F39
伸びた片腕、ちぎれかけの足首。
夜の始まりの色を押し返すランプの明かりが異形の姿をはっきりと映し出し、更に不吉な陰影を与えていた。私は束の間息をとめ、か細く恥じ入っているようにさえ思える悲惨なレイムの様子を凝視した。
随分小柄なレイムだった。もしかしたら子供じゃないだろうかと思い至り、やりきれなさの中に一筋の拒絶が生まれ、寒気が走った。
なぜだろう、大人よりも、子供が被害にあう方が、より残酷だと咄嗟に感じてしまうのは。どちらも与えられた残酷さは同じはずなのに。それは無色のまま用意されていた未来、足跡のない長い人生の道といったものだけでなく、魂の無垢さなども想像してしまうためなのかもしれないと素早く心の中で答えを出したけれど、どうしてなのか、曖昧な感覚をはっきりとした言葉で表現してしまったら、途端に感情を包んでいた温度が失われてしまったように思え、いたたまれなくなった。
レイムは興味をなくしたように私から視線を逸らし、再び自分の身体をちぎりとって咀嚼する作業に没頭した。裂けた腕の皮膚から血に塗れた手首の骨をつるりと出し、項垂れるように顔を俯けたあと、赤黒い筋の糸が絡み付いている指の先端をがりがりと音を立てて齧り始める。
今しかない。
完全に人を脱いだあとで斬るのは難しい。
躊躇う気持ちとこの恐怖を、どうすればかき消せるのだろう。耳鳴りがひどい。小蠅が耳のまわりを飛んでいるかのようだ。払っても払っても、しつこくまとわりついて逃げない気障りな音。氷のように冷えていく身体を叱咤し、私はランプを地面に置いたあと、両手で丁寧に剣をかまえた。早く。斬るだけだ。
急がないといけない。レイムがほら、そこにも、あそこにも。もっともっと集まってくるだろう。
――斬れ!
ぐっと、歯ぎしりしそうな強さで奥歯を噛み締め、勢いよく剣を振り上げた。錆びた色の剣は、残像を見せずにレイムの首にめりこんだ。肉を貫き、首の骨を切断する硬い感触が、剣を通して全身にびりびりと伝わる。総毛立つような拒絶感。恐ろしさと嫌悪のあまり、自分の手が砂に変わって崩れていくんじゃないかという妄想に囚われる。なんだか自分が無慈悲な殺人鬼めいているようにも思えた。
「う、うーっ」
どろどろと冷たい感情が胸の中で渦を巻いていて、唸らずにはいられなかった。
最後まできちんと切り落とさなきゃ駄目だと一回目の過ちで学んでいたため、震える右手を左手で押さえるようにして、剣の柄に力を込める。もがくレイムの哀れな姿に耐えられず、一瞬だけ視線を背けたその時、こっちが加える力をはねつけていたかのような重量が急に失せ、剣先ががつんと地面に落ちた。私は支えを失ったように、少しつんのめった。レイムの首を切断したんだ。
私は顔を上げた。ぱちぱちと、はぜる音。
肉片が飛散したあと、驚異の再生が始まった。
放心しながら、その様子をじっと眺めた。
崩壊した肉片が寄り集まり、透明な粘膜で覆われる中、凄まじいスピードで構築される。手、足、胴体。人としての秩序が回復する。
私は剣にしがみつきながら、地面に両膝を落とした。
「ん、くっ……」
膜を破り、羊水のような液体をまき散らして、人間が転がり出てきた。喘ぐように肩を揺らし、その場に倒れこむ。
――戻った。
「あ、あ……」
苦しげにか細い声を漏らしながら、緩慢な動作で身じろぎしている。
やはり、子供というか、少年だった。十二、三歳だろうか。
暗灰色を持つ濡れた髪が頬にはり付いている。苦しげに何度か咳をして、ぎゅっと眉をひそめ、華奢な肩で大きく息をしていた。私はその子の正面に移動した。こちらの気配を察して、少年がはっと顔を上げた。暗水色をした切れ長の瞳が見開かれる。驚きを映すその瞳は、意外にも理知の色がうかがえた。
声をかけようとして、ふと気づく。濡れた髪の隙間から覗く耳朶に、瞳と同色の石がついていた。一瞬、ピアスかと思ったんだけれど、肌にぴたりとくっついているのを見て、すぐに違うと悟った。もしかして、これは神石なんじゃないだろうか。
少年が驚きに目を見張ったまま口を開いた時だった。ざわりざわり。レイム達の奇怪な鳴き声や咀嚼音がだんだん深くなっているのに気づく。
時間がない。
私は急いで外帯を外し、一番上に着ていた薄い長衣を脱いで、凝固している少年の肩にかけた。
分かっているんだ、とてもじゃないけれど、短い時間の中で、この辺一帯に潜んでいるレイムの全てを元に戻すのは不可能だと。
――それでも。
今は、恐怖を飲み込んででも、斬るしかなかった。他に方法がない。
それに、できるだけレイムとなった人々を戻さなければ、私自身の身も危うい。もし、複数のレイムを戻すことができて、尚かつ運がよければ、剣の扱いに長けている騎士や、背後の神殿内部に詳しく安全な場所を知る人が存在するかもしれない。
「ここにいて!」
こちらを呆然と見上げる少年に、私は素早くそう言ったあと、別のレイムが蠢く木陰へと走った。辛うじてランプの明かりが届く場所だ。少年のところから、殆ど距離がない。
そこにいたレイムはうずくまるような体勢を取り、頬を大きく膨らませて自分の肉塊を一心不乱に貪っていた。顎を動かすたび、はらりはらりと髪の毛も抜け落ちている。私はさっきのように奥歯を噛み締め、斬りやすいようにレイムの後方へ移動した。
――まだ、大丈夫。
ごめんね。
木陰で自分の身体を食べるレイムに向かって、内心で呟き、剣をまた振り上げる。
三度目の斬首。何度目だろうと、慣れるはずがない。既にもう腕が疲れて、痺れ始めてきている。それでも、力を抜くことはできなかった。なぜなら、斬り損じるとレイムは痛がる。そうなんだ、レイムはちゃんと痛覚を持っている。
どうしても与えなければならない激痛。それならば、ほんの一瞬で終わらせてあげたい。
ああ、きっと、このせいで罪悪感が生まれるんだ。人型を目にしているというだけでなく、無防備の状態であるレイムを斬る時、とても悲しげに痛がるから。たとえ、人に戻すために必要な痛みだとしても。
フォーチュンは、蘇生時の凄まじい苦しみや嘆きを与えるため、人間に戻れるという道をあえて残したのだろうか。だとすると、それはとても、容赦のない思いだ。このエヴリールに抱く憎悪と失望は、そこまで激しいの?
驚異の速度で蘇生を果たす二番目の人を見ながら、詮無いことを束の間考えた。
二番目に戻った人は、がっしりとした体躯を持つ四十歳前後の男性だった。濃黄色の髪の毛が、濡れてもつれていた。
他に渡せる衣服がなくて戸惑ったけれど、のんびり思案している余裕はないと気づく。
「あの子の所へ行って」
私は男性の耳に囁いた。鮮やかな碧眼を見返したあと、私はすぐに身を翻し、また別のレイムへと駆け寄った。ランプの明かりは殆ど届かなかったけれど、耳につく咀嚼音と気配で判断できる。
剣を握る腕がとても重かった。それに、悪寒がするほど身体の調子が変だ。
余裕のなさが二人のレイムを元に戻せたという喜びを奪っていたし、どこか感覚も麻痺している気がした。
様々な感情を抱え込んでしまうと足が止まってしまうため、無意識に心が閉じられているのかもしれなかった。
残された時間で、あと何人のレイムを斬れるだろう。
まるで事務的にそういうことを考えながら、三人目のレイムを斬った。痺れる腕では、もう殆ど剣を叩き降ろしているだけのような状態に近かった。
斬りつけた場所から体液が噴き出し、避けられずまともに浴びてしまう。やっぱり気持ち悪いとぼんやり思った。
三人目は女性だった。少年達が待つ場所へ移動する目的で、彼女の身体を支えるまでは、なんとなく青年ではないかと勝手に思い込んでいた。ランプの明かりで確認し、青年ではなくすらりとした背の高い若い女性だと納得する。髪はショートボブ程度の長さで、女性らしさを故意に消しているような雰囲気を持つ人だった。黒髪だと感じたのは一瞬で、どこか赤みがかかっているのに気づく。
しまった、上着は女性に渡せばよかったと頭の片隅で後悔したけれど、今の自分は何かが欠けていて、配慮が疎かになっていた。私はまた視線を巡らせ、別のレイムへと走った。機械的になっている自分が奇妙だった。
四人目。
ちょうどこの周辺は月明かりを木々が遮っておらず、ランプの明かりがなくともある程度様子が見て取れた。といっても月の光はひどく弱々しいため、手の届く範囲のみぼんやりと窺える感じだ。四人目のレイムの輪郭はちゃんと捉えられるので、不満はなかった。
剣を振り上げた時、レイムが両手を掲げるようにして私へ向けたので、一呼吸分、腕をとめてしまった。レイムが掲げた手の上には、自分の眼球が乗せられていたんだ。
溢れそうになる何かの思いを無視して、私は目を瞑り、角度をつけて剣を振り下ろした。この辺りから、一度で首を斬るためには、真っすぐ剣を叩き付けるだけでは駄目で、勢いをつけて斜めから狙わなくてはならないんだと理解し始めた。単純に剣を振り下ろすよりも力を必要とするし、難しかった。
四番目の人は男性だった。今度は三十代くらいの人だ。一番最初に戻した少年の方へ行くよう指示して、また次のレイムを斬るため、背を向ける。
何だかとても具合が悪い。嘔吐感を誤摩化しながら、五番目のレイムを斬る。肉を斬る音。骨を砕く音。剣も私も、レイムの体液に染まっていく。ひどく生臭い匂い。目眩がする。
――斬れ。
五番目の人は女性だった。私と同年代くらいの可愛い子だった。何を比べたのかとは明確にいえないけれど、私はその子を見て、すごく情けなく惨めな苦しいものを自分に感じた。羞恥心によく似た感情のように思えた。
――斬れ。
心に響く声がいつの間にか、自分を鼓舞するものじゃなく、冷然とした命令に変わっていた。
私は六番目のレイムに向かって歩いた。その途中、よろめいて一度がくんと地面にひざまずいてしまった。すぐに剣を支えにして立ち上がり、視線を定める。
六番目のレイムは――殆ど脱皮していた。盛り上がった背の皮膚が、花開くように破れていた。
もう次辺りで、最後かもしれないと思った。
時間は容赦なく、危険を連れてくる。
最も完全体のレイムに近づいていたためか、今までより一番激しい抵抗を受け、体力を浪費してしまった。何度も斬り損じて、その度にレイムの悲痛な声が迸る。私はえずきそうになりながらも、必死に剣を振り下ろした。めちゃくちゃな斬り方のせいでいたずらにレイムを虐げているような感じになり唐突に絶叫したくなったけれど、すんでのところで堪え、体液で滑る柄を左手に持ち替えたあと、また繰り返し剣を振るった。
ようやく戻せた六番目の人は、気難しげな顔をした五十代くらいの男性だった。
少年の所へ、という言葉が出なかった。口の中に飲み込めない唾液がたまっていて、声を出せなかったんだ。
私は剣先を地面に落とし、杖のように縋りながら、荒い息を繰り返した。もう駄目。手が痛い。苦しい。吐きそう。
――斬れ。斬れ。
もう嫌だ。
甘えるな。
理性と感情の声が入り交じる。その合間に、まるで別人格が存在するかのように、斬れと冷たい口調で傲然と命じる声がある。
汚いけれど、飲み込めない唾液を地面に吐き捨てた。そうしないと、本当に嘔吐してしまいそうだった。レイムの体液の匂いが、唾液の中にもしみ込んでいる気がした。
――斬れ。斬れ。斬れ。
心を次第に埋めていく命令に、私は返事をする。分かってる。今度は、逃げないから。
一人でも多く助けるんだ。
今自分を苦しめているのはレイムを斬ることだけれど、同時にそれが精神を支える柱にもなっている。
剣を握り締めて顔を上げた時、レイムの鳴き声が途絶えているのに気がついた。
夜。
本物の夜が来た。
戦慄を呼ぶ壊れた時間の到来だ。
「――建物の中へ!」
私は振り向き、寄り集まって呆然と地面に座り込んでいる人々へ叫んだ。この人達を、また以前の女の人と同様、悲惨な犠牲者にするわけにはいかなかった。なんとしてでもこの一晩を乗り切らなければいけない。
本当は私も皆と一緒に、建物の中へ逃げたい。
その激しい願いを封じて、闇に向かって剣を向ける。
刹那の静寂。
濃厚な妖気のようなものが、闇の中に漂っている。
ランプのわずかな明かりだけでは、とても周辺全域を照らし出せない。
「早く建物の中へ!」
戸惑っているのか、それともまだ意識がはっきりと覚醒していないのか、動かずにいる背後の人達に再度建物の中へ避難するよう呼びかけた。
――斬れ。斬れ。斬れ。斬れ。
分かっているから!
心を埋める抑揚のない命令に、私は声なく怒鳴り返す。
戻せ、ではなく、斬れ、と命じる自分の声にどこか異質なものを感じながらも、今は闇に神経を注いだ。
ようやく背後の人々が躊躇いがちに移動したのを感じた。
先程までの悲しみに満ちた鳴き声とは異なる、歓喜を含んだ囁くような歌声が響き出す。本物のレイム達だ。
リュイとエルにすごく会いたい。でもここにいなくてよかったと思う。どこか安全な場所に隠れていてほしい。
夜はこれからだ。自分が一晩耐え抜けるか、試されるんだ。
なぜか、試練の森でのことを思い出した。一昼夜、自問せず、手を出さず、ただ耐えてみよと命じるフォーチュンの声。今とは全然状況が違うのに、不意に蘇ったのが不思議だった。それほど昔の記憶じゃないけれど、あの時の私は一切状況を把握しておらず、どこまでも能天気だったとぼんやり思った。
何かが闇の中で動いた。こんな反射神経が自分にあったのかと驚くくらい、素早く腕が動いた。こっちへ飛んできた正体不明の塊を、剣でなぎ払ったんだ。
音を立てて転がり、ランプの側でとまったのは、白い頭蓋骨だった。レイムの一人が、悪戯のつもりでこちらへ放ったに違いなかった。
剣を握る手がひりひりとして、すごく痛かった。多分、力任せに六人の首を斬り落としたため、両方の掌の皮がむけているんだろうと思った。握り直すと、接着剤をつけたかのようにぴたりと掌が剣の柄にくっついた。奇妙な感触だった。
それに――なんだか異様なほど、手の甲が熱い。オーリーンに口づけられた所だと、少し遅れて気づく。
――美味い。
美味い?
心に響いた自分の声に、私はぎょっとした。
何を考えているの、私。
でも、これって本当に私の声?
混乱しそうになり、剣に視線を落とした。そこでまた、狼狽する。
錆びた色を持っていたはずの刀身の表面。それが薄皮を剥いだみたいになっていた。まるで水晶のように透明な刃が覗いていたんだ。闇の中でさえ見出せる不可思議な透明さ。
美味い、ともう一度、心の中に声が落ちた。違う、私、そんなこと思ってない!
どうして。
掌の血が吸われているみたいだと思った。透明な部分を覗かせる刃をじっと見下ろす。そこに、一滴の血が混じったかのように、澄んだ赤が滲み出す。
どくんと手の甲が鼓動した。全身に鳥肌が立った。私の意思を無視して、ぶわりと威勢よく、得体の知れない力が腕に広がった気がした。
――斬れ。斬れ、斬れ斬れ斬れ!
空を引き裂く雷鳴のように、心の中で命令の声が轟く。一人の声じゃない!
何人もの声を一つに重ねたかのような。
私じゃない。これ、私の声じゃない。
執拗に繰り返される命令に、戦いた。
オーリーン、この剣、何!?
――さあ、斬れ!
頭の中が真っ白になった時、巨大な壁のような体躯のレイムが、私の目前に立った。
――その恐怖、その怯懦、糧にせよ。
心に満ちる声。
息を呑んだ時、刀身から錆び色の薄皮が全て剥がれ落ちた。赤い色を持つ水晶のような、透明な剣だった。禍々しいほど赤く澄んでいる。
「!?」
剣に気を取られてしまったため、注意が疎かになっていた。
虫のように、背から何本も長い腕を生やしたレイムの手によって、私の身が宙へと持ち上げられた。骨が軋みそうになるくらい強い力で、呻き声さえ漏らせなかった。勿論、指に全く力なんて入らないのに、剣は手から離れなかった。
――小娘、非力な主!
侮蔑の声が響く。
私の身を掴む巨大なレイムの手にぐうっと力がこもった。殺されると思った瞬間、剣を握る腕が燃えるように熱くなった。
「――あ、あ!」
嘘だ。
本当に燃えて――
私を握り締めていたレイムの手が、肉片をまき散らして突然弾け飛んだ。解放された私の身が地面に落ちた。でも、それどころじゃなかった。
剣を掴む腕が燃えている。赤い透明な炎。なぜか服は燃えていない。
服の袖から覗く自分の腕を見て、私は悲鳴を上げた。
どくどくと浮き上がる血管。
そして――人面瘡のようにいくつも小さな顔が腕の皮膚に浮かんで。
「嫌……嫌っ!!」
点滅するように浮かぶ人面瘡達が一斉に、にっと笑った気がした。
剣を持つ左手の甲に、最もはっきりとした顔を持つ人面瘡が浮かぶ。
やはりそれも、にいっと笑い、口を動かした。
さあ食らおうか、と。
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