F2:06
自分の荒い息が薄闇を乱していた。
恐怖のまま走っているうちに、自分がなぜここにいるのか分からなくなってきた。イルファイが教えてくれた近道や目印を確認する余裕もとうになくなっていたし、大気の流れも冷静に読み取れなくなっている。ただ自分の安全のために逃げ回っているような状態だ。
最初の襲撃を受けたあと、私は法具をすぐ投げつけられるよう両手に二つ持つことにしていた。けれど、少し先に進んだところで木陰から飛び出てきた別の魔物に襲われてしまい、両方とも使ってしまった。神剣で斬ることは脳裏から消えていた。ソルトを使うのであれば接近戦にもちこまねばならない。情けない話、一人の恐怖と不安に負けて気持ちが萎縮していたため、こっちに食いつこうとする獰猛な獣の懐に何のフォローもない状態で飛び込む勇気がどうしても持てなかった。
法具はあと三つしか残っていない。
やっぱりこの付近には、飢えた獣や魔物の数が多いらしかった。
「どうしよう」
走り続けて方向感覚を失い、混乱の果てにぽつりと呟いた時、ぞっとするような聞き覚えのある鳴き声が耳に滑り込んできた。
レイムの目覚めだ。
アァ、アァ、と細く泣くレイム達。
戦慄を呼ぶ不吉な合唱に、私はよろめいた。
何の策もない状態で、レイムの相手をしなければならないの。
一体どのくらいの距離を進んだのだろう。まだ半分程度しか来ていないのは間違いない。
嘘でしょ、もう無理だ。
自分の意思でここに来たくせに、心の中で精一杯拒絶してしまった。
アァ、アァ、アァ。
右に、左に、前に、後ろに、至るところからレイムの産声が響く。
耳を塞ぎたい。
アァ、アァ。
「もう、やだ」
身体が面白いくらいにがくがくと震えた。何度体験したって、レイムの目覚めは恐ろしい。仲間となる人たちと出会ってしまった分だけ、なんだか私は更に弱くなったんじゃないかと責任転嫁してしまった。
ディルカレートの馬鹿。なんで勝手な真似するの。
彼女のせいだ。こんな思いまでして、一人逃げ回らなくちゃいけなくなったのはディルカレートが悪い。
だって彼女は私の存在をはっきりと目障りに思い、死ぬほど憎悪している。ほんの一欠片さえ好意を抱いてくれないような相手を、なぜ命がけで助けなくちゃいけないんだろうか。
何よりも、私はまた自分の体裁を守るためだけに彼女の身を案じるふりをしてしまったんだろうか。
たまりにたまっていた不満と焦りがレイムの鳴き声に触発されて一気に噴き出した。きっとリュイにまで冷たい態度を取られたことが理性を少しずつ剥がす原因になったんじゃないかと、もう一つ責任転嫁した。
大地を力ずくで押し潰そうとする暗い空は、確実に心までも悪い色に染めてしまう。夜の訪れを少しでも早めようとしているのか、視野に映る建物や木々が闇を吸い込み、墨で塗りつぶしたかのごとく濃厚な輪郭を見せている。どこにも明かりはともらない。月や星すらこの夜に負けて、ただぼんやりと鈍く空に浮かぶだけだ。道の隅々にまで広がる荒廃が生み出した諦観は、生温い温度で世界をがんじがらめにしている。
誰かの助けがほしい、と空を睨みながら心底願ってしまった。
こんな自分も皆も、嫌いで、いやだ。だって皆、自分勝手だし、話を真剣に聞いてくれない。
私も同じだ。
「もう……」
私がここで死んだら、皆も嬉しいんじゃないかな。
特にディルカレートなんか、本気で喜ぶんじゃないだろうか。
本音では蘇生を望んでいない人達と壊れた国。私がくる必要なんてなかった世界だ。結局は拒絶と冷たい目ばかりもらっている。
私が絶望を見せたんだと罵られた。
だったら今、これほど必死になって駆け回る必要があるのかな。私は清くも正しくもない。誰もが望んでいないことをやり遂げる自信なんてない。それはたんなる余計なお世話ってやつじゃないの。
「――」
逡巡して、遠くの闇から目を背け、一歩後退りした時だった。
もう一度娘を腕に抱けるだろうか、というバノツェリの言葉が不意に蘇った。
私は瞬いた。
アァ、アァとレイムの鳴き声がどこまでも響く。輪唱しているように響く。
この中に、彼らの中に、もしかしたらバノツェリの娘がいるかもしれない。可能性という言葉が唐突に生まれ、胸に広がってしまった。
もう一度。
もう一度。
壊れてぼろぼろの世界を、もう一度しっかりと見回す。薄闇と恐怖。そんなものばかりの世界だけれど、命がまだ残っている。
「もう一度……」
呟いて、鞘におさめていたソルトを抜き、しっかりと握った。赤く透明な刀身、ソルト。
灯火となれ、偽りと恐れながらも。
その言葉を思い出した。
怖がっていいの? 身がすくむほど怖くてたまらなくてもいいのかな。
偽りの灯火となる運命を握れと言われた。目が眩むほどの圧倒的な、揺るぎない灯火になれと。たとえ自分が偽りであっても、ただひたすら突き進んでいけば、いつかそういう灯火になれるんだろうか。
ソルト、怖いよ。
――……全く。
ソルト!
ようやく聞こえたソルトの声に安堵するあまり、その場にへなへなとしゃがみこみ、地面に両手をつけてしまった。地面は冷たく、ざらざらしていたけれど、とてもしっかりとした感触を与えてくれた。世界の全てを支える大地に、私は初めて感謝したかもしれない。
――散々泣き言を聞かせおってからに。なんと情けない主であることか。
うんうん、そうなの、そうなんだよ。私、本当にとっても弱くてすぐ愚痴ってしまう。
変だけれど、情けないと言われて、飛び上がるほど嬉しい。
――喜ぶな。主はもう少し我に対する敬意と礼儀と崇拝と感謝を持たぬか。
持ってる、持ってます。すごい感謝、めちゃくちゃ敬意払ってる!
――愚か者。聖獣も連れずに、このような所へくるとは。
本気で反省してるから、協力して。
どこが反省しているのだ、という渋いお小言をもらってしまったけれど、単純な私は急に元気になった。
――……。耳を澄ませ、主。そして駆けよ。望みを握るために、身を掲げよ。
うん。
泣き言いっても、また走るから。返事をしてね、一緒にいてね。
ディルカレート、探そう。
レイムの悲しい鳴き声が響く中、私はまた走り出した。
●●●●●
血の跡を見つけたのは、偶然だった。
地表に突き出ていた石塊に足を取られ、転びかけた時に気づいたんだ。
血の跡があるということは、と必死に頭を巡らせる。
もしかして、ディルカレートがここを通った?
私は身を屈め、指先でそっと地面の血に触れた。まだ乾いていない。
ずるずると何かを引きずる音が遠方から聞こえる。レイムの鳴き声も近い。早く移動しなければ、レイムが脱皮を終えて完全体になる。
私は立ち上がったあと、周囲に視線を走らせた。
木々の向こう、少し離れた場所に縦長の高い建物がある。階ごとにぐるりとテラスのような部分が設けられている建築物だ。もし、ディルカレートが怪我を負ったとしたらどういう行動を取るだろう。
ひとまず、身を隠せる建物の中に避難して手当てをしないだろうか。
耳を澄ませ、集中しろ。自分に言い聞かせて、音を拾おうとした。
レイムの鳴き声の中に、獣の咆哮がまざっている。――これは。これは、争いの音だ。
「ディルカレート」
レイムの鳴き声が悲しげなものから喜びを滲ませた音に変化していた。目覚める。
夜だ。
私は建物へと向かって、走った。
●●●●●
ソルトの協力を得た私は、自分の身体が凄腕の剣士みたいに軽々と動くことに驚嘆していた。
建物の近くに魔物が集まっている。私は普通だったら絶対にありえない見事な動作で一頭の魔物を斬り、壊れている建物の窓へ飛び込んだ。
他の魔物は血を流した仲間に狙いを定め、食いついたようだ。皆飢えているから共食いも躊躇わない。
私が飛び込んだ建物は、どうやら離宮の一つのようだった。侵入したこの部屋はどうやら宮に訪れた客人を待たせるための場所らしかった。
「ディルカレート!」
意識を集中させて付近の音を拾う。宮の内部にも魔物が入り込んでいるらしい。そしてレイムの声もする。
――向こうだ、主。
ソルトの声と同時に、私も音を捉えていた。
近い。
部屋の扉を抜け、長い通路を右へと駆ける。その通路の奥に、完全体のレイムの姿があった。でも私が目指すのは通路の途中にある一室だ。
別室から姿を現した獣を間一髪のところでかわした。普通の獣は斬れないけれど、今はソルトの協力があるため、俊敏に動ける。本当にソルト、感謝だ。
もう一度飛びかかってくる獣をなんとか避け、完全体のレイムがこちらへ接近する前に目的の部屋へと飛び込んだ。
「!」
叩き付ける勢いで素早く扉を閉め、振り向いた時、室内の光景が目に焼き付いた。
窓側の近く、ちょこりとした小さな小さな羽根を持つ四頭の魔物が、頭を突き合わせるようにして身を屈めている。
そして苦痛に塗れた悲鳴――その声は。
「――どきなさい!」
私は勢いよく魔物の方へと突っ込み、手始めとして一頭の背を斜めに斬った。骨までも砕くソルトの力。生温い血が四方に飛んだ。
甲高い絶叫が響き、斬った魔物が鈍い音を立てて崩れ落ちた。残りの三頭が怒りの咆哮を響かせながら振り向き、仲間を叩き斬った私を見下ろした。狐みたいに尖った鼻を持つ魔物だ。身体はどこか人間を思わせる。
茶色の毛を生やした魔物の後ろ側に、地面に背をつけて身を丸めながら剣を持っているディルカレートの姿があった。噛みつこうとする魔物に、おそらくはその剣で抵抗していたのだろう。
ディルカレートは血塗れだった。
ほんの一瞬だけ、視線が合った。
苦しそうな、辛そうな顔だった。ひどい怪我をしている。
かっと怒りが湧いた。すらりとした奇麗な人だったのに、こんなに傷ついている。よくも。
唾液をまき散らして飛びかかってくる魔物に、私は剣を向けた。
我を忘れたように、私は残りの魔物をがむしゃらに斬り裂いた。
●●●●●
魔物の残骸と血の中、私は荒い呼吸を整えた。
濃厚な血の匂いに、唐突に吐き気を覚えた。
私、今、すごく容赦なく魔物を殺してしまった。残忍な殺し方を証明するように、魔物の肉片がそこらにごろりと転がっている。
しかも、この魔物と戦っている最中にイルファイがくれた結界が壊れてしまった。
――惚けるな、主。
はっとし、慌てて振り向いた。
ディルカレートは自力でなんとか立ち上がろうとしていた。
太腿と片腕の傷がひどい。特に左腕は大きく抉られ、皮膚下の、瑞々しささえ感じられるような赤い肉が覗いている。他にも、致命傷とはならないまでもたくさんの傷を負っていた。
私は急いで自分の服を脱ぎ、適当な長さに切ってディルカレートの傷口に巻き付けた。室内は暗いため、すぐには私だと気づかなかったらしく、ディルカレートはとても驚いていた。
「……なぜ、ここに」
喋るのも辛そうだ。
「迎えにきたんだよ」
「迎え……?」
突っ慳貪な言い方になってしまったのは、慣れない手当てに集中していたためだ。ひどい怪我だ、本当に。以前の私だったら、怖くて正視できず悲鳴を上げていただろう。すこしずつこの世界に馴染んできているのか、それとも痛みや血に対して鈍感になってきているのか、判断できない。
「なぜ、お前が!」
掠れた悲鳴に、私はさっきとは別の怒りを抱いた。
「なぜも何もないよ、大きな声を出しては駄目。レイムを呼んでしまう」
ディルカレートが目を見開いた。
「とりあえずここを離れなきゃ。血の匂いで居場所がバレてしまう」
動けるだろうか、ディルカレート。
私は彼女を守って、戦えるだろうか。
「足手まといになるつもりはない。一人で行け」
もうっ。
「足手まといになることくらい予想してた。我が儘言わないで、大人なんだから」
私だって余裕がない。嫌味な返事をしてしまった。
やっぱりディルカレートは痛みを堪えてでも意地をはろうとした。
「誰が我が儘と……! お前の手など借りるものか」
「大声、駄目!」
低く叱責すると、ディルカレートはぐっと声をつまらせた。その拍子に大きく顔を歪める。相当痛いはずなのに、どうして素直にならないんだろう。大人の女性って難しい。
「……率帝たちは」
「分からない。私はあなたを追ってきたんだもの」
「なぜ! 馬鹿な真似をする、私よりも率帝を」
杖代わりになりそうな棒――貴族が持つステッキみたいのが床に転がっていたので、それをディルカレートに渡した。本当は肩を貸してあげたいけれど、そうするとこっちの動きが封じられて肝心な時戦えなくなる。
「率帝にはリュイ達がついている。私は、あなたの命を消したくないから来た」
独断行動に対する怒りとか、分かってもらえない悔しさとか、言いたいことはたくさんあった。
それでも一番肝心なのは、私が抱えるちっぽけな感情なんかじゃなかった。
「無事……とはいえないけれど、よかった。生きていてくれて、よかった」
あぁ来てよかった。間に合ってよかった。
大切なのは、ディルカレートが生きていることなんだ。私を嫌っていても、腹を立てていも、生きているならもういいや。
泣きたくなるような熱い思いが生まれる。ここで泣くわけにはいかないから、必死に歯を食いしばり我慢した。
「行こう、ディルカレート」
この人の命、絶対に消さない。
●●●●●
通路に出た瞬間、数体のレイムと魔物が待ち構えていた。
勿論、それは十分に予想できた展開だったので、私は扉を開けると同時に法具の一つを投げて、突破口を作る計算をしていたんだ。
ところが、その必要はなかった。
なぜかというと、レイムと魔物が既に争っていたためだ。
どちらも相手に噛みつこうとしていて、私達の方まで手が回らないようだった。
このチャンスを逃しちゃいけない。耳鳴りがしそうなほど凄まじい悲鳴を上げてレイムと戦う魔物の後方を、ディルカレートの身体を支えながら私は急いで駆け抜けた。
どうしようか、エルがいれば話は別だったけれど、私だけで彼女を連れて皆のところへ戻るのは無理だ。
だとすればどこかに篭城して一夜を過ごす以外にない。
「ディルカレート、この建物内に詳しい?」
「……この宮は図嶺院の第二別館として使われている」
ディルカレートは荒い息を吐きつつ答えてくれた。
図嶺院。確かリュイが口にしていた言葉だ。図書館みたいなところだったと思う。
それなら、身を隠せる場所がありそうだ。
「比較的見つかりにくくて頑丈な部屋はある?」
「禁室か、あるいは倉庫」
えっと……。
「禁室は図員以外の立ち入りが禁じられている部屋。倉庫は、公開を終えた古書を収納する場所で、地下に……」
ディルカレート、苦しそうだ。あまり長くは歩かせられない。
「どちらがここから近い?」
「禁室へ。二階の、図員室が並ぶ奥の間に、隠し扉が」
ディルカレートの指示通りに私は別の通路を探し、二階へと続く階段をのぼった。
けれども、夜はなんて無慈悲なんだろう。そう簡単に私達を危険から逃してはくれないらしい。
レイムだ。
私は息を呑んだ。階段を上がると左右に通路が伸びている。その左右どちらにも、レイムが立っていた。
階段をおりて別の道を探すべきかと考えたのは一瞬だけだった。無理だろう、出入り口となる箇所が多い階下の方がより危険だ。
戦うしかない。
「ディルカレート、じっとしていて」
私は壁際に置かれている豪奢な花台の影に、ディルカレートを座らせた。ディルカレートが自分も戦うという意思を覗かせて睨んできたけれど、私は首を振り、無理矢理その肩を押さえた。今、ディルカレートを庇いながら戦う自信はない。
「お願い、あなたを、私を、生かすために、動かないで」
狂喜するレイムの鳴き声が響き渡った。
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