F2:08

 一体何が起きたのか分からず、私は中途半端に剣をかまえた体勢で固まっていた。
 なぜレイムが爆発音とともに階段から転がり落ちたんだろう。
 咄嗟には状況を把握できずちょっと混乱しかかった時、階下から別の何かが駆け上がってくる気配を察知した。
 まさか、階下にいた別のレイムが攻撃を仕掛けたんだろうか。
「――アンバー殿」
 私の隣に立って茫然としていたディルカが不意に驚愕の声を上げた。彼女の視線を追い、私も小さく声を上げてしまう。
 暗闇に騎士を得たというか、九死に一生を得たというか。
 ぽかんとしている私達の前に現れたのは別のレイムではなく、利口そうな犬の顔と長い毛を持つ大きな獣に乗った琥珀だった。
 
●●●●●
 
「ご無事か」
 大きな獣がさらさらの長い毛をなびかせ、私達の前で軽やかにストップした。その獣の背上から琥珀が警戒と緊張がまざった鋭い視線を投げ掛け、問うてきた。
 私だけじゃなくディルカもまた、助けが入るなんて思っていなかったんだろう、すぐには彼に言葉を返すことができずにいた。
「ご無事なのですか」
 少し苛ついた声で琥珀が再度たずねた。くすん、と彼を乗せている獣が返答を促しているかのように小さく鼻を鳴らす。
「あ、うん」
 慌てて頷くしかできない。すぐにディルカが重傷だったと思い出し、私はもっと慌ててしまった。自分の子供っぽい返事が嫌になる。
「こちらもレイムの数が増えてきている」
 琥珀は独白したあと、少し古びた感が漂うゆったりとした外套の裾をきれいに翻して獣の背から素早く降りた。どうも私の心許ない返事に焦れたらしく、自分の目でしっかりとこっちの状態を確かめようと考えたみたいだった。床を踏む琥珀の靴の踵がこつりと硬い音を立てたことで、私はようやく現実感を抱き、思考を働かせた。
「私は平気。でもディルカが怪我を」
 目の前に立った琥珀に私は勢い込んで言った。
「大事はない」
 ディルカが腕の傷を押さえながら固い声で私の説明を否定したけれど、琥珀は彼女の方へと足を向けた。
 不思議な気持ちになる。大人で、尚かつ戦い方を知る琥珀の姿を見たことにより悪い方向に傾いていた感情が消え、どっしりとした安定感のようなものが心に生まれ始めている。信頼とは種類の違う安心感といえばいいんだろうか。ぎゅうっとその手を掴んでしがみつきたくなるような切ない気持ちまで生まれてしまったけれど、それを何とか封じて、背の高い彼の横顔を必死に見上げた。
「琥珀、どうしてここに」
 私の『琥珀』という呼び方に、ディルカの傷の具合を確認していた彼がちらりと振り向き、微笑んだのが分かった。ところで、私はソルトを持っているから目がきくんだけれど、琥珀はこの暗い中でも傷の状態が見えるのかな。
「響様。あなたのお力を借りにきたのです」
 琥珀の説明は、そういう前置きから始まった。
 想像通り砦組にも問題が起きたらしい。琥珀は周囲を警戒しながらも、早口で事情を語った。
 砦に到着して神剣を手に入れるところまでは特に目立った問題も起きず順調だったという。ところがその後、砦に設けられている転移の間へ移動する途中で召喚魔と遭遇してしまった。普通の魔とは格が違う。なぜなら、レイムに変貌する前の率帝が二日を費やしてようやく召喚したという強大な魔物だったらしい。レイムとなった率帝の契約の鎖から解き放たれてしまった召喚魔は自分の世界に戻ることができず、ひどく憤っていた。元の主人である率帝を恨んでいたという。今の率帝の体調ではその魔を以前のように服従させることができない。最初の召喚時、万全の状態であっても二日を費やしたという魔相手に、仲間を庇いながら戦うことはできず、結界を作って防御する以外に方法がなかった。幸い、法具の類いを砦で手に入れたため結界を保つことは可能だったが、仲間割れが起きてしまったのだという。もともと騎士たちは王家寄りの人間だし、謎の多い率使を敬遠する傾向があった。一応、身分があるため率帝には礼儀を払っていたけれど、緊急事態ともなればどうしたって理性の力は弱くなる。そもそもは率帝が召喚した魔物であるのに倒すこともできず、足止めをくらい、神殿に戻れない。レイムにも囲まれて不安と不審ばかりが募り、恐慌状態に陥った一人が結界から飛び出す事態が起きたという。その人を助けるために率帝は一旦結界を解き、魔力を一気に放出して魔物を弱らせた。完全に滅するのは不可能だったが、逃げる時間を稼ぐことができたので、なんとか砦の外へと脱出した。だが、敵は砦の外にも存在する。大掛かりな魔法を使ったため、率帝の魔力の残量はわずかしかない状態になり、時間をおかなければ復活しない。その後、法具を使ったり騎士たちが応戦したりしたけれど、怪我人を出してしまったらしい。このままでは襲いくる魔やレイムから逃れられず、やがて総崩れとなるだろう。
 そこで、レイムの数が増える前に、誰かが神殿へと戻って応援を呼ぶということになったらしい。
 その誰かが、琥珀だったんだ。
 あぁ、砦側でも内紛みたいな事態が起きてしまった。イルファイの懸念が的中している。結界に群がるレイムや魔の姿を眺めながら、平常心をいつまで保てるか。平常心を失った者の行動は読めない。思いもがけない真似をして、皆を危険に巻き込む可能性がある。彼らがこの状況を真剣に理解し慣れるまでは、なるべく魔物やレイムに見つかりにくい場所で避難しなければと。
「神殿へ向かう途中、爆発音がこちらから聞こえました。まさかと思って寄ってみたのです」
 そっか。私やディルカが使った法具の爆発音が外に漏れていたらしい。
「ですが、なぜ、あなたはこのような場所におられる」
 琥珀の視線がディルカから私、そして、うずくまっている三人へと移った。途端、訝しげな顔を見せる。
「彼らは」
「琥珀、暗いのに、彼らが見えるの」
「――あなたから祝福を受けたためではないかと。昼時のようにはっきりとは見えませんが」
 そう答えてくれたけれど琥珀の目が、別の話題で誤摩化そうとするな、と言っている。うう、厳しい。
「この獣は?」
 私は性懲りもなく誤摩化そうとした。
「率帝が研磨した莉石(りせき)にて作られし獣です。私が応援を呼びに行く役をまかされたのは、やはりあなたの加護があったためです。いただいた首飾りの石が、魔物の炎をはねのけた」
 説明しながらも琥珀はきびきびと動き、私とディルカをその獣に乗せようとした。お喋りを続けている余裕はないんだった。夜はこれから深まる。もっとたくさんのレイムに囲まれることになるはずだ。
「待って、彼らを」
 うずくまっている三人を乗せてほしいと視線で訴えたら、琥珀は顔を強張らせた。無理だとその表情が語っている。彼らを連れてはいけない、神殿にも砦にも戻れなくなると。
「時間が、ありません」
 彼は遠回しに、置いていけ、と言ったんだと思う。
 その時、レイムの鳴き声が階下から聞こえた。あぁ、建物に侵入してきている。
 どうする、どうしたらいいの。
 私は振り向き、蘇生した三人を凝視した。この人達を見捨てなくてはいけないのか。では私は、一体何をしにこの世界へ来たのだろう。
 助けるために来たのに、自分が助かるために見捨てるのか。
 
 ――主、犠牲を受け入れろ。奇麗事では覆らない現実もある。
 
 奇麗事。ソルトの言葉に息が詰まった。この痛み、苛まれる心、彼らの縋るような目、これらが奇麗事なのだろうか。
「響様」
 琥珀が促す。
 この獣が大きいといっても、さすがに全員は乗せられない。無理矢理三人が乗れる程度だ。私が小柄で、ディルカも女性で、比較的体重が軽いからなんとか乗せられると琥珀は判断したんだろう。
 でも、なんでこんな苦しい場面ばかり繰り返す羽目になるのか。
 私が弱いから死なせてしまう。もっと強ければ。もっと頼りになれば。
 どうして、かなわない願いだけが満ちてしまうのだろう。
「失礼する」
 琥珀が焦れたように言い、立ち尽くすだけの私の身を抱き上げた。はっとする。嫌だ、こんなの。迷う私の代わりに、誰かが傷を負う覚悟で辛い決断をする。
 弱いからだ、とても弱いから。
「待って」
 抱き上げられた私の目に、琥珀が首から下げているネックレスが映った。私が渡した蜂蜜色の琥珀のネックレスだ。
 さっき彼は、この獣は莉石で作ったといった。よく分からないけれど、率帝は石に力を注ぎ、獣を作ったという意味じゃないかと思った。だったら。
 
 ――無理だ、主。今の神力は未覚醒。お前はまだ、その力を多様には使いこなせない。
 
 そうだよ、無理なんだ。
 無理で当然だ。だって、試す前から無理だと自分で諦めている。弱い、の一言で責任逃れしていた、いつまでもいつまでも際限なく。自分でも気味が悪くなるほど言い訳ばかりだ。
「不可能は、やってみなきゃ、可能にならない」
「響様」
 何もしようとしないから不可能だ。
 無理でもやらなければいけない、弱ささえ可能への糧にしなければ何も始まらない。運命の茨を取り除きたいなら、その茨に触れる勇気を持たないとならない。
 神力を使いこなしたいのなら、使っていかなくては。この力は神様がくれたものだ。使い方を間違えば大変な災いをもたらしてしまう。そういう遠慮と恐れがあって、未だに怖じ気づいている。
 だけどもう、覚悟を決めないと駄目になる。くれたのは神様、そして今は私の力だ。動かすのは自分なのだと信じなければ、願いの高さに現実はついてこない。
 変えてやる、覆してみせる、奇麗事でも、不可能でも!
「これ、ちょっと貸してね」
「何を……」
 私は琥珀からそのネックレスを奪い取り、ついでに床に降りた。
「運命を握ってみせる」
 ぎゅっと私はその石を握った。石言葉を思い出す。そうだ、もともとこの石は強い言葉で祝福されている。
 神力。願うだけで嵐を起こす力だ。願いとは人が抱く強い思念の結晶に違いない。描け、頭に。
 石を握る指に力をこめた。額の神石が熱い気がした。
 もう一頭、彼らを乗せられる獣がほしい。率帝が莉石で作ったこの獣のように。
 石を握る指の間からドライアイスみたいに白い煙がもれた。変われ、獣に。エルみたいに早く駆けて、高く飛べる獣へと。
 身体の奥で何かが動いたような感覚を味わった。瞼の裏に映る闇に星が幾つも浮かび、弾けて、金色の軌跡を描く。
「な――」
 その時、自然に指の力が抜けた。握っていた琥珀の石がとろりと蜜のように溶け、床に落ちる。
「まさか」
 ディルカの唖然とする声が聞こえた。
 とろりと溶けて床に落下した石が、形を変えたんだ。
 私達の前に現れたのは、石が変化した一頭の獣だった。淡く淡く輝く蜂蜜色の毛を持った優美な獣。虎のような顔をしているのに毛が長い。
 やった。
 自分でやったことなのに、本気で茫然としてしまった。できた。嘘みたいだ。やってしまえた。
「誰も置いていかない」
 無意識にこぼした声に、ディルカと琥珀がこっちへ振り向いたようだった。
「砦に行こう」
 
●●●●●
 
 率帝が作った獣の先頭に私が乗った。その後ろに無理矢理蘇生した男性と女性を一人ずつ乗せる。琥珀にはネックレスの石で作った獣の方に乗ってもらった。琥珀にあげたネックレスの石で作った獣なので、彼が騎乗するのが一番いい。ディルカと、もう一人の女性も琥珀の方に乗っている。
 私達は琥珀の指示に従って砦を目指した。彼は魔物やレイムの数が少ない道を選んでくれた。今、レイムを斬っても、もう連れて行けない。
 砦まであとちょっとという時、移動するレイムたちを前方に発見した。彼らに見つからないようやりすごすため、私達は、幾つも存在する城壁の影に隠れた。
「少し様子を見ましょう」
 一旦獣から降りた琥珀が警戒の目を周囲に投げて小さく告げた。
「響様、あなたも怪我をされているのでは」
 弱いとはいえ月明かりがあるため、さっきよりは目が利くらしく、琥珀が私の方を見てわずかに眉をひそめた。
 私は慌てて微笑を作った。本音を言えば、お腹がかなり痛い。肩からも少し血がにじんでいる。ソルトが教えてくれたのだけれど、神力が少しずつ身を治癒してくれているらしい。怪我の治りが早いってことかな。
「平気」
「傷を見せてください」
 大丈夫だよ、とぎょっとしつつ両手を振った。私よりもディルカの方がひどい。クロラがいれば、治癒の術を使ってもらったのにな。あれ、ということはクロラ、神殿に仕える神女なのに魔力があるってことなのかな。それとも魔術なんだろうか。
 それはともかく、ディルカは大丈夫だろうか。私に治癒の力が使えたらよかったのに。
 ……使えたり、しないかな。
 諦める前に、試してみなければ分からないじゃないか。
 
 ――無理だ。お前の神力は治癒に向いていない。そもそも未だ目覚めていないと何度も言っているだろう。
 
 さっきよりも厳しいソルトの声がした。
 でも試してみなきゃ何もできないよ。
 
 ――試すまでもない。治癒に向かぬ神力なのだ。風神シルヴァイも、オーリーンも治癒が得手ではない。よいか、力の質を無理にねじ曲げ、不得手な治癒を行えば、より多く主の気力も削られる。そればかりか、質が変われば本来の神力が得手とする術を使えなくなる。
 
 もともとこの神力って、何に向いているんだろう。
 胸の中でソルトにたずねてみた。返ってきた答えはこんな感じだ。
 オーリーンは闘神だから、勿論戦闘時に役立つ力が主だという。法具なしで攻撃系の力を振るえるはずらしい。あとは自身の治癒能力。あくまで自分の身体だけで他人の治癒ではないとか。
 そしてシルヴァイは風の神。風は豊穣を約束する息吹にて空を洗い、浄化をもたらして、大地を揺り動かす。つまりは穢れを清め、大地に実りを与えられるということらしい。あとは大気の力を借りることができる。叡智の神でもあるから本来ならば知力も得られるはず……なんだけれど、この点についてはソルトに言葉を濁された。どうせ頭が悪いよっ。
 でもやはり未知の部分が多いらしい。なぜなら、この力を振るうのは私であるためだって。私自身の質によって神力の方向性が変化するらしい。ゆえに今のところ、何が得手となるのかは判断できないみたい。
 それなら、もしかすると治癒だって得意になるかもしれないよね。
 
 ――主、本当に頭が悪いだろう。
 
 ソルト、ひどい。
 私は多少むくれつつもソルトの忠告を無視して、ディルカの側にいった。
 うん、やってみよう。クロラが私に治癒を施してくれた時のことを思い出して、真似してみる。
「何をする」
 警戒を滲ませて小声で問うてくるディルカの傷口に手を当ててみた。できる、できると思えばきっとできる。
 治癒、治癒、と頭の中で何度も繰り返し、集中するために目を閉じた。神力、目覚めて。彼女の傷を少しでもいいから癒してほしい。
 きん、と唐突に耳鳴りがした。傷口に添えた手が熱くなる。ああこれ、リュイの毒を取り除いた時の感じとよく似ているかも。熱が生まれ、弾ける感覚。
 だけど、なんだか――身体から根こそぎ力が抜けていくような気がする。うまく表現できない。身体の底にある何かが勢いよく蒸発し、ひからびていくような感じといえばいいのだろうか。
 
 ――もうやめよ! 意識を失うぞ。
 
 ソルトの厳しい制止の声に、私は我に返った。
 目を見開いているディルカの傷口から手を離し、確認してみる。
 やった!
 出血がとまり、傷口が塞がり始めている。完治にはほど遠いけれど、これで死ぬことは――。
「?」
「響様!」
 一瞬、目眩を起こした。後頭部を思い切り殴られたかのように、痛みを伴う圧力を感じる。
 すぐに意識は戻ったんだけれど、頭がとてもくらくらする。間断なく寒気が走り、自分の足で立っていられなくなった。
 琥珀が慌てた様子で身を支えてくれなければ、地面に突っ伏してしまったかもしれない。
「響様、大丈夫ですか」
 何、これ。風邪をひいた時みたいに身体が寒い。
 
 ――馬鹿者、だから言ったろうに。石の形状を変え、治癒まで行う。得手とせぬ使い方を続けざまにしたのだ。しばらくはその状態が続くぞ。
 
 うん、ごめん。
 でも、ディルカの傷。
「ディルカ、痛み、少しなくなった?」
 琥珀に寄りかかり、ぐらぐらする頭を押さえながら、ディルカを見つめた。
 放心していた様子のディルカの顔が、不意に歪んだ。

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