F34

 神殿が存在するというラヴァンまでの行程は、過酷に違いないという予想に反して平穏だった。
 ウルスの村を目指していた時は、その道中で魔物の襲撃を受けたり虫の被害に遭ったりしていたから、もっと距離が長いラヴァンに到着するのはとても困難だろうと心配していたので、なんだか逆にこの平穏さが不気味だった。
 枝が傘の形みたいにゆるやかに垂れ下がっている木の下で休憩を取った時、ふと思い立って、旅の過程と地形をメモしておく事にした。こちらの世界で暮らす人々は、あまり詳しい地図や手記を残さないって話だったけれど、私はそんなに記憶力が優れている方じゃないので、こうしてメモしておけばいずれ何かの役に立つんじゃないかなって思ったんだ。
 もしこの手記を落として誰かに読まれたら――という不安については、浅慮かもしれないけれど、そんなに感じていなかった。まだこの国の人々を誰も復活させていないため読まれる心配はない、という理由以外に、もう一つ、こういった事実がある。
 
 ――日本語を読み解ける人は、エヴリールにいないと思う。
 
 この国の文字と日本語って、たとえば英文字と比較しているくらいの違いがあるんだ。図形の場合は判読される可能性が高いけれど、それを説明する言葉は日本語。悪用される心配は殆どない。そういった理由もあって、メモを残す事に決めた。
 私のバッグの中には、お気に入りのシールとかをぺたぺたとはり付けた青い手帳も入っていたりする。三春叔父さんがそういえば、私のバッグの中を見て、なぜそんなに余計な物を持ち歩くのかって悩んでいたけれど、女の子には色々と必要なアイテムがあるよね。
 手帳にはいつでも書き込み出来るようにって、緑と黒、色違いのボールペンを二本、差しているんだ。
 手帳のボタンを外してぱらぱらとめくってみると、平和な日本で暮らしていた時に色とりどりのペンで書き綴った他愛無い言葉がページの上で踊っていた。付属のクリアファイルに挟んでいた映画のチケットの半券や友達と撮った数枚の写真、叔父さんの名刺、シール、誰かの電話番号を書いた紙切れ。学校の時間割。地元の公共施設案内図とか鉄道路線図を目にした時、すごく複雑な気分になった。この世界に路線図は無用なんだ。
 ノートには、ちょっとした日常を書いていたり、友達の悪戯書きがあったり。予定表には、別にわざわざ書き記す必要なんてなさそうな罪のない計画が書かれていた。ありふれた、でも幸せな日常の断片が、ノートにたくさん記されている。私は涙腺が緩みそうになって、焦ってしまった。この文字は確かに、自分が記入したものなのに、ひどく遠く思えた。血の匂いとか、恐怖を伴う静寂とか、そういう殺伐とした空気を知らない頃の私が、ページの中にいる。
 ダイアリーの欄に書かれたこんな言葉。『今日、ミスド100円。食べ過ぎた。甘いー!』とか『美術の武田、めちゃヤバイ。ていうか、期末テストもスゴイヤバイ』とか。たった一言、『今日はぼんやり』や『暑い!』としか書かれていない日もある。けれど、何だか華やかに思えて。凄く普通だったはずの出来事がちりばめられた日々には、もう手が届かないんだ。カレンダーはちょうど、私がこちらへ迷い込んだ日から、空白のままだった。
「……ヒビキ?」
 私の様子を窺っていたらしいリュイが遠慮がちに声をかけてきた。
 感傷に浸っていても、状況はきっと好転しない。私はすぐに笑みを作って、返事をした。
「リュイ、危険はなさそうだから、少し多めに休もっか。仮眠、ここでとらない?」
 リュイは相変わらず、いつ眠っているのかというくらいに毎晩見張りを続けてくれた。ウルスを脱出してから既に四日が経過しているけれど、この期間、魔物の襲撃を受けたのはたった二度で、しかも簡単に振り切れるような危険度の少ない小物達ばかりだった。余裕のある時に、たくさん休んだ方がいいと思うんだ。
「私、起きてるから休んでね」
「あなたは何をしているのですか?」
 リュイは礼儀正しい人だ。私がいいよって言うまで、勝手に手帳を覗き込んだりしないで、答えを待っている。
「ええとね、色々と気づいた事を、書いておこうと思って」
 寝そべりながらがりがりと地面を削って掘り出した土塊を転がしたり、長い尾をくるくる回したりと、一人遊びをしていたエルが、ふぐーっていう感じに鼻を鳴らしたあと、私の腕にすり寄って手帳を覗くような仕草を見せた。エルって文字、分かるのかな?
 リュイは見てもいいのかと訊ねようか、迷っているような表情を浮かべた。リュイの目に、日本語ってどう映るのかな。
「私の国の言葉、こんな感じだよ」
 私は手帳を掲げてみた。リュイが少し腰をずらして、私の隣に座った。
「……興味深い文字ですね」
 ううん、やっぱりこっちの国の人には奇妙な記号として映るみたいだ。それに手帳やボールペンにも興味深そうな視線を向ける。玩具を前にした子供みたい……っていうのはリュイに悪いかな。
「あなたの国の言葉ですか」
「うん。これがね、私の名前。三島、響」
 私は試しに、ボールペンで自分の名前をノートに書いてみた。リュイは瞬きもせず、記された文字をじいっと見つめていた。
「ヒビキ……、響」
「うん」
 何度も確認するようにリュイが名前を呼ぶから、何だかくすぐったい気持ちになる。
「不思議な……美しい綴りですね」
「そうかなぁ」
 私にとっては見慣れた文字だから、不思議というリュイの気持ちが、不思議。
「私にも、あなたの国の言葉を教えていただけますか?」
「うん? いいけれど……でも、覚えてもあまり使い道はないと思うよ? 私にしか通じないと思う」
 誰かに手紙を書いても、相手は日本語が読めないだろうしね。
 でもリュイは、かまわないというように緩く首を振って、はにかむような表情を見せた。
 私はちょっと眩しい思いでリュイの微笑を見つめたあと、記憶にある限りの色々な出来事をノートに書いた。ウルスまでの行程。村の様子。簡単なイラスト。魔物や虫とか、木々の絵とかね。特に魔物については丁寧に書き込んだ。地区によって出没する魔物は決まっているのか、旅を続けていけばそういうこともいずれ見えてくる。魔物の特性なんかも詳細に記した。後々、この地区にはこういう魔物がいるから回避した方がいい等の判断ができるだろう。
 リュイは仮眠を取らないで、私が手帳にメモする様子を静かな目で見ていた。何だか、とても穏やかでほんの少し、寂しさが募るような休憩時間だった。
 友達と撮った写真を見せた時は、リュイは本当に目を丸くしてしばらく固まったあと、深く感嘆していた。一体どういう技術なのかって興味津々に質問されたけれど、カメラの具体的構造はちょっと分からないので、光を利用し被写体の像をこういう特殊な紙に焼きつける機器だ、というとっても簡単な説明しかできなかった。
 暗闇で光るハートや星型の蓄光シールを見せた時も、びっくりした顔をしていた。リュイの表情がホントに素直で思わず笑ったら、少し動揺したみたいに視線を泳がせていた。きっと照れているんだなあ。
 多分、久々に優しい時を過ごせたんじゃないかって思う。とても貴重な時間。いつまでも平和な時間がずっと続くはずがないって覚悟をしながらも、この一瞬を掌の中に隠して守りたくなるような、切ない気持ちになった。
 リュイは、何を考えているのかな。
 日本語をリュイは読めないけれど、レイムの事を書く時はやっぱり胸の中に冷たい何かが広がって、怖じ気づきそうになる。今のリュイは柔らかな眼差しをしている。私はそんな奇麗な目に、畏怖と恐怖が宿ったあの時の眼差しを重ねていた。
 
●●●●●
 
 ラヴァンを目指して六日目。予定よりも随分遅れていたけれど、私もリュイも、そのことについては一切触れなかった。
 うまく言えないけれど、レイムと対面した日から、リュイとの間に透明なカーテンが一枚垂れ下がっているような感じだった。別に喧嘩をしているとか嫌いになったとかっていうんじゃなく、普通に話す時、ほんの一瞬、躊躇いが滲んでしまう感じなんだ。
 隣を歩いているのに、何だか離れた所に心があるような、そういう寂しさ。
 微妙な変化なのに、一度気がついてしまうと、たまらなく苦しくなる。
 私はエルにしがみつきつつ、赤茶けた地面へと視線を落とした。この辺りの大地は、面白い特徴がある。白と真紅の縞模様が刻まれた険しい岩石が地面から無数に突き出ているんだ。その鮮やかな縞状の配色が中々目映くて、最初は見蕩れる余裕があったけれど、次第に目がチカチカしてきて困った。ちなみに岩石の形も変。ごろっと丸いんじゃなくて、高さは千差万別なんだけれどどれも規則性を感じるほど縦長だった。岩石というより、自然が作った石像みたいな印象かも。うーん、何ていうか、縞模様が細かいせいか、縦に長いイチゴジャムのバームクーヘンみたい、なんて想像をしてしまった。空の色がもっと明るくて周囲の雰囲気とかもこんなに鬱々と重くなければ、幻想画に描かれてもおかしくないような珍しい景色だと思う。
 出鱈目な間隔で地面から伸び、行く手を阻む岩石を、私はもう一度しっかりと見つめてみる。
 岩石の数が特に多く、また岩肌が険しいところにはきまって、イチイに似た木が立っているようだ。けれど枝先に垂れ下がる実は、全部水分が蒸発してしまったように萎びて黒ずんでいた。私は残念に思い、溜息をついた。
 もしこれがイチイの実だったら食べられるのになあと思ったんだ。正直、凄く喉が渇いていて。この周辺の空気、岩石が多数存在するためだと思うけれど、以前歩いた森付近よりも空気が乾燥している気がする。
 でも、喉の渇きはリュイもエルも同じ。我が儘を言うわけにはいかなかった。
 第一、ウルスにいた時、家屋で補充できた水袋を丸ごと一つ、レイムに使ってしまったのは私だ。
 こういう時に思い出しちゃいけないってとっても分かっているんだけれど、つい、甘いオレンジジュースやアップルジュースが飲みたいなあって考えてしまう。
「……もう少し、堪えてください」
 少し前を歩いていたリュイが突然振り向いて、励ますようにそう言った。
 もしかして私、物欲しそうな空気を醸し出していたのかなと慌ててしまう。
「ううん、大丈夫、結構こういうのに慣れてきたから平気」
 不平なんて絶対口にできない。私だけエルに乗せてもらっているし。
「ああ――ここでお待ち下さい」
 リュイは前方にそびえ立つ、特に表面が険しい岩石に近づいた。天に挑むかのようにすごく大きい岩石で、壁みたいな感じで視野を遮っている。
 ここで休憩を取るのかな? と思ったら、リュイは上着を脱いで軽装になったあと、身軽な動作で石壁表面の僅かなおうとつを利用し、登り出した。まさか私もこの壁を越えなきゃいけないんだろうか、とちょっと不安になる。
 丁度マンションの三階くらいの高さまで登ったリュイが、片手を器用に動かして壁を削り始めた。岩の破片がぱらぱらと降ってくる。しばらくの間、何をしているのか分からなくて呆然とし、リュイが戻ってくるのを大人しく待った。どうやらリュイは壁を丸く切り抜いているみたい。片手で持てるくらいのいびつな球体。それを小脇に抱えて、きょとんとする私の前にひらりとリュイが降り立った。
 壁を丸く削って何をするんだろう? というか、この石のボールみたいなやつ、何に使うんだろう。それにこの岩石、簡単に切り取れるということは見た目に反して、脆いんだろうか。大地震が発生したら一斉に瓦解するんじゃないかと思わず青ざめてしまった。
「これらの岩石は、生きた石だったのです」
「?」
「地中の水を吸い上げ、石膜を作って内部に蓄えているのですよ」
 水を溜めている部分があるために、削りやすいんだ。
 リュイは笑ったあと、根の辺りで倒壊したらしき背の低い石像の上に私を座らせ、手に掲げていた歪な石のボールに切れ目を入れた。削るならともかく、そう簡単に刃先は入らないだろうと思っていたけれど、大間違い。歪な石のボールは、リュイが短剣の先を差し込むと、硬質のゴムみたいに鈍い音を立てたんだ。切れ目が入った箇所を少し下に傾けると、赤い奇麗な水が溢れてくる。アセロラをちょっと濃くした感じの色。
 わ! 何これ。
 驚きに目を見開いて、リュイを窺う。
「水のある可能性に賭けて、少し遠回りをしましたが……助かったな」
 最後は独白みたいな感じでリュイは言った。
「味はよくありませんが、少なくとも養分が含まれています。毒ではないので、飲んで下さい」
 いいのかな。
 どきまぎしつつ、空になっていたペットボトルに、赤い水を移し替えた。ペットボトルの半分くらいの量になった。色が色なので、私は味の方も甘酸っぱいアセロラを期待していた。というか、私じゃなくても絶対期待すると思う!
 まずはエルにあげようと思って、ペットボトルを差し向けると、すごく嫌そうな様子で勢いよくそっぽを向かれてしまった。……エルのこの態度に何だか不吉なものを感じるんだけれど、気のせいだと思いたいなあ。
 私は恐る恐るペットボトルに口をつけたあと、思い切って赤い水を飲んでみた。
「!!」
 
 ――まずっ! 何かすごく変な味!
 
 思わず、うっと吐き出しそうになる。うん、錆の味が強くて、仄かに生温くて、後味は甘味ゼロの野菜ジュースの青臭さに近い。変な表現だけれど、後頭部に何とも言えない刺激を受けて、ぞわぞわと毛穴が活性化する感じ。
 リュイ、これはちょっと味覚的にキツイかも……。
 私は瞬きの回数を増やして喉の奥に広がる不気味な味を我慢しつつ、リュイを仰いだ。多分、私、滅茶苦茶情けない表情をしていたんだと思う。リュイは一瞬笑いかけて、でもすぐに困った顔を取り繕った。
 リュイ、この味を知ってて、わざと教えてくれなかったんだと思う。
「せめてラヴァンまでは、この水で我慢してください」
「……」
「響」
「ん……」
 我が儘は駄目って思うのに、返事が重くなるし遅れてしまう。
「リュイも飲む?」
 私だけって言われたら恨むかも、なんて思ってしまった。
「この水は、万能水とも言われる貴重なものなのです。食料がなくとも、この水だけで長い期間、生き延びる事が可能です」
「そう……」
 凄いね、と言う自分の声が、掠れている。
「頼みますから、飲んでいただきたいのです」
 リュイの声音が、ちょっと先生みたいな硬い響きを帯びた。
 こういう時のリュイは、かなりテゴワイ。
「あなたは――カナンの実を、殆ど聖獣に与えていたでしょう?」
 ぎくりとしてしまう。カナンの実って、いつもエルにあげていた干し葡萄みたいな食べ物の事だろう。
「あなたが口にするのは、あまり栄養とならぬ物ばかりです。体内で力となる食料は、いつも聖獣に与えてしまっている。身体が疲れやすいでしょう」
「ううん……」
 だって、正直に告白するとこっちの世界の非常食は塩味が強すぎて、あのパンみたいな食べ物以外はホントに涙が出るほど不味いんだ。
 どうしよう、何か言い逃れ出来ないかな……と目を逸らしたのがまずかったらしい。リュイが片膝を地面に付けて、益々学校の教師みたいな厳しい顔をした。でも、月色の目は微かに悲しみをたたえている。
「この水にはふんだんに養分が含まれているのです。必ず飲んでください」
「うう、ん」
 私はつい、うん、と、ううん、の中間みたいな狡い返事をしてしまった。頷くに頷けない気持ちなんだよね。
 曖昧なまま誤魔化そうとしたら、リュイはちゃんと見抜いていたようで、一瞬怖い目をした。大迫力だよ、リュイ。
「お願いです、響」
 威圧感たっぷりな眼差しはホントに一瞬だけ。リュイはまるで土下座をするみたいに、深く、頭を下げた。
 あーっ、そういうの、何だかひどいや!
 頭を下げるところなんか見たくないわけで。観念し、この苦しいくらい不味い水をちゃんと飲むって約束させられてしまった。
 とりあえずこのペットボトル半分くらいの量なら、一気飲みできるって覚悟を決めたんだけれど、それはとても甘い考えのようだった。
 非常水って事で、リュイはあと三つも、膜に包まれた赤い水入りの歪なボールを岩面からくり抜いたんだ。
 エルも飲むよねって仲間にひき込もうとしたら、すっと後ろを向かれてしまった。
 何かエル、都合の悪い時だけ、言葉が分かりませんって態度を取っていると思う。
 私は項垂れつつ、次の休憩時、日記に記す内容を決めた。
 万能水は、絶望的に不味いって事、だ。
 
●●●●●
 
 一夜明けて、岩石地帯を抜けると、今度は岩林地帯が広がった。
 岩林っていうのは、私の視界に映る景色をイメージした言葉で、実際は密海地(みつかいち)という呼称があるらしい。
 岩石地帯ではバームクーヘンみたいな特徴を持つ縞状岩石が大地から無数に生えていたわけだけれど、この一帯では、また別の基質で構成された、表面が枕状になっている石の木が密生しているんだ。というより、木の形に擬態した奇妙な灰色の石が乾燥した大地に突き刺さっていると表現した方が正しいかもしれない。
 どうしてこんな奇妙な石があるんだろうと謎に感じていると、私の隣を歩いていたリュイが簡単に説明してくれた。この一帯は、昔からひどく強い風が吹く。密海地に存在する岩石はとても脆いので風化作用の影響を極めて受けやすく、長い歳月を経て、少しずつこのような形に削られたのだとか。その他にも理由があって、密海地の岩石は加工に適しているらしく、加熱などの外部圧力を与えたりと鍛錬の仕方によっては硬度が変化するので様々な機具を作り出せるから、石工職人達が使用できそうな部分を時々切り崩して持ち帰っていたんだって。特に根元よりも上部の方が価値があるみたい。この石は人間の骨みたいに芯があるから、そこを避けて削り取る内に、木の枝状へ変化したようだ。
 地形的な面からの作用も原因の一端となっているらしい。歩行時は全く気がつかなかったけれど、この辺の地形はすり鉢状になっているんだ。下から吹き上げる風は、平地の時よりも威力が増しているようで、その分余計に岩石へ影響力を及ぼす。
 私達はどうやら、すり鉢の中心に向かって進行しているみたい。
 リュイの話に頷きつつ、私はふと疑問に思った。
「石工職人さん達が、この辺に来ていたっていうことは……」
「はい。この地帯の奥に、ラヴァンがあるのです」
 どうもラヴァンという町は、密海地にぐるりと囲まれているらしい。
 じゃあ、この岩石の木は、いわば自然の要塞なのかな。
「神殿を外部から守るためです。ラヴァンに暮らす民は、密海地に吹く風を、町を守護する聖なる息吹と捉えています。神殿を据えている町なので当然と言えるのでしょうが、ラヴァンの人々の聖風信仰はとても厚く、また敬虔だと聞きました」
「へえ……」
「密海地の風を、人々は畏敬の念を込め〈サルィド〉と呼んでいるのだとか」
 何だか凄いな、と思ってしまった。
 現に自分自身がいるわけだし、こうして隣にリュイも存在しているのだから、今更感心するのはおかしいのかもしれないけれど、語られた言葉の端々に滲む日常の重みみたいのが伝わって、この世界で本当に人々が普通の営みを送っていたんだなあと思わずにはいられなかったんだ。
「そっか……」
「響?」
「ううん、何でもない。――風の信仰かぁ」
「ああ、あなたは確か、風神の眷属であると――」
「う、うん」
 リュイが改めて驚いた表情を浮かべ、私を見つめた。
 私は内心、動揺しつつも曖昧に頷いた。そうだった。風の神イコール、シルヴァイなんだった。つまりラヴァンは、シルヴァイを敬っているということなんじゃないかな。
 一番最初に訪れる神殿がシルヴァイに属するものだっていうのは、何となく暗示的というか運命的に思えてしまう。
 ひどく胸が重い。信心深い人々に支えられていた町。私の名前は響で、それは大気を友とすると、シルヴァイが喜んでいた。
 けれど私は、人々を全然救えていなくて――。
 あぁ、リュイの目をちゃんと見ることができない。
「響」
「……ん」
「私は、不敬に過ぎるでしょうか」
「え?」
 聞こえなかったわけじゃなくて、話が何に繋がるのか分からず、戸惑ってしまった。顔を上げると、リュイが何かを躊躇うように口元を押さえていた。
「あなたは何も隔たりなく、近い場所から接してくださる。神に近しい存在とは得てしてそういった慈悲を兼ね備えるのか、あなた自身の性質によるものなのか。あなたの目線や意識は、この世界の者が持ち得ぬものだと思う」
 よく分からない。神様の眷属だというのに私の言動は甘いから、この世界で通じないという話だろうかと、不安を覚える。
「私はあなたの屈託のなさに、触れすぎているだろうか? あなたが咎めぬ事を、私は己を許す盾に変え、近づき過ぎているでしょうか」
「……?」
 リュイは小さく首を振った。私を乗せているエルが、ちらりとリュイを一瞥した。
「不意に得心するのです。あなたは本来、高き場所で微睡む方なのだと。だが時折、あなたの安らかさに私は怠惰になっているのかと」
「あの……リュイが言いたいのはもしかして、私が別世界から来た人間だから、本当はもっと距離を置かなきゃ駄目なんだってことかなあ?」
 言葉の装飾を全部剥ぎ落とした時、最後に残るのは、多分異質な者に対する拒絶なんじゃないかなって思う。
 自分で言ってて、何だか落ち込んだ。だって私は元々、凄い微妙な条件でフォーチュンに連れてこられ、更には名前が響だからっていう理由でシルヴァイが喜んでいたわけで。これって私自身に誇れるような何かがあるんじゃなく、虎の威を借るナントカ状態だと思う。
 そういえば、お前なら出来る、とか、期待している、とかって言われたことないんだ。オーリーンは最初、私にまかせることには反対していたんだよね。
 
 ――それにリュイは、神様関係とは別の意味で、私を怖れていると思う。
 
「リュイは、私と一緒にいるの、もう嫌になったかなあ?」
 あぁ、私ってどうしてこうなんだろう。こんな態度を取ったらいけないのに。
「……私じゃなくて、もっと、強い人なら。強くて、頭が良くて、皆を守れるような人」
 以前にも思ったことだ。シルヴァイやオーリーンがここにいたら、リュイはこんなに苦労を背負うことなく、辛い思いをすることもなかっただろう。
 自分の考えがとてもよくないものだって分かっていても、痛切に感じずにはいられない。
 後悔とは違う卑屈な思いだ。
 でも、こればかりは、と反論する自分がいて。
「響、なぜそのようにご自身を捉えるのだろう。私が言いたいのは、ただ」
「もう少しだけ、待ってくれる? まだ全然駄目だけれど……私、自分を変えたいって思う」
 ちゃんと強くならなきゃ。
「違う、そうではないのです」
 焦れたようにリュイが低く囁いたけれど、やはり何かに躊躇している雰囲気で、そのまま沈黙してしまう。
「あのね、リュイ」
「――」
「よかったら、もう一回、私の名前、言ってみてくれる?」
「……響?」
 うん、やっぱり。
 
 ――イントネーションが。
 
「発音、とても正確になってる」
 そうなんだ。さっき気がついたんだけれど、今までリュイが私のこと呼んでいた時は「ヒビキ」ってちょっとだけ響きが怪しかったのに、いつの間にか、日本語の奇麗な発音に変わっていたんだ。
「何か嬉しくて。うまく言えないんだけれど、あぁ私の名前だ、私を呼んでくれているんだなぁって感じた」
 そう言うと、リュイは少し言葉に詰まったような顔をした。
 些細なことだからこそ、凄く感動したというか、ほっとするような感覚だ。
 名前ってちょっとした発音の違いで、まるで別人みたいに思えてしまうんだって気がついた。
「自分の名前、実はあまり好きじゃなかったんだけれど、何だか嬉しい。とても」
「美しい名だと思います」
「そうかなー」
 リュイがこっちを見て、ふわりと微笑んだ。はにかむような優しい表情だ。
「字体が絵画のようでした。美しいと思います」
「あっ、字面のことかぁ」
 あれ、何だか話がずれている気がする。
「響?」
「うーんと、リュイに名前を呼んでもらえて、嬉しいなっていう話だよ?」
「……ああ、はい」
 少しの間、きょとんとした感じで見合ってしまった。
 先に視線をさまよわせたのはリュイで、何だか動揺している様子だった。
 ううん?
 私が驚いていると、それまで静かだったエルが、うがうがと唸るような感じの声を発した。
 もしかして、エルも名前を呼んでくれたのかな?
 私は笑って、エルの耳を撫でた。

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