F2:14
「――」
頭の中に砂嵐が生まれ、名を奪う。姿も笑みも、果てには記憶をも奪う。一陣の風が通り過ぎた後、当惑するような空白だけが広がった。
私は自分の手が持っている白い剣を、ぼうっと見下ろした。
奇麗な大振りの剣だった。柄部分に、蜂蜜色の石が埋め込まれた剣だ。
私はこの剣を知っていた。きっと大事な、何者かであった。だけどどうしても、本当の名前が思い出せなかった。
不意に、笑みが漏れた。
「琥珀」
私は小さく声を上げて笑ってしまった。そう、琥珀。私、きっとこの剣を、そう呼んでいた。
だって、琥珀って、本当の名前じゃなく愛称なんだもの。
神様でも予想していなかっただろう。人間って、親しい何かに色々な渾名をつけたりする。その渾名は本質を示しても、本質そのものではないために失われない。どんなことでも、探せば抜け道はある。
何者かであったこの白い剣を、私は『――』としてではなく、『琥珀』として接していた。
それに私は本来、エヴリールの人間じゃない。
だから忘れない。
必ずいつか、思い出す。
「……リュイ」
刹那の間、時間を奪われて茫然としていたリュイが、はっとこっちを見た。
「この剣、『琥珀』っていう名前だよ」
私はそう言って、リュイに琥珀を差し出した。
リュイは神剣を使えない。でももし、私が気合いを入れて祝福をしたら、そしてこの神力を注げば、どうだろう。
元々は私だって、神様の血を受け継いでいない。シルヴァイ達に神力をもらったから剣を使えるようになっただけだ。
今まで、王家の血筋という点のみに囚われすぎていたため、こんな単純なことに気がつかなかった。リュイも神気をもてば、きっと神剣を握れるんじゃないか。
「リュイ、お願いがあるの」
「……何を?」
「あとでね――祝福と神力を、もらってくれる?」
私は小声でそう言った。断られたらどうしようと思う。なぜなら既に一度、私は意味も分からないままリュイを祝福している。例の、虫の毒を癒した時のことだ。でもあの時はまだ、ゼロといっていいくらいに神力を使えていなかったため、神剣を握れるほどの強い祝福にはなっていないんじゃないだろうか。毒を癒すことだけに専念していたしね。
今は多少なりとも、神力を引き出せている。それに、治癒や浄化時の力と、神剣を使うための力の質とは違うらしい。
「この剣、リュイに使ってほしい」
私じゃなく、リュイが琥珀を使った方が相応しい気がした。
琥珀も多分、それを望んでいる。
使いこなせるようになれば、ソルトみたいに琥珀と意志の疎通ができるようになるのかな。
本当に、もっと早くこの考えを試していればよかった。そうしたらきっと何かが変わっていた――何かが?
「神力は、諸刃の剣。いつも自分の意志が試されることになる。それでも、もらってくれる?」
リュイはじっとこっちを見つめたあと、穏やかに微笑んだ。こっちまで安らかになれるような、優しい微笑だ。
よかった。もらってくれるんだ。
ありがとう、と言おうとした。拒絶されなくて嬉しかったし、安堵も覚えた。
口を開いて、実際に言葉を出す瞬間までは本当に、お礼を言うつもりだった。
「ごめんなさい」
なのに、なぜなのか、紡いでしまったのは謝罪の言葉だった。
リュイが微笑を消し、さっきのように静かな目で私を見返した。
変だな、と私は焦った。お礼を言いたいのに、胸が引きちぎられそうなほど痛い。全身を襲う疲労がなければ、そこら中転がって喚きたいくらいに、何かが辛い。
「何か」が分からないせいで、涙が出なかった。ただ苦しくて苦しくて、たまらなかった。
私は周囲に立ち尽くしている人々を見回した。あぁ、急いで移動しないと。転移の間まではすぐそこだもの。大魔であるベリトがここにいたお陰で他の魔物やレイムが出現することはなかったけれど、それでものんびりしていたらすぐに囲まれてしまうだろう。
移動しよう。そう言いたいのに、どうしてだろう。心が今にも破れそう。
「ごめんなさい、ごめんなさいぃ……」
気が狂いそうな痛みに、意識が危うくなった。
まるで慟哭しているかのように、自分の口から掠れた高い声が迸る。
幾度謝罪してもおさまらない痛みがある。あぁ、なぜ。
両手で顔を覆った。私はきっと、取り返しのつかない大きな罪を再びここで犯したのだろう。
意識がだんだんと落ちていく。
完全に途切れる前に、誰かに身体をぎゅっと抱きしめられた。
黒に染まる意識の中で、奇麗な蜂蜜色の石が、音を立てて砕け散るのを見た。
私はそのあと、気を失った。
●●●●●
どのくらいの時間、私は意識を失っていたのだろうか。
夢を見た気がする。
とても悲しい夢だ。走っても走っても、あの人に追いつかない。
苦しんでいるのに、助けられない。
あともう少しなのに、手が届かない。
その人が、暗い闇の中に落ちていく。
『苦しみ抜き、悲しみ抜け。あなたが罪を背負い、嘆きを深めるほど、救いがもたらされる』
その人は最後に微笑を見せて、消えた。
●●●●●
瞼を開いた時、真っ先に目に映ったのは、銅色の毛だった。
あたたかい毛に包まれている。頭の下で、温もりを持つ銅色の毛が規則正しく上下していた。とても心地が良くて、溜息が漏れた。
私はまだ起きたくなかった。起きたらまたたくさん悲しいことを見てしまうんじゃないかと思った。でも、今までどんな悲しいことを見たのか、思い出せなかった。
もう一度瞼を閉じて、銅色の毛に頬をすり寄せた。声が聞こえたのは、その時だった。
「…――二日目だ。目覚めさせるべきではないのか」
「いけません。神力が失われているだけではない。彼女は心身ともに衰弱しているのです。以前のように神石に衝撃を与えれば、この方は死んでしまう」
「だからと言って…――」
あれ、こんな会話、ちょっと前にも聞いた気がする。
不思議な既視感を味わい、私は微笑んだ。なんだ、時間が戻ったんだ。きっと。そうだよね。
自分の思いつきに浸ると、なぜか幸せな気持ちになれた。悲しいことを知らない自分でいられる。唐突にそう思い、ぎくりとした。まだ、目覚めたくない。理性を遠ざけたい。
「月迦将軍の話によると、響様はまだこの地に降りて日が浅い。風神の眷属なればこそ、天界との大気の違いを誰よりも感じたはず。実際、私から見ても、響様の神力に疑いはないが、制御にはひどく難儀しておられる様子だった。まだ存分に神力を操れぬ状態なのでは。それでもベリトベッテを従属させた。砦の率使が総出となり、五年の歳月をかけて結界内に閉じ込めた大魔を、お一人でねじ伏せたのです。本来ならばまず神力を安定させるために休息が必要だったのではないですか。これまで無理を重ねすぎてきたのでしょう。神力の殆どを使い果たしても不思議はない」
「そもそもは闇に属する魔などを飼っていた砦に問題があるだろう。召喚魔さえおらねば、神剣を手にしたあとすぐさまこちらへ戻れただろうに。また娘も、そなたらの救出に出向かずにすんだのだ」
「お言葉ですが、他国が侵攻してきた折り、侵略軍を討伐できたのはこの魔の力があったからこそ」
「制圧軍の話など今は関係なかろう。大体は、率帝。そなたの私衛であるディルカレートが愚かな独断行動を取り、皆を危険にさらしたのだ。その結果、どうなった」
あぁバノツェリと率帝、また口喧嘩を始めてる。この二人って本当に険悪だ。
困った人達、そう思った時、バノツェリが放った次の言葉が胸に突き刺さった。
「怪我人を多く出し、その上、死者までも出した」
死者。
耳鳴りがした。微睡みを望んでいた意識が急速に浮上を始める。
そうだ、死者を出した。勝手に走り出して繋ぎの間に飛び込んだ男性がいた。彼は、ベリトに殺されたんだ。
人として命を落としてしまった。蘇生はもう二度と果たされない。
心臓が、ぎゅっと掴まれたみたいに痛くなった。私はまた、人を助けることができなかった。
それに――。
「それに、なぜ神剣が二本も砦内にあったのだ」
神剣。
呼吸が止まりそうになる。
雪のように白い刃を持つ神剣。琥珀のことだ。
「分かりません。ただ、突然出現したとしか。響様が身を削って作り出されたのか」
困惑した率帝の声に、私は強く瞼を閉ざす。
琥珀、どうしてだろう、この名を呼ぶと、とても切ない。
「よいのではないか? どちらにせよ、三本の神剣のみでは到底足りぬ。全てのレイムを蘇生させるというのならばな。もし響が神剣を作り出せるというのであれば、喜ぶべきことではないのか」
イルファイのあっけらかんとした声が聞こえた。
ああそうか。皆、ここにいる。皆のところに、私は戻ってきたんだ。
そうだよ、と答えるように、ふさりと柔らかく頬を撫でられる。銅色の尻尾の先でだ。
皆いる。リュイも、エルも、イルファイも。
戻ってこれた。
砦からちゃんと転移して、主神殿に戻ってこれたんだよね。
「埒の明かぬ責任のなすりつけを重んじるよりもまず、今後いかに行動するかを決めた方が建設的ではないか」
イルファイったら、またそんな挑発する発言をしてる。相変わらずな人だ。そのくせ案外迷いが多くて、たまに自分を卑下したりする。でも優しいところもある人だった。
きっと髪の毛をくしゃくしゃにかき回しつつ、言ってるに違いない。率帝とバノツェリが苦々しい顔をして、だけど口ごもってね。見なくても、そんな光景がぱっと思い浮かぶ。
「……この、ヒビキという少女が目覚めねば、行動の起こしようがないのでは」
びっくりするほど艶やかな響きを持つ男性の声が聞こえた。サザディグ王子だ。
「殿下、この娘は国をよく知らぬのです。我々が先導せねば」
バノツェリのとっても渋い声に、サザディグ王子がちょっと笑ったようだった。こんな時になんだけれど、サザディグって発音しにくいよ。ディルカみたいに短く呼んじゃえ。サザ王子でいいや。
というか、私、ベリトベッテのことも勝手に名前を短縮してベリトって呼んでる。バノツェリは、バノツェリって感じなんだよね。短くしたら変な感じ。リュイもそのままでいいかな。カウエスとクロラも発音しやすいので、そのまま。ジウヴィストは、やっぱりジウだ。
本人たちが聞けば、思い切り呆れそうなことを考えた。
「お前達から大体の話は聞いたが、私はこの少女からも聞きたい」
ごめんなさい、王子とあんまり普通に話せないかも。だって王子様だし、と私は変な理屈をこねた。
「この少女は、まず何を望むだろうか」
私は瞼を開いた。
不思議な王子様だ。すごく偉い立場の人なのに、私の意見を、聞こうと考えてくれたの?
まず何を望むのか。
それは。
――神剣。
不意にソルトの声が胸中に響き、驚いた。
今気づいたんだけれど、私の腕の中にソルトがある。どうも私はエルのお腹を枕にし、ソルトを抱きかかえながら身を丸めて眠っていたらしい。まだ皆には、私が目覚めていることがバレていないみたいだった。顔をエルの毛に埋めるようにして丸まっているためだろう。
ソルト……神剣って、いきなり何の話?
意識を王子たちの会話から、ソルトの方に切り替える。頭の中には、雪のように白い刀身を持つ琥珀の姿があった。胸がとても痛いのはなぜなんだろうとぼんやり考えた。
――主が立証した。神剣を作り出せると。
神剣を作り出す。
なんだかすごく不安になった。きっとまた、悲しみを背負うことになる気がした。
聞きたくない、と咄嗟に拒絶してしまう。
――魔術師の指摘通り。神剣の数があまりにも少なすぎる。全部でたった四本。この数で、どれだけのレイムを蘇生させられるという。
そうだけれど、でも。
実は深く考えないようにしてきた「レイムの総数」に、ずばりとソルトは触れてきた。エヴリールの人口はどれほどなのか。気の遠くなりそうな数を斬る。そんなに斬り続けていたら、気が狂うんじゃないだろうか。
――主が自在に神力を操り、魔法、魔術の類いを行使できるのであればな。そしてこの地がもう少し穢れを払えるのであれば。主の神力が不安定なのは、大地の加護があまりにも薄いためというのもあるだろう。ゆえに、今は何かしらの方法が見つかるまで耐え忍び、神剣を振るうしか術がない。わずかでも多く、地を清めよ。人の澱を払え。
なんか、なんか、ソルトが優しい!
話の内容じゃなく別のことに感激してしまった。だって皮肉な口調じゃないんだもの。
――……。主。
あ、急に声が低くなったかも。
――よいか、破廉恥娘。今は地道にレイムを斬り、蘇生させるしか術がない。だが、四本しか神剣は存在しない。その状態では、呆気なくレイムの数に飲み込まれるだろう。
ソルト、ひどい! 破廉恥娘って、私が一番嫌だと思ってる呼び方をわざわざ選んでる。
私は憤りつつも、ソルトが話してくれた内容を咀嚼した。
ソルトのいう通り、四本だけでは限度がある。夜は長い。夜通しレイムを斬るなんて不可能だ。でも神剣が少なすぎるために、誰かと交代することもできない。
そうだ、ソルト。一つ聞きたいんだけれど、私が神力をこめて祝福をすれば、その人は神剣を使えるようになる?
――主のような前例がないため、確実とはいえぬが、試す価値はある。ただし、主自身が、剣を握れるほどの神力を人に授けられるほどにまずならねばな。神剣は、ある意味において、生きた剣。従わせるだけの神力がなければ使えぬし、その者の自我を狂わせることになる。魔力では支えられぬ。ゆえに心するがいい。相応の神力を他者に注げば、主はその分、疲労する。闇雲に、誰彼にも授けようとはするな。
……そっか。そうだよね。神力って使うと、すごく疲れる。
――本当に理解しているか。主の疲労のみが問題ではない。捧げる相手を、よく吟味せよ。自我の脆弱な者、たやすく悪に導かれる者も多い。そして力に溺れる者も。人は弱き面を持つ。よくよく相手を見定めよ。そうせねば、災いを招く。
どきりとした。誰にでも簡単に捧げていいものじゃないんだ。
うん、よく考えよう。
――主はまず王都を出て、ラヴァンの地を戻したいと考えたな。
突然ソルトが話題を変えたので、私は戸惑った。
そうだけど、ラヴァンは駄目なの?
――悪くはない。風神の地。確かに、最初に清めるには良い地だろう。そう、悪くはない。ウルスに近い地でもある。
ウルス。
どうして、ウルスの地を。
私は息を殺した。まだそこには触れたくない。いつか戻って裁かれる。そのつもりだけれど、今はとても近づけない。
――ウルスへ向かえ、主。その地はレイムも少ない。
少なくて当然だ――なぜなら、私があの地の人々を殺した。
行きたくない! そこにはまだ行けない。
――嘆きとともに、神剣を作り出せ。
私は身を強張らせた。ウルスで神剣を作り出すという、その意味。
今はまだ、考えたくなかった。
考えさせないで、と必死な思いでソルトに懇願した。
ソルトは溜息のような気配を残したあと、私の願い通りに沈黙してくれた。
結論を先延ばしにしてでも、知りたくはなかった。