F33

 私達はそのあと、まともな会話もせず、すぐ眠りについた。
 リュイとエルを気遣う余裕がなかった私は毛布を頭までかぶり、身を丸めて、暗い穴の底へ落ちていくかのように深く眠った。
 とても怖い夢を見た。
 それはきっとただの悪夢なんかじゃなくて、現実を投影した景色に違いないと思う。
 建物も木々も朽ちたウルスの村に作られた、屍の山――。
 
●●●●●
 
 翌朝、私は何気ない口調を装って、リュイにお願いを一つ、した。
「時間を無駄にすることになって悪いけれど、もう一度、ウルスの村に寄っていい?」
 野宿の痕跡を消していたリュイが、訝しげな顔で振り向いた。
「ここからなら、お昼までにはウルスに辿り着けると思うんだ」
「……なぜ、戻る必要が」
「実はね、ジッポ――私の世界にある物で、火をつける道具なんだけれど、それをウルスに置いてきてしまったの。ええと、昨日、レイム達に向かって投げた銀色の小さな道具。本当はあれね、私の叔父さんの物なんだ。だから、どうしても取りに行きたくて」
 私は予め用意していた言い訳を口にした。
「捨てていくべきなんだって分かってるんだけれど、向こうの世界と自分を繋ぐような物を一つでも失うの、何だか怖くて……」
 白々しい弁解だと思う。それに、こんな言い方はとても狡い。けれど、本音を伝えた場合、リュイは絶対ウルスに立ち寄る事を許可してはくれないだろう。
 
 ――昨夜見た夢が、現実なのか、確かめたいんだ。
 
 リュイの視線を感じて、私はいたたまれずに俯いた。疾しい気持ちのせいで、リュイの顔をちゃんと見ることができなかった。
 リュイは凄く迷っている様子だった。できるならばウルスには戻りたくないだろう。無理を通そうとする私を、不審に思って当然だった。
「――なくせぬ物なのですね?」
 念を押すようにリュイがそう言った。私は早くこの会話を終わらせたくて、何度も頷いた。
「分かりました」
 リュイの微かな返事が聞こえた。諦観とも悲嘆とも取れるような、吐息混じりの低い声だった。
 
●●●●●
 
 ウルスにはお昼前に到着できた。
 予想より早く到着できたのは、エルが緊急時でもないのに私だけじゃなくてリュイも背に乗せてくれたためだった。なんだかエルは凄くしゅんとしていて、元気がなかった。どこか怪我をしているとか、それとも疲労がたまっているのかなって心配になったけれど、どうも違うみたいだった。
 
●●●●●
 
「あぁ……」
 私はエルから降りた。瞬きも忘れて、昨夜の襲撃の跡を眺めた。
 鈍色の空の下、明かされる惨劇の名残。
 私はエル達から離れて、ふらふらと歩いた。悪夢と現実が、ぴたりと重なっていた。
 道を埋め尽くす、屍の山――。
 恐れた通りの酷い景色が、目の前に広がっていた。
 私は一番近くに転がっていた、黒こげの死体に近づいた。
 それはまさしく、目を覆いたくなるような、凄惨な焼死の跡だった。
 血を混ぜた水を浴びて焼かれたためなのか、どの死体も真っ黒に焦げていたけれど、レイムの姿ではなく人間の形へ戻っていた。その事実は尚更、大量殺戮の証として、私に突きつけられている。
 これで私は……レイムを殺したのではなく、人々を殺害したのだとはっきりしたんだ。
 もう戻らない。黒こげの屍を神剣で斬っても、魂は戻らない。
 私は震える手を、煤で汚れた死体へ伸ばした。
 熱はもう失われていて冷たく、けれど、皮膚や肉が焼け爛れているせいで、ぬるりとしていた。黒い染みが、遺体の下に広がっていた。骨が見えている死体もあった。でも、その骨さえ、中まで黒ずんでいた。
 私はぼんやりと、周囲を見回した。苦悶を全身で表現しているような死体もある。地を掻きむしり、救いを求めるように腕を精一杯伸ばしている死体も。炭化した焼死体の下半身は、大きくちぎれていた。
 頭の中で、誰かが大声で叫んでいるような錯覚があった。私はその場にへたり込んでしまった。
 丁度、視線が別の黒い塊をとらえた。
 
 ――どうして。
 
 目に映った黒い塊は、他の死体よりも随分と小さかった。焼死の場合、肉体は熱硬直し自然とボクサーみたいに身を屈めた体勢を取るっていう話を聞いたことがあったから、そのせいかと一瞬思ったけれど、違うとすぐに気づいた。顔の半分が、焼け残っていたんだ。黒く炭化した部分から広がる紅斑。赤みを帯びた所が鈍い艶を見せていて、ひどく生々しい。
 ……子供、なんだ。
 まだあどけない年齢の子供まで、焼き殺してしまった。
 煤で汚れた頬。きつく閉ざされた瞳。想像を絶する恐怖と苦痛を味わったままの歪んだ表情で固まっている。
 命の気配は皆無で、ただ恨みだけが揺らめいて立ちのぼっているように思えた。
 身体中から力が抜ける。何を思えばいいのか、分からなかった。
 私はまた、ふらりと立ち上がった。歩いても歩いても、たくさん焼死体があって、道は黒くて。
 途中でつまづき、転倒してしまった。視線をずらすと、私の足首は、死体の手に引っかかっていた。まるで、私の足を掴み、死に彩られたこの村から逃がさないようにしているみたいだった。その手を外そうとして、ふと気づく。自分が、誰かの死体の上に乗っているという事。焼かれて溶けた黒い皮膚が、私の服にべたりと付着していた。手にも、靴にも。
 目を閉じていいのか、開けていいのか、歩いていいのか、立ち止まっていいのか――。
「ヒビキ」
 突然、声と共に、身体を持ち上げられた。私は声が出なくて、自分がどこにいるのか分からなかった。
 きゅん、という必死な鳴き声が聞こえる。
 何度も瞬きを繰り返す内に、ようやく意識が現実を捉えた。私はリュイに運ばれて、黒い道から少し外れた場所へ移動させられていた。倒れた木の幹に、私の身はそっと降ろされたようだった。
 きゅう、とエルが私の頬を舐めていた。ふさふさの鬣や鼻を押し付けるように、何度もすり寄ってくる。
 不意に手を取られて正面を向くと、リュイがぎこちなく地面に片膝をついていた。腰に下げている小さな袋から薄い布を取り出して、ぼうっとしている私の腕を丁寧に拭ってくれる。布に、黒い染みが付着する。
「リュイ……」
 リュイが手を止めて、私を見上げたようだった。でも私は、リュイの背後に広がる黒い道を見ていた。
「ご免ね」
 私が死ぬべきだった――お前が死ねばよかった、とそう糾弾されたい。
 この現実を目にして、やっとそう思った。遅すぎる思いだった。
「ご免なさい。私は――この世界へ来てはいけなかった。余計にリュイを苦しませて、残酷な事をして」
「ヒビキ」
 強い声音で呼ばれたけれど、視線が定まらない。くらくらして、とまらなかった。
 困っている人を助けようと、手を差し伸べるのは立派な行いだと言われるだろう。でも、出来もしない事を安易に引き受けるのは、もっと大きな災いを呼ぶ。私は、そんな未来を、知ろうとしなかった。無知で子供だから、という言い訳では決して許されないことがある。
「ご免なさい」
 呟いた時、両腕を揺さぶられた。
「ヒビキ、私を見て下さい」
 私は長い時間、目を閉ざしたあと、静かにリュイを見返した。
 リュイはやっぱり奇麗な目をしていて――とても狂おしい感情を宿らせているように見えた。
 不意に、冷たくて固い物が手に乗せられる。
 ジッポだ。
「これを探したいというのは、嘘ですね。あなたは、この惨状を目にするため、戻ったのですね」
 そうだと答えたら、罵られるかな。それとも、殺意を感じるほど、憎悪を抱くだろうか。
 私は、リュイの世界を少し、壊してしまったんだ。
「見て下さい。私を」
 もう一度リュイの、真剣で、ひたむきな瞳を見詰め返す。
「私が何を思うか、分かりますか」
 殺されてもいい。私はそんな覚悟を抱いた。
 リュイの手が、私の喉に触れた。
「私が昨夜、何を考えたと思いますか。あなたが苦しんでいる間、一人で罪の意識に苛まれている最中――私は、確かに、喜びを――」
 
 ――喜び?
 
「滅びが国を覆い始めた頃、各地で暴動や争いが勃発しました。被害の少ない敵国が、それを契機として侵略を企み、軍を進めてきた事も。私は騎士です。このように、村を、森を焼いた事もあったのです。その時は、虚しさしか抱かなかったというのに、今は」
 リュイの目が過去を映し、そしてすぐ現実に戻る。
「気が狂れそうになる程、喜びを抱きました。なぜなら、あなたは、彼らよりも、私と生きる道を選んだのです」
 違う、私は自分があの女の人と同じような、無惨な運命を辿るのが嫌で――。
「彼らを犠牲にしてでも、私と共に歩む道を、あなたは示した」
「リュイ、私は」
 苦しい。
 奇麗な感情なんか、私の中に何もなくて、ただ。
「結果的に、そういう事なのです。あなたが良心の呵責に喘ぎ、罪を思うと同等の分、私は強く浅ましい愉悦を覚えました」
 そう告白するリュイの目に、浅ましい色なんて見えなかった。優しさと労り、悲しみが満ちている月色の瞳。
 私を慰め、安心させようとして、そんな言葉を口にしたんだろうかと思い、心がまた重くなった。
「そして、あなたが自国を思う為に必要な物を取り戻しに行くと聞いた時、私は咄嗟に引き止めたくもなったのです」
 リュイの手が一度、私の頬をそっと撫でた。すぐにその手はおろされた。
「けれど、あなたの本心は、自国と繋がる物にはなく、罪にのみ向いている。やはり私は喜びを覚えます。拭えぬ罪を前にして、強く優越感を抱いたのです」
 リュイは目を伏せ、静かな動作で私の膝にことりと頭を乗せた。
「あなたが罪の意識に苛まれるほど、恐らく、私は満たされる。あなたを苦痛の中に溺れさせたくはないと思う反面、共にいることを願いました。私にとってこの景色が示す罪は、深く暗い歓喜の姿――」
 違う……。私はもっと、汚い事を考えているのに。
「これは私の罪でもある。彼らを犠牲にする事を、私は受け入れたのですから」
「違う。私が殺したんだよ。リュイの気持ちを考えずに、私は逃げるために、殺してしまった」
 リュイがあの時見せた瞳の色が忘れられない。畏怖と恐怖。その境なんて、とても些細なものだと思う。
「ならば、私にも背負わせて下さい。罪を」
 私の膝に頬を預けたまま、リュイが視線を上げた。私はぐっとお腹に力を入れて、身体の深い所から湧き上がる衝動を必死に抑えた。駄目だよリュイ。優しい言葉が、とても辛い。本当に、縋りたくなってしまう。泣いて謝って、「辛かったでしょう、もう大丈夫、全部忘れていい」って、そんな甘い言葉を望んでしまう。私が願えば、リュイはきっと欲しい台詞を紡いでくれるに違いない。せがむ分だけ、与えてくれるんだ。
 でも、それをしたら。
 私は今よりもっと醜い子になる。限度を知らずにいつまでも自分にとって都合のいい言葉を求め、餓え続ける。更に傲慢に人を傷つけて、心を鈍らせていくんだろう。
 私の前に広がる、背負いきれないほどの罪。たとえ背負いきれないと感じても、目を逸らしてはいけない。忘れる事は許されない。罪を裁くのは人、心を裁くのは自分。
 ここで自己憐憫に浸ったり、自分を罵ることで罪を軽減しようとするような狡い態度を取れば、リュイまでも同じ穴の中に引きずりこんでしまうんだ。
 リュイは優しいから。
 甘い言葉は駄目、なんて思いながら、私はこうして卑怯な姿を見せている。自分の責任だと項垂れて、それで反省してますって殊勝な素振りを見せて。リュイは絶対気づくって、知っているのに。
 一体いくつ、私は狡さを増やしていくつもりなんだろう。何度、言い訳を繰り返して自分の弱さを許したのか。
 
 ――そうなんだ。リュイは畏怖や恐怖とかの感情を私に対して抱いただろうに、それでもこうして柔らかく心を包んでくれようとする人だ。
 
 私は手を伸ばして、リュイの髪に触れた。
「ありがとう、その言葉だけでもう十分」
 本当にもう十分なものを貰ったじゃない。たとえ以前と違っても、リュイの優しさは本物だった。
 リュイは頭を上げて、小さく首を振った。
「あなたの言葉の意味は?――ヒビキ、私は」
 リュイは口籠り、一途にじっと私を見返した。
 強くなりたい。もっともっと、誰も死なせずにすむよう、こんな景色を、二度と生み出さないように。
 強くなりたいと願う以上に、強くなりたい。
 迷いさえも、強さに結びつけられたら。
 弱い自分を叩き割って、歩かなければ。
 いつか、この国の人達に、裁かれよう。
 ちゃんと心に刻んでおかないと、私は弱いから、忘れようと考えてしまう。
 ごめんなさい、今は前に行かせて。
 きっと戻る。この場所に。
 その時、私を断罪してください。
 
 ――たくさん、たくさん強くならなきゃ駄目なんだ。
 
「あのね」
 私は震える心をおさえ込んで、ちょっとだけ笑った。
 そして、ぎゅうっとリュイに抱きつく。
 リュイが驚いたように、少し身じろぎしていた。
 ご免ね、私に触られるのは、怖いよね?
 だけど、一瞬だけ。
「私の言葉の意味はね」
 負けないように、誓うから。
「うん、リュイ」
「……ヒビキ?」
 私は身を離して、戸惑うリュイの顔を覗き込んだ。
「リュイ、まだ敬語使ってるから、ペナルティをとらなきゃなあって」
 ぺなるてぃ? と不思議そうに瞬くリュイへ、微笑を返した。
 
 リュイの向こう側で、人々の痛切な想いが、陽炎のように揺らめいていた。

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