F025

 リュイは身をかわすようにして私の脇をするりと通り抜けたあと、拾ってきた枯れ枝を利用して素早く火を起こした。
 私は目まぐるしく考えた。エルが意味深な目をしてリュイを見ている。
 荷物からいつもの味気ない食べ物を取り出すリュイの前に、私はぺたりと座り込んだ。
 リュイは少し戸惑った表情をして一瞬手をとめ、私の方へ視線を動かしたけれど、結局何も言わなかった。
 焚き火の炎が揺らめき、暗くなり始めた森をぼんやりと照らし出す。橙色の炎の色を映したリュイの横顔は、私の視線を遮るかのように頑に見えた。
「リュイ?」
 呼びかけて、リュイの袖を軽く掴んだ。答えるように穏やかな微笑を見せてくれるけれど、奇麗な月色の瞳は伏せられたままだ。
「こっちを見て?」
 リュイの頬へ手を伸ばした時、ふっとさり気なく避けられた。
 きん、と頭の奥が痛む。急に色々な考えが頭の中で渦を巻いたためだ。
 さっきリュイはうがいをする時、直接ペットボトルに口をつけるんじゃなくて、一旦掌に移していた。
 黒い虫が持つきつい体液の匂いが鼻の奥に蘇る。私の身体にたかった虫の群れを追い払う時、体液を口に含んで吹きかけたけれど……そういえば決して私の肌に触れないよう、背中や腰とか、上着に吹きかけていた。その後、すぐに服を脱ぐよう合図して。
 涙が滲みそうになるほどの強い匂いと毒々しい体液の色。虫達は一斉に逃げた。リュイが捕らえた虫は、他の虫より胴が太くて大きかった。あの大きな虫は、いわば無数の働き蜂を動かす女王蜂のような存在だったんじゃないだろうか。
 そして、女王と呼べる虫の体液には、群れの仲間さえ恐れるほどの強い毒が含まれて――?
 リュイ、全然喋らないんだもの!
「リュイっ」
 心臓が嫌な感じに軋んだ。じんと痺れるような不安が身体の中を巡り、首筋が寒くなる。
 抱いてしまった懸念を打ち消したくてリュイにしがみつこうとしたら、不自然に顔を背けられ、柔らかく押し戻されてしまう。私はかっとして、無理矢理リュイの膝に乗り、両手で頬を掴んだ。
 まさかそんな行動を取られるとは思っていなかったらしく、リュイは唖然とした表情になり、後ろ手をついて身を僅かに引いた。
「リュイ、ちょっと口を開けて」
 私が強く言うと、リュイは目を伏せて苦笑した。
「早く」
 催促しても、リュイは何でもないというふうに軽く首を振って誤摩化そうとする。後ろにくくった淡い色の髪は少し乱れていて、リュイが首を振った時、まとまりきれなかった短い毛が彼の頬を包む私の手にさらりとかかった。
 ぱちぱちと小さくはぜる焚き火の音が静かな森の中に溶ける。
「開けないと、私、無理矢理口の中に指を入れるよ」
 リュイが困惑した様子で、必死に言い募り睨む私の肩を押さえ、膝からどかそうとする。このままだと有耶無耶にされそうだったので、私は抱きつくようにしてぺたんとリュイの腰に座り込み、動かないよっていう姿勢を見せた。
 どうしても聞いてくれないなら、ホントに指を入れてやる!
 と、意気込む私の顔つきに、リュイが少し慌てた。さっきよりも手に力を入れて私を降ろそうと苦心している。抵抗したけれど、リュイの方が勿論、力が強いんだ。ちょっともみ合っただけで簡単にどかされそうになり、私は咄嗟に叫んだ。
「エル!」
 私の忠実な護衛であるエルがぱっと飛び寄ってきて、驚くリュイの胸を額で突き倒した。私の意を汲み、地面に押し倒したリュイの腕を前足で遠慮なく踏みつけ、逃げられないように固定している。ふん、と勝ち誇ったようにエルは、呆気に取られた表情を浮かべるリュイを見下ろした。
 私は自分の身を重し代わりにするため、リュイのお腹に乗った。リュイの目が驚愕で見開かれていた。
「開けて」
 リュイはひどく焦った感じで顔を背け、何とか身を起こそうとした。私だけが乗っているのだったらリュイはあっさり起き上がったかもしれないけれど、とても頼りになる味方がいるんだよ。
 うん、エルは、私まで思わず仰け反ってしまうような低い唸り声を発して、懸命に逃れようとするリュイを威嚇したんだ。そのあと素早く体勢を変えてリュイの腰の上にだらっと横たわり、更にふあっと口を開いて腕を軽くくわえる。勿論、動きを封じるためで、歯は立てていない。エルは、もし動いたら本気で噛み付くぞって脅迫するように、リュイの腕をくわえたまま牙を剥いた。
 さすがにリュイは息を呑んだけれど、お腹の上に乗っている私が無理矢理口をこじ開けようとしたら、やっぱり嫌がるような素振りを見せた。
 もう、往生際が悪い!
 しばらく争ったあと、根負けしたらしいリュイが身体の力を抜いた。私はその機会を見逃さず、リュイの唇に指を添えて開かせた。
「リュイ――!」
 胸が押し潰されるような感覚が広がった。目の前が一瞬暗くなる。
 リュイの口内が、赤黒く爛れていたんだ。
「嘘」
 私は呆然と呟いた。
「何で!」
 何でもなにもない。私のせいだ。
 口の中が、火を押し当てたように焼け爛れている。舌までが真っ黒になって、まるで壊死しているようだった。唾液も変な色に染まり、唇の裏側の膜も溶け落ちている。
 声を出せないはずだ。こんなふうになっていたら。
「どうしよ……っ」
 こめかみががんがんと痛んだ。だって私のせいだもの。軽率な行動をとったツケをリュイに支払わせてしまったんだ。みだりに動くなってリュイがあんなに忠告してくれたのに、私、自分のことしか考えないで馬鹿な振る舞いをしてしまった。ただ無意味に反発するばかりで、旅にも慣れていて何が危険なのか熟知しているリュイの言葉を、私はちゃんと聞いていなかったんだ。
 その上、「冷たい」なんて勝手なことを思った。なんて恩知らずで馬鹿なんだろう。
 唐突にフォーチュンの言葉が蘇った。自分の無力さを棚に上げて、望み通りに現実が進まない時は他人を非難するって。救い難い愚かさ――本当にそうだ。
 自分の身体が冷水を浴びたようにすうっと冷えていく。どうしよう。
「薬、エル、薬を取って!」
 叫ぶ私に、リュイがそっと首を振る。こちらを見上げる月色の瞳はとても優しくて、責める色は何もなかった。
「ごめんなさい!」
 謝ってすむ話じゃない。でも、他に何て言えばいいのか分からない。
 どうしよう、オーリーン。私、この世界の人を助けたくて来たはずなのに。
 
 ――私が、リュイを殺してしまう。
 
 愕然としてしまった。なぜ私は守る立場じゃなく、ぬくぬくと守られる側で楽をしているの。
 自分の代わりに傷つく人がいる。身をすり減らして苦痛を受け止める人がいるのに。
 馬鹿だ、私。
 言葉を失った私の肩に、リュイが気遣わしげな様子で躊躇いがちに触れた。打ちひしがれる私を、ひたすら案じる曇りのない眼差しに、自分の偽善を思い知らされる。自分は非力だってみっともなく卑下して、その姿に酔って、今度は同情を買おうとしているじゃないか。
 エルがするりとリュイの腕を放し、側に座り込んだ。自分の汚さに絶句していた私はまだ動けなくて、心配そうな顔をするリュイの腹部に乗ったままだった。
「薬……使えないの?」
 聞かなきゃ何も分からない自分がいる。
 リュイは控えめに微笑して、首を振った。外傷用に使用している薬は、解毒作用を持っていないのかもしれない。
 私はまたごめんなさいと言おうとしてやっぱり告げられずに、リュイの広い胸に額を押し当てた。リュイはゆっくりと上半身を起こしたあと、縋り付く私の背をそっと撫でた。
 どうすればいい、オーリーン? 
 何か、何か方法は――。
 私は身を強張らせて、自分の口元を手で覆った。うがいをしても無意味なんだろう。でもこのまま何の手当てもせずに放置しておけば、毒はいつか身体中に回るんじゃないだろうか。よりによって口の中だ。唾液を嚥下する度に、毒素を体内へ流し込むことになる。
 私は強く目を閉じた。背を撫でる優しい掌の感触が、逆に苦しい。
 癒す方法は本当にない? 私は記憶を必死に漁る。どこかに救いとなる糸口はないだろうか。何でもいい。
 考えすぎたせいか、眉間が痛くなる。無意識に指を動かして額を押さえた時、固いものに触れた。額の石。
 
 ――神様達がくれた力の結晶。
 
 どんな力だろう。魔法とか使えたりしないんだろうか。でも呪文なんて知らない。正しい〈式〉が必要だってシルヴァイが説明してくれたけれど、魔法自体に馴染みのない私には一つも分からないんだ。
 私は目を閉じた先に広がる闇に意識を集中させた。考えなければ駄目だ。
 リュイが心配する気配が伝わる。
 どうしたら。
 唇を強く噛み締めた時、そっと顎に指を置かれ、顔を上げさせられた。真摯な瞳とぶつかる。気にしなくていい、っていうように月色の目がふわりと細くなる。
 あぁ、リュイ。
「ごめんなさい――」
 呪文なんて分からないの。
 癒す術を知らない。
 でも。
 神様達が私に力をくれて。
 だから私は、神様達の……眷属なんだって。
 呪文を知らないのなら。
 それなら。
 
 ――『神様の眷属』として、祝福を。
 
 一つ息を吸い込んで覚悟を決めたあと、おもむろに手を伸ばし、頬にこぼれているリュイの髪を掴んだ。少し訝しげにこちらを見返す瞳が、奇麗。
 意図を察して逃げられる前に、私はちょっと腰を上げて、不思議そうに瞬くリュイの目を覗き込む。
 祝福による癒し。できるかどうか。
 神様って清浄な気配を持っているはずだ。その理屈でいくと眷属らしい私にも、清めの気を他人に分け与えることが可能なのでは……と信じたい。
 突き飛ばされたら困るので、リュイの首に腕を回し体勢を整える。きりきりと胸が緊張して心臓が飛び出そうだった。
「――!?」
 リュイが驚いて、目を見開いた。
 
 ――ごめんっ。
 
 私はぎゅっとぶつけるように、リュイと唇を合わせた。
 リュイははっきりと身を硬直させていた。何をされたのか分からない、と絶句するような気配。一方私は記憶を辿り、オーリーンに口づけされたことを思い返してその通りに真似しようと必死だった。唇に触れる、意外なほど柔らかい感触。ええと、駄目だ、どんな感じだったっけ? 
 角度を調節して、ええと。
「!?」
 咄嗟という感じでリュイが、身じろぎする私の肩に手を乗せた。とても動揺しているようだったけれど、私だって同じくらい混乱の極地だ。
 ぎこちなく唇を合わせて、恐る恐るリュイを引き寄せる。うわあ、もうどうしよう。どうだっけ、オーリーン! 呼吸が苦しいっていうか、心臓がどきどきと苦しい。
 つ、っとリュイが息をとめ、微かに身を震わせた。
 ああもう駄目、失敗かもと思った瞬間、リュイの腕が背に回った。すっぽりと身体を包むリュイの腕。軽く吐息を押し込まれたあと、少し角度を変えられて、口づけを深められた。
 わっと私は心の中で叫んだ。唇を割って少し絡められた舌に、電気みたいな痺れが走る。喉を降りて身体の奥を通って、ぱっと飛散するように熱が弾ける。
 この感じは――シルヴァイの祝福を受けた時と似ている。熱が渦を巻いて、寒気がするような感覚。
 そんなことをぼんやり考えていたら、ふと思い切ったように強く舌を絡められた。苦くてきつい虫の体液の味がして、顔をしかめそうになったけれど、別のところで急に意識がふわっと浮かぶような感じがあった。柔らかくなぞられ、また深まって絡められる。リュイが一度、唇を重ねたままこくりと喉を鳴らした。すぐにきつく吸われてふっと意識が一瞬霞んだ。何だか恋人同士のキスに似ていて、陶酔するような感じで。
 あ、と気づいた。
 もう大丈夫だ、きっと。口移しで味わったぴりりとする苦みと痺れが消えていくのが分かる。
 私は安堵して、身を離そうとした。
 リュイ。
「んんんっ?」
 私は焦って、リュイの髪をちょっと引っ張った。も、もう、離して!
 と狼狽していたら、顎に片手を添えられて、もう一度強く唇を重ねられた。とにかく柔らかくて、温かくて、熱い体温までも明確に伝わった。何度も甘く貪られると、祝福とは別のくらくらするような熱が走り抜けた。何て表現すればいいんだろう、こんなに矛盾が満ちた感覚。変。頼りないのに優しく、激しい。しかも息苦しい。
 リュイー!!
 私はすっごく慌てた。待って、わぁっ。
 というか、呼吸をいつしたらいいの!? 
 意識が吹っ飛びそうになるようなリアルな唇の感触に、身体の力が抜け落ちる。
 死ぬかも、と思った時、間接的に微妙な衝撃が走った。衝撃っていうか、衝突?
 ぐるううう、と地面をがりがり削るかのような、苛立ちをこめたエルの唸り声が聞こえた。
 リュイが腕の力を緩めて、そっと唇を離してくれた。うわあ、何ていうか、うわわ。
 私はがちがちに凝固していた。頬がもの凄く火照ってしまう。こそりと窺うと、リュイの目の縁も微かに赤くなっていて、薄く開いた唇がなんだかびっくりするほど色っぽかった。普段は絶対に見せないような艶かしい表情で、思わず目が奪われてしまう。
 どこか激しく焦がれるような、熱情を宿した月色の瞳がしばらくの間、私を映していた。
 で、再び、とんっと奇妙な衝突音。
 エルが、うん、リュイの背中に頭突きをね……。
 リュイはゆっくりと瞬いたあと、緩慢に振り向いて、険しい目をするエルをぼんやりと見返していた。
 ぐるるるるっとエルが鼻の辺りに皺を寄せて威嚇というより恫喝って感じの唸り声を響かせる。
 エル……凄い顔だよ、それ。
 放心状態から立ち直った私が顔を引きつらせた時、エルがじゃりじゃりと地面を踏みにじって、近づいて来た。何をするのかと思ったら、まだ私の顎に添えられていたリュイの手の下をくぐって隙間に顔を割り込ませてくる。そして、私の胸を額で押し、リュイから引き離そうとしているみたいだった。
「エル……?」
 つい呼びかけた時、リュイがはっと我に返った様子で身じろぎした。大きく驚いている表情で、まじまじと私とエルを交互に見つめる。
 焦れたらしいエルが、視線を泳がせている私をよいしょと背に乗せた。リュイをうまく押しのけつつ。
「……」
 リュイはぽかんとその様子を眺めていたけれど、エルによって少し離れた場所に移動させられた私と視線が合うと、時間が停止したかのように硬直した。ぴきっと音がしそうな感じで固まっている。
 その反応、少し傷つくかも……。
 保護者のようなエルの尾にくるりと身を包まれながら、私は気を取り直してリュイの方を窺った。
「あの、口の中、治った?」
 オーリーンに祝福の口づけを受けたことを思い出して、もしかすると私もその行為でリュイに力を注げるんじゃないか、と考えたんだ。
 リュイは虚を衝かれた表情で、長い間私を凝視していたけれど、とても不機嫌そうなエルの唸り声で正気に返ったらしく、ぎくしゃくと自分の唇を押さえた。
「声を出せる?」
 リュイは長い指を自分の喉へと滑らせて、ふうっと息を吐いた。
「――ああ、痛みや痺れは、消えた」
 少し掠れていたけれど、問題はなさそうだった。
 
 ――よかった……。
 
 疲労と安堵がどっと押し寄せてくる。一か八かで試したんだけれど、本当に良かった。
「ごめんね、リュイ」
 最後にもう一度謝ると、リュイは自分の喉に触れたまま、不思議な眼差しで私を見返した。

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