F030

「……わたし……」
 地面に座り込んでいる体液塗れの女の人が、どこかぼんやりした表情で私達を見上げたあと、聞き取れないほど小さな声で呟いた。
  
 ――戻った!
  
 人間に、戻せた。
 喜びなのか悲しみなのか判然としないくらいの、大きく激しい感情が生まれた。
 思い切り叫んでしまいたいような気分だった。身体中の細胞が、音を立てて活発に動き始めたみたいな感じ。凄い、凄い!
 出来たんだ、私にも、何かが出来る力があった。
 そういう盲目的な気持ちで胸が満たされていた私は、重要な事実が見えていなかった。女の人の復活は自分自身の力ではなく、オーリーンの剣によってなされた奇跡なんだと。私が抱いた驕りは、断罪の刃となって翻り、運命を再び切り裂くことになる。
「もう大丈夫! あなたは人間に戻――」
 自己満足に浸り過信して浮ついている私の声を、エルの冷静な低い唸り声が遮った。女の人に手を差し伸べかけていた私は、笑みを浮かべたままの間抜けな顔で振り向いた。
 喜びに溺れていた私の意識と、現実の落差。目に映る景色に、心がすぐには追い付けない。
 いつの間にか――
 周囲は暗い気配に包まれていた。
 その気配は、凄絶な現実の証でもあった。
「……嘘」
 私達は、こんなにも、こんなにも、無数のレイムに取り囲まれていたんだ。
 
●●●●●
 
「ヒビキっ!」
 愕然と立ち尽くす私を、いち早く我に返ったリュイが抱き上げた。その瞬間、矢のような速さで肉塊の弾丸がリュイの脇をかすめ、私が立っていた場所に突き刺さった。
 猛毒を仕込んでいたかのように、肉塊が貫いた地面がしゅっと変色し、腐敗する。
「乗るんだ!」
 リュイが乱暴に、私の身をエルの背へ降ろした。剣を構えようとするリュイの姿を目にして、私は咄嗟に彼の腕を掴んだ。一秒にも満たない時間の中で、私とリュイの視線が交差した。その直後、エルが許可するように身を僅かに伏せ、早く騎乗しろとリュイを促す。
 リュイは接近したレイムを蹴り上げ、遠ざけたあと、俊敏な動作でエルの背に飛び乗った。
 エルは器用に跳躍し、襲撃の姿勢を見せるレイム達を威嚇した。レイム達の咆哮は、まるで歌声のように高く、低く重なり合い、絡み合っていた。澱んだ色のでっぷりとした胴体に、ちょこりと乗せられている頭部。兜みたいに皆、白い頭蓋骨を被っていたけれど、胴体の形は千差万別だった。
 
 ――この数、とても相手にはできない。
 
 私は蒼白になった。村人の数だけ、レイムもまた存在するという事実が今更思い出される。
 たった一人のレイムでさえ、あんなに躊躇い、畏怖し、怯えた私だ。
 戦えない。こんなに沢山、斬れない。
 逃げるしか、自分達を救う方法がないんだ。
「……手を!」
 私はエルの背から、地面にうずくまっている女の人へ手を差し出した。
 女の人がぼうっと周囲を見回したあと、緩慢な動きでぎくしゃくと私の方へ指を伸ばす。
 白い繊細な手。
 指先が触れた瞬間。
「あ」
 驚愕に見開かれる女の人の青い瞳。睫毛が一本一本くっきりと見て取れるくらいに大きく開かれている。
 印象的な瞳だ、と思った時、女の人の身体が勢いよく後方へ引き倒された。
 背後に回ったレイム達が、女の人の肩や背に噛み付いたんだ。
 私は慌てて身を乗り出そうとした。助けなければ、女の人がレイム達に飲み込まれてしまう。
「駄目だ」
 エルから降りようとする私の身体を、リュイが強く抱きかかえた。
「放して!」
「もう間に合わない!」
 私の身体を拘束するリュイの腕に、力がこめられた。
 
 ――だって、そんな!
 
 蘇ったのに。
 エルが逃走の構えを取った時、女の人の絶叫が響いた。助けて、嫌、置いていかないで、と。
 壊れた音楽みたいに不自然に尾を引く女の人の懇願。
 助けたいのに、人間に戻ったばかりの人なのに!
「そんな……!」
 目に焼き付く、残酷な現実。
 死に物狂いでもがき号泣する女の人の白い裸体が、飛びかかるレイム達によって覆われていく。見え隠れする彼女の肢体が何度も大きく弾む。裂けるほど左右に広げられた脚の間に割り込む醜悪な化け物の肉体が、叩き割るような勢いで彼女の腰を責め始めた。陰部を抉り、引き裂く化け物の淫らな肉塊。皮膚が裏返り、潰れた臓器が伸縮を繰り返している。半壊している幾つもの穢れた手が、揺れる白い胸や腕を掴み、ちぎり、そして、陵辱の行為が続き。鮮血に塗れた局部から無造作に引きずり出される内部器官。涙に濡れた女性の白い頬に、噛み付く化け物。狂気の中の結合は速度を増す。救済の光が届かない、この無慈悲な光景。精神も身体も地獄へと突き落とされる。誰の名のもとに祈りを捧げれば? 救いはない、どこにも。赤い花。血の花。闇に咲く惨劇の花。溶ける、意識が。恨み、絶望、果てがない!
 化け物の狂宴だ。
「あ、あ、ああ」
 私、狂いそう――
 女の人の肉体が蹂躙される一際凄まじい音が響いた時、私の視界は真っ暗になった。
 リュイの腕が、私の目をすっぽりと塞いだんだ。そして、天を貫く慟哭までも遮断するように、固い胸に私の耳をぎゅっと押しつけてくれる。
 でも、漏れ聞こえる女の人の、魂を破壊するような怨嗟の声が。
 私が大きく身を震わせると同時に、エルがレイムを薙ぎ倒して、全速力で逃走を始めた。
 
 この世界は、壊れている。
 
●●●●●
 
 一体どこに潜んでいたのかと思うほど、村中にレイムが溢れ返っていた。
 建物の影から、木陰から、闇の奥から、次々と無数に。
 私はただ震えながら、リュイの胸にすがりついているしかなかった。揺れる視界を埋め尽くすレイムの姿、繊細とも言えるような鳴き声。闇を震わせ、こだましているみたいだった。
 異常に膨張した身体もあれば、搾られたみたいに細い身体もあった。背の高さも様々で、それこそ絵に描いたような醜い化け物達だった。
 半透明の皮膚の中で踊る血肉がごぽごぽと鳴っている。手がなく、虫のように足が八本生えているレイムもいたし、頭部が二つくっついているレイムもいた。左右の腕の長さが違うのもいる。蛇のように、這うものも。
 この世の悪と醜さを、隙間のないほど詰め込んだかのようなレイム達。世界を汚穢の息吹で染める、狂った幽鬼だ。
 けれど、この化け物達は、皆、人間だったんだ。誰かに恋したり、時には喧嘩をしたり、そうやって毎日を生きてきた人達。
 夜の到来と共に出現したレイム達は、獣のような動きで、そして獣のような速度で、私達を襲撃した。
 私達は、脆弱な獲物にすぎなかった。
 悲鳴さえも出ない。金縛りにあったみたいに身体が強張っていた。
 私とリュイを乗せたエルが必死に右へ左へと駆け、レイム達を蹴散らそうと苦心していた。
 
 ――もし、逃げ切れなかったら。
 
 私も、あの女の人と同じ運命を辿るに違いない。
 肌という肌が粟立つくらいの恐怖が一気に目覚める。レイム達に身体を蹂躙され、貪られ、引き裂かれて、正気を失い、そして最後に自分も化け物と成り果てる。
 荒い呼吸が漏れた。
 
 ――絶対に嫌だ!
 
 女の人を見殺しにした罪悪感よりも、自分が犠牲になるという恐怖の方が、遥かに勝っていた。これが、私の偽りない本音だった。けれど今は、自分の卑劣さを噛み締めるよりも、この場を逃げ切る方法を考えるだけで精一杯だった。
「――ヒビキ」
 すぐ真上から、リュイの落ち着いた低い声が響いて、私はぎくりと肩を揺らした。
 心の奥底に秘められていた汚い感情を覗き見られたんじゃないかって、血の気が引いたんだ。
 振り向くことはできない。エルの背から落下しないよう、後ろに騎乗しているリュイが片手で私の身体をしっかりと抱えているためだ。
「いいですか、決して聖獣の背から、降りぬように」
 耳に唇が触れるほど、声が近い。
「今度こそは、止まらないで、お行きなさい」
 
 ――また、囮になる気だ!
 
 私は寒気を覚えた。
 咄嗟に、リュイが行動を起こすより早く、私は自分の腰に回された腕を強く掴んだ。
 ……あぁ、私の行動は、どこまでも保身のためだ。
 リュイがレイム達に殺害されることを、恐れたんじゃない。
 私は――、一人になることを、恐れた。
 リュイの身を純粋に心配しているのではなく、彼が囮となったあと化け物の中に一人取り残されるのが嫌で、引き止めたんだ。
 取り繕えない明らかな本心に、絶望した。
 自分可愛さのために、リュイの気持ちまでも踏みにじってしまったんだ。
 私は目を見開いた。視界を埋め尽くすレイム達の姿より、自分の心が一番、汚濁に塗れている。
 こんな思いは、リュイへの裏切りだ。
 自分自身でも今まで気づかなかった傲慢な汚い感情が、この世界へ来て以来次々に暴かれている。
 腰を支えてくれるリュイの腕をぎゅっと掴む自分の手が、浅ましかった。
「リュイ……」
 
 ――ごめんなさい。
 
「ヒビキ、手を放してほしい」
 戸惑うリュイの声に、無言で首を振った。
 放せない、ごめんなさい。
 ここで本当にリュイを見殺しにしたら、私はケダモノだ。
「大丈夫、逃げ切れる……」
 そう信じなければ、自分を保てない。
 けれど、道という道は全てレイム達で塞がれている。どれほどエルが俊敏であっても、村を出る前に捕まってしまうだろう。
 エルは苦肉の策といった様子で、道の端に立っている太い木の枝に飛び乗った。葉は全て枯れ落ちていて、黒い枝が剥き出しになっていた。丁度その木は人の手を模倣したような形をしていて、枝の位置が幾分低かった。
 一時凌ぎにしかならないと理解していても、木の上に避難するしか方法がなかったんだ。そのくらい、私達は窮地に追い込まれていた。
 このままじゃ数分も経たない内に、レイム達が木に登ってくる。そして私達にはもう、逃げ場がない。
 私達を騎乗させているエルは不自由な体勢で枝に乗っている。本当に、逃げられない!
「――効果があるかは分かりませんが」
 焦燥感を含んだリュイの声に、恐怖に染まっていた私の意識が一瞬、クリアになる。
「……え?」
 振り向くと、リュイは背後にくくりつけていた荷物から何かを抜き出していた。
 宝石みたいにカットされた、不思議な珠。野球ボールくらいの大きさだろうか。その珠の中で、火が燃えていた。
「法具です。先程、家屋を探っている時に発見しました」
 いうやいなや、リュイはその珠を、道で蠢くレイムへ向かって投げつけた。
 レイム達の中へ珠が落下した瞬間――光が弾けた。
 そこから水色の炎が広がったんだ。
 
 ――助かる!?
 
 私は一瞬、やった、と大きく安堵した。
 これで助かるに違いないって。
 だけど自分の考えは、どこまでも甘いんだと思い知らされた。
 炎にまかれるレイム達。
 笑っている。
 炎と楽しげに戯れて。
 呆然とする私の前で、レイム達がダンスのような動きを取り始めた。激しく足を踏み鳴らし……炎を踏み消すために、踊り出している。
駄目だ、もっと大きな炎であれば、効果を期待できたかもしれない。でも、この程度しか広がりを見せない炎では、ほんの一、二分足止めするのが限度で、追い払うことすらできない。
 どうしよう。
 私は汗ばむ手でエルの鬣をぎゅっと握り締めながら、必死に思案した。道を焦がす炎の明かりで、町の様子が垣間見えた。まるでホラー映画みたいに、濃さを増してゆく夜の中で、無数のレイムがひしめいていた。
 少しでも足止めが可能なうちに、エルに頑張ってもらって逃走するべきだろうか。けれど、レイムの行動を制止できたのは、炎が揺れている私達の周囲だけにすぎない。道の奥まで、びっしりとレイムがいるんだ。
 退路はない。
「リュイ……、さっきの法具、まだ残ってる?」
 一瞬の間を取ったあと、リュイは低い声で、二つあります、と答えた。私は一度、強く目を閉じ、震える息を吐いた。たった二つ。逃げ切るには、とても足りない。
「他に、何かないかな?」
 確か、家捜しした時、私にはよく分からない物をリュイは選んで荷物に詰めていた。そろそろ、炎の盾が崩れる。何か、何か方法を見つけないと、私達は――
「ヒビキ」
 私はエルの上で体勢を変え、リュイの脇をくぐって荷物に手を伸ばした。もぞもぞと動く私が落下しないよう、リュイが慌てて支えてくれる。
 神剣であれば、レイムに対抗できる。けれどそれは、私が剣を上手に使いこなせればの話なんだ。躊躇いと恐れしか抱けない今の私では、剣を操ることは無理だった。想像の中だけしか、頼りになる自分の姿を描けない。
 
 ――早く、早く、何か逃げる方法を。
 
 私は恐怖に駆られながら、荷物の中に手を入れた。
 分からない、どれがどれなのか。頭の中も心も滅茶苦茶。ちゃんと考えられない。こっちの世界の物なんて、私、知らない!
「ヒビキ」
 混乱して喚きそうになった時、リュイの腕が遠慮がちに私の腰に巻き付いた。
「私は――あなたの望む通りに」
「……え?」
 頭上から、生死を左右する危険な状況には全然そぐわないリュイの穏やかな声が降ってくる。
「あなたが使命を優先させたいと願うならば、私が道を作りましょう」
「駄目って言った! 一人だけ、危険の中に行くのは駄目だって、私、そう言った」
 お願い、私をこれ以上卑怯な人間にさせないで。
「では、私と共にいて下さるというならば」
「リュイ?」
 少しだけ、私を支えるリュイの腕に力がこもった。
「――あなたの最期を私に」
 レイム達の嬌声に負けてしまいそうな程、小さな声が聞こえた。
 
 ――私の最期?
 
「人としての、死を」
 あ、と思った。
 それはつまり。
 
 ――自殺だ。

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