱗を無数に張り付けたかのように表面がざらついている木。
 その幹の一番太い所に、子供がすっぽり隠れられるような大きさの洞があったんだ。
 何だろう、この空洞。人為的に空けられたものなのかな?
 私は恐る恐る覗き込んでみた。
 すると、洞の底に水がたっぷりと溜まっているのが分かった。
 
 ――わ、飲めるかな!
 
 私は少し期待してしまった。日本にいる時だったら飲むことなんか絶対に考えもしないだろうけれど、ここへ来て水がとにかく貴重なんだって痛感していたんだ。世界はどこもかしこも乾いていて、泉も小川も全て干上がっていたし、曇天なのに雨が降る気配すらない。荷物の中の水がなくなった場合、どこで調達すればいいんだろうってちょっと不安になりつつあったんだよね。
 私は抱えていた枝を地面に置いたあと、怖々と空洞の水に手を伸ばし、少しすくってみた。
 
 ――あ、奇麗。
 
 濁ってもいないし埃も浮いていない、さらさらとした透明な水だった。
 
 ――飲めるかも!
 
 私は嬉しくなって、リュイを呼ぼうと思い、振り向いた。いくら私が無謀であっても、まずはリュイにこの水が飲めるか聞いた方がいいということは分かっていた。
 でも。
 
 ――え?
 
 リュイ達がいる方へ振り向いた時、背後でざわっと音がしたんだ。
 それは獣の足音とも違う、小さな羽音に似た、奇妙な音。
 葉をこするような、ざざっという細かい音がたくさん聞こえた。
 不審に思った私が洞の方へ顔を戻すよりも早く――黒い影が背を覆った。
 
 ――違う、影じゃない!
 
 虫だ。
 洞の中に隠れていた無数の、虫が。
 ざあっと波のような音が耳元で響いた。丸みを帯びていて黒い無数の小さな虫が一斉に私の全身に飛びかかり、張りついたんだ。
 獣の襲撃とは別の意味で、全身が総毛立った。恐怖よりも強い嫌悪感が一瞬で芽生える。
 だって、身体中、虫にたかられて――
 寒気がした。身体が大きく震えたけれど、一歩も動けない。
「――ヒビキ!」
 リュイの声が聞こえると同時に、私は悲鳴を上げた。
「嫌っ! やだあ!!」
 気持ち悪い、気持ち悪いっ!!
 何これ!
 私は錯乱したように腕を振り回して、腕や背、肩、首、頭、太腿、お腹、胸……とにかく全身に張りついて蠢く虫達を叩き落とそうとした。
 でも、離れない。
 私は青ざめた。凄く動きの速い虫達が身体の表面を好き勝手に這い回っている、細い足に肌を嬲られる感触のおぞましさといったらなかった。
「助けてっ!」
 私は馬鹿みたいに喚いて暴れ回った。服の中に虫が入り込む。首から下へ、袖から奥へと。
 時々、蟻に噛まれたみたいな、ちくりとした痛みが身体の所々に走った。
 自分が上げる甲高い悲鳴の滑稽さを恥ずかしく思う余裕もなかった。
「ヒビキ!」
「いやっ、いやだ!」
 リュイが駆け寄ってきたけれど、私は返答できる状態ではなく、ただ死に物狂いで手足をばたつかせ虫達を振り払おうとしていた。
 落ちない、虫が、虫が!
 蛇のようにぐるりとうねり這い回る黒い虫達。いやにちかちかと艶めく小さな甲羅の群れが私の目に飛び込んでくる。耳の側で、ぶん、と鳴る奇妙な音。細い手足と触角の感触。私は本当に狂いそうになった。
 
 ――助けて!
 
 もう恥も外聞もなかった。吐き気がするくらい気色悪い。髪の中にまで虫が潜り込んでくる。振り落としても振り落としても執拗にくっついてきて、ざわざわと皮膚の上を駆け回る。
 その不気味さに堪え切れなくなり、長衣を引き裂こうとした。
「ヒビキ、動くな!」 
 動転するあまり何重にもぶれる視界に、リュイの姿が映る。
 リュイは他よりも一際甲羅の大きな黒い虫を捕らえていた。それをなぜか、自分の口元に持っていって――
 虫の甲羅を噛み、体液を口に含んで、それを私の全身にたかる虫達へ向かって吹きかけたんだ。
 血の色とは微妙に異なる赤紫色の体液が、私の腹部にかかった。
 その瞬間、体液のきつい匂いが漂い、同時に、波が引くかのようにざあっと虫達が離れた。
 
 ――え!?
 
 あまりに呆気ないほど、私の全身から虫達が離れていく。正確には、リュイが私の腹部に吹きかけた体液から逃れるように。
 リュイはもう一度、気味の悪い色をした虫の体液を口に含み、私の後方に回って背中に吹きかけた。それから腰のあたりにも。
 虫達が慌てた様子で逃げ出し、ざざざっと這う音を残して洞の中へ戻っていった。
 私は硬直したまま、呆然とリュイを見つめた。
 リュイは口に残っていた体液を地面に吐き捨てたあと、その場に立ち尽くしている私を見返し、指先を持ち上げて「上着を脱ぎなさい」と合図した。
 鼻につんとくるようなきつい匂いを漂わせる体液の付着した服など私も着ていたくはなかったので、慌てて腰帯を解き、長衣を脱ぎ捨てた。その際にリュイが「体液に触れるな」と注意するように指をくるりと回して、服の表面を汚す赤紫色の染みを指し示した。勿論、絶対に触りたくなんてない。
 長衣の下に一応同系色の衣服を重ねて着ていたため、この場で脱ぐのに抵抗はなかった。
 すぐ側まで近づき心配そうに私を見つめるエルに抱きつくと、ようやくほっと安心感を得られた。
 怖かったというより、ホントに気持ち悪くて、失神するかと思った……。
 まだ指先が細かくかたかたと震えている。洞の中にあんな虫の大群が潜んでいるなんて、想像もしなかった。
 もしかして、あの透明な水は獲物を捕らえるための餌だったのかもしれない。大きな獲物を、数による攻撃で倒すんじゃないかな。
 
 ――って、リュイは!
 
 そうだ、私を助けるために、気色悪い虫の体液を口に含んだんだ。
 早くうがいしないと!
 そう思って振り向いた時、リュイが私の腕をそっと取り、荷物のある場所まで導いてくれた。
 利口なエルは次の行動を察していたらしく、木の根元に置いていた荷物をぱくっとくわえた。ああ、そうか、移動した方がいいんだと思う。
 怯えと寒気に襲われて動きがぎこちない私の身をリュイは優しく抱き上げ、エルの背に乗せた。
「リュイ」
 リュイは素早く周囲を観察し、移動場所を探していた。
 ――十数分くらい歩き回った後、私達は別の木の下を野宿の場と決めた。
 
*****
 
「リュイ、うがいして」
 枯葉を枝に垂らしている木の根元に辿り着いたあと、私は真っ先にリュイへペットボトルを差し出した。
 ペットボトルにはまだ水が三分の一くらい残っている。節約して、あまり飲まないようにしていたんだ。
 リュイは軽く頷き、少しだけ水を口に含んでうがいをした。その様子をなぜかエルがじいっと見つめていた。
「リュイ?」
 何か不自然だった。でも私が話しかける前に、リュイは荷物から新しい長衣を取り出して、肩にかけてくれた。
 そして呼び止める間も与えず背を見せ、枯れ枝を拾いに行ってしまう。
 私は少し戸惑いながら、リュイの行動を見つめた。何だろう。もしかして私の鈍臭さに呆れて、素っ気ない態度を取っているのかな。
 こんなふうに思っちゃいけないって分かっているのに、ちょっとだけ「冷たいなあ」とリュイを責めたくなるような気持ちが芽生えた。依存しすぎなのかもしれないけれど、一言だけでいいから「大丈夫?」って声をかけてほしいという願望が私の中にあった。虫がまだ身体中を這い回っているみたいな感触があって、ホントにおぞましかったんだ。
 
 ――甘えすぎだなあ。
 
 私はどれだけリュイに背負わせるつもりなんだろう。ぎゅうっと胸が締め付けられて、ひどく気分が塞いだ。役に立たないと、重荷に感じられるのは辛いことだ。大体、勝手に枯れ枝を探すと宣言した直後に軽率な振る舞いをして、きっちりと余計な騒動を起こし、最後には迷惑までかけてしまったのに、リュイのことを冷たいとか非難する権利なんてないじゃないか。
 あーもう、自己嫌悪だ。
 ほうっと溜息をついて項垂れた時、エルがついっと鼻先で私の腕を軽く押した。私は振り向いて、エルの鼻の頭を撫でた。
 エル?
 エルは何か言いたげな様子で鼻を私の手に押し付け、じっと見つめてきた。それから、枯れ枝を抱えて戻ってきたリュイの方にゆっくりと顔を向け、丸い目を細めた。
「リュイ」
 エルの不可思議な態度に胸騒ぎを感じ、私はリュイに駆け寄った。
 リュイは僅かに視線を逸らして、困ったように微笑した――

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