F028
私はリュイと共に別室へ移動した。
ちょっとした調理道具が置かれているキッチンのような部屋で隠し戸を発見した。何となく倉庫を連想させる隠し戸の中は、広さはないものの他の部屋とは違い壁が厚く丈夫な造りのようで、その点から推測して多分緊急時の為に非常食や飲料水、幾らかの金銭を保管していたんだと思う。
家の持ち主には少し申し訳なく思ったけれど、薄闇が漂う隠し部屋に残されている物を見て、正直、助かった、と安堵の溜息を落としてしまった。
水や食料をどこで入手しようかという切実な問題、食事の度に頭を悩ませていたので、これで当面は安心できる。
隠し部屋の全体をリュイはざっと眺めてから、片隅に置かれている灰色の包みを手早く開いた。私は手近な場所に積まれていた木箱の上の埃を軽く払い、そこに腰掛けたあと、包みを確認するリュイの様子を見守った。
リュイが開いた包みの中には、日本で販売されているカロリーメイトみたいな色をした固形食の塊が入っていた。でも、カロリーメイトと違って、一斤分のパンくらいに大きい。
「食べられそう?」
賞味期限とかどうなのかなと思って訊ねると、リュイがこちらに視線を向け、小さく笑って頷いた。
「他にも持ち運べそうな物、ある?」
はい、とリュイは頷いたが、何となく困惑しているような、躊躇を滲ませた表情を一瞬浮かべ、周囲に視線を投げた。
多分、持ち主に対して罪悪感を抱いているんじゃないかなあと思う。仕方のない状況なんだけれど、私達がやっていることは盗みと変わらないし。
リュイは人を守り、犯罪を取り締まる立場にあった騎士なのだから、私よりも余計にひしひしと後ろめたさを感じているんじゃないかなあ。ここに人が暮らしていたという痕跡しか目にしていない私と、この国で日々を過ごし人々が生活を営む光景を実際に見てきたリュイとでは、やっぱり考え方や受け止め方の重みに明らかな差が出ると思う。仮にここが日本で、住み慣れた町の住居だったりしたら、悔恨とはまた違う、すごく胸に迫る何かがあるんじゃないだろうか。無責任な冷静さの中でそんなことを考える反面、心の動きを確認することがいつの間にか習慣になっている自分に少しどきりとした。
「リュイ」
「はい」
私は木箱から飛び降りてリュイの正面に回り、僅かに翳りが見える月色の目を覗き込んだ。
「神を知る者として、この罪を許します。……もし、全てが元通りになって、平和が訪れた時に、またここへ来ようね。たくさんお詫びの物を持っていって、無断で食べ物とか持ち出したこと、家の人に謝ろう」
リュイが目を見張った。
「ということで、今だけは目を瞑って、ありがたく貰おうね」
そう言いつつ、オーリーンやシルヴァイもきっと見逃してくれるよね、なんて心の中で弁解した。たくさんの葛藤を抱えているリュイの負担、少しでも減らしてあげたいんだけれど、余計な言葉だったかな?
動きをとめたリュイに長々と凝視されたので、私は笑みを浮かべながらも少し居心地が悪くなった。神様を持ち出すなんて、ちょっと偉そうだっただろうかと不安になる。都合のいい解釈は神様に対する冒涜行為だと思われたのかなあ。
「リュイ?」
侮蔑が返ってきたらどうしようと焦り、恐る恐る呼びかけると、リュイは我に返ったように忙しなく瞬きをした。微かに顔を歪め、心の思いを封じるように優しげな微笑を見せる。
「……ありがとうございます」
「駄目、敬語!」
悲しそうな、でも少し眩しそうなリュイの眼差しに戸惑いつつも、私はわざと明るい声を出して軽く睨んだ。
「ヒビキ――大目に見る気はありませんか?」
リュイが動揺を隠すように、ちらりと上目遣いで私を見た。うーん、リュイって本当に仕草が可愛いなあ、とつい笑ってしまった。
「ありません。私の方が年下だもの」
「しかし、それでは道理が」
「じゃあ、私もリュイに敬語を使いますか?」
絶句するリュイを横目で見ながら、私はそう茶化した。
「そうかぁ、私、お姫様でも貴族でもないから、身分的なことを言えば、リュイの方が位は上ですよね。呼び捨てなんて失礼なので、リュイ様って言います」
「……」
うわぁ、リュイってば、顔が思い切り引きつっている。
反応がとても素直で、生真面目で、リュイって本当に善良な人なんだなあと感心半分、からかい半分にそう思った。
「さあ、もう夕方ですし、急ぎませんと。他の包みも確認してみましょう」
「ヒビキ」
「リュイ様、手伝ってください。私はこっちの荷物を開けてみますね」
「分かった。あなたの言葉に従う」
リュイが少し項垂れつつ、降参したように小さな声で言った。うん、そうそう。女の子って無敵!
私はにこりと笑って、荷物を開けた。
●●●●●
隠し部屋で発見した戦利品を抱え、エルが待機する入り口へ向かった時には、薄闇が遥か彼方から村の中に忍び寄りつつあった。
寂しかったと訴えるように鼻を鳴らしてエルが大きく尾を揺らし、そわそわとすり寄ってくる。私は、胸に顔を押し付けてくるエルの額を、ごめんねの意味を込めて撫でたあと、これからどうするのか訊ねようと思ってリュイを見上げた。
思わずぎょっとするくらいにリュイが厳しい顔をして、暮れゆく灰色の世界を眺めていた。
「急ごう」
「う、うん」
リュイのきっぱりとした反論を許さない言葉に叩かれた思いで、慌てて頷いた。入手した食べ物や水、ちょっとした衣服などをまとめてエルの背に乗せようともたもたしていたら、手際の悪さを見かねたのか、リュイが腕を伸ばして素早く荷を括り、有無を言わせぬ厳然とした雰囲気で私を抱き上げた。わっと奇声を上げてしまったが、何かに気を取られているらしきリュイは頓着せず、唖然とする私の身を無言でエルの背に乗せた。
「こちらから村を抜けよう」
リュイが指し示した道は、私達が旅をしてきた方向とは正反対だった。恐らくそちらが南に該当するのだろうと思う。
戸惑いながらもエルを促すと、殆ど小走りと言ってもいい速さで歩き出す。
リュイも警戒を濃くして、低く駆けていた。
急に態度を変えたリュイの様子に私はどきどきしながらエルにしがみつき、薄闇に輪郭が溶け出した左右の建物を見回した。
その時だ。
「あ!」
私は大声を上げた。
エルとリュイが同時に私へ顔を向ける。
「今……」
今、建物の影で、何か動いた。
「駄目です、先を急ぎましょう」
またリュイ、敬語になっている……と注意できる気軽な雰囲気じゃなかった。リュイだって絶対、私が目撃した何かに気づいたはずなのに、見て見ぬ振りをしろと、切り捨てるような強さで言外に伝えているんだ。
でも、もし危険な魔物とか獣だった場合、このまま無視するわけにはいかないでしょう?
疑問に思って、私はエルにストップをかけた。
「止まってはいけない。村を出るのです」
「リュイ?」
リュイの様子が何か変だ。とても必死な感じで、私にその何かを見せまいとしている。魔物が出現した時の、痛いくらいの警戒とは全然違うんだ。
じゃあ、私が見た何かって。
――レイム?
絶対にそうだ、と私は高揚感の中で確信した。自分の感覚に自信を持ってしまうと、それが何より重大で正統なものだと勘違いしてしまい、どうしようもなく意固地にもなってしまう。優先順位を狂わせるたちの悪い意地だと振り返る余裕は失せ、もう呆気ないほど思考は容易く囚われるんだ。
リュイの声を無視し、私は急いで荷物の中からオーリーンの剣をひっぱり出した。
「何をする気です!」
私は剣を抱えて、エルの背から降りた。だって、レイムが、幽鬼がそこにいるのなら、この剣で元の人間に戻せるって!
意気込む私の前に、恐い顔をしたリュイが立ち塞がった。
「いけない、あなたには無理だ」
断定する口調に、私はむっとした。まだ試してもいないのに、どうしてそんなひどいことを言うの?
私は……何も役に立てなくて悔しいって気持ちをまだ捨てられずにいたんだ。
リュイは私のことなんか全然頭数にも入れてなくて、王子様にばかり期待をしていて。
何度失敗しても懲りない私。でも苦しいほど、リュイの負担を軽減したいってずっと思っていたから。
「――エル!」
咄嗟にエルを呼んだ。このままじゃ、リュイは問答無用で私の行動を阻止しようと動くだろう。そして、私の微小な力ではリュイをかわせない。
……呼んだのに、エルまでが躊躇いを見せて、リュイへ意見を窺うような視線を向けた。
エルにまで裏切られた気分だ。
――ひどい!
「エルっ!」
憤りをこめてもう一度呼ぶと、エルは束の間躊躇し、観念したようにさっと素早く動いた。――私の意に従うために。
「ヒビキ、駄目だ!」
手を伸ばすリュイの前に、エルが回り込み、低く咆哮する。
私はその間に剣を抱え直して、建物の方へと駆け出した。無意味なくらい、意気揚々とだ。
リュイが強く叫ぶ声が背中にはり付いたけれど、振り向いてしまうと、きっと迷いが生まれ、意志が挫けそうになる。
私は走った。建物の影。何かが動いた方向へと。
そうして、目にしたもの。
――え?
それは、想像していた幽鬼とは、違っていた。
●●●●●
私が脳裏に描いていたレイムの姿は、映画に出てくるような、身体が半透明の青白い朧げな幽霊だったんだ。オーリーンが悪霊って表現をしていたことがずっと頭に残っていたためだ。
だけど。
建物の影から這いずり出てきた影は。
確かに、確かに、アンデッド系ではあるのだろう。
――これが、レイム?
私は呆然としてしまった。
這い出てくるその異形の姿。アア、と甘えるような切ない慟哭を漏らして。
首が、まるで……ろくろ首みたいに伸びている。
違う、強力なゴムのように首の皮膚がぺらりと伸びているんだ。足や腕を引きずる度に、皮膚がねり飴みたく伸縮する。
でも、これ、人間だ。
私は真実の矢で胸を貫かれたみたいに、愕然とそう悟った。
半透明でも悪霊でもない。ちゃんと肉体があり、髪の毛がある!
震撼とする事実だった。人間としての形を、あまりにも留めすぎている容貌。肌の色も普通で、肩のラインもまろやかだ。ただ、手足と首が異常なほど伸びていることを除けば。
言葉を失う私の前でレイムが身じろぎし、着物の袖下のように伸びた手の先で、髪の毛を地に広げながら転がる首を起こしたあと、こちらへ顔を見せた。
――若い女の人だ。
私は一歩、後退りした。淡い金色の髪を持つ、か弱い表情をした女の人。裸で、悲しそうで。
「……何、これ」
私は愕然と呟いた。
女の人……レイムが、アアとまたむせび泣き、伸びた手の先で誘うように自分の胸を撫で回した。乳房の形が変わるほど、繰り返し撫でて、その内手が下腹部へと伸びて――
――嫌、気持ち悪い。
麻痺した頭の片隅で、寒気がするくらい嫌悪感を抱いた。人間じみたその動作が、姿が、信じられないほど醜悪だった。せめて、もう少し……化け物らしい外貌だったら、私は。
またレイムが、アアと泣く。泣いて泣いて泣いて、涙と共に眼球がぽろりと落ちた。
眼球が。
地面に転がる眼球を踏み潰して腰を振り始めるレイム。骨が覗く眼窩から、ゆで上げた麺みたいにつるりとした白い管がじりじりと垂れ下がった。
そうして、レイムは緩やかに、おぞましい化け物へと変貌したんだ。
レイムは快感に身悶えるように、あるいは痒がるように、大きく身をよじった。胴体が360度回転したんだ。するとぷちぷちと奇妙に小気味よい音を立てて、レイムのきめ細やかな肌が裂けた。特に腹部は、凄まじかった。柔らかい肉がねじ切れたあと、水音を響かせながら、薄い色の血と共に腸やその他の臓器が地面へ落下した。臓器の一部には、糸が絡まるように薄い皮膚が巻き付いていた。人体にはこれほど鮮明な色彩が隠されていたのだと、私は初めて知った。青い血管、無数の小さな突起がある黄色い臓腑、ピンク色の筋。ひだのある赤い肉。
肉体から零れ落ちた臓器は、どれも新鮮な色をしていて、ぴくぴくと動いていた。
縄の形をしたぬるぬると輝く卑猥な色の腸が、血に塗れた地面を魚の尾びれのように勢いよく何度も叩く。その飛沫が、放心して立ち尽くす私の頬にぴしゃりと跳ねた。腐肉のひどく生臭い匂いがした。
レイムは落下した臓腑を緩慢な動作で掻き集め、自分の口の中に突っ込んで咀嚼し始める。更には、裂けた腹部の中にまで手を入れ、クリーム色の脂肪に塗れた自分の肉を抉り取って貪り始めた。
白い膜に覆われた薄桃色の丸い器官がぐちゅりとレイムの手の中で握り潰される。どろっとした透明なオレンジ色の体液が滴り、地面を染める血に混ざって、マーブル模様を描いた。
噛み付くような勢いで、レイムはひたすら自分の身体を分解し、飲み込んでいく。
けれど、いくら食べても、腹部が捻り破られている。食べた分、また嫌な音を立ててぐちゃりと潰れた臓器が地面へ零れ落ちる。
それでもまた、自分の臓器や脂肪を嚥下する。しまいには、握り潰された臓腑が溶けて、汚物のように見えた。レイムは焦れた様子で喉の管を自ら引きずり出し、癇癪を起こした子供のように乱雑な仕草で丸めた。次に肋骨を折って、舐め始めた。やがてがりっと削るような音をさせ、骨端を噛み砕いたあと、内部に詰まっていたゲル状の細胞を、頬をすぼめて吸い、飲み下していた。
――人間が、壊れていく。
その過程を、私は目の当たりにしていた。狂おしく頭を振り回し、頭皮ごと髪を両手でちぎって。自分の舌までもちぎりとり、足の筋肉を雑巾のように捻り。人間が。崩壊する。
足元から悪寒が走った。これは何。私は何を見ているの。
「ヒビキ!」
名を呼ぶリュイの声が、とても遠い。音を立てて世界が震えている。
違う、震えているのは、私の身体。視界。
「……、リュイ、エル」
私の視線はレイムに釘付けだった。足が動かない。まるで凍り付いてしまったように、大地から足が離れない。押し寄せる猛烈な吐き気と目眩。
「見るな」
リュイがいつの間にか私を庇うように肩を引き寄せて、大きな手で目元を塞いでくれた。
けれどリュイの指の隙間から、地獄絵図のような、壮絶な現実が覗いていた。
オーリーンやシルヴァイは、何て忠告しただろう?
レイムを本当に殺せるのか。それがどれほど困難なことか、と。
リュイはどうしてあんなに懸念していたのだろう?
目を背けずにはいられないほど醜悪なものが溢れているって。
――私は、馬鹿だ。
「今は何も考えなくていい。忘れるんだ」
――忘れる?
「まだ大丈夫だ。――レイムは未だ、皮を脱いでいない」
リュイの声が私の意識を現実に引き戻した。
皮を脱いでいない?
「完全に『人』を脱ぐまで、襲っては来ない」
――『人』を、脱ぐまで。
「リュイ……」
「いいのです、忘れても。あなたが見るべきものではないのだ」
きゅうん、と心細そうに唸るエルの声が聞こえた。
私。
私は。
ここへ、何をしにきたの?
――怖い、怖い。誰か助けてお願い。殺せないこんなもの私には殺せない。
自分の中で無数の悲鳴がこだましている。
だって見てしまった。
人間の形を最初に目にしてしまったんだ。
人間なんだ。
この人は人間。
レイムを殺すということは、人間を殺す事と同義なんだ。
なぜなら私の頭には、はっきりと『人』の姿が焼き付いてしまったためだ。
もう駄目だ。
それを知ってしまった今、たとえどれほど原型を失い、醜怪な容貌へと変わり果てたとしても、私の脳裏から『人』の姿は拭えない。
重い。腕の中の剣が、どうしようもないほど重く感じる。
こんなの、嫌――。
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