F2:09


 突然、ディルカに頬を打たれそうになった。
 その事実に驚き硬直している私にかわって、琥珀がディルカの腕を掴み、とめた。
「ディルカレート殿、なんのつもりだ」
「今更、神の癒しなど!」
 今更?
 ディルカが凄まじい怒りを宿した目をして、ぼうっとしている私を睨みつけた。だけどその潤んだ目は月の光を受けていたために、とても奇麗に見えた。
 ああまた心臓が痛むような話をされて罵られると直感した。バノツェリの時みたいにだ。
「なぜ今更救いに現れる。救うというのなら、国がこれほど荒廃する前になぜこなかった。神は見捨てたのだろう、この地と人を。それが今更現れるなど笑わせる」
 声を低めて、と訴えることなどできなかった。大声に思えたけれど実際のディルカの叫びは低く、小さい。耳元で叫ばれているように聞こえたのは、その言葉に深い悲しみがしみこんでいるためだと気づいた。
「最も癒しを必要とした時に現れず、全てを失ったあとこれみよがしに奇跡を行う。そんな存在を敬い、尊べというのか」
「違う」
 投げつけられる言葉が痛く、恐ろしい。
 神力で気力を削られたために寒いのか、言葉の痛みで震えるのか、判断できなくなってきた。
 こんなの理不尽じゃないか。だったら私だって言いたいよ。なぜフォーチュンは私を選び、見捨てたのか。たとえ気紛れでも、誕生日の数が目についただけであっても、選んだのなら最後まで見捨てないでほしい。そう言いたいのに。
 責められるのは嫌だ、拒絶されるのももう嫌だ。
 誰よりも優しくされたいわけじゃない。
「なぜお前のような娘に神力が。なぜこの国の者に授けられないのか。国の惨状を知らず、人の絶望を知らず、豊かな楽園にいた者が、巨大な力を持つ。では、私達は何なのだ、無力な者は塵のように蹴散らされて当然だと? そしてただ奇跡のおこぼれを待てというのか」
 楽園なんて知らない。分からない、だって、そんなの。
「神にとってこの地は、ただ歩むために存在する乾いた土塊にすぎないとでも。神力を持つのなら、一瞬でこの世界を蘇らせればいい!」
 できない、私にはそんなこと。
 耳を塞ぎたかった。本当に何なのだろう。この人達にここまで憎まれるようなこと、私がしたというの。一年前までは存在さえ知りもしなかった世界だ。私は元の世界で、学校に行って、勉強して、友達と遊んで、平和に暮らしていただけじゃないか。
 ……その時、この人達は息も絶え絶えな荒れた世界で、レイムとしてさまよっていた。
「滅ぼそうとしたのは神ではないか、なぜ蘇らせる。そして再び滅ぼすのか」
 違う、滅びを望んだのは神ではなく、神の座を拒んだ人だ。
 なぜなら、人が彼を拒んだために。
 何が悪かったのだろう、どこで歯車は狂ったのだろう。
「蘇生を果たせるのなら、殺さなかった! 私の家族、父と母を、この手で……!」
 え?
「愛した者さえ斬った。殺し尽くしたあとで、蘇生が可能などと、よくも! 私を殺戮者にしたのは神じゃないのか、なぜ今頃、救いを見せる」
 すうっと血の気が引いた。
 地面に両手をつき爪が割れるほどぎゅっと土を握って涙を落とすディルカの姿が、幾重にもぶれた。
 人のまま死を迎えるために、ディルカの家族は、まさか。
 人として死んだ者は、蘇らせることは不可能だ。
 私は吐きそうになるのを堪えた。渾身の力で首を絞められているかのように、息が苦しくなった。
 あぁ憎まれていたのは、そのためだったんだ。
 エヴリールが災厄に襲われ荒廃した時、ディルカは家族を手にかけた。家族がきっと人としての死を望んだのだろう。
 憎むはずだ、今頃ひょっこり現れレイムを蘇生できると言った私を。
 蘇ると予め知っていたら、決して大切な人を殺さなかっただろう。
 レイムは人に戻る。その話を聞いてディルカはどれだけ絶望し、手を血で染めた自分を呪っただろうか。
 私が天界の使いではなく元凶であった方が、むしろ彼女には救いだったかもしれない。迷うことなく復讐ができる。
 親族だという率帝をあれほど気にかけ、必死に守ろうとしていた理由も、きっとこれが原因に違いなかった。もう二度と親しい者を失えないという激しい切迫感に襲われていたのだと分かる。
「壊したのに、全部壊してしまったのに、世界が蘇ったとしても、私の大切な人達は戻らない!」
 私――どうしたら。
 唇が震えた。
 声が出ない。月が、月明かりだけが、ぼんやりと霞んで見える。
「……ディルカレート、やめないか。苦渋の末に非道をおかしたのはお前だけではない。この国の者が皆平等に重い苦しみを味わった。そして今、神もまた同じ苦しみを味わっているのだろう」
 琥珀がぽつりと告げた。
「神の苦痛など自業自得ではないか! 神と呼ばれる者、ただ天界に住まうだけの傲倨なる存在でしかない」
「やめなさい、お前の苦しみを響様に押し付けてどうする。この方は神自身ではないだろう。我らのためにこうして傷つき、震える、聖なる少女だ」
 聖なる者じゃない、全然そんなんじゃない。ディルカの痛切な訴えに、何一つ返せない。
「それこそ卑劣ではないか、か弱く華奢な少女の容姿で現れるなど。神は同情を買うつもりか。これだけ稚い姿なのに傷ついていると、これみよがしに披露して、人々の恨みと糾弾をかわそうとでも? なんて都合のいい!」
 まさか自分の容姿が、そんなふうに思われていたなんて。
 見せつけるつもりじゃないと大声で叫びたかった。これは私自身の身体だもの。同情なんてほしくない。それどころか、もっと屈強で利口そうな容姿になれたらどれほどいいかと、私が一番感じているのに。
 もう全部、否定されてる。容姿も考え方も力も存在も。やりきれない以上に、今の会話を続けるのが怖い。
「そうだろうか。非のないまったき者として現れた方が、私はよほど許せぬ。ささやかな、脆くさえ見える稚い少女であるからこそ、我らは縋るのみではなく己を奮い立たせねばと感じられるのではないか。自分の力を使い、人としての誇りを思い出させるために」
 違うのに。琥珀の考えもディルカの恨みも全然的外れだ。私の姿に意味なんてない。神の意思が介在しているわけじゃないのに、なんにでも理由を見出そうとしないで。
「そもそも、神とは何か。本来は――人が、神を守らねばならなかったのでは。そして、神を弱らせ穢してしまったのは、人なのでは」
「何を言う」
 琥珀はそれ以上答えなかった。ふっと意識を切り替えたように、凝固している私を見た。
「響様、神のかわりに聞かせてください」
「――」
 何を。
「もしあなたが神ならば、私達を見捨てずにいてくれただろうか」
「……見捨ててない、今も、昔も」
 知ってるもの、神様たちがどんなに優しくて、心を痛めていたか。
 でも、分かってよ。少しだけでいい、砂一粒分だけでかまわないから。
 私にも、苦しいと思う時があるんだよ。
 滲みそうになる涙をこらえた。震える手を伸ばし、琥珀とディルカの片手をそれぞれ掴む。
「……ごめんなさい。私、弱いから」
 こんなに、こんなに弱い。だから、ちょっとだけ頑張れたと思った時には、すぐに浮かれてしまう。
 きっとそういう軽薄な態度が、この人達に腹立たしさを抱かせてしまうんだろう。
「今更、謝罪なんて」
 ディルカが温度のない声で小さく告げた。
 私は胸の底で獣みたくぐるぐる回っている暗い感情を宥めた。私だって皆と同じように何一つ分からないままフォーチュンの計画に巻き込まれた挙げ句、見捨てられた!
「……ごめんなさい」
 私は一度唇を噛み締めたあと、赤子のように泣き喚いて訴える胸の底の獣から目を逸らした。
 謝罪をするのが、とても辛かった。本当は嫌で嫌で、たまらなかった。
 それでも事実は言えない。自分を天界の者であるかのように偽り、曖昧な説明をしたのは私だ。今更、異世界にある日本生まれの一般人にすぎなかったなんて言えない。
 本当に、今更だった。
 こんなんで、皆が安心できるような灯火になれるのだろうか。たった一人から糾弾されただけでも、もう消えてしまいたくなるのにな。
 どうしようソルト、私が灯火なら今なんて言えばいい。思いつかないよ、全然分からない。
 仕方ないじゃないか、私、頭悪いんだもの。
 
 ――主。
 
 教えてよ、私の不足している何かを補ってくれるのなら。
 何を言えばいい。
 
 ――……汝が生の道を歩む限り。
 
「……あなたたちが、生の道を歩む限り」
 私は二人の顔を交互に見つめながら、ソルトの言葉を復唱した。指先に走るかすかな震えを、二人の手を強く握ることで誤摩化した。
 
 ――命は巡る。生は、生を産むだろう。人は母体という暗闇の中から人を産む。なればこそ、絶望の中から希望を産むだろう。人の産声はまさに光。暗闇からいずる希望。
 
 二人の視線を感じた。私は人形のようにソルトの言葉を声に乗せ、茫と語った。
「命はきっと巡ります。生は、生を産む。人は母体という暗闇の中から、人を産みます。それは、絶望の中から、希望を生み出すこと。人の産声は、光。暗闇に差し込む希望」
 二人の手を引っ張って、自分の頬にくっつけた。温かい手だった。温かいのに苦しんでいる手だ。
 
 ――壊した己を、再び絶望の中から生み出せ。それが人の生。汝の生こそが今ある奇跡だ。
 
 あぁフォーチュン。レイムの目覚めの声もまるで産声のように聞こえる。彼は絶望から何を生み出そうとしたのだろう。
 レイムに再生の道を残したのはなぜだったのか、とても聞いてみたくなった。
「壊してしまった自分を、再び絶望の中から、生み出して。あなたたちの生こそが、滅びを払う奇跡」
 フォーチュンはもしかして奇跡を見たかったのかな。
 人々にこんな苦しみを与えることで、何を悟らせたかったんだろう。
  
 ――神は、人が産む奇跡を見守る者。
 
「神とは、人が産む奇跡を、見守る者――」
 ざわざわ。レイムが近づく音が耳に届いた。
「……人が、奇跡を?」
 琥珀が私の手を握り返した。うん、と私は頷いた。
「あなたは見捨てずに、見守ってくれるだろうか、私たちを」
「うん」
「あぁ、ならば」
 琥珀は安堵したように微笑んだ。強い憎しみと悲しみを超えた、鮮やかな眼差しだった。彩り豊かと呼べるような、全てを抱く目だ。厳かで醜く、激しくも儚い、人の心に浮かぶ様々な画を水面のように映している。
 私の言葉に、何かを見たのだろうか。自分の過去だろうか、まだ分からない未来だろうか、四季だろうか。
「ならば、あなたが私の奇跡だ」
 私が奇跡? 空っぽの私に奇跡を見たと?
 私は一瞬、彼の目を見返したあと、するりと立ち上がった。二人の手から指を離し、振り返りざまに剣を抜く。
 獣に寄り添っていた蘇生直後の三人が、ひっと悲鳴を上げた。同時に、きぃっと小さく鳴くレイムの声も響いた。
 小柄なレイムが背後に忍び寄っていたんだ。
 私は神剣を振り上げた。全てを失ったディルカの前で私は異形を切り裂き、人を蘇生させていく。
 蘇れ、蘇れ、絶望の中から。
 首を断ち切る瞬間、私は目を瞑った。
「――」
 蘇らせたのは、稚い目をした子供だった。
 
●●●●●
  
 子供ならば軽いので、一人くらい増えてもなんとか獣に乗せられる。
 私はその子を自分の前に乗せた。奇麗な薄い栗色をした髪の少年だ。目覚めたばかりのためか、不安をいっぱいにためた泣きそうな顔をして私にしがみついている。
 私達は再び砦を目指した。襲ってくるレイムを、琥珀が法具で足止めさせ、その間に距離を稼ぐ。本家本元の法具と言っていいのか、率帝が琥珀にもたせてくれた法具はさすがに優秀だった。単純に爆発を起こすだけのものとは違い、一定時間、レイムをその場に食い止める力を持っているものもあった。呪符みたいなものもあって、それを木の幹に何枚かはり付けると、指定した範囲に金網のような魔力のバリケードを作ってくれる。
「あそこが、砦で――」
 琥珀の説明に顔を上げた。彼がなぜ途中で言葉を切ったのか、自分の目で確かめ、理解した。
 石塀の向こうに鍾乳石で作られているかのような、不思議な外観の建物が見える。どこか険しい荒さを持つでこぼこした造りだ。
 けれど、その神秘的な建物に瞠目するより早く、視界に動く影が飛び込んできた。
 あれは――。
「リュイ、率帝!」
 私は咄嗟に叫んでしまった。
 石垣を背にして作られた結界の中に砦組の人々が入っている。その結界を破ろうと、何体かのレイムがあがいていた。
 問題はそちらではない。リュイと率帝は結界の外にいる。
 一際巨大なレイムと対峙しているんだ。
 
 ――主、アレは手強い。
 
 私は息を呑んだ。感じる。あのレイムは格が違う。大きな力を持つ者だ。
 先程から不思議に思っていたことだ。砦まで距離がまだ離れていた時はレイムや魔物の姿をよく目撃したのに、途中からその数が減っていく気がしていたんだ。この一帯にはなぜかレイムの数が明らかに少ない。それはおそらく、あの巨大なレイムが側にいるためだ。他の弱いレイムは近づけない。ある程度の強さを持つレイムだけがこの場に残っているんだろう。
「琥珀! あなたたちは下がっていて」
 私は素早く告げて、獣から降りた。
 ソルトの力を借りて、全速力でリュイたちの側へと駆け寄る。
「響!」
 こっちの到着に気づいたらしくリュイが振り向き、私の名を呼んだ。
「二人とも、無事!?」
「はい、ですが、我らでは、このレイムを結界に近づけぬようにするのが限度です」
「このレイム、ひどく強大な力を持っている」
 リュイと率帝が素早くそう言った。
「響様、私達が動きをとめますゆえ、どうか」
 率帝が言葉を続けようとした時、そのレイムが氷の炎を生み出し、こっちに放ってきた。率帝が手に持っていたらしい乳白色の石をかざし、呪文を唱える。あとわずかでこっちに炎がぶつかるという時、車輪状の大きな盾が生まれ、炎を弾いた。
 レイムが唸った。獅子の下肢を持つ、阿修羅のようなレイムだった。手足がびりびりするくらいの重圧感を抱く。
「!」
 率帝とリュイに動作を一瞬止めてもらっても、まだ私より俊敏だった。ソルトの力を借りているにも関わらずだ。
 なんて強い。
 今までのレイムと違う。力をこめて腕の一本を切り落とそうとしても、簡単に振り払われてしまう。このレイム、顔が三つもあり、厄介なんだ。一つは率帝に向かって炎を吐き、一つは長い舌を鞭のようにしならせてリュイを狙う。最後の顔は、私を仕留めるべく毒の矢を吐き出してくる。
 何なの、このレイム!
「率帝!」
「響様!」
 駄目だ、こっちに来たら!
 蘇生させた人たちを獣から降ろした琥珀とディルカが、援護しようと考えたのかこっちに向かってくる。
 率帝とリュイはそれぞれ身を守るので精一杯らしく、駆けつけてくる彼らを守れない。
 いけない、琥珀達にまで毒の矢が届いてしまう。
 響様、という琥珀の茫然とした声が聞こえた。彼らに向かって放たれた矢を、駆け寄りざまソルトで叩き落とす。
 それでも、全部を防ぐのは無理だった。
「いっ……」
 痛い、大声を上げて地団駄踏みたいくらい痛い。
 あまりの痛さに涙が滲んだ。さっき痛めた肩に、払い落とせなかった矢が突き刺さっている。どうしていいか分からず、反射的な仕草で矢に伸ばした手は、大きく震えていた。指先がわずかに矢に触れた瞬間、神力の効果なのか、矢は溶けて消えた。けれど、衣服の破れ目から赤紫色の傷口が覗いている。たぶん、毒をまだ奇麗には浄化できていないせいで、傷口が不気味な色になっているんだろう。
 なんだかもう笑い出したくなった。本当に信じられない。矢が自分の身体に突き刺さるなんて現実、嘘でしょう。
 私、普通の女の子だったのに、なんでこんな目にあっているんだろう。
 倒れて、気絶しても許されるんじゃないの。
 今までは大きな怪我なんてしたことなくて、他の子みたいにお洒落とか好きだった。ちょっと日焼けして肌が赤くなったり大きなニキビができた程度でもこの世の終わりみたいに感じていたはずが、今は命の危険を伴う場に立っている。
 ひどい、痛い。
 神様、こんな現実、すごすぎる。
「響様」
「……二人とも、下がっていてね」
 声を震わせちゃいけない。ここで私が心のままに喚いたら、二人は責任を感じて絶対に引き下がらないだろう。
 そうなればもっと戦いにくくなる。
「私、弱いから。応援してくれたら戦えるの。どうか私に力を」
 肩がじんじんする。熱湯を思い切り浴びてしまったかのようだ。息を吐くだけで視界ががくんと横にぶれる。
「なぜ」
 ディルカの言葉に、再び毒矢を放とうとするレイムを見据えながら答えた。
「誰も犠牲になんてしない」
 一体何のためにここへ来たのか。
 私はソルトを握り直し、傲然とこっちを見下ろすレイムへと駆けた。



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