F2:13
響、と叫ぶリュイの声が聞こえた。
飛びかかってきたベリトベッテめがけて、私は力一杯独鈷杵を投げた。独鈷杵はベリトベッテが放つ力の波動や炎にも屈せず、吸い込まれるようにして青い色の胸に突き刺さった。さっきの率帝達が言霊によって覚醒させた金色の葉と同じものがベリトベッテの胸に直撃した独鈷杵から溢れ、長い鎖と化して螺旋を描いた。その間にベリトベッテは至近距離まで接近していた。
身体の奥にまで、大魔の咆哮が響く。ベリトベッテと視線がまじわった。不思議な色を宿す五番目の瞳を、私は見返した。
「――」
青い影の身体を持つ大魔。その身が独鈷杵から生まれた金の鎖を弾き飛ばして敷布のように大きく広がり、私をすっぽりと包み込んだ。視野と音、全てが外界から切り離され、青の世界に変化した。ベリトベッテの胸に突き刺さった独鈷杵だけが目に映る。私は瞬いた。独鈷杵を中心として、ベリトベッテの身体に複雑な陣の模様が浮かび、亀裂が走ったかのごとく広がっていく。点滅する陣の記号や線。まるで星の瞬きみたいだとぼんやり思った。ベリトベッテの身体で作られた宇宙の中にただ一人、立っているような感覚を抱いた。
独鈷杵にそっと触れた時だった。星空のような青い空間は変わらなかったけれど、目前からぽこりという奇妙な音がした。水が小さく泡立った時のような音だ。瞬きして様子を窺うと、目の前の何もない場所から何かが顔を出した。私はびっくりして目を丸くした。一瞬、楕円形の白いお皿が出現したのかと思ってしまったためだ。あながち間違いともいえないような、お皿みたくつるりとした白い楕円形のものがゆっくりと五枚現れて、私を取り囲む。見回すこっちの動きに合わせたのか、順番にお皿の中央部分に大きな目が開かれた。一つ一つの目は、私の顔と同じくらいの大きさがありそうだった。しかも目の中……瞳孔部分に人間の顔が浮かぶ。それは男であったり、女であったり、老人であったり、子供であったりした。低い声、高い声が、それぞれ応と答え、是と言い、諾と囁いた。けれど、最後の目には何の顔も浮かんでいない。その目をじいっと凝視した。途方に暮れた自分の顔だけがぼんやりと映っている。首を傾げた時、目の中に浮かぶ自分が逆の方向に首を傾げた。普通は同じ向きになるはずだと驚いて凝固したら、目の中の自分が、留、と無表情で言った。
どういう意味なのか戸惑った瞬間、独鈷杵が砕け灰燼と化した。ぱしんぱしんとお皿までもが割れて粉々になる。飛び散る欠片から腕で顔を庇った。
「ベリト……？」
呼んだ時にはもう、世界が元通りになっていた。ベリトベッテもまた元の青い人型に戻っており、きょとんとする私をじっと見下ろしている。それからふっと溶けるように私自身の影に潜り、同化して消えてしまう。今まで白昼夢でも見ていたのかと勘違いしてしまいそうになるほど、静かな一瞬が訪れた。
えっと、今……ベリトベッテを従属させるのに成功したんだろうか。
突然、ちりっと右手の親指の先に痛みを感じ、驚いてしまった。何だろうと思い、顔の前に右手をもってきて痛みの正体を確かめる。
何だろ、これ。
手をひらひらさせて裏表を見た時、親指の爪にいつの間にか、奇妙な模様が小さく浮かんでいるのに気づいた。見ようによっては人型をしていると思えなくもない、不思議な青い印だ。怪訝に思ってじっと見つめると、私の視線に反応したかのようにその青い模様が揺れた。これってもしかして、ベリトベッテとの契約の印なんだろうか。
唐突に、自分がもの凄く疲労しているのに気づいた。いつ瞼がくっついてもおかしくないほど身体が重くてたまらない。気力がごっそりと削られてしまったかのような感覚だった。樹界を作った時と似ている。意識したのがまずかったのか、頭痛と目眩が一気に押し寄せてきて、立っていられなくなる。視界までもがふっと暗くなり、重心が消えた。
「響！？」
崩れ落ちる私の身体を、それまで凝固していたらしいリュイが受け止めてくれた。
頭が痛い。すごく寒い。
私は両手で顔を覆った。支えてくれるリュイに身を寄せ、ついぬくもりを求めてしまう。寒気がおさまらない。
ソルト、私の身体、どうなってるのかな。
必死に胸中でたずねたけれど、すぐには返事がこなかった。ソルトを手にしていないから声が届きにくいという理由だけではない気がする。その証拠に、ようやく聞こえたソルトの声はひどく遠く、雑音が混ざっていた。なんだかソルトも調子が悪そうだ。
――散々神力を使い消耗している状態で、大魔を従属させたためだ。神力だけでは足りなかった。気力から補っても尚足りぬ。本来ならば、術は破られていただろうが……ベリトベッテはおそらく、とりあえずは主に従い、様子を見ることにしたのだろう。主は稀に根拠のない強さを見せる。強き者には服従を。それが魔というもの。
そうなんだ。
身体はすっごく辛いけれど、一応なんとかできたらしい。
――よくやったと言えるだろう。大魔を相手にして、被害を少数にとどめられたのだから。
被害を少数に――？
意識がソルトの会話から、現実へと引き戻された。
「琥珀」
叫んだはずなのに、自分でも嫌になるほど弱々しい声しか出なかった。
「響様」
焦りを含んだ率帝の声が聞こえた。
私は重い瞼を無理矢理こじ開けて、声のした方へ顔を向けた。
「浄化できない」
絞り出すような、苦しげな率帝の声に、私は身を強張らせた。
何を浄化できないのか。瞼を開いても、すぐには視界が戻らない。どうしよう、疲労に負けて目が霞んでいる。
「……ルト、神剣を」
私は懸命に、ソルトを渡してほしいと頼んだ。ソルトを手に持てば、いくらか視界がクリアになるんじゃないかと思ったためだ。
「神剣を！」
声がちゃんと出なくて、焦りが募る。もがくようにして両手を伸ばした時、遠慮がちにソルトを渡された。その瞬間、ふっと視界がクリアになる。泣きそうな顔をしたカウエスが、ソルトを渡してくれたらしかった。
「琥珀」
カウエスの後方へと視線を向けた。いつでも魔法を放てるよう警戒している率帝と率使たちの背が見える。その様子を離れた場所から恐ろしげに見守る人々。騎士達の顔は皆一様に色がなく強張っていた。
どうして。ベリトベッテは従属させたのに、なぜ皆は緊張を解いていないのだろう。
大魔の波動を感知して他の魔物やレイムは側にいないはず。まだ余波があるだろうから、すぐにはこっちへ来ないはずだ。
なのに、なぜ。
「琥珀は」
率使たちの背に阻まれて、その向こうが見えない。
私は気力を振り絞り、リュイの腕から身を起こそうとした。手足に力が入らず、転がるようにして床に倒れてしまう。
「琥珀はっ」
どうして立ち上がれないんだろう。ソルトの力を借りてさえも自分の足で起き上がれない。
そっと引き止めようとするリュイの手を無視して、歯を食いしばりながら床を這い進んだ。なぜかリュイは、それ以上私をとめようとしなかった。
率帝達が振り向いて、身をずらした。彼らもまた、騎士たち同様、喜びとは正反対の表情を浮かべていた。
「琥……」
炎が噴き上がるような音が聞こえた。続いて、断末魔に酷似した凄絶な叫びが広がった。
琥珀。
一瞬、何を見ているのか分からなくなった。
「浄化ができない。彼は、もう」
率帝がかすかに声を震わせて、そう言った。
私は視線を外せなかった。
燃えている。青白い炎の中で琥珀が燃えている。熱を持たない炎、怨嗟と執着、慟哭を糧にして燃える炎の中でだ。
どうして。
どうして！！
「琥珀！」
叫びながら、肘を使って必死に琥珀の所まで這った。一歩進むたびに、握っているソルトが床にぶつかり、硬質な音を立てる。乱暴な扱いをしているのに、ソルトは怒らなかった。怒ってほしかったのに、どうして何も言ってくれないのだろう。
「琥珀、琥珀」
身を守るようにしてうずくまっている琥珀に腕を伸ばす。炎が弱まり、肌の表面で波打つだけとなった。触れても全く熱くなかった。
ああ嘘だこんなの。
髪の大部分が溶け落ちている。
溶け落ちているのは、髪だけじゃなかった。肌も、肉も、じわじわと溶け落ちていく。じわじわと。
じゅっと音を立てて、溶け落ちた肉が床を汚す。私は混乱しながら溶け出す肉を手で塞いだ。けれど、指の隙間からどろりと溶け落ちる。
やめて、お願い、溶けないで。
誰か、誰か。
助けて！
胸を突き上げる恐怖と驚愕に、呼吸が荒くなった。全身が脈打っているみたいだった。
「あ、あぁっ」
だってもうベリトは害をもたらさない。もう大丈夫なのに、なんでこんな。
「…――びき、さま」
うずくまっていた琥珀が顔を上げた。顔の左半分の皮膚が、抉ったかのように大きく爛れていた。まるで溶けた蝋燭みたいだった。私は咄嗟にソルトを床に置き、琥珀の顔を両手で包んだ。
意識せず首を振ってしまう。違う、こんなの現実じゃない。戻る、ちゃんと人間に戻るもの。
「こはく」
琥珀は、殆ど肉が溶けて骨がむき出しになっている手を伸ばし、縋るように私の腕を強く掴んだ。
「……き、さ――たく、な」
響様。死にたくない。
そう言ってる。
「死なない、死なせないっ」
きっと、絶対に、戻る。
ああそうだ私は風の力を持ってる。浄化の力だ。だから絶対に戻せる。
だって、こんなこと、ありっこない。
浄化を、と何度も念じたのに、額の石は熱をもたらさなかった。なんで反応しないの。浄化してよお願いだから、浄化して。
「どうして！」
私は叫んでいた。どうして。力が湧かない！
――神力が、今の主の体内に残っていない。気迫をもってももう目覚めない。なぜなら、今これ以上力を振るえば、主の息がとまる。
ソルトの囁くような声が聞こえた。私はまた大きく首を振った。嫌だ、嫌なの、こんなの、違う。
だったらソルトで斬ればいい。蘇生させればいい。
片方の手を琥珀から離し、床に置いたソルトを掴んだ時だった。
蘇生はできない、というソルトの声が身体に満ちる。その者はレイムではない、と。
だったら！
神力の代わりを使う、そうすればいい。
血だ。
血を使う。
私は自分の指を口の中にいれ、歯を立てた。だけど全然力をこめられない。震えてどうしようもなくて、血を出せない。
「誰か、お願っ……切って、どこでもいいから、腕でも、足でも、いいから、私、切って」
周囲の人を見上げ、必死に乞い願ったけれど、誰も動いてくれなかった。
こんな時くらい協力してよ、お願いだから！
「リュイ、お願い、切って！」
自分の口から、かな切り声のような叫びが漏れる。何人かが、私から顔を背けた。
無理なのだ、とソルトが静かに私を諭す。
無理なんて、何もしようとしないから無理なんだもの。
しようとすれば、きっと、絶対に、無理なんかじゃない。
そうでしょう？
「いやだぁ……」
私はぎゅうっと琥珀を抱きしめた。指の間をぬるりとつたう溶けた肉。その感触。目を瞑っても誤摩化せない。この生温い溶けた肉の中に、琥珀の命の欠片が含まれている。それが、指の間を滑り落ちていく。
「――びき、守……」
守るから、守るから。神様、助けて。失うの、嫌だ。もう嫌だ。
琥珀の目が、死に物狂いの光を宿した目が、私を見ていた。死にたくないと叫ぶ光があった。あぁ浄化ができない。どうしても、力が溢れない。
肉体の崩壊をとめられずに、ただ抱きしめることしかできなかった。ベリトの魔力が彼の肌を焼いているのか。それとも私の愚かな策により生まれた風の炎のせいなのか。
失われる血肉。琥珀自身の嘆きが煙のように立ちのぼって、むき出しの骨に絡み付き――骨が、変容しはじめた。
なぜ。
「嘘だ」
骨の形が、琥珀が、変わっていく。
「違う、こんな、違う」
知っている、私はこの光景をどこかで見た。知っている。
まさかこれは源醒の――。
――己が生んだ怨みに負けた、この者。
源醒の律。人が神と化す律。私はなぜかその言葉の意味を知っていた。
ありえない。神と化すこの律は、高みを望み闇の数を踏んだ者にあてはまるはずだ。
――源醒の律は、高みへの道をひらいた者のためにある。また、その律さえ、一の例のみではない。なんにせよ、敗者は裁かれるのみ。なぜなら、この者、主の祝福、そして神力を受けたため、ただの人に在らず。
祝福と、神力？
確かに、ソルトの助言を得て琥珀を祝福したけれど、神力ってどういうこと。
――忘れたか。主は我が示した言葉を授けただけではなく、主自身の言葉をもってこの者に守護を与えたではないか。祝福以上の力がこの者に注がれたことになる。
くらりとした。まさか、あの時心の中でそっと呟いた言葉が、こんな影響を琥珀に及ぼすなんて思ってもいなかった。
そういえば琥珀は、暗い中でもディルカの傷が見えるようになっていた。そうだ、私は強く願った時、神力を目覚めさせている。琥珀色のペンダントを獣に変えた時。ディルカの怪我を少し癒した時。ベリトを従属させた時。
琥珀に祝福を授けた時も、私は心の中で真剣に願ってしまっていた。どうか琥珀に守護の力が注がれますように、と。
――怪我の治癒や浄化とはわけが違う。この者は神の眷属たる主から直に誉れと祈りの神力を受けた。更には、主が渡した石の力すらも身に取り込んだ。ゆえにこの者は闇の数を踏まずとも、高みを望める資格を得ている。資格を得た状態の者が、生への執着を怨みに変え、その念に我を奪われ、囚われたのだ。これは神となることを望むか否かに関らず、敗者と定められる。
高みを望める資格を得てしまったがゆえに、怨みの念すら力となってしまう。
愕然とする私の腕の中で、琥珀が悲鳴を迸らせた。地を這うような咆哮だった。人が聞かせる悲鳴ではなく、まるで獣の断末魔のような声だった。
琥珀は神になろうとしたわけじゃない。ただ資格を得たという状態にすぎないから神と化すための律自体は動かない。けれど、神の眷属である私の祝福、そして祈りの神力を受けたために、普通の人間ではなくなった。強い怨みをもったまま死ねば、その魂はどうなるのか。
――既に主が授けた力は命に絡み付いているため、この者は戻せない。生を願う悲壮なる魂。よいか、この魂は、高みに立つ主、お前と共に歩むことを何より望んだ。それこそ己の命をかけて。言葉として、誓いもしたな。だが、その願いが砕け散った。挫折と無念が怒りをまとい、穢れを帯びる。巨大なる怨嗟。恨みに満ちた、荒ぶる魂。
嘘だ。だとしたら、琥珀は。
「なんでぇっ！」
――最早人としては死ねず、怨鬼と化す。災いは封じねばならない。主、斬れ。この者を、斬れ。主は神にあらず、なれども神の気を持つ者。滅せよ、怨鬼を。
「うあっ、あぁ」
私はソルトを握った。変形していく琥珀を片腕で抱きかかえながら、その背にソルトを突き立てようとした。けれど、私の手は動かない。だって琥珀なんだもの。殺せない。俺は俺でありたいと、そう言った人だ。誰かを守り、人として死にたい。誇れる者でありたい。自分の命が国の血肉となればいいって、そう微笑した人なのに、なぜこうなる。
私に誓ってくれた。もう琥珀の中から聖なるものは全部失われてしまったの？
まだこの人のことを何もしらない。どういう生い立ちで、何が好きなのか、些細なことも重大なことも何一つ知らない。
身体中に悲鳴が響く。殺せない、殺せるはずが――。
「――アンバー！」
ソルトの柄を握る私の手に、別の力が加わった。温かい大きな手だった。剣先がずぶりと琥珀の背に突き刺さる。
私は茫然と見ていた。月色の瞳が、すぐ目の前にあった。私の手を覆うようにしてリュイがソルトの柄を掴み、琥珀の背を貫いていた。
「アンバー。死しても我らと共に歩もう。お前の意志、願い、私がもらいうける」
リュイが強い眼差しで、刻み込むように言葉を紡いだ。私に縋り付いている琥珀の指に、力がこめられた。
「嘆きに満ちた、柔らかな稚い希望。我ら、共にあなたをお守りする」
リュイがこっちに視線を向け、微笑んだ時だった。
――なんと。この者もまた、刃と化すか。かの者の名、全ての地より、失われる。そして主と共にある、刃へと。
名が失われる。アンバー。私の記憶からも、皆からも奪われる。
琥珀の身が、私の腕から失われた。
変形した骨が、一振りの剣になる。
雪のように真白な刀身を持つ、神剣へと。
そして名前は、失われた。