F029
私には、人間は斬れない。
幼少の頃、命の重みが分からなかったことがある。命という言葉に詰め込まれた意味を真剣に理解しようとしなかった時期だ。遠い昔、暑い夏の日に――コンクリートを這う蟻を面白がって踏み潰したことがあった。斑点のようにコンクリートを穢す潰れた蟻の様子を見て満足感を得ていた過去が、なぜか今、唐突に蘇る。首筋を伝う汗や木漏れ日、立ちのぼる陽炎、埃の匂い、アスファルトに落ちる濃い自分の影、汚れた靴の下でばらばらになる蟻の胴体。蒸したような緑の匂いや蝉の鋭い鳴き声までもが、悪夢のように明瞭に思い出された。
何時からだろう。容易く生き物を殺してはならないって理解したのは。覚えていないけれど、それでも強く自戒するようになって、命の大切さや恐ろしさを知ったんだ。
「ヒビキ……下がっていなさい。後ろを向いて」
呼吸さえも許されないような重苦しい沈黙を、リュイが低い声で破った。茫然としている私の身体を労るような仕草で後方へ押しやり、リュイはすらりと大剣を手に取った。
リュイからレイムへ、私はぼんやりと視線を移した。
レイムは……次の段階へ変貌を遂げようとしていた。
四つん這いになって激しく痙攣する壊れた肢体。背骨が枝を折るような音を立てて盛り上がり、花開くように割れた。花弁のような艶のある赤い肉が骨に絡み付いていて、まるで肉食の植物を背から生やしているようにすら見えた。
レイムは唸って、一瞬、私の方へ顔を向けた。
眼球はないのに、なぜか見られていると感じて青ざめ、後退りした。
直後、葡萄の皮をはぐように艶かしい艶を見せて顔の皮膚がつるりと垂れ下がり、奇麗に剥け落ちた。剥き出しになる頭蓋骨。マスクでも被っていたんじゃないかって疑問に思うほど、簡単に顔の皮膚が剥けたんだ。
皮膚の繊維が唾液のように緩く糸を引き、頭蓋骨を濡らしていた。
激しい嘔吐感に襲われ、私は強く唇を引き結んだ。手の先も足の先も、氷に触れたかのように冷たくなっていた。
頭がぐらぐらする。私は無責任にもこのまま気絶してしまいたいとさえ思った。ううん、思うというよりも、最早祈りに近い感じだったんだ。
リュイが静かにレイムへ一歩近づいた。
真っ二つに裂けたレイムの背中から、何かが起き上がった。それこそが本物のレイムというべきなんだろうか。
一度ぐちゃぐちゃに攪拌された肉塊が生物の理を嘲笑うかのように出鱈目に融合し再構築され、異様な化け物への蘇生を果たしていた。溶解し、再生した血肉の化け物。もう、人の原型を一切留めてはいない。内臓の欠片が化け物のへこんだ頭部に付着している。ピンク色の筋が、唇をかたどっている。背中から生まれ出たその化け物は赤子と殆ど差異がないくらい小さな体躯だったのに、歪な頭部はそのままにして見る見るうちに膨れ上がっていく。
まるで、風船みたいに、内部が透けて見える体躯だった。
薄い半透明の鱗めいた皮膚で覆われている肉体。内部で循環を繰り返す、血肉や臓器。
虚ろな笑いが漏れそうになる。……ジューサーミキサーみたいな身体だ、と一瞬くだらない連想をしてしまったんだ。そのミキサーは不良品で、ミルクみたいな白い液体をだらだらと垂らしていた。
リュイは剣を振り上げた。
けれど、ほんの一瞬、振り上げられた剣が止まった。
――ああ。
その瞬間に、私は閃いてしまったんだ。
オーリーン達は、普通の剣や魔術ではレイムを元には戻せないと言っていた。けれど、殺す事は辛うじてできるかもしれないとも言っていた。
それはつまり、完全に変貌する前ならば、魂ごとレイムを殺害できるという意味だったんじゃないだろうか。
――でも、その事実は、とても酷い。
人間らしさを留めていた段階を目にしている上、しかも今は変貌途中であり無防備といってもいい状態なんだ。
躊躇わずにはいられない、悲しくも恐ろしい光景だった。嫌悪感と同じくらいの強烈な罪悪感や憐憫の念が胸に湧き上がる。
リュイは騎士だ。多分、過去には犯罪者とかを殺したことがあるかもしれない。
たとえ相手が改心を望まない凶悪な犯罪者だとしても、他人の命を奪うのはとても気が重く、覚悟を必要とすることだと思う。
法という支えがあり、人々の安全とためと信じても、やりきれないくらいの葛藤を味わうだろう。ましてやそれが元は普通の村人で、しかも無実であり被害者でもあるレイムが相手ならば――
だから、リュイは不用意に村へ接近しようとしなかったんだ。
森に潜伏していた方が確かに都合がよかったのかもしれないけれど、きっと感情的な面でも村へ足を運べなかったんじゃないか。
そうして、更に気づく。
リュイは、多分、この状況を恐れていたと。
自分では神剣を扱えないかと訊ね、一刻も早く王子様を復活させたいと願ったリュイ。
最小限の苦しみだけで、この過酷な現実から私を懸命に守ろうとしてくれていたんだ。
それなのに、私は。
リュイにレイムを殺させようとしている。
リュイが殺害すれば、二度とこの人は蘇生できない。レイムという化け物のまま魂もろとも消滅してしまうんだ。
ここでもまた、私の弱さをリュイが償おうとしている。
命を散らす罪を、自分が被ろうとしているんだ。
どれほどの覚悟で。
――駄目だ。
「リュイ」
今まさに剣を振り下ろそうとしたリュイの腕を、私は掴んだ。
リュイがぴくりと微かに身を震わせ、視線をこちらへ流した。
私は。
――動け、逃げるな!
精一杯の虚勢だったけれど、私は苦笑した。
「駄目だよ、リュイが斬っちゃ駄目なの」
嘘つき。嘘つき! 泣き喚きたいくらい、私の代わりに現実を変えてほしいと願っている。
「大丈夫、このくらい、覚悟してたよ?」
何も大丈夫なんかじゃない。覚悟なんて一つもできていない。心臓は今にも壊れそう、悲鳴が溢れそう。
それでも、自分の声はいつもと変わりないふうに聞こえた。
リュイがふと唇を開いたけれど、言葉はなかった。
私は意志の力で、リュイの奇麗な目を見返した。
「少し、驚いたけれどね。大丈夫、リュイ、ちょっと下がっていてね」
私は初めて、鞘から剣を抜いた。
音もなく抜けた剣は、予想に反して錆び付いているかのような鈍い色をしていた。汗ばむ手でぎゅっと強く柄を握り締めると、手の甲が急に熱を帯びた。
オーリーンが祝福をくれた場所が、剣に反応しているみたいだった。でも、どこか遠い感覚で、完璧には馴染んでいないようだった。
「ヒビキ、あなたは」
「エル、リュイを見ていてね」
リュイの台詞を遮り、私はエルへ視線を向けた。リュイが私を庇おうとして手出ししないようにと、そういう意味を込めた。
エルはとても利口だから、正しく理解したみたいだった。私達の間に大きな身体を割り込ませ、額を使ってリュイをぐいぐいと後ろへ押しやろうとする。
私はそれを確認したあと、レイムと対峙した。
……斬るために。
――どうしよう。
脂汗なのか冷や汗なのか判断できないけれど、私は全身に汗をかいていた。
どこを斬ればいいのかも皆目分からない。
怖い、オーリーン、三春叔父さん、賢治さん。私、人殺しになってしまう?
震えるな、動け動け!
たくさんの感情が爆発しそうなくらい胸の中で渦を巻いていた。剣を持つ手がかたかたと細かく震えている。
嫌だ、できない、逃げてしまいたい。
でも早く斬らないとレイムが。
――ごめんなさい!
肉体を膨張させたレイムが血塗れの手で、地面に転がっていた頭蓋骨を拾っていた。その手は虫のように、二本の指しかついていなかった。ううん、指というより、歪な突起物に見える。
ほぼ『脱皮』したレイムは、衣装みたいに脱ぎ捨てられた『人』の残骸を蛇の尾めいた舌でからめ取り、くちゃくちゃと音を立てて食べ始めた。その後、抱えていた頭蓋骨にこびりついている脳漿を掻き出し、スープのようにすすって――空になった頭蓋骨を、帽子みたいに自らの頭部に被せようとしている。
目を背けることができなかった。現実であるのに、ひどく感覚が希薄で、映画でも観ているかのようで。
斬りたくない、オーリーン、耐えられそうにないよ。
誰か、夢だと言って。
歯の根が合わなくて、心臓の音が耳障りなほどうるさい。
死ぬほど恐怖を感じているのに、私は。
レイムが頭蓋骨を頭部にめりこませる前に、握り締めていた剣を振り下ろした。
自分が辿る運命を、心が破れそうなほど強く理解した瞬間だった。
修羅道みたいに延々と続く、過酷な殺し合いの運命だ。
●●●●●
肉を斬った、という確かな感触があった。
寒気がするほど弾力のある感触だ。
ううん、完全にレイムの首を断ち切れたわけじゃない。
様々な感情が邪魔をして、きちんと力をこめられなかったせいだ。振り下ろした剣は、総毛立つような気味悪い音を響かせて半透明の皮膚を裂いたあと、肩口に埋まったまま抜けなくなってしまったんだ。
レイムが悲痛な鳴き声を上げて、いやいやをするように身をよじっていた。その度に剣まで揺さぶられ、私の身体もぐらついた。斬り口から、血の塊なのか肉片の塊なのか判別できないとろみのある体液が噴き出し、剣を握る私の手や袖を濡らしていく。体温を感じさせる生ぬるい液体の感触に、私は気持ちが悪くなった。
「ヒビキ!」
切迫したリュイの声がすぐ後方から響いた。
助けて、もう嫌だ。
そう思うのに、リュイは私の視界を塞いでくれなかった。だって私がエルに、リュイを近づけないよう頼んだから。
もう嫌、嫌だよ!
今すぐ剣を放り投げて、目も耳も塞いでしまいたい。どうして私がこんなおぞましい真似をしなきゃならないんだろう。どうして。
悲鳴が漏れそうになる。だけど柄を握る手はまるで縛り付けられたかのように離れない。
こんな現実、想像してなかった。もっと格好よく、鋭利にこなせるって、心のどこかで思い込んでいたのに。いざという時は夢物語の救世主みたいに強大な力を使えて、洗練された行動を取れるって、そんな期待があったんだ。けれど、今の私はすごく情けなくて弱くて、卑怯だ。
「……っ!」
剣を手放すには、レイムを最後まで斬らなきゃいけないんだ。
私はその事実に気が付き、ぞっとした。まだ斬らなきゃいけない!
喉からせり上がる悲鳴や怒りや絶望を、私は無理矢理、力へと変えた。ぐっと手首を固定し、押し付けるようにして剣の柄に体重を乗せる。ずぶっと奇妙な音を立てて、刃の部分が更に深くレイムの肩に埋まっていく。戦慄してしまうような光景だった。私が、殺そうとしている。
意識が霞みそうになった。こんな現実、私、知らない――
「ヒビキ」
失神する寸前に滑り込むリュイの声。
私は何度も瞬きを繰り返し、口内に溜まった唾液を飲み込んだ。
ここで気絶したら、リュイが殺害しなければならなくなる。
守られるためにいるわけじゃないんだ。
理不尽でも怖くても泣き喚きたくても、私が自分の意志で選んだ運命だ。
大丈夫、負けるな、すぐに、終わる。
一瞬で、終わらせれば、この人は元に戻る――
そうなんだ、レイムという化け物を殺せば、人間へと蘇生させられる。殺しであって、実は生かすための斬り合いなんだ。殺人じゃない、これは正しい行為だ、と私は言い訳のように胸中で繰り返し、その思いに縋り付いて、自分を正当化した。
私は最後の気力を振り絞って、剣を押す手にありったけの力を注いだ。
水が跳ねるような音が響いた瞬間、レイムの肩が二つに裂けた。
心臓を凍らせる甲高い断末魔の叫びが、周囲に広がった。
●●●●●
レイムを斬り裂いた反動で、私の身体は後方へと大きくよろめいた。
そのまま転倒すると思ったのに、背中が柔らかいものに衝突した。エルのふさふさとした毛が首筋をくすぐった。その場に屈み込みそうになる私の腕を、大きな手が掴んで支えてくれる。リュイだ。
不思議な光景を、私は目にした。
食べ物を焼く時のような、香ばしいとさえ思える音が聞こえた。レイムの胴体が苦悶を見せるような様子で前後に揺れ動く。おきあがりこぼしを連想させる動きだ。ぱちぱちっと火の粉が噴き出すように、肉片が飛散した。まるで、組み立てたパズルのピースをばらまいたみたいに。そうして溢れた肉片や血がまた磁石に引き寄せられるかのごとく寄り集まり、再度の構築を開始していた。
魔法みたいに、透明な膜の中で正確に積み上げられる肢体。白い肌、足。早送り再生しているようなスピードでレイムの身体が人へと復元されているんだ。脅威の速度で開始した回復と治癒は、人間としての秩序をレイムに取り戻させて、柔らかな輪郭を見せた。
――ああ、私……。
涙が出そうになった。泣くわけにはいかないけれど、ほんの少し前まで心に深く刻まれるほど感じていた恐ろしさを帳消しにするくらいの奇跡が、行われているんだ。
「――蘇った」
信じられない、という感じのリュイの掠れた声が耳に届いた。
透明な膜が裂け、羊水の役割を果たしているらしい薄い朱色の体液が吐き出されると共に、女の人の身体が地面に転がった。
レイムが、本当に人間へ戻ったんだ。
「あ、あぁ……」
細いたおやかな溜息。
私達の前で、若い女性が、蘇生を果たした。
この国へ降りてから目にした、一番最初の復活だった。
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