F38

「あれ?」
 唐突に、我に返った。
 空中でだ。
「ええ!?」
 
 ――空中!?
 
 私はぎょっとしてもがいた……瞬間、命綱なんてものはないため、当然のように身体が床へ落下した。どんっという衝突音が身体の中に響き、すぐに腰と背中へ息の詰まるような痛みが走った。命を左右するほどの高さがあったわけじゃないけれど、目の覚めるような衝撃が身体に与えられたのは事実だった。
「いったーい!」
 一瞬、状況を忘れて思い切り叫び、その場にうずくまった。すっごい痛い!
 
 ――なんて悪態をついてる場合じゃなかった!
 
 私は顔を上げ、慌てて周囲の様子を窺った。
「……ここ、どこ?」
 自分が発した気弱な声が、静寂の中に溶けていく。見たことのない場所。しんと静まり返っている厳粛な雰囲気の大広間だ。
 もしかして、ジンシャンの神殿に、転移できた?
 でも。
「リュイ、エル、どこ?」
 この場にいるのは、床の真ん中にぺたりと座り込む私だけだった。
 
●●●●●
 
「待って、落ち着いて」
 私は額を押さえながら、パニックになりそうな自分を宥めるために独白した。
 ええと、そうだ。
 さっきまではラヴァンの神殿にいた。そこで転移の陣を床に描いた。呪文を判読できなかったから、シルヴァイの力に頼り、何とか陣を動かそうとして。
 私は息を止め、身体を硬直させて、まじまじと周囲の景色を見つめた。
 ラヴァンの神殿と似通った造りの広間に私はいる。けれど、ここはラヴァンの神殿よりも、もっと規模が大きく豪華絢爛なイメージがあった。塵芥に塗れておらず、また蜘蛛の巣みたいな白い糸があちこちに垂れ下がっていなければ、自分の存在が場違いに思えて萎縮してしまうほど荘厳な広間に見えただろう。私が通っていた学校の体育館くらい面積がありそうな広間の四隅と壁際には、守護神を象ったみたいな薄い飴色の彫像が何体も置かれている。なんだか彫像の守護神達に厳しい目で監視されているような、気まずい感じを抱いてしまった。
 奥の方には細かな文様を刻んだ巻柱が立っていて、その中央に飾り物で彩られた段式の祭壇らしきものが設置されており、何らかの儀式に使用されると思われる様々な道具が並べられていた。色褪せた布がかぶせられているところもある。精緻な模様を持つ燭台の側には木製の譜面台らしきものもあった。
 見上げると、天井の中心にはまるでシャンデリアみたいに豪華な煌めきを放つ石の飾りが垂れ下がっていた。そこを囲むようにして、まろやかな菱形のステンドガラスがいくつもはめられている。
 ラヴァンと異なる点は、四方の壁にステンドグラスがないことだ。その代わりに、呪文のような記号が壁全体にびっしりと刻まれていた。
 次に、床の状態を確認する。陣の基本線となるらしき輪がここにも描かれていた。私はその真ん中にへたりこんでいた。
 多分、ここはジンシャンに間違いない。私の身は無事に転移されたんだろう。陣の力の名残なのか、照明はないのに、広間の様子がはっきり見えるほど明るい。
 エルとリュイがいない。
 二人とも私と同様に、描いた陣の中にきちんと立っていたはずだ。それならばきっと二人の身も転移されたに違いなかった。ただ、呪文を諳んじることができず、自分の中に眠る不安定なシルヴァイの力で無理矢理陣を目覚めさせたため、二人の転移先が少しずれたんじゃないか――と思いたい。
 どこか、この近くにいるよね?
 不安が膨らみ、ずきずきするほど心臓がうるさくなった。
 どうしよう。
 腰や背中が痛いせいじゃなく、募る不安に責め立てられて、身動きできなかった。私一人では、何も分からない。
 耳鳴りがするくらいの深い静寂。黴と埃の匂いが充満している。私はぎゅっと自分の腕をさすり、強張る身体をほぐそうとした。今、私が持っている物は、ラヴァンの神殿で陣を描いていた時、用心のためにと腰にさした神剣のみだった。身一つではないけれど、胸を占める不安は拭えない。
 どうしよう、と途方に暮れてもう一度呟く。
 ここで待っていれば、リュイ達が見つけてくれるだろうか。目的地はジンシャンの神殿だというのは分かっているから、へたに移動するより大人しく二人の到着をここで待っていた方が良策のように思える。
 でも、二人が全然違う場所へ飛ばされているんだとしたら?
 そもそも、ジンシャンってどのくらい広いんだろう。王都っていうくらいだから、すごく大きい町なんじゃないだろうか。
 これももっと詳しくリュイに聞いておくんだった。万が一離ればなれになった時のことを想定し、その場合にはどうするかということも決めておけばよかった。後悔ばかりがこみあげてくる。
「どうしよ……」
 呆然とした感に満ちた自分の声。
 私は、この国に来て初めて、一人の恐ろしさを実感した。
 
●●●●●
 
 大人しくしていた方がいいと分かっていても、動かずにはいられなかった。
 闇が怖い。静寂が襲いかかってくる。
 陣の名残が失せ、じわじわと凍える闇が大広間に満ちていくのに気づき、私は震えながら立ち上がった。明かりが必要だ。けれど、明かりをつける道具がない。燭台の方に近づき、必死に探したけれど、蝋燭やマッチの類いは見当たらなかった。もしかしたら別の形をしているのかもしれなかったけれど、私にはどれなのか見分けがつかなかったんだ。
 せめて、ジッポを携帯していればよかった。
 唇を噛み締める。そうして我慢しないと、何かを叫んでしまいそうになる。
 駄目だ、ここに一人でいられない。
 真っ暗の中を一人で耐えられる自信がなかった。この建物を出よう。入り口で待っていよう。建物の中より、外にいた方がまだ明るいに違いない。
 私は恐怖に駆られながら急いで考えをまとめ、広間の外へ飛び出した。これから先どうなるか全く読めない状況にひどく緊張し、喉がからからだ。
 通路へ出た瞬間、早くも怖じ気づいてしまった。明かりをともす人なんていないために、奥が見通せないほどとても暗い。まるで洞窟みたい。
 足元から恐怖が這い上がってきて、身体を震わせる。この建物はどのくらい広いんだろう。
 それに、今、何時なのか。
 私は一旦思考をとめた。考えたら頭がおかしくなりそうだった。
 とにかく、今は外に出るんだ。
 もつれそうになる足を動かして、走り出した。
 
●●●●●
 
 泣きたくなるくらいに、何度も転倒した。
 通路の幅は広いようだったけれど、ひどく暗い上に、壊れた何かが散乱しているらしく、少し進んだだけでつまづいてしまう。
 どこか別の部屋を見つけ、蝋燭立ての類いを用意しようと思ったけれど、壊れた扉の一つに近づいた時、中で何かが動く気配を感じ、慌ててその場を離れたりした。日中でも活動できる魔物や獣が潜んでいるかもしれないんだ。気を抜いた瞬間、背後から飛びかかってくるという危険も十分ある。
 私が持っている唯一の武器の神剣は、普通の獣を斬れない。仮に斬れたとしても、自分がうまく扱えるかどうかという根本的な問題もあったし、何よりこの暗さではまともに抵抗できないだろう。
 リュイ、エル、怖いよ!
 自分の足音と、荒い息遣いだけが闇の中でこだましている。呼吸音をひそめなければと理解していても、肥大していく恐ろしさにとらわれ身体がいうことをきかなかった。とても寒いのに、冷や汗が出る。指先が強張っている。
「っ!」
 また転倒してしまった。
 一体自分が今建物のどの辺りを駆け回っているのかも判断できない。
 そうか、リュイはこんなに怖い時間をずっと一人で過ごしてきたんだね。
 まだ短い時間しか味わっていないのに、私はもう限界を感じ根を上げそうになっている。これほど一人が怖いなんて、知らなかった。リュイは本当に、よく耐えたんだ。
 確かに、狂いそうなほど必死に走っている時、自分以外の誰かが現れて手を差し伸べてくれたら、奇跡のように感じるだろう。二度と失いたくないって激しく思うだろう。
 一人って、辛いね。
 暗闇の中、ただ一緒にいて、手を握ってくれるだけでも、きっとすごい勇気になるんだ。
 頑張ろう、出口を目指して、もう一度二人と会いたい。
 私は立ち上がり、闇の中を手探りしながら、また一歩を踏み出した。
 
●●●●●
 
 出口だろうかと期待し慎重に開いた扉は、中庭というか、野外の儀式場に通じていた。
 芝生のように見えた地面は、実は草ではなく濃い緑色の細かな砂が敷き詰められているのだと気づいた。
 この広い儀式場を囲うようにして立派な建物がいくつも並び、回廊で繋がれている。更にその外側、内側にも離宮のような感じで建物が造られていた。びっくりするほどの大きな規模だ。
 私が辿り着いた場所は、どうも外側から二番目の層に設けられた中庭のようだった。宮殿様式の豪華な堂を繋ぐ回廊の一つは、手すりを乗り越えれば向こう側の宮に入れそうな雰囲気だった。壮麗な宮の多くが、多角形で何重層という構造をもっている。
 一度空を見上げ、急がなくてはいけないと必死の思いで走り出す。
 既に、夕暮れがすぐそこまで忍び寄っていた。
 
 
 完全に神殿から抜け出るのに、ひどく手こずった。
 通用口らしき扉を抜けて外へ出れたのは、本当に運がよかったといえるのか。
 通用口横の壁に設けられた段の上に、ラヴァンでリュイが使っていたようなランプを発見し、見よう見まねで下部に取り付けられていたネジをひねる。明かりがつき、そこでようやく吐息を落とした。
 建物の外には出られたけれど、まだここは神殿敷地内のようだった。
 これが王都のすごさなんだろうか、周囲はまるで森のように木々が密集している。殆どが枯葉をつけている中、生命力の強い木があるらしく、ぽつぽつと別の色も混ざっていた。遠方の木々の上に、何の建物かは分からないけれど、その上部が影となって覗いていた。
 影となって見える理由は、夜が間近まで迫っていたためだ。
 私は身を震わせた。――レイムが現れる時刻が到来する。
 片手にランプを下げ、もう一方の手で、ゆっくりと腰にさしていた剣の存在を確認する。他の荷物は全部エルの背にくくりつけていたため、今私が所持しているのは、この神剣しかない。
 まだ覚悟が決まっていない。けれども、決意なんて意味がないんだ。どう考えていようと、ここが王都である以上、夜になればレイムが現れるに違いなかった。
 周囲に視線を走らせたあと、壁に寄りかかった。大声で叫んでみようか。リュイ達が側にいれば、声をききつけてこっちに来てくれるかもしれない。ただ、この方法は危険も大きい。もしリュイ達が声の届かない場所にいて、近くに潜んでいるのが飢えた魔物達であったら、私はやっぱり逃げ回ることしかできないだろう。
 本当はランプの明かりも消した方がいいんだと思う。魔物達にとって闇に輝く明かりは、目印となる恐れがある。危険だと分かっていても消せないのは、ひとえに私の臆病さが原因だ。見知らぬ場所で、明かり一つないなんて、到底耐えられそうになかった。
 どうしよう、今の私に、何ができる?
 死に物狂いで考える。たとえば、花火とか照明弾とか持っていたら。ううん、ないものを考えても仕方ない。けれど。
 何をすれば、遠くにいるのか近くにいるのかも分からないリュイ達に合図を送れる?
 闇が近い。周囲の木々の輪郭がだんだん曖昧になり、濃い影になる。風一つなく、物音もない。得体の知れない恐ろしさだけが、闇の密度を真似して、濃くなっていく。
 恐怖は理性を奪うかわりに、焦りを植え付ける。思考が上滑りして、まともな案を生み出せない。
 エル、リュイ。どこにいるの!
 全然恰好なんてつけられなかった。呼吸が乱れるくらいに、エヴリールの闇が怖い。自分の中で膨れ上がる恐れに、目眩がするほどだった。
 お願い、一人にしないで。
 取り繕えない切実な願いが心の中を駆け回る。あぁ、リュイも同じことを言っていた。一人にするくらいなら安息がほしいって。今その気持ちがよく分かる。何かに縋りたくてたまらない激しい気持ち。
 弱々しい月が、森の向こうに浮かんでいる。まるで期待するのを諦めてしまったかのような、力ない輝きだ。
 誰か、答えて!
 私はその場にずるずると屈み込んだ。もう少しで、目を閉じている時と変わらないくらいの圧倒的な闇が周囲を満たすだろう。
 リュイは、どうやって、この闇を一人で乗り越えたのだろうか。
 どんな希望を燃やして、明日に繋げたんだろう。
 私の中に、希望の形は見えるかな。
 
 ――忘れるな。
 
 オーリーンの声。忘れるな、我らが守り手であることを。
 忘れてない。大丈夫、負けるな。
 希望を作らなきゃ。心の中で、どんな惨めな思いにも負けない、鋼のような強い希望を大きく描くんだ。
 リュイとエルに会いたい。神様達をエヴリールに伝える。皆を戻す。それから、それから。
 大丈夫、私の心はまだ生きている。耐えられるよねって、自分に確認する。
 怖いけれど、しっかりしなきゃ。
 望む心は、ちゃんと鼓動している。
 
 
 ざわざわ。
 風はないのに、音が聞こえた。
 ざわりざわり、枯れた下草を踏みにじる音。
 魔物の足音とは違う。何か長いものを――引きずる音だ。
 私は立ち上がった。震えて、今にも崩れそうになる足を一度見下ろした。見守ってくれるリュイも、庇ってくれるエルもいない。
 ウルスの村でのことを思い出す。そうだった、一体どこからレイムが出現するのかは分からない。もしかすると、夜の匂いを嗅ぎ付けて、土の中から這い出てくるのかもしれない。
 勝機がないわけじゃない。完全にレイムへ変化する前なら、動きが鈍かった。その時であれば、私でも斬れる。
 私は音のする方へ近づき、剣を抜いた。どこか錆びているような剣の刃に、ランプの明かりがぼんやりと映る。
 ざわり、ずるり。
 とても近い。
 耳を澄ませて、音の場所を特定する。もう少しで、本格的な夜がくる。建物の影、木々の影、自分の影、たくさんの影が、地面を更に色濃く塗り潰す。
 ふと、気がついた。
 斜め前方に見える太い樹木の影が、なぜか膨らみ蠢いていた。
 そうか。
 レイムはきっと、夜が間近な時に落とされる最も濃い影から、出現するんだ。
 私はそちらへ近づき、影の前で足を止めた。影の中で、何かが緩慢にぐるぐると回っていた。奇妙な切ない唸り声が聞こえる。ずるり、と気怠げな動作で影の外へ投げ出された長いゴムのようなもの。伸びた腕だ。
 ぐちゃりと柔らかいものを咀嚼する音が響く。くちゃくちゃ、行儀悪く音を立てて、嚥下して。肉をひきちぎる音も。
 アァ、アァ、と木霊するように、別の場所からも鳴き声めいた音が響いた。アァ、アァ。合唱され、淀んでいく。
 私は深呼吸をした。
 そして、ランプを掲げた。
 樹木の影で自らの肉を咀嚼し、破れた腹部から垂れこぼしている者。
 壊れた肉体を味わう、小柄なレイムを、見つめた。
 レイムも不意に手をとめ、私を見返した。

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