F047

 自分のことについて皆が相談しているこの状況、なんとなく気まずいというか後ろめたい心境だ。
 ごめんね、私ったら寝汚い上、こんな幽体離脱している状態で。
 情けなさを噛み締めて項垂れつつも、ふわふわと彼らの側へ近づき、決の結果を待った。
 
 ――主、覚悟した方がよいぞ。
 
 どこか意地悪そうな口調でソルトが言い、くくくと笑う感じのざわめきまで聞かせた。ちょっと嫌な予感がする。
 決の結果、僅差で、私を目覚めさせることになったらしい。問題は、どうやって覚醒を促すかだ。私の魂、思いっきりここに浮遊しているし。
「身を揺さぶっただけでは起きぬ。失われた神力を復活させるための深い眠りを妨げるのだ。それなりの衝撃を与えねばなるまいな」
 うわぁイルファイ、その言葉、すっごく怖いよ。
 戦々恐々と見守ってしまう。どうやって起こすんだろう。
 イルファイは陰鬱さを滲ませているような難しい表情を浮かべ、石鹸をつけて洗っている時みたいに両手をこすり合わせたあと、なぜかリュイと騎士達へ強い視線を向けた。特に、エルとリュイの反応を気にしている感じだった。
「これは決の結果だというのを忘れぬでもらいたい。私一人の判断ではないぞ、いいな」
 なんでそんなに念を押してるのかな。
 私と同じ疑問を抱いたのか、展開を静観していた騎士達も怪訝そうな顔をする。イルファイはこすり合わせていた手で今度は自分の顔を撫で、大袈裟な溜息を落とした。
「全く嫌な役回りだ。そうだ、何も私でなくともよいな。率帝、あなたが起こせばよいのだ」
「お断りします」
 即座に固辞してつんと顔を背ける率帝の素っ気ない態度に、イルファイはかなり険悪な表情を浮かべて舌打ちした。しかも、二回もだ。
「全く……。よいか、くれぐれも私を恨むなよ。罵るなら、目覚めを求めた者達にしてくれ」
 イルファイは嫌々という態度で私の側に屈み、じいっと恨めしそうに見下ろした。ううん、そんな顔を私の身体に向けられると罪悪感が増すんだけれど。
「さがってもらえないか」
 イルファイは片手をひらひらさせ、私の側から離れないエルとリュイをなぜか遠ざけた。彼らが不承不承という様子で離れたのを確認したあと、私の頬に軽く触れ、顔を覗き込む。
「悪いが、苦痛を与えるぞ」
 イルファイは他の誰にも聞こえないような囁き声を、眠る私の耳に吹き込んだ。幽体離脱しているのに、なぜか私には聞こえた……って、その言葉にすごく不穏なものを感じてしまうよ。
 ふとイルファイが不思議な発音の言葉を口にした。これは何かの呪文だろうか。
 その短い言葉を口にし終えたあと、イルファイは更に気難しい顔をして、私の額に自分の掌を押し当てた。
 ぱちん、と私の額、というより、額の神石が小さく弾けるような音がした。掌と神石の間の僅かな隙間に、一瞬の火花が散る。
 その時だ。
 浮遊する私の意識が、叩き割られたみたいに、かき消えた。
 
「――う、あぁっ!」
 痛い!!
 額、凄く痛い!
 背が仰け反って痙攣するくらいの激しい痛みが額を中心にして、全身に走った。悲鳴を押し潰したみたいな呻き声が自分の口から絞り出されたのにも気がつかないくらい、衝撃的な痛みだった。
 私はどうやら、一瞬で自分の身体に戻り、覚醒したらしかった。イルファイが何かの呪文を唱え、そのお陰で目覚められたのだろうけれど、この痛みはどうすればいいんだろう。
 誰かの声が聞こえたような気がしたものの、痛みで全部覆われる。すぐには目を開けられず、少しでもこの苦しみから逃れようとして無意識に両手でぎゅうっと額を押さえた。何か、掌にぬるりとした感触が伝わる。
 このまま意識を失ってしまいたい。エルに腕を噛んでもらった時よりも苦しいんじゃないだろうか。
 誰かが大声で叫んでいる。怒りに満ちた咆哮も聞こえる。ああ、エルがとても怒っている。
 周囲で、複数の人が揉めているような騒がしい気配がした。私は額を強く押さえたまま、ゆっくりと目を開いた。ぼやけた視界に、人の影が映り、少しずつ輪郭が明瞭になった。
「――娘、目を覚ませ! この者達をとめろっ」
 イルファイのやけに必死な声が聞こえた。
 身を起こそうと思ったけれど、全身がじんじんとして全く動かせない。ただ、視界の方は無事に戻っていた。
 リュイが、丸腰のイルファイに向かって剣を閃かせていた。顔をひきつらせるイルファイを庇って、無精髭の人が自分の剣を掲げ、リュイに対抗している。更にはエルまでもがイルファイに噛みつこうと突進し、率帝が咄嗟に作ったらしい魔法の障壁みたいなものに阻まれていた。
「早くとめないか!」
 私が目を開けたことに気づいたらしいイルファイが、リュイと対峙する無精髭の人の背後に隠れつつ叫んだ。
「……ュイ…、エル」
 喉がからからで、声が掠れてしまう。すごく額が痛くて、どうにも身体を動かせない。
 それでも、私のかすかな声は、エルの耳に届いたらしかった。
 きゅんっ、と悲痛な感じが溢れる声でエルが鳴き、静電気を起こしたみたいに全身の毛を膨らませてこっちへ駆け寄ってくる。
「エル……」
 顔を撫でてあげたいけれど、腕も動かせない状態なんだ。
 きゅうう、と更にエルが鳴いて、寝転がっている私の頬や首筋に鼻を押し付け、懸命な様子で甘えてくる。可愛いけれど、私、ぐいぐいと押されている感じかも。勢いに負けて、なんかごろごろと転がってしまいそうだよ、エル。
「将軍! 彼女が目を覚ました!」
 更に剣を叩き付けようとしてかまえ直したリュイに、無精髭の人が蒼白な顔をしてそう言った。ぴたりとリュイの剣がとまり、静かにおろされる。
 他の人は、逃げ出しかける寸前の体勢でかちっと硬直しながら、リュイの様子を凝視していた。
「リュイ」
 私はエルの必死な甘えに和みつつ、リュイを呼んだ。あ、指、少し動かせるようになったかも。額から静かに手を離し、お腹の上に置く。
 リュイが殺気を消し、虚脱した様子でぎくしゃくと振り向いた。どこか途方に暮れた感じから、やがてその目に様々な感情を溢れさせ、僅かに顔を歪めて私を見下ろす。
「ごめんね……」
 側にいると約束したわけで。一応、身体は側にあったため約束を破ったことにはならない……とは弁解できない雰囲気だ。
 少しの間、じっと見つめあってしまった。リュイががくんと崩れるように私の側に膝をついた。月色の瞳は今、すごく傷ついているような色を滲ませ、潤んでいた。
 大きな手が、恐る恐るという仕草で私の頬に触れた。殆ど触れるか触れないかという感じの、緊張した仕草だ。彼の指が額に移った時、殆ど触れてはいない状態だったのに、その僅かな刺激だけで再び痛みが走り、私はうっと息を詰めて身を固くした。リュイが弾かれたように手を引っ込める。
「血が……」
 近くで腰を抜かしていたらしいカウエスが我に返り、おろおろとしたあと、私の額に視線を向けてそう言った。
 そういえばさっき額に触れた時、ぬるりとした感触があった。神石のある辺りから、どうやら少し血が流れているらしかった。
 きゅーん、とエルが何度も鳴き、私の額をそうっと舐めた。うう、ごめんね、今その付近に触られると、すごく痛いんだ。
「響」
 悲しみを乗せたような声が聞こえた。痛みをこらえつつ見つめ、なんとか微笑を作ると、リュイがぐっと唇をひき結び、視線を伏せて一粒、ほろりと涙を落とした。あっと思う間もなく、彼は隠すように、手荒な動作で目元を拭う。次に瞼を開いた時のリュイの目には、身が凍りついてしまいそうになるほど凄まじい怒りが宿っていた。暗い色で燃える瞋恚の炎だ。魅入られそうになるくらい、壮絶だった。もしかして私に対する憎悪とかがリュイの中でこんなに深くなったのかと青ざめそうになったんだけれど、それは誤解のようで、こっちへ向けた怒りではないと次の行動で理解した。
「よくも!」
 リュイは低く叫び、身を少しずらして、イルファイを睨み上げた。平静を取り戻しかけていた周囲の空気が再び一瞬ではりつめてぴりぴりするくらいの怒気だった。普段の丁寧な物腰や穏やかな表情が嘘のようだ。誰かを責める時、こんなふうに威圧感をもたらせる面を持っている。そういうリュイの姿を見て、引き止める言葉が咄嗟に思い浮かばなかった。
「好きで神石に衝撃を与えたのではない! そうせねば娘は起きないのだから仕方ないだろう。目覚めを選んだのは他の者たちだ。恨むならばその者たちにと言っただろうに」
 イルファイが無精髭の人の身体を慌てて盾にし、安全を確保してから盛大に文句を言った。彼の言葉で、成り行きを怖々と見守っていた人の半数くらいがぎょっと身を揺らした。
 ああ、そうか。私を起こすために、神石に軽い攻撃の術をぶつけたんだ。それで、頭に直接衝撃が走り、目覚めに至ったらしい。
「リュイ、私、平気……」
 状況を把握するとともに金縛り状態もとけたので、口を開いた。そう言わないと、なんだかリュイとエルは本気でこの場にいる人たちに手をかけてしまいそうな、危険な感じがした。
「そら見よ、娘も平気と言っているだろう」
 ふてぶてしく答えるイルファイって、ものすごくソルトと気が合いそうかも。
 途端にぶつぶつと心の中でソルトの非難が響いたけれど、それは聞かないことにした。
 立ち尽くしていた率帝が、強張った顔のまま少しぎこちない動きで私の方へ寄ってきた。と、エルがすぐに立ち塞がり、襲撃の体勢を作って激しく威嚇する。鋭い牙を見せつけつつ、鼻のところに皺を寄せているんだ。ううん、その顔、すごく凶悪かも。
「違う、癒しを彼女に与えたいだけだ。決して傷つけはしません」
 気圧されたように足をとめながらも、率帝が懇願口調で説明した。
 エル、大丈夫、襲っちゃ駄目。胸中で何度もそう諭すと、声が聞こえたかのようにエルがしゅんと耳を倒し、尻尾も下げて、私の側にくるりと丸まった。明らかな威嚇はやめてくれたけれど、ぴと、と鼻先をほんの少し私の腕にくっつけつつ、上目遣いでこっそりと率帝を牽制している。
「あの、お待ち下さい、率帝。少しお休みになられた方が……。他ではお役に立てませんが、癒しでしたら私も」
 おずおずと遠慮がちに率帝をとめたのは、クロラと呼ばれた可憐な少女だった。エルを気にしつつ困った顔をする率帝に、ディルカレートやその他の人々が頷く。皆の様子を見て、率帝はしばし考える素振りで瞬いたあと、大人しく引き下がった。
 代わりにクロラが緊張した様子で私の方へ近づいてくる。殺伐とした気配を発するエルとリュイに怯えながらも、振動をもたらさないような柔らかい動作でそっと私の頭の横に膝をつく。
「微力ではありますが、治癒を……」
 クロラはこちらと視線を合わせずに何度も瞬き、掻き消えてしまいそうな小さな声で説明した。自信がなさそうに語尾を濁し、本当に恐る恐るといった仕草で、華奢な手を私の額にかざす。
 極度に緊張しているのか、それとも恐怖を抱いているのか、クロラの白い指先が細かく震えていた。
「ありがとう」
 自分は怖い人間じゃないってことをアピールしたいという思いが芽生え、なるべく普通の口調を心がけてお礼を言った。するとクロラが目を見開き、私にちゃんと視線を合わせた。ごく薄い茶色の髪は長く、さらさらしていて、すごく可愛い子だ。もし私が通っていた学校にこんな奇麗な子が転校してきたら、一日で生徒達に名が知れ渡ると思う。
「い、いいえ……」
 クロラは我に返ったあと、僅かに頬を紅潮させ、動揺を見せつつ俯いた。うわぁ、クロラってすごく心が清らかな感じがする。思わず痛みを忘れて、見蕩れてしまった。
「それで、その、聖なる気配はどうなったのだ」
 突然、忙しない感じで口を挟んできたのは、私を目覚めさせるよう促していた男性だった。対抗するみたいにすぐさま上がるエルの威嚇の鳴き声と、リュイの突き刺すような睨みに気がつき、ぎょっと後ずさっていた。
「――お目覚めになったためでしょうか、気配が戻られている」
 率帝が言いにくそうに答えた。
 
 ――違うな、血が流れたためだ。主の血が、既に一種の魔除けとなっている。無理に覚醒を促す必要などなかったというのに、恐れで目が眩んでいたに過ぎぬ。
 
 心の中でソルトの憤慨したような声が聞こえた。とても機嫌が悪そうな声だ。
 ソルトって、人嫌いなのかな?
「ならば、今宵も、この部屋で一日を耐えた方がいいな」
 イルファイが未だ濃厚な警戒をとかずにエル達をちらちらと窺いつつ、戸惑う無精髭の人の背に隠れたまま静かに告げた。無精髭の男性、どこか近付き難いような固さを漂わせているんだけれど、実はすごくお人好しっぽい。イルファイってちゃんと人を選んでいるんだなあと妙なところで感心してしまった。
 皆がどこか肩から力を抜いた様子で、ふっと溜息を落とした。
 リュイとエルだけが、緊張を解いていないのが気がかりだった。ちゃんと話をしたいけれど、他の人達がいる前では、しない方がいい。
 
●●●●●
 
 不思議な時間だった。
 あれほどめまぐるしく苦しい夜が昨日にあったとはとても思えない穏やかさが漂っている。
 勿論、どこか遠くの方で魔物の声らしきものが時々聞こえたけれど、なぜかこちらに接近する気配は感じられなかった。率帝が再び結界を作り、皆を守っている。とても疲れていた様子だったから大丈夫だろうかと心配したのだけれど、今は随分負担が軽くなったのだと言われてしまった。本当に血が魔除けとなっているのかな。自分では分からない。
 私の方はといえば、クロラの癒しの効果でかなり楽になっていた。立ち上がって歩くまでは回復していないけれど、額の痛みは我慢できるようになったし、身体も動かせる。ただ実際動こうとすれば、側に寄り添ってくれるエルやリュイに切ない目でとめられてしまうので、大人しくしていたけれど。エルのお腹に寄りかかり、神剣のソルトを抱きかかえて、休んでいる状態だ。
 もう少しで本格的な夜がくる、とぼんやり思った。
 そこで、ふと何かが引っかかったんだ。
「あの……」
 躊躇いつつも声を発すると、全員の視線が集中した。なんか腫れ物状態で、とても気まずい。でも、一度芽生えた違和感は拭えなくて、聞かずにはいられなかった。
「人数が」
 そうなんだ。魂が分離している時は、やっぱりどこか意識がまとまっておらず細かい所に目がいっていなかった。全員揃っていると思い込んでいたんだけれど、こうして冷静に眺めているうちに、少ないんじゃないかという疑問がわく。
 なぜか皆、石化したように硬直し、息をひそめた。私の方が思わず気後れしてしまうような緊張感が漂う。嫌な予感がした時、無精髭の男性と目が合った。口を開く前に、さっと視線を外されてしまう。
 何か問題があったんだ。自分の違和感は間違っていなかったと確信する。
 正直なことを言えば、騎士たちの正確な人数は分からない。リュイの所へ向かい建物の中でレイムに包囲された時、一体何人の騎士を蘇生させたのか、途中で数える余裕がなくなったんだ。だから、全員の顔を覚えられなかった。
 けれど、この神殿付近で蘇生させた人の数と顔なら記憶している。私を含めて計十四人いた。まだ殆どの人の名前は分からない状態でも、顔はちゃんと識別できる。率帝、イルファイ、ディルカレート、クロラ、濃黄色の髪の男性、無精髭の男性、他の人とよく対立する男性……、そこまで一人一人を確かめた時、足りない顔に気づいた。五十代くらいの人と、三十代前半くらいの人が、いない。
「二人、いなくなっているよね?」
 私は信じたくない思いで、全員に向かってたずねた。騎士たちが混ざって随分人数が増えたから、余計に分かりにくくなっている。こっちの勘違いであればいいと強く願ってしまう。
「よく数えていたものだ」
 イルファイが、嫌そうに舌打ちした。やっぱり私の記憶違いじゃないんだと恐れの中で思った。
「二人は、どこに?」
「用を足しに、隣へ行っている」
 イルファイは、平然とそう答えた。でも、本当にそれが真実なら、なぜこんなに皆は緊張しているの?
「じゃあ、確かめてもいい?」
「こら待たんか。若い娘が、用を足している男の姿を見たいというのか。破廉恥極まりない」
 そんな台詞に誤摩化されたりしないもの。
「私が直接見にいくわけじゃない。エルに行ってもらう」
 私を寄りかからせてくれていたエルの身体が、ぴくっと動いた。動揺を必死に誤摩化そうとしているのか、身体の毛がじわじわと膨らみ始めている。
「――二人は、出て行った」
 少し離れた場所に座っていたディルカレートが厳しい目で私を見据え、そう呟いた。
 出て行った?
 私は、周囲の人々に視線を向けた。エルに寄りかかる私のまわりには、リュイと、治癒をしてくれたクロラ、それに騎士の人々が囲むようにして座っている。なんとなく騎士達は、一緒に戦って危機を乗り越えたという事情があるためか丁寧に接してくれる人が多かった。勿論、逆に不審な目を向けてくる騎士もいたけれど、その人は少し離れた場所にいる。
 イルファイや率帝、ディルカレート、無精髭の男性が私達の横に集まっていて、その他の人々は隠し部屋の奥の方に座っている状態だった。皆と距離をとって座っている人も中にはいるものの、極端にいえば三つのグループができている感じだ。これはもしかしたら、あまりいい傾向ではないかもしれない。
 ディルカレートはまだ私に対して警戒心を解いていないし、どちらかといえば嫌悪というか拒絶感を抱いているだろう。だからこそ、今みたいな場合は気遣いのための嘘や誤摩化しを言わず、何が起きているかストレートに教えてくれるんじゃないかと思った。
「なぜ、出て行ったの?」
「考えれば分かる」
 しまった、拒否されるという可能性を忘れていた。
 
 ――主は知恵の回らぬ娘だ。容易きこと、大方、主の帰還を待てず、皆の制止を振り切って出ていったのだろう。
 
 ちくちくと皮肉を足しつつも、ソルトがあっさりと答えてくれた。
 私の帰還……それって、リュイを迎えにいったきり一晩帰ってこなかったから、待つのに焦れて、レイムが姿を消す日中に出ていったということだろうか。
「二人はどこに向かったの?」
 私はイルファイに視線を向けた。彼なら、バレた時には喋ってくれそうだ。
「知らん」
 端的に答えられてしまった。絶句する私に、イルファイは深々と溜息をつき、癖のように髪をかき回す。それ以上髪をぐちゃぐちゃにすると、鳥の巣状態になるんじゃないかな。折角奇麗な色をしているのに。
「お前はもう戻らぬと判断し、彼らは午後に――騎士達とともにお前が戻ってくる前だな、安全な場所を探して出ていった。勿論、危険だと何度も諭してとめたがね。少しでも魔力の消耗を防ぐため、レイムが出現せぬ日中は結界を解いていた。魔物の出現のみならば、私も多少は覚えている魔術があるので対抗できる。だが、二人はそれが我慢ならなかったらしいな」
 そんな。たった二人だけで出ていくなんて、無茶だ。
 たとえ気絶させてでも、とめるべきだったんじゃないか。
「言っておくが、一人は神官長だ。身分を出して、口を挟むなと言われればな」
「――身分で、レイムや魔物が遠慮してくれるの?」
 咄嗟にきつい言葉を放ってしまった。イルファイが眉間に皺を寄せ、鼻を鳴らした。
「聖なる者は俗世界における差別を知らないか。散々見下されて、それでも尚引き止めるほど寛容ではない」
 イルファイは完全に機嫌を損ねた様子でふいっと横を向いてしまった。
 身分を言うなら、率帝は高そうなのに、なぜとめられなかったの。
「神殿内にも反目はある。神官長は、率帝と対立している立場だ」
 イルファイ、嫌味攻撃は駄目! という目で見ると、毛玉状になっていた髪を今度は乱暴に手ぐしで整え始めた。
 どうしたらいいだろう。神官長ということは、もしかすると多少の魔力を使えるかもしれない。けれど、それで夜中出現するレイムから身を守れるだろうか。蘇生した後ある程度時間が経って魔力が十分に戻ったと判断し、より安全な場所を探して出ていったの?
「彼女の戻りが遅れたのは、我々を守護したためです」
 ジウヴィストと呼ばれていた優しげな顔立ちの騎士が、私を庇うように言ったけれど、ここに残った人たちにとっては素直に聞けない状況なんじゃないかと思った。案の定、よく反対意見を口にしていた男性が、不服な様子でジウヴィストを睨んだ。
「……彼らだとて、愚かではない。危険を悟れば、こちらへ戻ってくるでしょう」
 率帝が後悔の表情で告げた。その時、遠方で、魔物が鋭い咆哮を響かせた。今までの雄叫びとは種類が違う。
 私が顔色を変えたのに気がついたのか、ぼさぼさの髪の毛と格闘していたイルファイが手をとめ鋭い目を向けてきた。
「また出ていくなどとはもう言うな。二人は自分の意志でこの場を離れたのだ」
 けれど!
 皆の顔を見渡した。そうか、私がまた出ていくのを防ぐために、今まで二人の不在を隠していたんだ。
 
 ――レイムたちの目覚めが始まった。
 
 ソルトの声を聞いて、頭の中に、完全体へ変貌する途中のレイムの姿が蘇った。あの切なげな泣き声と、自分の身体を破壊し貪る凄絶な姿だ。
 ソルトをぎゅっと握り締めた時、魔物の叫びに、別の声が混ざっているのを聞いた。本来なら聞こえないくらい遠い声じゃないだろうか。意識を集中し、それに神様たちからもらった力が加わったことで聞き取れたのかもしれない。シルヴァイは風と大気の神。声は、大気を震わせる。
 あれは間違いなく、人の悲鳴だ。出ていった二人がこの神殿内に戻ってきている!
 神剣を持って立ち上がろうとした瞬間、目眩を起こしふらついた。倒れる前に、リュイが抱きとめてくれた。体力がまだ戻っておらず、冷や汗が背を伝った。
「響、いけません!」
「……聞こえた。悲鳴。魔物に襲われている!」
 リュイの腕にしがみついて身体を支えながら、素早く囁いた。
「行かないと。殺されてしまう」
「響!」
 悲鳴が聞こえた方角に意識を集中させて呟いた時、頬を打つような強さでリュイに怒鳴られた。
「ご自分の状態をお分かりか? 動いてはならない!」
「でも、襲われてるよ!」
 私を見下ろすリュイの顔から表情が抜け落ちる。逆に月色の瞳には、憎悪なのか怒りなのか判別できない熱情が浮かぶ。
「ヒビキ様」
 唐突に、率帝が名を呼んだ。どうして私の名前を知っているのかと驚き、リュイが呼んだばかりだと気がついた。
「堪えてください。――月迦将軍を迎えにいかれたあと、私は一夜、結界を守りました。蘇生した直後に行使したためか、私の魔力は今、無に近い。その状態で再び結界を構築しています。無念ですが、本当にこれが限度なのです。現在の結界は、ほぼあなたが支えているのですよ。私はただ、この結界の基盤を描いただけの状態です。もし今、あなたが抜けてしまえば、私は結界を維持するどころか、最早基盤さえ描けない」
 蒼白な表情で見つめられた。目覚めた直後に、レイムと対峙する私の援護をし、その後結界を作った彼は、誰より休息を必要としているに違いなかった。
「二人を行かせてしまったのは私の罪。どうか、とどまってください」
 率帝。
「ヒビキとやら。お前自身もろくに動けぬ状態だ。今は耐えろ」
 イルファイがふっと穏やかな声で言った。
 でも、ああ、ほら、また悲鳴が!
 助けて、そういう思念の音を、拾った。
 どうすればいい? 私の代わりに、誰かを行かせるわけにはいかない。皆、心身ともに疲れ切っている。エルが一番俊足だけれど、私を助けるためにずっと動き通しだ。何より、レイムの覚醒が始まった時間に、誰かを外に出すなんて真似はできない。
 一体、どうすれば。
 結界を守り、彼らを救う方法は。
「……ソルト」
 ぽつりと告げた私を、リュイが厳しい目で見つめた。
 これしかない。
 私が外に出ると結界が壊れるならば、この方法しか思いつかない。
「もう一度、樹界を」
 樹界が皆を守る間に、助けに行くんだ。ソルトの結界なら、外へ出ても壊れないだろう。
 騎士達が言葉なく私を凝視した。
 ソルト、もう一度だけ、樹界を。
 
 ――断る。
 
 まさか拒否されるとは思わず、愕然としてしまった。
 どうして!?
 
 ――死にたいか、主! みだりに血を流すな。よいか、血を用いた術は本来禁忌のもの、幾度も使用してはならない!
 
 だけど、他に方法が分からないよ!
 どうしたらいい?
 
 ――どうもするな。お前は脆弱な娘ながらも、我を呼ぶ主であるのだろう。
 
 皮肉の多いソルトの声に、悲しげな響きを感じて、言葉を失った。そうだ、なぜかソルトの名を知っている。いくつもの夢を見た。朧げな記憶の中、神剣の名前は特に鮮明な輝きを持って残っている。
 私は唇を噛み締めた。
 二人をこのまま、見過ごすしかないなんて――。

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