F46
「私は幻、言葉も姿も同じように目に映らない。けれど、あなたに祝福を」
私は少し照れながら、彼の前に回って顔を覗き込む。
「そしていつか、私にも祝福をしてね」
彼に、感触のない口づけを捧げる。
さあ、オーリーン、立とう。
私は身を離し、膝をついて虚脱している彼の手を握った。勿論、彼は何も感じていないだろう。本来私はここに存在しない人間だ。
それでも、オーリーンは身を起こした。
「オーリーン、彼を手に取って」
私は舞台の上に転がっている透明な剣を見て、そう促した。オーリーンは少しの間視線を落としたあと、そっと透明な剣を手に取った。
「彼とともに高みへ行って。オーリーン、あなたが必要だよ。あなたの祈りとその剣は、いつかこの地を救うんだよ」
私は彼から手を離した。
骨の段に立つ青い髪の人が身をずらし、オーリーンのために場所をあけた。オーリーンは階を上がり、その途中でふと振り向いた。視線は合わないけれど、何かを探しているようだった。
「大丈夫、見守っているよ。安心していいの」
オーリーンは瞬き、再びぎこちなく上を目指した。
彼の姿が途中で霞んでいく。次元の異なる域にさしかかり、私の目には映らなくなったのかもしれなかった。
青い髪の人がこちらに向き直った。どこか遠くをのぞむ目で、凛と立つ。
剣の魂は、いつ解放されるんだろう。
『……この地での解放はありえない。怨鬼と化すのを防ぐため、永久の封印につく。かの者は決して、高みの神へは変貌できぬ。またその魂は、人の域を超えているために戻れもせぬ』
青い髪の人にも勿論、私の姿は見えていないはずだ。けれど、その独白はまるで、私の質問に答えているかのようだった。
『なれども』
軽く首を傾げて、考え込むように腕を組む。しゃらりと首飾りの宝玉が奇麗な音を立てた。
『この地が一度滅びたあとならば。終焉より始まり、大地が再生した時ならば。その魂は清浄の息吹にて癒される』
終焉から始まれば……?
『そして、かの者の名を記憶している者があるならば。いや、だが、ありえぬ。生きとし生けるもの全てから、かの者の名は消滅する。呼ばれぬ名は、蘇生を果たせぬ』
青い髪の人が諦観の吐息を落とす。
私は……聞いたよ、彼の名を。なぜなら、今の私は幻で、この世界の住人じゃない。
『終焉に、奇跡など。未だ天には、終焉を司る神、奇跡を司る神が不在』
奇跡は、もしかしたら、人の中から起きるかもしれないよ。
物憂い表情のままゆっくりと踵を返すその人に向かって、私は微笑んだ。
「ありがとう、シルヴァイ」
ふと振り向いた時、景色は一変していた。
私は崩れかかった石塀の上に座っていた。すぐ横には、フードを深くかぶった人も腰掛けていた。
とてもいい天気だ。空は果てしなく澄み渡り、透明な日の光が燦々と降り注いでいる。気持ちのいい風も吹いていて、優しく髪の毛を揺らす。他に何も存在しないけれど、とても平穏な目映い光景だった。
蒼天を見つめ風の吐息に目を細めながら、私はぽつりと言った。
「覚えている。忘れないよ、あなたの名前を」
ねえ、神剣。
隣に腰掛けていた人が、フードを取った。
その人は、骸骨だった。ぽかりと空いた黒い眼窩から、一滴の涙が落ちた。
「私の神様。この世界、一緒に蘇らせよう」
微笑を浮かべ、そっと誓う。
「ね、ソルト」
再び、景色が一変した。
世界は揺れていた。波に背を預けているように、ゆらゆら揺れている。
私は空を見ていた。早送りしたように、空がめまぐるしく色を変えていく。黎明、蒼穹、夕焼け、夜。太陽が巡り、雲が流れ、星が輝く。
また景色は変化した。
どこかの宮殿の一室を眺めた。
壁一面が水鏡のように揺らめいており、そこに薄く、地上の光景が映っている。けれど、私にはその映像が見えなかった。水鏡の前に立つ凛々しい神様――赤い髪のオーリーンが、片手で顔を覆った。
『地の際まで、争いばかり。また人の胸に、争いの星が落ちた。人の祈りは私に届いても、私の祈りは人に届かない』
嘆かないで、オーリーン。
神の軍が駆け抜けた後の地に立った。
草一本残らない荒野だった。空も荒れ、遠くで紫色の稲妻が光っていた。
視線の先にある祠の残骸の側に、魔物たちが数体、寄り集まって騒いでいるのに気づいた。
私はそちらへ近づき、何をしているのかと覗き込んだ。
酷い。
怯えて震えている小さな獣を、魔物達はいたぶっていたんだ。
「やめて、その子を傷つけては駄目!」
叫んだ瞬間、すぐ側の地に一際太い稲妻が落ちた。枯れた地を貫く轟音に、魔物達は飛び上がり、蜘蛛の子を散らすようにして逃走した。
遠くへ駆け去る魔物達を眺めたあと、私はその子の側に膝をついた。今の私には触れられないけれど、それでも手を伸ばし慰めてみた。
「大丈夫、もう怖くないからね?」
きゅうん、とか弱く切ない声が上がる。闇色の毛は、泥と血で汚れていた。なんとか拭う方法はないだろうか。
「すぐに、誰かが来てくれる」
私は更に身を屈め、震えるその子の額に口づけたあと、ふうっと息を吹きかけた。不思議なことに汚れや血がさらさらと乾いた砂のように落ちて、重くごわついていた闇色の毛が、艶やかな銅色に変わった。
ふと、何かの物音を聞きつけ、私は振り向いた。大きな獣に騎乗した誰かが、こちらへ一直線に駆け寄ってくる。
「こっち!」
聞こえないと分かっていても、思わず叫んでしまった。
「こっちだよ、オーリーン!」
オーリーンはまるで私の声を聞いたかのように、祠の側でとまり、震える小さな獣を見下ろした。
「助けてあげてね」
オーリーンは困惑した様子で獣を見下ろしたあと、丁寧な仕草で抱き上げた。するとその時、また別の誰かが大きな獣を走らせて、こちらへ接近してきた。青い髪。シルヴァイだ。
『見つけたか』
『ああ。しかし……』
戸惑いを滲ませるオーリーンの声に、シルヴァイが怪訝な顔をして大きな獣の背から降りた。
『天の律とは厄介だ。神が神を滅ぼした時、天界には存在せぬはずの月が浮かぶ。月は死滅した大地に、影を落とす。その影から生まれるもの。邪なれば新たな魔か獣、聖ならばまた別の何か――獣が生まれたか?』
だとすると殺さねばなるまい、死滅した地に穢れを振りまき闇の巣窟を造る前に。シルヴァイはそう言って、オーリーンの腕に抱えられている小さな獣を見つめ、瞠目した。
『これは面妖な』
『ああ』
二人の神様が顔を見合わせ、当惑していた。
『獣であることは疑いがない。しかし、明らかな聖なる気配を持っている』
シルヴァイが呟いて、その子の額に手をかざした。
『行界(ぎょうかい)に住まう獣神どもが、殺させぬよう祝福をしたのか?』
オーリーンの問い掛けに、シルヴァイは不思議そうな表情を浮かべつつも答えた。
『違うな。これは紛うことなく、天界が持つ聖なる気配。しかし、一体誰が祝福を……』
『殺めるのか』
顔を見合わせて口ごもる二人に、聞こえないと分かっていても私は必死に背伸びをして訴えた。
「駄目、殺しちゃ駄目! この子は聖獣だよ」
シルヴァイが軽くその子の額をつついた。きゅん、と切ない声が小さな獣から漏れる。
『聖なる気配を持つならば、この天界に留まることが許されようが――私にはこういった醜い獣を囲う趣味はない』
『では』
『お前も不要というならば、殺めるがよいだろう』
駄目! と私は首を振った。
オーリーンは一瞬の躊躇の後、その子を抱え直した。
『予期せぬ命と相見えたのも定めならば、私が見守ろう』
くすりとシルヴァイが笑った。
よかった。殺されずにすむみたい。
私も安堵の笑みを浮かべ、オーリーンの腕の中でもぞもぞと動くその子に向かって言った。
「オーリーンをよろしくね、エル」
また場面が変わった。
私は一人、修羅の像の下に座り、木枯らしに震えながら、薄い布にくるまっていた。
周囲には誰もいない。
誰か迎えにきてくれないかな。そう思って目を閉ざした。
●●●●●
瞼を開いた時、周囲には不透明な闇が満ちていた。
どうしよう。
闇の中、ざわざわと耳鳴りのような騒音が聞こえる。人の声なのか、そうでないのか、不明瞭で判断できない。
「誰か、いないの?」
真っ暗闇は怖い。自分の腕をさすりながら、ぽつりとこぼす。
――主。
あ。
神剣の声。――この声は、うん、知っている……ソルトだ!
どこにいるの?
――誰が呼び捨てにしていいと……。主、お前の目覚めを待つ者がいるようだ。
なんかちょっぴり生意気なことを言われた気がするけれど、そこを指摘するのはやめておいた。私が起きるのを待っている人って、ええと、えーと……ああ、誰だっけ。
――足りぬ頭が、更に減ったか、主よ。
もうっ、本当に口が悪い!
覚えてます!――そう、リュイたちだ。
皆はどこにいるの?
そうたずねると、ソルトは、人にものを訊ねる前に我の協力に対する感謝またその偉業を誉め称えるべきでは、っていう感じの文句をどっさり呟いた。その後、諦めた様子で、向こうだ、と素っ気なく教えてくれた。
向こう。私は闇の中、目を凝らした。『ひびき』と悲しげに呼ぶ声が聞こえた時、一瞬で白い光が周囲に満ちて、景色が変わった。
●●●●●
……あれ?
私の身体が、下に見える。
驚いて、まじまじと周囲の景色を見つめた。
そこは――ジンシャンの神殿内だ。私の身体が、毛布の上に寝かされている。そのまわりには複数の人がいた。すぐ側に置かれた燭台の明かりで、彼らの顔が照らされている。皆、無事だったんだ。
率帝とイルファイは凄く疲れた顔をしていた。そうか、私が結界を抜けたあと、きっとたくさんの力を使って皆を守ったんだよね。
うん、カウエスや他の騎士達もちゃんといる。怪我をしている人も多いけれど、命に別状はないようでよかった。
あれ、彼らがここにいるということは……どういうことなんだろ?
リュイも、エルも、ちゃんといる。
エルはひっきりなしに私の頬を舐めていた。うう、エル、可愛いし嬉しいけれど、私の頬、べたべたになっているよ。
リュイは俯いているから、どんな表情をしているのか分からなかった。ただずっと跪き、私の手を握っている。
というか、なんで私、自分の姿を見下ろしてるの!?
まさか、これってあの有名な、幽体離脱とか。
――主、何をとぼけている。
ソルト、私、なんか魂が浮遊しているみたいだけれど、どうしよう!
慌てつつ、毛布の上に寝かされている自分の体を眺めた。私の身体の横に、神剣であるソルトが置かれている。
――主はほぼ一日、目覚めていない。
ええっ。
また私、寝汚いことを!
――……。よいか、血を流しすぎたために、夜明けが訪れても主は覚醒できなかった。我が結界を解除したあと、聖獣の導きで、眠る主を抱え、騎士どもが神殿へ移動したのだ。
あ、それで皆、合流したんだね。
なるほど……と納得して、そんな場合じゃないことに気がついた。
あの、私はどうすればいいんだろ。
――主の肉体はまだ眠りを必要としている。だが、見よ。この忙しない者たちは、再度の夜を前にして恐れを抱き、主を強制的に目覚めさせようとしているぞ。
強制的?
ほぼ一日ってことは、またもう少しで夜が来るんだ。
一体どうやって目覚めを呼ぶつもりなんだろう、と疑問に思った時、彼らの声が聞こえた。
「どうする、娘は未だ目覚める気配がない」
苦渋の表情を浮かべてそう言ったのは、がっしりした体躯を持つ濃黄色をした髪の男性だった。
「無理にでも目覚めさせるべきでは」
この台詞は、私が行くのを引き止めた男性だった。
「ま、待ってほしい、彼女は、こんなに長く眠るほど、疲労が深くて……」
どこか気弱げに、下を向いてぼそぼそと反論したのはカウエスだ。
「黙らないか、お前の意見など聞いていない。再び夜が迫っているのだぞ!」
この台詞を口にして、怯えるカウエスを睨んだのは三十代くらいの男性だった。
「でも、この方の、聖なる気配が、とても遠く……」
気後れした様子ながらもそう告げたのは、私と同年代の可愛い子だった。
「見習いの神女にすぎぬ者が、口を挟むな! そなたに聖なる気配が読めるというか」
カウエスを黙らせた男性が、今度は彼女を責めた。
「いえ、確かにクロラの言う通り、この方の気配が薄い」
率帝が濃い疲労を滲ませた顔でクロラの言葉に同意した。
「ならば余計に、目覚めさせるべきでしょう。そうでなくては、今宵を乗り切れない」
「しかし、ここで無理に目覚めさせるのは、彼女を危険にするのでは」
冷静な口調で男性をとめたのは、ソルトが樹界となる前に、声をかけてくれた優しげな顔立ちの騎士だった。
「我らを守るために、彼女は結界を作り、眠りについたのです。私は無理に目覚めさせたくはない」
彼の言葉に、騎士が数人、頷く。
「ではどうするのだ。夜が近い。率帝もひどくお疲れなのだぞ。万能水も最早ない。結界をどう構築するというのか」
皆、沈黙してしまった。
「……法具はまだ使用していないのでしょう。もし、この場所がレイムに知られ、襲撃を受けた時は、我々が盾となります」
騎士たちは、優しげな顔をした人の言葉に頷きながらも、やはり不安そうな目を見せた。
どうやら、この隠し部屋はレイムにまだ見つかっていないみたいだった。
「ふざけているのか、ジウヴィスト。これだけの法具で、今宵を過ごせると……!」
カウエス達を退けた男性が、声を荒げた。彼の言葉に賛同する人も多かった。
「月迦将軍の意見は?」
無精髭を生やした若い男性が、一瞬の沈黙に問いを滑り込ませた。リュイを知っていた感じの人だ。
皆口を噤んだけれど、リュイは答えなかった。ただずっと片膝をついて俯き、私の手を取って、そこに口づけるような体勢を続けている。
ふと溜息をついた人がいた。イルファイがぼさぼさな髪をかきまわして、憂鬱そうに皆を見回していた。なんかイルファイ、最初に会った時よりも髪の毛の絡まり具合がすごくなっているよ。
「決を採ればよかろう。目覚めさせるか、眠らせるか」
イルファイのあっさりとした提案に、皆が顔を見合わせた。
ど、どうなるんだろう?
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