F32
私達を乗せたエルは、ウルスを遠く離れた林の方へ向かって走った。
エルが敏感に私の精神状態を察してくれて、ウルスから十分な距離を取ったあと、身を隠すのに適している灌木が密生している場所で止まってくれた。夜明けが来るまで、私達はそこで身体を休めることにした。
「ヒビキ」
乾いた地面の上に腰を落ち着けたあと、気遣わしげな表情をしたリュイが、毛布代わりの布を俯く私に渡してくれた。私はなんとか微笑を作って、毛布を受け取った。
「……気分の方は」
「うん、平気」
私は平静を装って、いつも通りの口調で答えた。毛布を肩にかけて、ほうっと息をつく。
エルがきゅうんと切なげに鳴いて、しきりに鼻を私の腕に押し付けてきた。私はゆっくりと、エルの鬣を撫でた。
リュイの視線を感じたけれど、誤摩化しの淡い笑みを浮かべるだけで精一杯だった。さすがに、リュイの顔をちゃんと正視できない。きっとリュイは、私に言いたい事や聞きたい事がたくさんあるんだろう。でも、どれも言葉にならない――言葉にしてはいけないと危惧しているように思えた。なぜなら、一度放った言葉はあとで後悔しても絶対に取り消せない。何かしらの結末を呼ぶ。
……まだ、動いちゃ駄目だ。もう少し我慢しないと、不自然に思われる。
「リュイ、怪我はない?」
「――ありません」
「そっか」
お互いが慎重になっているせいか言葉数が減り、口調も態度も冷淡と取れるほど素っ気なくなってしまった。
「少し眠っておかないと、駄目だね」
私は不毛な会話を早めに切り上げるため、エルのお腹に寄りかかり休む姿勢を見せた。エルが何度も、きゅう、って寂しそうに喉を鳴らしていた。
「ヒビキ」
「あ、その前に、エルに水をあげないと。ご免ね、疲れたよね?」
私は身を起こして毛布から這い出たあと、バッグの中に入れているペットボトルを手に取った。掌に注ぎ、尻尾を落ち着きなくぱたぱた動かしているエルへ差し出す。
「さっき……折角手に入れたお水、あんなふうに使ってご免ね」
「そんなことは――」
「あとどれくらい、水は残っているかなあ」
リュイが一瞬、傷ついたような、不思議な表情をしたけれど、すぐに視線を落として感情を覆い隠し、荷物の中を確認した。
「水袋はあと二つ、ありますが」
「神殿までには、なんとか持つかな?」
「厳しいところですが……間に合わせねばならないでしょう」
リュイがそう言うのなら、本当にぎりぎりなんだろう。
「食料の方は、十分持ちそうですが」
「そうかあ」
私は吐息を落とした。エルは遠慮しているのか、あまり水を飲もうとしなかった。少し考えて、干し葡萄みたいな食べ物を、エルに差し出した。エル、これはよく食べてくれるんだよね。
「ここ、どの辺りか、分かる?」
「恐らくウルスより西南に位置しているのではないかと」
目的地であるラヴァンから、少しルートが外れてしまっているようだった。
「多少迂回する事になりますが、それほどのずれはないと思います」
「あ、そうなんだ」
リュイの台詞がまた敬語に戻っていたけれど、それを指摘する力がなかった。ただ疲労感が溜まっているだけじゃない。身体の重さがじわじわと増してきている。お腹の底にぎゅっと力を入れないと、頼りない意識が闇の中へ一直線に落ちてしまいそうなんだ。
多くの思いを含んだリュイの視線を感じるたび、不自然にならないよう振る舞いつつ色々と質問したり確認したりして誤魔化した。
もうそろそろ、いいだろうか。
「……ええと、ちょっと行ってくるね」
腰を浮かせてそう告げた時、リュイがはっと顔を上げ、緊張した表情を見せた。
「あの、来ちゃ、駄目だからね?」
私は恥ずかしそうな表情を作って、わざと困った声で言った。
こんなやり取り、今まで何度かしていたんだ。トイレに行きたいから、絶対についてきちゃ駄目って遠回しにお願いしているわけで。
案の定、リュイは言葉の裏に含まれた意味を察し、焦ったような慌てたような、何とも言えない顔をして素早く頷いた。
こんなふうに伝えておけば、真面目なリュイが私のあとをつけて行動を監視することはないって分かっていたんだ。
「えっと、すぐ戻るからね。何かあったら、大声で呼ぶね」
いつものように、そう付け足した。あくまでも普通の態度を崩さず。
狼狽を隠そうとしているリュイに背を向けたあと、私は意識的にエルの丸い目をじっと見つめた。お願い、絶対にリュイを私の方へ近づけないでね。
エルはとても利口。少し身を起こしかけたけれど、私の意図を察したらしく、悲しそうにきゅんと鳴いてもそもそと地面に身を伏せた。
私はようやく、リュイ達の側を離れることに成功した。
●●●●●
いつもより十分な距離を取ったところで、私は立ち止まった。
不思議な樹木が不均等に沢山密生している場所だ。古い枯葉が落ちずに重なり合っていて、まるでパイナップルみたいに枝が膨らんで見えた。全体像は大きな盆栽を連想させる。ごろごろとしていて、重量感があって、丸い印象。
幹も太かったので、リュイ達の視線を遮る役目もきちんと果たしてくれそうだった。
私は、ふうっと肩の力を抜いたあと、額を乾いた幹に押し付け、こっそり用意して背中に隠していたタオルくらいの大きさの布を取り出した。
何度か瞬いてゆっくりとその場に屈み込み、そのタオルを口元に当て、静かに吐く。
胃がひっくり返りそうになるくらいの強い嘔吐感に胸を搾られ、声なく喘いだ。
お腹が巨人の手でぎゅっと握り潰されたかと思うくらい、不規則に痙攣し始める。吐瀉物の嫌な匂い。それでもタオルを当てないと、リュイ達に音が聞こえてしまうかもしれない。
――人殺しだ!
頭の中に叫び声が響き、血の気が引いた。
私が殺した。レイム達を……人間だった村の人達を。
自分が招いた現実と、それによりもたらされた一つの厳然とした容赦ない事実が意識を染める。
神剣で斬ったわけじゃない。レイム達は青色の火に焼かれ、溶けていった。
その結果として。
――恐らく、蘇生はもう望めないだろう。
私は自分のために、あの人達を犠牲にした。
生き残るために、だ。
自分だけが、無傷だ。目も見えて、呼吸もできて、自由自在に手足が動く。五体満足で普通に生きていられる。何の犠牲も払わずに、平気な顔を晒してここにいる。
強烈な吐き気がまたこみ上げてくる。喉を押さえるようにして、嘔吐時の音を殺す。
あの場に、レイムは何人存在していただろう?
そして、何人、火柱と化したのだろう? あの無慈悲な青い炎は、一体どれだけの数の住人を焼き滅ぼしたのか。
――人殺し。
嘘だ、こんな現実って!
身体が壊れたように大きく震え出した。
私が殺したんだ。人を、沢山の人を殺してしまった。嘘だ、誰か助けて。
もがきたいくらい苦しみが広がって、呼吸が次第に荒くなる。タオルを捨て、爪が割れそうなほど地面に指を食い込ませて、叫びそうになるのを堪える。
――どうしてこんな、誰か助けて、人殺しだ私、私、誰か!
嫌だ誰か助けて。沢山の人を、本当に殺してしまったの? 誰か答えて。
「……っ!……!」
――泣くな!
駄目だ、泣いてしまったら、目が腫れて、必ずリュイに気づかれる。泣けない。そうしたら、また全身傷だらけのリュイに全てを背負わせる羽目に。
でも。
……でも!
――怖いよう!!
私は両手で髪を掴んだ。人殺し。言葉が、罪が、身体の中をぎっちりと埋め尽くす。破裂しそう。
「……!!」
髪を掴んでいた指が顔を滑る。
指の隙間から覗く幻影。燃えるレイム達。怨嗟。慟哭、糾弾の声。どうして殺したのって彼らが叫んでいる。もがき、手を伸ばし、焼かれて溶けながら、黒い涙を流し、私に恨みの目を向けている。
私達が何をしたのかと。救う為に来たのではないかと。
なぜ、殺されなければならないのか――!
――ごめんなさい許してくださいごめんなさい!
許されない。許されるはずがない。未来を奪った。命を焼いた。自分のために。
ああ私は人殺しだ沢山殺して自分だけ逃げて――。
意識が霞む程、再び激しい嘔吐感が押し寄せた。もう吐くものがない。でも、えずいて不用意に音を立てるわけにはいかない。どうすれば。
「……っ」
悲鳴が喉を突き破りそうになった。頭がおかしくなる。心がレイム達の目で埋め尽くされる。貫かれる、大罪を告げる叫びに。あまりに大きい制裁。犯したのは私で、あぁ、精神が彼らの憎しみで血塗れに。
――もう戻れない。私は、人殺しだ。
強くえずきそうになる。音を防ぐために、私は自分の指を喉の奥へ突っ込んだ。たとえ胃液でも何かを吐き出さなければ、嘔吐感がおさまらず音を立ててしまいそうだった。そうしたらリュイはきっと気づく。見られたくない。こんな自分の姿。私に嘆く権利なんて何もない。リュイのあの目。畏怖、恐怖? どちらにしても、排除する目。忌避する目。その上に、憎悪と怒りを上塗りされ、唾棄されるなんて、耐えられない。
無理矢理に吐いて、喉の奥が破れたみたいに痛くなった。熱い。全部、どこもかしこも。胃液の匂い。指に触れる舌、粘膜。引き裂いてしまいたい!
――三春叔父さん、賢治さん、私、人を殺してしまった。
もう会えない。許して下さい。許されない。
どうしてだろう。ただ、何か役に立てたらと。そう思っていたはずなのに。
もう二度と、幸せになってはいけない気がした。幸せを感じて笑う事も、きっと許してはもらえないないだろう。もし私が逆の立場であれば、絶対に許せない。これほど酷い真似を平然と他人にしておきながら、自分だけは幸福に包まれるなんて。
なぜこんなことになってしまったんだろう。願うこととは正反対の方向へ事態が運ばれていく。こんな運命、一度だって望んでなかった。
激しい身体の震えを抑えるために、指先が白くなるほど必死に両手を組み合わせる。自然と、祈りを捧げるような格好になった。祈りの形を取る手に強く額を押し付けた。吐き気がやまなかった。
「神様、助けて」
無意識に、掠れた声が漏れた。
同時に、心の奥底から低い恨みの声が湧き上がった。
――神様さえ犠牲にしたくせに。
「あ……」
呆然としてしまった。身の内から響いたその低い声に、何かを断ち切られる。
これ以上、誰に祈れば――。
全身から力が抜け落ちる。全ての感情が、波が引くように消えていく。
放心して、未だ組み合わさったままの両手を見下ろした。固く繋がれた指を、一本一本ゆっくりと自由にした。
何を祈るのだろう。祈って何かが変わるだろうか。
私は周囲を見回した。現実に変化はない。暗い世界。命を賛美する鳥の歌声も、小川のせせらぎも聞こえない。依然として、重苦しい闇が存在するだけ。瀕死の月がぽかりと空に浮かぶだけだ。
何かを言おうとしたけれど、言葉は出なかった。
ただ、もうリュイ達の所へ戻らなければ、怪しまれると思った。
私は何かに突き動かれるようにして立ち上がったあと、吐瀉物に土をかけ、汚れたタオルを埋めて、自分が束の間狂乱に陥った痕跡を素早く消した。戻らなきゃいけない。私、戻らないと。
どこかが麻痺している。
私は静かに、リュイ達の方へ足を向けた。
何のために戻るのか、もう分からなかったけれど、本能みたいに、心の中で戻ろうって繰り返していた。
不良品のカメラみたく、視界が右へ左へ何度もずれる。瞬きして調整してもまたずれていく。
沈んだ色の月の下――リュイとエルの姿がぼんやりと見えた。
リュイは私を追おうかと迷っているような感じで、立ち上がっていた。エルもなんだか、そわそわした様子でうろついていた。
目が合う。
リュイが、戻ってきた私に気づいて、硬い表情を浮かべた。奇麗な月色の瞳の奥に宿るのは、やっぱり異質な存在に対する恐怖なのだろうか。リュイの中で湧き上がる感情の正体を見定めていいのか、ちゃんと考えられなかった。
飛びつくようにしてエルが駆け寄ってくる。鼻先を一生懸命私の腕に押し付けてきて、不安そうにきゅんと鳴き声を聞かせた。
私は、ただ――
意識したわけではなかったのに、自然と笑みが唇に浮かんだ。
手に触れるエルの毛が気持ちよくて、そっと顔を押し付けた。
眠らなきゃ、とそれだけを思った。
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