F44

 今度こそは幻でしょうか、とリュイが表情を変えず無感動な声で囁いた。
 言われた直後は、どういう意味なのか分からなかった。必死に考えを巡らせたあと、多分こういうことを言いたかったのではないかと気づいた。一番最初に会った時、言葉が通じないまま、私はリュイの前からすぐに姿を消した。その時リュイは私の存在を、自分の願望が生み出した幻ではないかと捉えていた。でも私は再び彼の前に現れ、本当に存在する人間だと認識した。
 だから、今度こそ幻なんじゃないかと、そう疑っている。
「……幻に見える? 私はここにいるよ」
 無理矢理微笑を作って、リュイの頬に触れた。それでも彼の目に、温もりが戻らない。
 エルが小さく唸りながら、忙しない様子でうろうろしている。時間がない。窓から侵入しようと押し合いへし合いしているレイムたちが、いつ転がり込んでくるか分からない切迫した状態だ。
 間近に迫る危機を分かっていても、リュイを正気に戻さなければいけなかった。今、背を向けてしまえば、リュイはずっと心を壊したままになってしまうんじゃないかという気がした。
「なぜ、幻ではないのですか」
 淡々とリュイがそんなことを言う。
 どうすればいいんだろう。何て言えば、彼の心に届くんだろう。
 答えられない。分からないよ。
 どうして私は、すぐに大人になれないんだ!
 悔しくて、悲しくて、頭の中がめちゃくちゃになる。
「リュイ、ごめんね」
 彼を癒せる言葉がどんなに考えても分からなくて、謝るしかできない。
「……怪我は、ありませんか」
 あぁ、リュイは、こんなふうに心を置き去りにしても、私のことを心配している。
 泣きたい思いが膨らんで挫けそうになった時、不意に何かが引っかかった。
 リュイの顔を覗き込む。こっちをちゃんと見ていない。視線が、僅かにずれている。指一本分、別の世界を覗いている目だ。
「こっちを見て?」
「はい」
 焦りを伝えるエルの唸り声を背後に聞きながら、私は両手でリュイの頬を包んだ。
「ちゃんと見て」
 もう一度言うと、リュイは返答せず嫌がるような素振りを見せた。
 そうか、幻にしたいんだ、私の存在を。だからちゃんと見れない。
 見てしまえば、安息を、死を、迎えられない。リュイは誓いを立てたのだもの。命にかえても私を守るって。真面目で、優しい人だ。だから自分の誓いが鉛よりも重い足枷となり縛られる。私の存在を目に映らぬ幻にしなければ、また苦しい現実を血塗れで生きなきゃいけなくなる。
 狂いたいんだね、リュイ。
 なぜそんなふうに考えてしまうのか、答えが見えた気がした。
 まだ、正気を保っているためだ。
 心は壊れてなんかいない、壊れたいと望んでいるからこそ、矛盾した言葉を口にしている。疲れ果てて、それでも尚、正気を失えなくて、真っ暗な絶望の牢獄に囚われているんだ。でも、安らかな狂気を呼び込めないのは、リュイが強いからなんだよ。まだこの世界を愛しいものとどこかで感じている確かな証拠だ。
 ごめんね、私は、リュイに安息をあげられない。辛くてむごいこの現実に、帰ってきてほしいよ。
「ねえリュイ、約束してくれたよね?」
「――」
「変わらぬ忠誠をくれるって。嬉しかったよ。そんな言葉、もらったことなかったもの」
 顔を背けようとするリュイの頬を押さえた。エルが急げというように、背後でうろつき、唸っていた。
「騎士たる証として、理義の血を注ぎ、忠勇の松明を燃やし、不滅の意志を――」
「響!」
 耐え切れないというようにリュイは叫び、すぐに自分の言葉を封じるように唇を噛み締めた。
「私を守ってくれるって。リュイがいたから、ここまでこれたよ。私は弱いから、一人じゃ夜を過ごせないよ」
 言い募ると、リュイの肩が震えた。とても荒んだ、淀んだ眼差しで、血がにじむほど唇を噛んでいた。
「もう駄目? 一緒にいるの、嫌になった?」
 卑怯な言い方でリュイの心を揺さぶるしか、方法が分からなかった。私は大人になれなくて、けれど純粋な子供でもなかった。
「私、一人で怖いよ。側にいてほしいの」
「――」
 一瞬、リュイが激しい感情を秘めた目で、私を睨んだ。ちゃんと今、視線が合った!
 すごく怖い色の瞳だった。いつもの包み込むような優しさなんて含まれていない、呪うような感情を宿した、苛烈な目だ。切り刻まれそうな錯覚を抱き、逃げたくなる。だけど、次に言うべき言葉がそのおかげで定まった。
「リュイ、私を責めなきゃ駄目だよ。とても怒っているね、殴りたいくらい、罵りたいんだよね。どうしてなのかと、聞かなきゃ駄目なんだよ。だって、リュイは――裏切られたと思っているんだ」
 必死に逸らそうとするリュイの顔を覗き込む。
 レイムが壁を引っ掻く音が聞こえる。まだ、動けない。
「やめてください」
「やめないもの」
 即答すると、リュイに両腕を掴まれた。腕が折れてしまいそうなくらい強い力だった。骨が軋みそうな感じがして、顔を少しだけ歪めてしまったかもしれなかった。
「ごめんね」
「謝るな!」
 叩き付けるような声音で拒絶された。
「恨めというのか、守るべきあなたを!」
 リュイの目に、ようやく大きな感情の渦が見えた。奇麗な月色の目に戻る。そうか、月迦将軍って、この目の色からとったのかな。
「……なぜ! なぜ置き去りに? 側にいろと言いながら、姿を消したのは、あなたではないか!」
「うん」
 それを、言いたかったんだよね。でも、言えば私を傷つけると思って、それで気持ちを封じることになってしまった。
「共にいると。ならばなぜ、再び闇の中へ落としたのか。俺に、仲間を殺させて!?」
 仲間。
 殺してしまったレイムたちは、彼の仲間だったんだ。ここは騎士達が利用する施設。レイムが帰巣本能で集まることを考えれば、リュイと同じ騎士たちが圧倒的に多くて当然だった。
 大きな力を持つ魔法使いや魔術師たちが存在するこの国が、なぜここまで無抵抗と取れるくらい短い期間で滅びてしまったのか、リュイの言葉で分かる。レイム達が、その姿のままで死ぬならまだ耐えられる。けれど、切り刻んだあと、そこには人間としての破片が残るんだ。もし、その相手が家族や友人であったりしたら、自分の身を守るためとはいえ、簡単に凶器を向けられるだろうか。
「肉親のように日々を共に過ごした彼らを、よくも殺させた!」
 激しく睨んで罵るリュイの目に、悔恨と怒り、悲しみをたたえた涙が浮かぶ。胸の痛みを、私は堪えた。
「ごめんなさい」
「違う、謝るな!」
 私を憎みながら、それでもリュイはやっぱり優しい人だった。強く掴んでいた腕から手が放される。私はまたリュイの頬に触れた。こぼれる涙を拭う。乾いた瞳が、涙を落とすたび心を映していく。
「なぜ、置き去りに! またこの闇だ、再びさまよえというのか!」
 違うとは言えない。結界の不備、それを今伝えても意味がない。
「でも、迎えに来たよ。いつか言ったよね? 大切だから、必ず取り返しに行くって。諦めないもの、リュイが嫌がっても」
 突然、ぎゅうっときつく抱き寄せられた。私も腕を伸ばして、リュイにしがみつく。
「お願い、生きてほしい」
 私達、同じ罪を犯してしまった。生き延びるために、ウルスの村で、この部屋で。
「リュイは、私の闇を救う、ただ一つのお月様なの。消えないで、側にいて」
 目を閉じた時、突然男性の悲鳴が聞こえた。
 視線を上げると、先程蘇生し、床に転がっている神剣の側でうずくまってた人が、窓の方へ顔を向けて硬直していた。振り返ろうとした時、どさっと重い荷物が落下するような音が聞こえた。
 レイムがとうとう窓から室内に入ったんだ。
 エルが、早く! と訴えるように唸った。
 けれど、リュイは腕を離してくれなかった。声をかけようとして、もしかすると、試されているのだろうかと気づく。ここで側を離れ、背を向けるのかと。
 レイムが鳴き、にじり寄ってくる音がした。戦慄が走る。
 エルが低く唸った。背後で空気が大きく動く。こちらへ襲いかかろうとするレイムの動きをとめるため、エルが時間稼ぎをしているんだ。
 エル、もう少し、もう少しだけ、耐えて!
「リュイ」
 呼びかけても、返事がない。エルが咆哮する。焦りを伝える鳴き声に、冷や汗が滲んだ。レイムの攻撃をかわし、近づけさせないために必死で動いているのが分かる。
 これでもし、別のレイムが侵入してきたら。
「リュイ、眠ろう。目が覚めた時には、きっと夜が終わっているから」
 静かに涙を落とすリュイの顔を見つめた。さっきとは違った意味でぼうっとしている目だ。恐らく心の方が限界で、休養を必要としている。
「大丈夫、眠っていいの。側にいる。リュイが起きた時には、必ず側にいる。今は、目を閉じて」
 言い聞かせるようにそっと囁き、リュイの額に小さく口づけた。
「大丈夫……」
 ふっとリュイの身体が崩れた。慌ててリュイの身体を支えようとしたけれど、受けとめきれず潰されかかった。
「ねえ、お願い」と、焦った私は、隅の方で震えている男性に声をかけた。
 彼は、落ちていた布を身体に巻き付けて、身を縮めていた。
「お願い、その剣をこっちへ持ってきて」
 頼んでも、彼は動いてくれなかった。
「む、無理だ、殺される、無理だ」
 弱々しい声にかぶせるようにして「剣を!」と私は叫んだ。その人は、打たれたように身を揺らし、剣を掴んだあと、這うようにしてこちらへ近づいてきた。
 松明の明かりが十分に届く場所で見た男の人は、涙を流して顔を大きく歪めていた。ぽっちゃりとした体型の、育ちのよさそうな若い男性だった。
「リュイを守って」
 エルの辛そうな声が聞こえる。素早く振り向くと、俊敏に駆け回るエルに、レイムは翻弄され、腹を立てているようだった。いつレイムの腕がエルを傷つけるかと、恐ろしさを抱く。
「で、できない。無理だっ」
「どうして!」
 思わず叫び返してしまい、リュイが起きないかと慌てた。
「君、逃げよう、もう駄目だ」
 男性は混乱した様子で耳を塞いだ。気弱な甲高い声だった。恐ろしくてたまらないと、全身で訴えている。
「大丈夫、私があなたを守るから。あなたはリュイを見てて」
「い、嫌だ、僕は、できないっ」
 彼は悲鳴のような否定の声を上げ、ぶんぶんと首を振った。
「見て分かるだろう! 僕は弱いんだ。いつもいつも勝てやしない、臆病カウエス、間抜けなカウエス……駄目だ、駄目……」
 気を失っているリュイの頭を抱えたまま、私は驚いた。彼がぶつぶつと呟きながら、自分の柔らかそうな銀髪を両手でぐっと握り潰すように掴んだんだ。
 緊迫した状況に対する焦燥感とは別に、この世界にも、色々な人がいて、それぞれの苦悩があるんだと改めて知る。
「ねえ、カウエス……あなた、カウエスっていうんだね」
 エルの奮闘を背中で感じながら、私は急いでそうたずねた。まだ外にはレイムがたくさんいる。窓からまた次のレイムが侵入してくるはずだった。エルだけでは、二体を同時に相手にはできないだろう。それは、私自身にもいえることだ。
「私も同じだよ、とても臆病なの」
 手を伸ばして、彼の腕に触れた。感電したかのように、カウエスはびくっと身体を揺らした。
「顔を上げて」
「嫌だ、殺される、逃げたい」
「顔を上げて、カウエス!」
 強く言った時、カウエスはやはり怯えた態度でびくりと顔を上げた。彼が視線を伏せる前に、私は自分の手を見せた。
「私も逃げたい、怖い。ほら、手、震えてる」
 汗ばんで、かすかに震えている自分の手。とても怖い。意識を失ったリュイを、守りきれるだろうか。エルを早く助けないと。どうやってここから脱出すればいいのか。泣き喚きたいくらい、恐ろしい。
「怖いけれど、弱いけれど、きっとできること、あるよ」
「僕は、落ちこぼれの騎士だっ、何もできない」
「できるよ。顔、上げられたよ。お願い、私、一人では戦えないの。怖いから、松明を掲げていてほしい。そして、リュイを見ていて」
「た、戦うって、そんな無茶な!」
「後ろにいて、明かりを掲げていてくれたら、戦える。一緒にやろう。きっとできる」
 大きな目から涙をぽろぽろこぼしてカウエスは呆然と私を見返した。
「臆病な気持ち、今だけ封じよう。あとで、一緒に慰めるの。怖かったねって、思い切り叫ぼうよ」
 カウエスは緩慢に首を振り、動揺した目を窓側へと向けた。その目がまた怯えに染まってしまう前に私は言い添え、リュイの身体を彼の腕に預けた。彼は、膝に乗せられたリュイの顔をぎょっとした様子で見下ろした。
「あなたを頼りにしてる。――騎士ならば、忠勇の松明を!」
 叫んだ時、カウエスがはっと目を見開いた。
 私は神剣を掴み、振り向きざまに駆け出した。窓から次のレイムが転がり込んでくるのと同時だった。クリアになる視界。駆け出した勢いのまま、私は剣を斜めに振り上げ、窓から侵入して床に転がり体勢を整えようとするレイムの首を刎ねた。
 驚異のスピードで蘇る人を見届ける時間はない。私はすぐに身を翻し、エルの援護をするため走った。
 エルが身を屈め、酸のような体液をかわし、剣のように鋭い腕の攻撃もさけて、レイムの腹部に突進した。胸部が異常に盛り上がっているレイムの身体が仰向けに倒れる。エルはそのまま、倒れたレイムの腹部に体重を乗せ、起き上がれないようにした。エルの顔を引き裂こうとして振り上げられたレイムの腕を、私はなぎ払うようにして斬った。そして、神剣の柄を両手で握り直し、レイムの首を切断する。
 その時、窓の方でレイムの悲鳴と、落下音が響いた。急いで視線を巡らせると、カウエスが松明を片手に立ち上がっていて、床に散乱していた天井の破片を取り、窓から侵入しようとするレイム達に投げつけていた。どうやら先程の落下音は、彼が投げつけた石塊がレイムに当たり、外に落ちた音のようだった。
 私はその間にエルを伴って、壁際へと走った。おそらくリュイが投げたのだろう数本の槍が突き刺さって壁にはり付けとなっているレイムを、元に戻すためだ。けれど、すごく深く突き刺さっているのか、私の力では槍を引き抜けなかった。
 見かねたのか、エルが軽くジャンプして槍の端をくわえ、一発で引き抜いた。全ての槍を引き抜かれて床に転がったレイムが立ち上がる前に、私は斬った。
「き、君!」
 カウエスが悲壮感漂う声で、私を呼んだ。窓は一つだけじゃない。石塊を投げるだけでは、レイムの侵入を完全には防げないんだ。
 今まさに窓から入り込もうとするレイムがいた。
 エルが、んぐっと槍をくわえ、カウエスの方に走った。一瞬カウエスは逃げ出しかけたけれど、色々な方向へ視線を巡らしたあと、思い切った様子でエルがくわえている槍を手に取り、それをナイフのように放った。槍が的中したレイムの身体が外に落下する。けれど、その行為はレイムたちの怒りを煽ったらしい。今までのようにどこか余裕のある動作ではなく、憤った様子で窓から侵入してこようとする。
 夜はまだ続く。
 耐えきれるだろうか――。
 
●●●●●
 
 私はその後、更に数体のレイムを斬った。ちゃんと数えられていない。
 もう、疲れていて、手が痛くて、自分を強く叱咤しても、ふらふらとしてしまう状態だった。
 身体がもう動けないと音を上げている。けれど、夜はこれから更に深まるんだ。持ちこたえなきゃと思うのに、荒い呼吸はおさまらないし、汗で剣を握る手が滑るし、衣服が肌にはり付いて、ますます動きを鈍くする。
 人間に戻った人たちは、恐らく皆騎士だと思う。意識が割合早くしっかりとした人もいるみたいだけれど、残念なことに武器がない。窓から侵入するレイム達を防ぐため、カウエスがこの部屋にあった剣や槍を全部投げてしまった。私の神剣は、他の人では扱えない。
 エルが加勢してくれなければ、私はとっくにレイムの餌食になっていただろう。なす術がなかった。安全な部屋へ移りたくても、扉の外にまでレイムの気配がある。私達は、完全に包囲されていたんだ。
 休みたくても休めない。斬った側から、レイムが室内に転がり込んでくる。斬れば斬るほど、レイム達は憤り、侵入してくる数も増えるんだ。
 これで何人目だろう。
 霞みそうになる意識の中で、剣にすがり、身体を支えた。エルが絶え間なく警戒を呼びかけている。またレイムが入ってこようとしているんだ。それでも、この呼吸を整えなければ、私はきっと倒れてしまう。
 
 ――神力の反動だ。
 
 沈黙していた神剣の声が、突然浮上した。
 神力?
 
 ――主は未だ脆弱、力は殆ど未覚醒のまま。
 
 そういえば、以前、リュイの毒を癒した時も、すごく疲れてしまったんだ。
 でもここで気を失うわけにはいかない。逃げることが不可能な状況なら、戦うしか。
 
 ――どうする娘よ、その肉体、我に委ねるか。
 
 愉悦まじりに問われて、一瞬真っ白になった。
 また、私にあの怪物を受け入れろと。
 
 ――怪物と! 何とも腹立たしい娘よ、オーリーンなどを神と崇めるゆえに、非力なのだ!
 
 どういうこと。
 神剣なのに、オーリーンを憎んでいる?
 
 ――食われるぞ、娘。このままではお前のみならず、人間共も食われよう。そうしてこの国は滅亡する。さあ滅びを呼べ、か弱き主よ!
 
 心の中で、たくさんの嘲笑う声が響く。
 どうして?
 どうして、オーリーンの剣なのに、滅びを喜ぶの。
 
 ――この我を、愚かしき者の付属に過ぎぬというか!
 
 神剣の怒りが心に満ちる。胸が裂けそうになるくらいの憎悪と呪詛だ。
 分からない、どういうことなのか。
「あなたは、誰?」
 私はぽつりと、呟いた。
 
 ――我は神、我こそが、神!
 
 憎しみが奔流する中、どこか悲痛な色をもった声が心に響いた。

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