F31
人として死ぬ方法。
リュイが抱いた覚悟を悟り、私は愕然とした。
ここで、人として命を絶てば、レイムに穢されることも、また彼らの仲間入りを果たして永遠に闇を彷徨わなくてすむ。
――逃げ切る時間はないけれど、自殺する時間なら、あるんだ。
リュイが提案するまで、そんな選択肢がまだ残されていたということに気がつかなかった。言葉にならない感情が芽生え、身をよじりたくなる衝動を堪えるために、私は音を立てて唾液を飲み込んだ。リュイの言葉の意味が理解できたのか、エルが憤慨した様子で低く唸った。
正直……少しだけ、心が引きずられそうになった。
でも、なぜなのか自分でも理由は分からないけれど、自殺という手段はこれほど切迫した状況に立たされている今でさえ、ひどく現実感が乏しかった。ここで自分が死ぬという図が、ぴんとこない。オーリーンと口論した時に、自分の意志でお城から身投げしたことがあったけれど、今とは少し状況が異なる。あの時はすごく感情的になっていて、ただ勢いのまま飛び降りただけなんだ。
私が今、自殺にちょっとだけ誘惑を感じたのは、本当にどうしようもないほどだらしない理由のためだ。死ねば、この先に味わう苦痛や恐怖から目を背けられるっていう弱い心が生んだ安堵。それだけ。
きっとリュイは、もっと深く真剣な思いで、私に語りかけているんだろうと思う。その上で、ここまで覚悟を決めている。
――ああ、そんなの、いけない。
私は、ぼんやりとそう確信した。
リュイは、多分、私のことを誤解している。出会い方が普通じゃなかったし、私がここへ来るまでの状況が念頭にあるから、過大評価をしすぎているんだ。
私個人の考えなんて、殆どその場の雰囲気に流されて生まれる程度の浅はかなものでしかない。
ここで軽々しく自殺という方法を選んで、リュイを巻き添えにしてはいけない。だってリュイは、私を殺害したあと、自分も命を絶つつもりなんだろう。
そんなことをしたら、リュイは二重の罪を被る羽目になる。
私を殺害するという罪。
自分を殺害するという罪。
リュイに、その言葉を言わせたのは、私だ。
自分自身の胸に返ってくる悲しい言葉を、私の弱さが言わせてしまったんだ。
――本当に、本当に、私は何て狡いんだろう。
私は血が滲む程唇を噛み締め、きつく瞼を閉じた。そしてすぐに目を開く。視野一杯に広がる、悪夢のような現実。紛れもない、私の現実。
腰に回されたリュイの大きな手を、ぎゅっと強く握った。いつも血に塗れていたに違いない、リュイの手。血を拭い取るたび、心の中の優しい柔らかな思いを喪失したに違いない。
自分の命を惜しまない人だ。
身体だけじゃなくて、こんなふうに心まで犠牲にして、私を助けてくれようとしている。
「リュイ……駄目だよ」
この人を守ろう。リュイが守ってくれる以上に、守れたらいい。
「ヒビキ」
「危険な時は、二人ですみやかに逃げようねって、約束したよ?」
「――」
私はすうっと息を飲み込むと同時に、恐怖も飲み下した。眉間の辺りが、ひりひりとなぜか敏感になっていた。
――逃げ切ってみせる。
絶対に死なせないし、死なない。必ず生き延びてみせる。
余計な事を考えるのは、あとにしよう。
今はただ、生きることだけを誓い、覚悟を決める。
私はもう一度、荷物の中を探った。指が、ぽちゃんと水滴の音がする袋に触れた。
水。家捜しをした時に発見した水だ。
――そうだ。
荷物の脇にぶらさげているバッグを手繰り寄せた。私が日本から持ち込んだバッグだ。
この中に、確か、あれが。
朧げな記憶を頼りに、バッグの内ポケットを探す。
あった!
銀色の小さな四角い物。
ジッポ。
何でこんな物がバッグに入っているかというと、三春叔父さんに禁煙させようと企んだためだ。叔父さん、以前から禁煙するって宣言してたくせに、いつもあともう一箱だけって言い訳しつつ、煙草を吸い続けていたんだよね。
焦れた私は、こっそり叔父さんのジャケットから、ジッポを抜いて自分のバッグに隠しておいたんだ。
「ヒビキ、それは――?」
訝しげに訊ねるリュイへ顔を向け、微笑んだ。
「リュイ、ちょっとの間、私を支えていてくれる?」
「何をするつもりですか」
私はジッポと水が入った袋を抱えながら、落ちないようにゆっくりとエルの背に立ち上がった。
リュイが慌てて私を支え、エルも背を動かさないようにしてくれるつもりなのか、大人しくなった。ごめんねエル、踏み台の代わりにして。
体勢を整えたあと、地上を見下す。さっきリュイが投げた珠の威力は、もう殆ど効力を失いかけていた。
炎を払ったレイム達が、いよいよ私達を襲いに詰め寄ってくる。
私は深呼吸したあと、かちんと音を立ててジッポの蓋を開けた。ついでに、袋の口も開ける。
論理的には、リュイの毒を癒した時と同じ。
――神様の眷属。
未だにシルヴァイ達から与えられた力の使用法は分からない。
でもシルヴァイは風と大気を司る神様。
私の名前は大気を友とするものだから、シルヴァイに属するんだって言っていた。
「あなたは、一体何を」
――シルヴァイ、力を貸してね。
殆ど捨て身の作戦みたいなものだけれど。
水は清めの代わりとして、使える。
私は自分の指を口の中にいれ、覚悟を決めて思いっきり、噛んだ。
――いっっ、たーい! うわあ、痛い!
自分で噛んだんだけれど、あまりの痛さに涙が滲んだ。私、実はちょっと八重歯気味なんだよね。食事中とかに時々舌を噛んで、痛さに呻いたことがあるんだ。
「ヒビキ!?」
リュイの驚きを含んだ声を聞き流しつつ、恐る恐る口の中から指を出すと、赤い血がぽたり、垂れ落ちた。
口の中にも血の味が広がって、気持ち悪くなる。
私はつい渋い顔をしながらも、血が滲んだ自分の指を、水が入った袋の入り口に差し込んだ。水に指先が触れて、ぴりっと一瞬、痛みが走る。
私はこんなことを思い出していたんだ。
聖者の血。
映画で、観た。
たとえばだけれど、キリストの血を含んだ布は、聖布って呼ばれている。
血が、聖なるものの象徴になることもある。
私自身は勿論、全然聖人なんかじゃない。けれど、ほぼ成り行きって感じで、シルヴァイとオーリーンに力を与えてもらい、人でありながら神様達の眷属だという言葉で後押ししてくれた。
私の力じゃない。それでも、神様達の言葉には、きっと大きな意味があるはずだ。私の身に、巡る血に、神様達の祝福が真実、与えられたのならば。
――聖水に、変わって。
祈ってみる。
そして、風を。
シルヴァイは風の神様だから。
ヒビキ、ってリュイが名を呼ぶ声が聞こえた。
私はボールを投げる要領で、血を混ぜた袋の水を、眼下の道にひしめくレイム達へ、勢いよく振りかけた。――不思議なことに、普通であれば自然の法則で水が遠い所まで届くはずがないのに、袋ごと投げた水がきらきらと軌跡の残像を見せて大気の中に散ったんだ。
しゅっと私はジッポの火をつけた。
一度、手の中の小さな炎を見つめたあと、私は――
ジッポを、投げた。
ジッポの火は、音もなくレイム達の中へ吸い込まれていった。
その瞬間、鮮明な、青色の火柱がレイム達の中から次々と上がった。
「!」
リュイが息を殺した気配がした。
レイム達の中へ投げたジッポの火が、彼らを濡らす水に触れたようだった。水はまるで、ガソリンの役割を果たしているみたいに見えた。
ぼっと大きな音を立てて、レイムが火柱と化した。それがどんどん別のレイムへ飛び火していく。炎というより、花火のように勢いのある光の束に似ているかもしれない。その証拠に、地面は一切燃えていない。ただひたすら、貪欲にレイムだけを焦がしている。
法具によって生まれた水色の炎とは、比較にならないほど強烈だった。どれだけレイムが暴れても、青い火は決して鎮火できない。火は時折燦然とした光を放ち、抵抗するレイムの身体に蔦のように絡み付いている。
レイムの凄まじい呪詛が聞こえた。どこまでもこだまする怨嗟の声が、幾重にも重なり合って、嵐のようにさえ思えた。
もがくレイム達の姿は、心を凍らせる地獄絵図のようだった。
糸が切れた人形のようにくるくると出鱈目に踊っているみたい。レイムの身体が崩れていく。青色の火が劇性を含む酸みたいにレイムの肌や肉を削ぎ落とし、泡を立てて地面を黒く穢していく。
まだ被害に遭っていないレイム達が、切ないような雄叫びを上げて、逃げ出していった。容赦のない青色の火は、意志を持っているかのように次々とレイム達を束縛し、溶かしていった。
――まさか、ここまで。
これほどの効果を発揮するとは、予想していなかった。
私は愕然と目を見開いて、右往左往し逃走するレイム達を眺めた。
自分がやったことなのに、私は焦り、身震いした。神様がくれた力は、私の狭く小さい心の容量を遥かに超えていてみだりに操ることは許されない程強大なんじゃないかって、この時初めて気がつき、警戒と深い不安を覚えた。だとすれば、私の選択次第で途轍もなく壮絶な事態を招くことになる。今、目にしている光景のように。
まるでこの景色、神様が制裁しているみたいなんだ。
オーリーンが悲しそうに言っていたもの。神様が纏う神威はあまりに巨大で、そのため地上へ降りることは決して許されないって。だけど私は神様に力を貰った。結果、オーリーン達は神々が定めた戒律に裁かれた。逆を言えば、制裁しなければいけないほど危険な力だということだ。
その巨大な力を振るわなければ、フォーチュンに選定された後継者には到底立ち向かえないからって。
容易いことではないと、オーリーンがあんなにくどく忠告してくれたのに、私は言葉の意味をきちんと理解していなかったんだ。
「こんなことが……」
茫然自失とした感じのリュイの声で、我に返った。ぼうっとしている場合じゃないんだ。
「リュイ、エル、今の内に、逃げよう!」
私は急いでエルの上に座り、リュイと視線を合わせた。
リュイの強張った顔。
私は、一瞬、硬直してしまった。
リュイの目にはっきりと浮かぶ、恐れ。それが畏怖と呼ばれるものなのか、恐怖なのかは判断できなかったけれど、この光景を作った私に対して戦慄していることだけは確実だった。
……少なくとも、同じ人間を見る目じゃない。
リュイはこの現実を目にして、私が神様と会ったという奇想天外な話を、初めて信じたんじゃないかって思う。
きりっと胸が鋭く痛んだ。
――全部、あと。何かを思うこと、考えることは、あとでいい。
「エル、急いで!」
私が強い口調でお願いすると、エルは心得たように鬣を振り、大きく跳躍した。
一瞬の浮遊感のあと、私とリュイを乗せたエルは、振動もなく上手に地面へ着地した。
どちらが南か分からなかったけれど、とにかくレイムの数が少ない方へ、エルは駆けた。溶け崩れるレイムよりも、まだ全然無傷の者の方が多いんだ。
でも、どのレイムも逃げることに必死で、私達が横をすり抜けても、追ってこようとはしなかった。
エルは低く、静かに、駆け続けた。
こうして、私達は、ウルスの村から抜け出した。
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