F36

 シルヴァイが存在しない?
「え……っと、どういうこと?」
 意味が分からなくて、私は混乱した。だって、シルヴァイはこのエヴリールの神様で、しかも太古の神だと聞いた。
どういう意味なの?
 リュイは一度目を伏せたあと、どこか緊張した表情を見せた。
「この町は、風の信仰があるんでしょう?」
「はい。サルィドの信仰が」
 分からない。サルィドというのは、密海地に吹く神聖な風のことでしょう? 風の神様を崇めているから、そこに吹く風も尊いと捉えているんじゃなかったの。
「そのサルィドが、人々にとっては神なのです」
「ちょっと待って! サルィドが神? でも、だったら、シルヴァイは」
 私は混乱しながら、リュイに食い下がった。リュイは何も答えず、ただ小さく首を振った。硬い表情を見上げ、しばし放心してしまう。
 急に思い出す。そういえば、この世界に来た理由を一番最初に話した時――オーリーンやシルヴァイの話をした時、リュイはひどく驚いていた。私はその反応を、神様に会ったことを告げたためだと単純に結論づけていた。でも、そうじゃなかったの?
 それに、リュイ自身は一度も、シルヴァイ達の名を口にしなかった。騎士なら、始祖王であり闘神でもあるオーリーンの名を口にしてもおかしくないのに。
 ここまで考えて、私はぞっとした。
 シルヴァイが存在しないというならば、オーリーンは。
 国の名前。王の名を女性に変えているんだと。クィーヌ・ガレ。女性名だとしても、オーリーンという名前からは到底結びつかない。
 違う、リュイは始祖王の名前をクインザ・ガレンドって言った。私はそれについても単純に、オーリーンが人間であった頃の名前なんだろうと考え、深く追及しなかったんだ。
 何かがおかしい。リュイは神様達のことについて、私にあまり質問をしなかった。ただ神剣と王家について少し話しただけだ。それは、なぜ?
「リュイ、オーリーンは?」
 リュイはゆっくりと目を瞑り、時間を置いたあと、私を見返した。――知らない、という返答に違いなかった。
「ど、どうして? おかしいよ、だって私はシルヴァイ達に」
 息を呑む。
 この国の住人であるリュイが、神様の名、特に始まりの王となったオーリーンの名前を知らないはずがない。まさか、私をからかう目的で、冗談を言うはずもない。
 だとすれば、シルヴァイ達は、本当にエヴリール世界の人々の中には、存在しない。
「じゃあ……」
 シルヴァイ達は、誰?
 私は、誰に会ったの?
 呆然としてしまった。突然、足場が崩れたかのような恐ろしい錯覚を抱く。シルヴァイ達が存在しないとなれば、真実がただの幻影に変わり、私がここにいる意味も根本から揺らぐ。
「ほんとに? 本当に、知らないの?」
 聞かずにはいられなかった。私の存在理由が壊れる。
 リュイは返答せず、辛そうな目で私を見る。
 そんな。
 それなら私って、なぜここにいるの?
 目眩がした。
 どうして!
 言いようのない恐怖に駆られた時、きゅん、とエルが鳴いた。
 私は、はっとエルを見返した。
 じゃあ、エルは!?
 エルまでも、シルヴァイを覚えていないの?
 主のオーリーンも?
 必死の思いでエルのひげを何度も撫で、答えを求めて丸い目を覗き込む。
 とんっと、私の鼻に、エルが自分の鼻を軽くぶつけた。少し濡れた、まろやかな鼻の感触。
 くぅん、とエルは丸い目を瞬かせ、驚いている私の手を舐めた。――大丈夫。冷静な目が、不安に荒れる私の心を宥めるように何度も瞬く。
 エルと会話ができるわけじゃない。けれども、なぜか心が通じた気がした。大丈夫。エルは知っている。シルヴァイのこと、オーリーンのこと、夢でも幻でもないってちゃんと知っている。
「エルっ」
 私はエルの鬣にしがみつき、短い毛に覆われている鼻筋辺りに顔を埋めた。硬い毛の感触に、恐怖がゆっくりと撫で付けられていく気がした。
 エルの存在を感じるうちに、崩れかけていた理性が戻ってくる。
 一つの可能性。
 そうだ、シルヴァイ達は神の戒律を破ったため、突如出現した銀の檻によって制裁された。千年の間、神座を剥奪されるのだと。
 それはつまり、エヴリール世界の住人から、千年の間、忘れられるという意味じゃないだろうか。
 オーリーンが言っていた。人々の信仰があるから、神様は存在していられるようなものだと。生死に関わる一大事。その人々の記憶から千年の間消える。そういう罪なんじゃないだろうか。
 だから、リュイは覚えていない。オーリーンもシルヴァイも。
 
 ――ごめんなさい、シルヴァイ、オーリーン。
 
 あぁ、私に力をくれるということは、二人から人々の信仰を取り上げることでもあったんだ。
 崩壊寸前の世界は更に、二人の神を喪失してしまった。
 なんてことだろう。
 ぎゅうっとエルに抱きつく。
 千年も、皆に忘れられるなんて。
 新しい神様が誕生すれば、オーリーン達は行き場をなくす。その深刻な事態を防ぐ意味もあって、レイムを救うんだという重要なことを私は忘れていた。ただ、レイムを人間に戻すという点に強く固執していたんだ。
 もし、住人達を救って平和がこの世界に訪れたとしても、千年という気の遠くなるような長い期間、シルヴァイ達は忘れ去られる。その間に、たとえばサルィドと呼ばれる風が神そのものの姿として本当に人々の心に定着してしまったら。
 そういう危険を知りつつも、シルヴァイ達は躊躇わずに力を注いでくれた。永遠に忘れ去られる危険を、神であるシルヴァイ達が考えなかったはずがない。
 もしかして初めから、私がエヴリールの人々を救えるとは思っていなかったんじゃないかと唐突に気づく。
 ただ、私があまりに無力で行き場もなかったから――自分を犠牲にして慈悲をくれたんじゃないだろうか。元の世界に戻ることができない私。天界に留まったとしても、いずれもう一人の後継者候補が新たな神となり、次世代の人々に別の信仰が広がれば、シルヴァイ達の存在はなくなる。庇護者であるシルヴァイ達が追放されれば、何の力も持たない私も無事には生きていけないだろう。新たな神は、きっと天界も支配する。どちらにしても消える運命なら、せめて最後に知り合った私だけでも救ってやろうと、そう心を砕いてくれたんじゃないだろうか――。
 粉々に壊れた彫像。
 きっとシルヴァイの姿をしていた像だ。
 この世界から、完膚なきまでに、シルヴァイとオーリーンに関する物全て、破壊されたんだろう。
 二人を覚えているのは、私とエルだけなんだ。
 
 ――救いたい!
 
 血を吐くように強く思った。
 救いたい。優しい神様を。皆を。
 どうか、どうか強い力を。
 私、死ねない。エヴリールからシルヴァイ達の記憶が消されたというのならば、私がもう一度、広げていこう。皆に、語り継いでいくんだ。繰り返し繰り返し、この世界に刻んでいく。忘れ去られた神様の名前を。千年目が来た時に、ちゃんとあらゆる地で、信仰が生きているように。風が吹いた時、国が記念日を迎えた時、人々がそっと二人の名前を呟き、祝福するまで。
 もういい。元の世界に帰れなくても。
「エル、私、忘れない。シルヴァイ達を守ろう。たくさん二人の名前、書き記そう」
 柔らかいエルの耳に唇を近づけて、囁く。
「ごめんね、皆から、オーリーンを奪ってごめんね」
 エルがきっと一番悲しい。主のオーリーンが、皆の記憶から抜け落ちている。
 きゅう、とエルが甘えるように鳴いて、私がよろめくくらい顔を押し付けてきた。
 自分の悩みばかり大事にして、一緒に来てくれたエルのこと、全然考えてなかった。私だけじゃなくて、エルももう、帰る場所がないのに。
 自分勝手で、ごめんね。
 エルは何度も、私の胸に額をこすりつけた。
「響」
 ぽつりと、リュイに呼ばれた。
 私は少し、肩を揺らした。リュイは今まで、私の話をどう感じてきたんだろう。記憶にない神様の名前を語って隣に立つ私をどんなふうに捉えていたんだろうか。
 不審どころか、頭がおかしい人のように思えたんじゃないだろうか。
「疑っていたわけではないのです」
 エルの鬣を撫でながら顔を上げ、リュイに視線を向けた。
 リュイはまるで苛立っているかのような、どこか懸命な目をしていた。私の動揺ぶりを見て、何かを誤解したようだった。
「あなたの話に嘘があると、思ったのではない」
 その言葉は多分、本心だろうと思う。けれど、信じきれてもいない。
 リュイは、私の話が真実か嘘かは重視していないと前にも思ったことがある。命さえも抛つ忠誠心を持っている人だ。
 それだけで、もう十分。
「うん」
 私は頷いた。ありがとうの意味をこめたつもりだったんだけれど、リュイは強張った顔のまま唇を噛み締めた。
「あとで、たくさん話をしよう? 聞いてほしいことがあって」
 本当は今、ちゃんと話をしたいと思う。でも後回しにしようと提案したのは、時間の経過が気になり始めたためだった。
 日暮れまでまだ少し余裕はあるけれど、王都のジンシャンへ行くための法具を探さなきゃならない。
「待ってください」
 移動しようと視線をずらした時、素早く引き止められて、びっくりした。私よりもずっと状況を理解し、先を急いでいたリュイが立ち止まるとは思わなかったんだ。
「疑っていません、本当に」
 両肩を掴まれ、どこか必死な面持ちで見つめられた。
「信じてください」
 真剣なリュイの瞳に、慌てて頷く。
 私もリュイと同じで、信じていてもいなくてもかまわないと思っていた。こうして一緒にいてくれて、心配りしてくれるんだから。今、これ以上望むのは、欲張りすぎだと思う。
「誓いますから」
「リュイ?」
 懇願するような声音に、戸惑った。動揺していたのは私だったのに、どうしてかリュイの方が焦燥感に苛まれている気がした。
「うん、信じているよ、リュイのこと」
 リュイの心情は分からなかったけれど、そう答えなければ何かが壊れる気がした。リュイの手を取り、きゅっと握り締める。触れた指先が冷たくなっているのに気づいて、不安を覚えた。どうしたんだろう?
「信頼してる」
 しっかりと見上げて言うと、まだ何かを伝えたいような顔だったものの、ようやくリュイの目が少しだけ落ち着きを取り戻した。
「行こう?」
 何だかとても、手を放しちゃいけないという思いが生まれた。
 
●●●●●
 
 緩やかな円を描く突き当たりの左右に扉があった。
 まずは左側の扉を開け、覗いてみる。リュイがランプをかざすと細い通路が見え、右の壁には絵画が飾られ、左側には扉があった。
「ここは違うようです」
 リュイの判断に従って扉を閉め、礼拝堂の右手に移動する。
 さっきと同じ要領で右側の扉を開き、内部を覗いてみた。うーん、やっぱり通路があって、片側の壁に扉が並んでいるようだ。
「こちらですね」
 どうして分かるのか謎だよ、リュイ。
 不思議な思いが顔に出たらしく、リュイが丁寧に教えてくれた。突き当たりの左手にあった通路には、恐らく神官達が使用する個人の休憩室が並んでいるんだって。
 反対にこちら側は、儀式の間や事務室が揃っているらしい。一体どこで判断したのかといえば通路の壁に飾られているものが違う点みたいで、こちらには絵画ではなく首飾りのような装飾品がフックにかかっていた。これ、どうも魔除けの飾りらしい。
 リュイって本当に頼りになる。私一人だったら装飾品が違う理由なんて思いつかず、全部の扉を確認する羽目になりそうだ。
 大抵儀式の間は奥まった場所にあるので、私達は通路の果てまでまず進み、一番端にあった部屋から確認することにした。リュイのこの判断は、正解だった。
 私は儀式の間を眺めたあと、唸った。ううん、荘厳だ。
 正面と左右、三方の壁だけじゃなく、天井の中央も円型のステンドガラスがはめられている。そこを囲むようにして、蔦模様を象った金色の装飾品がすだれのようにずらりと垂れ下がっていた。
 正面の奥には、石版みたいなのが設置されている。ふと何気なく床を見ると、直径で一メートル以上ありそうな円型の線が描かれていた。何の線だろう?
「法具はなさそうだけれど……」
 四隅に背の高い燭台が設置されているだけで、法具を収納する棚の類いは見当たらなかった。礼拝堂ではなく、神殿関係の施設に保管されているんじゃないかな、と思った。
「いえ」
 リュイは短く答えて、ランプを掲げながら石版の方へと近づいた。手を繋いだ状態だったので、私もついていく。
 エルは床に描かれた円型の線に鼻を近づけていた。
 御影石で造られた石碑みたい、というのがその石版を近くで見た私の感想だった。高さは、私の身長より少し低いくらいで、幅は四十センチあるかないか。
 何か刻まれている。上の方に、円型の幾何学模様。なんとなく魔法陣っぽい。その下に、異世界語でずらずらと文字が刻まれていた。更にその下、一部分突起があって、三本の赤いチョークみたいなものが差し込まれている。
 ……なんか、とても嫌な予感がするんだけれど。
「もしかして、法具って、これ?」
 私は赤いチョークみたいなのを指差し、リュイの反応を窺った。
 頷かないで、と心の中で必死に祈ったのに、無情にもリュイは肯定した。
 私の想像の中では、転移の道具って、タイムマシンみたいな箱に入ると決まっていたんだ。その中に入ったら、移動先の箱に一瞬で行けるという感じ。世の中、そんなにうまくいかないよね……。
 項垂れる私の横で、リュイがチョークの一つを手に取った。その途端、突然チョークがぼろぼろと崩れ、灰になった。
「えっ」
「やはり、私では駄目ですね」
 困惑した様子で手の中の灰を見つめながらリュイが呟いた。
 益々嫌な予感がするよ。
「私は神官達のような神の力を持っていません。大抵の法具は、普通の民は扱えませんし、触れる機会もないでしょう」
 と、いうことは。
 リュイがちらりとこっちを見た。
「わ、私?」
「許された高位の神官のみが緊急時に利用するものです」
 私、神官じゃないけど!
「石版に陣が描かれているでしょう。この陣を描かねばなりません」
 と言ったリュイの視線が、床に刻まれた円に移動した。
 まさか。
「これは符針(ふしん)と呼ばれる法具で、自在に空間を行き来する<ヒタラ>という妖の虫の血に特殊な金を溶かし固めたものだそうです」
 硬直する私に、リュイは生真面目な顔で赤いチョークの正体を詳しく教えてくれた。ごめん、あんまり触りたくない法具かも。
「転移が可能になれば、ジンシャンまで大きく時間を短縮できます」
 なんかこの世界って、不便なのかそうじゃないのか、微妙なところだ。リュイの言葉の端々から察するに、一見便利な転移の法具は、一般の人々には禁止されていたようだし。
「転移の法具が国民全員に開放された場合、非常に危険なのです。残念なことですが、犯罪が増加するでしょう」
 あ、そうか。もし誰でも自由に瞬間移動ができたら、極端な話、殺人事件が発生した場合、犯人にあっさりと逃げられてしまう上、逮捕が難しくなるだろう。
「神官の間でさえも、血迷う者が出るのです。ゆえに、転移に関しては規制が設けられました」
 そこで再びリュイの視線が石版へ戻った。
「この陣は、一度描いたあと、図を変えるのです。ある時代の魔術師、魔法使い達が集結し、転移の陣に制約を作ったそうです」
「ええっ」
 この幾何学模様みたいな魔法陣、一度使うと図柄が変化するの?
「心ない者に陣の図を記憶されぬために」
 悪用を防止するためってことかぁ。
 ううん、確かに、毎回床に描くたびに陣が変化すれば、この符針が盗まれてもすぐには悪用されないだろう。
 それは納得できたんだけれど。
「石版に刻まれている陣を頭に入れて、床に記されている輪の内側に正しく書けばいいってことかな」
 はい、とリュイは肯定した。
 思わず唸ってしまう。手元に図を置き、それを眺めて床に描くというのだったら、まだそんなに辛くはないと思う。あるいはこの陣が、もっと単純な図だったら、記憶できるだろう。
 結構、この陣の図って難しいよね。
 一度見ただけじゃ覚え切れないから、何度も石版の所まで戻って確かめつつ描かなければいけないみたいだ。
 時間、かかるかも。
「……響」
 何か躊躇いがちなリュイの声に、私は怯えた。聞こえなかった振りをしたい。
「ただ、丸写しというわけではないのです」
 耳、塞ぎたい。
「石版の陣は、左右が逆に映っています」
 左右が逆?
 それって、言ってみれば鏡文字と同じってこと?
「じゃあ、実際に描く時は」
 リュイの何とも言えない視線を受けて、私は再び唸った。この陣、左右なんて殆ど変わらない……と思ったら、微妙に違っていた。何なの、このややこしい微妙な違いって!
「ねえリュイ。悪用を防ぐためっていうのは分かるんだけど、ここまで念入りにするなんて、制約を考えた人達、すごいよね……」
 緊急時に神官が使うらしいけれど、ここまで厄介な規制を作られたら、ものすごく時間がかかるんじゃないだろうか。
 魔術師や魔法使いの人、やりすぎだと思う。それとも、規制が設けられる前に余程悪用されて困っていたんだろうか。
 高位の神官って、すごく頭がよくないとなれないに違いない。
 ああ、でも、私。
「響?」
 とっても情けない思いで、リュイを見上げた。
 ごめん、私、絵を描くのとか、苦手で。
 美術の授業、もっと真剣に取り組めばよかった。
「記憶力アップのパズルも、やっておけばよかった……」
 遠い目で独白した私に、きゅん、とエルが同情的な鳴き声を上げた。

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