F45

 我こそが神、その言葉の意味を問うタイミングを失った。にじり寄ってくるレイムの相手をしなければならなかったためだ。
 少し休んだだけでは疲労感を取り払えず、何度も空振りし、斬り損じてしまう。その空振りは尚更体力を奪い、すぐに体勢を立て直すことができず無防備な状態になってしまうため、今度こそ殺されるんじゃないかと随分ひやりとした。エルが状況を見計らって体当たりし、間断なく襲ってくるレイムの動きをとめてくれなければ、私はもう満足に戦えないほどの情けない有様だった。
 相手に最も接近しなければならないエルが一番危険な目にあっていると分かっていても、疲労で痺れる手足が言うことをきかないせいで、安全な場所へ下がらせてあげることができない。
 レイムの殆どは、その容姿こそ様々だけれど、共通して剣や斧などの形を真似た刃物の腕をもっていた。おそらく、人であった頃の記憶、騎士たちの特徴を備えているのだろうと思われた。
 神剣の声を聞いたあと、何人蘇生させただろう。
 室内に侵入した最後のレイムを斬り終えたあと、私は一瞬気が遠くなり、その場にうずくまってしまった。恐怖よりも身体が限界で、見て分かるほど足ががくがくしている。
 まだ、窓の外には無数のレイムがいるんだ。
「くそ!」
 先に蘇生した人が突然罵り声を上げた。
「おい、お前達、手を貸せ!」
 背後にいた人達が動く気配を感じて、私は乱れる呼吸の中、咳き込みながら振り向いた。武器となる道具はないと思ったら、蘇生した騎士たちは壁に飾ってあるもの、たとえば絵画か何かの額、剣を飾っていたらしき入れ物、棚の板などを引きはがし、窓の方へと走っていった。近づいてはいけないといいたいのに、咳がすぐにはとまらず、喋れない。
 彼らは手にした板や額などを使って、窓から侵入を果たそうとするレイムたちを外へ押し出そうとしていた。
「すまない、時間稼ぎしかできぬ。それさえ、長くはもたないでしょう」
 騎士の一人が私の横に膝をつき、強張った顔をして無念そうに言った。実直そうな雰囲気があって、だけどどこか優しげな顔立ちをしている短髪の若い男性だった。
 騎士の人たちは、もしかして私を休ませようとしてくれたんだろうか。どこの誰なのか分からない正体不明の私を、気遣ってくれている。立ち上がれない自分が悔しい。どうして手に力が入らないの。
「その剣は、私達には扱えないのだろうか」
 私は喘ぎながら首を振った。明らかにこの剣は普通じゃないと思って、そうたずねたんだろう。刃の部分が赤を含んだ水晶のような透明な剣なんて、珍しいに違いない。
 側に寄ってきたエルが勇気づけるように私の頬を舐め、鼻先を軽く頭に押し付けてきた。まるで子供を守ろうとする母親のような仕草だ。あぁ、エルもこんなに毛がぼさぼさになるほど、動いてくれている。疲れてるよね。怪我もしてる。
 それなのに、私は立ち上がれない!
 ぎゅっと神剣の柄を握り、腕で乱暴に額の汗を拭った。身体が重く、頭痛のせいで耳鳴りがした。
 神剣、と私は心の中で呼びかけた。
 覚悟を決めよう。
 リュイの意識がないのが、せめてもの救いかもしれない。
 あなたに全てを委ねる。どうか夜が明けるまで、皆を守って。
 
 ――ならば腕のみではすまぬ。お前の全て、いただこうか。
 
 神剣の冷然とした強い声が心に広がる。分かっている。身体の全てが変化するとなれば、レイムよりも壮絶な姿になりそうだけれど。
 でも今の私の力では、もうレイムたちを追い払えず、この夜を乗り切れない。
 
 ――『怪物』とやらを、自ら求めるか。
 
 いいの、早く!
 レイムが襲ってくる前に動き出さなきゃ。
 神剣の力は強い。だから皆を守れるよね?
 
 ――我は強者か、弱者か。
 
 強いよ。ちょっと意地悪だけど。
 
 ――我は魔か。浅ましき邪悪な欠片か。
 
 どうしてそんなことを聞くんだろうと不思議に思った。
 違うよね。あの怪物めいた腕は正直、さすがに辛かったし不気味だったけれど、皮肉を交えつつもエルが来たこととか教えてくれた。
「違う、邪悪じゃない」
 私は掠れた声で、そう言った。突然言葉をもらした私に、側にいた男性が驚いた顔をし、動揺したように視線を泳がせた。他の人からみれば、神剣と会話しているのは分からないため、混乱の果ての危険な独り言にしか思えないだろう。
 
 ――我を認めるか。
 
 うん、と私は答えた。一体、何を聞きたいんだろう。
 ごめんね、今、ゆっくりと話をする余裕がない。なんとしてでも窓から入ろうと押し寄せるレイムに、騎士達が苦戦している。一人、手にしていた板を破られ、弾き飛ばされてしまった。蘇生直後の彼らだって、本当はろくに動けない状態のはずだった。神剣、お願い。私の身体、使ってほしい。
 焦りを抱きながらお願いしたけれど、神剣は思索に耽っているのかすぐに答えてくれなかった。どうしたんだろう。
「!」
 突然、どさどさと、重量のある荷物が勢いよく落下してくるような鈍い音が聞こえた。
 全員が息を呑んだと思う。私もまた、全身を襲う疲労感を束の間忘れ、呆然とした。
「あ」とどこか気の抜けた声が上がった。リュイの身と松明を守っているカウエスがぽかんとした顔のまま固まっていた。
 忘れていた。天井の穴だ。
 私の目の前で、床にうずくまり絡み合うようにして蠢く異形たちの姿。この部屋へ入る時に神剣で力任せに開けた天井の穴から、レイム達が落ちてきたんだ。
 駄目だ。一、二体ならともかく、それ以上の数を相手に戦うなんて不可能だ。
 更に展開が悪化したと分かったけれど、絶望よりもどこか信じられない気持ちが大きく、半ば放心してレイムたちの姿を眺めた。レイムたちは他を振り払うようにして体勢を整えようとしていた。その余計な押し合いにより、動きを邪魔されてすぐにこちらへ襲いかかってはこれないらしかった。けれども、そんなのは時間の問題で、どう考えても疲労にうずくまる今の私に勝ち目はない。騎士達ももう動きようがないだろう。
 神剣、早く!
 
 ――我は、何者か。
 
 何を言ってるの。お願いだから、早く、目覚めて!
 
 ――答えよ、我はいかなる者か!
 
 蠢くレイムの一人と、視線が合った気がした。焦燥感に突き動かされるまま立ち上がろうとして、足に全く力が入らないのに改めて愕然とした。
「神」
 素早く体勢を変えられずに苛立ちの声を上げるレイム達を眺めながら、私は呟いた。
「あなたは神。私の神様だよ」
 神剣を抱き込み、柄の部分にこつりと額を当てる。
 だって困ったときの神頼みっていうもの。今お願いしているから。それに、神剣っていう言葉、神様が持つ剣っていうんじゃなくて、神が剣、そういうことだったんだよね?
「口が悪くて、ちょっと不気味な姿に変わるけれど。絶望さえも切り裂く、強い神様」
 
 ――主。血だ。
 
「……え?」
 ち?
 
 ――主の肉体、脆弱にすぎる。そのように貧弱で不味い肉など食えぬ。未覚醒の神力では我を支え切れぬ。
 
 どういう意味……って、貧弱って何!?
 緊急事態なのに、なにげなく酷いこと言ってるよ!
 
 ――我に血を注げ。不服だが、一夜の結界となろう。
 
「え、え?」
 体勢を整え始めているレイムたちと神剣を見比べてしまった。
 
 ――なんとも愚鈍な主よ、疾くせよ!
 
「血って、ええっ?」
 この状況に全く相応しくない素っ頓狂な声を上げた私に、呆然とレイムを眺めていた騎士の人達の深刻そうな視線が集まった。ついに錯乱したと思われたかもしれなかった。
 ナイフや鋭利な破片とか、肌を切れるものを持っていない。多分、一滴だけじゃ駄目なんだろう。神剣で斬ればいいのかと思ったけれど、人を傷つけることはできないんだったと考え直す。だとすれば。
「エル、噛んで」
 警戒態勢をとっていつでも飛びかかれるよう床に爪を食い込ませていたエルが全身の毛を膨らませ、耳をぴんと立てた。とても驚いているらしい。
「結界を作るのに血が必要なの」
 袖をまくったあとに差し出した私の腕を見つめながら、エルがどこかおろおろとした様子で一歩後退りした。
 レイムがもう、体勢を整えた。
 エルしかいない。死なない程度に血を流してくれるはずだ。
「噛みなさい!」
 レイムの嬉しげな声と、私の言葉が重なった。
 差し出した腕に、ぐうっと毛を逆立てたままエルが勢いよく噛み付いた。熱を感じた瞬間、吐きそうなくらいの痛みが腕に広がった。外気に、ではなく、自分の肉体に、エルの鋭い牙がぶつっと皮膚を裂いて食い込む音が響く。全身が粟立ち、呼吸がとまりそうになる。
 エルはすぐに離れた。唖然として動けずにいたらしい男性が、突進してきたレイムへはっと視線を走らせる。私は腕から噴き出した血に、神剣の刃の部分を押し付けた。
 
 ――樹界。
 
 神剣の声がさらりと心に響いた。
 突然、神剣の姿が溶けた。
 まるで蔓のように変化し、四方八方に長く伸びて、ぐるりと私や騎士たちを取り囲む。そして飛びかかってくるレイムよりも早く、空中に無数の赤い糸を走らせた。ううん、糸というより、空中にできた透明な亀裂に赤い水がひた走ったような感じだ。あるいは、空を覆う木々の枝のよう。
「何だ!?」
 騎士たちが驚愕の声を上げて、樹界(じゅかい)というらしい結界の膜を眺めた。一つの壁を背にして、結界の赤い枝は私達の頭上までも覆う。子供の頃に雪でつくったかまくらの特大版、と表現したい気がしたけれど、無礼だと神剣に怒られそうだ。
 神剣、夜明けまで、結界を保てる?
 意識が遠くなり始める中でたずねた。明瞭な返事はなかったけれど、なんとなく樹界の模様というか赤い枝が揺れた気がした。大丈夫みたいだ。
 きゅう、と弱々しい鳴き声が聞こえた。エルが大きな身体を縮めるようにして私の隣にぺたりと座り、血で染まった腕を舐めてくる。項垂れているというか、落ち込んでいるみたい。ごめんね、エル。
 なんか、眠たくなってきた。頭がぐらぐらして、もう駄目だ。
 お腹を床につけるようにして座っているエルの頭に私は寄りかかった。身体を動かせなくて、とても眠い。変だけれど、痛みは全然感じなくなっていた。
「腕の手当を!」
 別の部屋から響いてくるような感じで、誰かの声が聞こえた。そうだ、これだけは伝えないと、皆が困るかもしれない。
「結界、朝まで、持つから。皆、出ないでね……」
 しっかりしろ、という声が闇の向こうから聞こえた。
 他にもいくつか声がしていたけれど、どれもざわめきに変わり、やがて波の音になって、最後は闇の中に消えてしまった。
 
●●●●●
 
 夢を見てるんだと思った。
 長いローブをまとった人と、私は手を繋いでいた。その人は古ぼけた灰色のローブについている帽子で顔を隠していたため、一体誰なのか、分からなかった。素性を知るために顔を覗き込むのは失礼な気がしたので、大人しくその人に手を引かれながら歩いた。
 私とその人は、塵灰が雪のように舞う町の入り口に辿り着いた。建物の殆どは黒く焦げて、瓦解していた。あちこちから、空中に線を引いたように、灰色の煙が立ちのぼっている。
 町の中央に向かって、複数の白い道が作られていた。人間の骨を敷き詰めているために道が白いのだと分かった。歩きたくないと思ったのに、その人は私の手を離さず、道の上を歩いて町の中へ向かった。よく見ると、白い道以外の地面には、黒い溶岩の河がいくつも蛇行していた。
 焼け落ちた建物が多く並ぶ区画の奥に、闘技場の舞台めいた、大きな円形の壇があった。その広い舞台も道と同様、人間の骨を固めてつくられているんだと気づいた。
 舞台上には、二人の男性の姿が見えた。今から命がけの斬り合いを始めそうな緊迫した雰囲気の中、二人は剣をかまえ、対峙していた。
 一人は、金色の髪を持つ立派な体躯の男性だった。どこかで見た顔だと、私はぼんやり思った。その金色の髪、緑の瞳を知っている。誰だっただろう、喉に何かがつまっているかのように、記憶がせき止められている。
 もう一人の顔は、何度集中してもよく見えなかった。黒い霧に覆われているため、なぜか造作が曖昧なんだ。
『俺と戦え』
 霧の仮面をつけた男性が、嘲笑うような口調でそう言った。
『お前も俺も、魔物を六百六十六殺し、魔力を秘めたる者を六百六十六殺し、剣士もまた六百六十六殺めた。残るはあと一人、世に名を刻む王たる者の命。その屍で、高みへの階が築かれる』
 熱を帯びてどこか危うさが漂う声音に、金色の髪の男性が悲しげに眉をひそめた。
『そうだ、あと一人。だからこそ、私は最早殺さぬと誓いを立てた。高みなどはいらぬ。私は人のまま、この生を終わらせたい』
『ならばその命、俺に捧げよ』
 傲然と放たれた言葉を聞いて、金の髪の男性は剣を握り直し、その緑の瞳に激しい怒りと悲嘆の色を浮かべた。
『お前は我が国の者を殺めすぎた。私は王として、お前を捕えなければならない』
『捕えるだと。そのような甘い考えで、この俺を封じるつもりか』
『お前も一国の王であろう。なぜ非道を選んだ!』
 金髪の男性が、振り絞るようにして叫んだ。糾弾というよりは、殺意を滲ませて刃を向けてくる人をどうにかして思いとどまらせたいと懸命に振る舞っているように映った。
『何が王だ、誰もかれも讃えるのは始祖王たるお前の名。人は物事の始まりしか見ぬ。ならば俺は高みにのぼり、終焉の神となる』
『なんということを。そのためだけに、多くの者を殺めたのか』
『お前もどれだけ殺した? 血塗れ始祖王、俺と同じ数だけ、血の味を舐めたではないか』
『――、やめろ、私に、剣を向けるな!』
 きん、と剣が鋭く交わる音がした。人の骨で築かれた寒々しい舞台の上、二人は凄絶な勢いをもって戦い始める。
 
<人が神と化す源醒(げんせい)の律がある。三度、闇の数の骨を踏み、最後に覇者の輝ける命を握れ。さすれば高みへの階が築かれる>
 
 私の手を握っていた人が二人の方を指差しながら、密やかな声でそう語った。まるでお伽噺を紡いでいるかのようだった。
 
<人は神を模した愚なる存在。真なる神となるならば、闇の数を超えても尚、人である者でなくてはならない>
 
 身体の隅々にしみ込むような密やかな声が静寂に溶けた時だった。
 金髪の人が、慟哭を思わせる悲痛な呻き声を上げた。彼の剣が、黒い霧の仮面を持つ人の胸に、深く突き刺さっていた。決着がついたんだ。
『死ぬな、――、私に、殺させるな!』
『俺は、俺は、神に……! なぜ、俺は、勝てない!』
 顔に霧をまとう人の怨声が、突然畏怖を滲ませた悲鳴に変わった。
 
<見よ、破れし者は、凍える永久をさまよう。生も死も容赦なく、剥奪される>
 
『やめろ、彼を連れていくな! 私は、神になど……!』
 金髪の人が両膝を舞台につき、叫んだ。
 黒い霧の仮面を持つ人の身体が、じゅっと音を立てて溶けていく。むき出しになる白い骨。その骨に――殺された無数の人々の嘆きが黒い影となって、絡み付く。
『た、助け……!』
『――!』
 金髪の人が、溶けていく彼を救おうとして、その身体に触れた。けれど血肉はなすすべなく失われた。
『あぁ!』
 金髪の人の手に残ったのは、溶けた彼の骨。それが形を変えて、一振りの透明な剣になった。
 
<悲壮なる魂を持ち、高みに立つ神を望んだ者。だが望みが砕けた今、彼は、真なる神のもと、まがい物の神となる。その荒々しき魂を封じるために>
 
『なぜ私に殺させた。最早殺さぬと誓いを立て、次こそは殺めた数以上の者を守ると、そのために王となったのに! なぜ人としてこの血塗れの生を償わせてくれない!』
 金髪の人は自分を呪うように吐き捨て、顔を覆った。
 その時、骨で作られていた舞台が微かに揺れた。町を埋める骨が変形する。がくりと頭を下げて嘆く彼の前に、黒い煤で汚れた骨の階が築かれていく。
 
<望まずとも高みへの道をひらいた者、神となる資格を得た>
 
 彼の前に築かれた階、三段目あたりの空気が急に捩じれた。空気の捩れは、すぐに人の形へと変貌した。目の覚めるような青髪を持つ、美貌の人が突如出現したんだ。たくさんの飾り物を垂らしきらびやかな衣装をまとうその人は、まるで宝石で作られたかのように奇麗だった。
『天門は汝のためにひらかれた。さあ、求めるがいい。いかなる神となるか』
 青髪の人が涼しい声で、うずくまる彼にたずねた。
『神の資格などいらない、――を、蘇らせてほしい。それだけを願う!』
 顔を上げて彼は激しく訴えた。けれども青髪の人は表情を変えず、ゆるりと首を横に振った。
『ならぬ。高みに最も近く、最も遠いその者、荒ぶる強大な魂は、己が殺めた者達の嘆きをも取り込み、怨鬼となった。その災いを封じるのが、新たな神となる汝のつとめ。怨嗟を世に漏らさぬために、かの者の名は消滅する。また、汝の記憶からも』
『名が消滅する……? 断る、――を、忘れろというのか!』
『それが定め。高みとは、過酷の上に立つ天。述べよ、いかなる神を望む?』
『いかなる神かと? なんということだ、望まぬ俺が、望む者を踏みつけにして高みへ行くと! どのような神になれというのだ、狂気の神か、けだものの神か!』
 金髪の人は、血の涙を流して笑った。その瞳が赤く染まり、――の血を浴びた金色の髪もまた、真紅に染まっていく。
『何を司るべきか、それは己のみが知る。選ばねば、汝もまた怨鬼と化す。世に祟りをもたらす、封じられぬ怨鬼に』
『知らぬ、知らぬ! 何も見えぬ!』
 青い髪の人が、彼を見下ろして嘆息した。階が揺れている。彼が選ばなければ、高みへの門は閉ざされ、この地に大災だけが残ってしまう。
 私の姿は誰にも見えない。これは、夢なのだから。
 幻にすぎないけれど、私はフードの人の手を離し、彼らの方へ寄った。
 笑いながら泣く彼の背後に立ち、赤く染まってしまったその髪をひとすくい指に絡める。
「私、知ってるよ。あなたは狂気の神でも、けだものの神でもなく、闘いの神様なんだ。勝利と祈りを司る人。償いたい、守りたいという祈り、希望を生む勝利、そういう力を地上の人にもたらす、闘いの神様だよ」
 私は指に彼の髪を絡めたまま、身を屈めてその肩に額を押し付けた。私は幻だから、体温も何も感じない。ただ、何度も何度も、彼に向かって、聞こえない言葉を紡いだ。
『己が名を述べよ。神の名を。司るものを』
 青髪の人が静かに促す。
 赤く染まった髪の男性が、分からないというように首を振った。私はぎゅっと彼の髪を握り、そこに口づけて、届かぬ声を振り絞る。
「分かる、あなたの中にちゃんと見えている。よく見て」
『私は……』
 涙を流してぼんやりと呟く彼の首に、私は背後から腕を回して抱きついた。大丈夫、ちゃんと答えられる。そう思って、彼の耳に囁く。
 だって私は、彼を知っているのだから。
「オーリーン。あなたの神名は、オーリーン。闘いの神!」
 不意に彼の身が、ぴくりと揺れた。彼の手が、ふとぎこちなく、何かを求めるように宙に触れた。
『オーリーン。私は、闘神』

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