F2:15
ソルトに心の中で謝った。
少しの間のあと「主は謝罪しすぎる」と歯痒いような声音で言われてしまった。どういう意味だろう。うまく説明できないけれど、一瞬身が強張るくらいどきりとしてしまう。謝罪する姿が卑屈だという意味だろうか。それとも誰かに悪影響を与えてしまうほど気弱に映るということなんだろうか。
生じた焦りに気づかないふりをしようというぬるい考えを咄嗟に巡らせ、耳を塞ぐようにして逃げかけた直後、不可思議な圧迫感を覚えて顔がわずかに歪んだ。指摘の言葉から逃れようとする自分を引き止めたのは何だろう。思いかけずも心の深い位置に息づいていた、幻のように朧げでか弱い意思の正体は。底まで見通せるほど澄んだ清水のように凛と透徹した意思ではない。おそらくそれは先ほど表面上だけで判断した卑屈という名の、一見弱々しい仮面で巧みに隠された、とても冷たく利己的な理性だ。
行動だけでは飽き足らず、思考もまた怜悧な一途さで逃げを選んでいる。謝罪による安易で軽率な回避だ。ソルトはこの隠された醜い部分を言葉のつるはしでえぐり出した。思い至って、尚更身が固くなる。一体誰に、何を、どういう理由で許しを求めているのか、自分で正しく理解していないというのに逃れる術がほしくなっている。謝罪後に確実に生まれる安堵と開放感の快さが、正気を取り戻すきっかけを作るはずの罪悪感を押し潰す。
なぜ、と頭を掻きむしりたくなる。地中へ潜るかのように深く考えて、考え通して、そこから得た答えはどれも自分を切り裂く否定的な真実ばかりだ。誰かに言われるまでもなく真っ先にこんな自分に落胆し、見捨ててしまいたくなる。
でも現実として、身体的にも協力してくれ尚かつ助言も与えてくれるソルトにまでがっかりされたり見放されたらどうすればいいのか分からない。とめる方法もなく溢れ出る悩みとはまた別の問題だ。この国の人達が私を信じられないように、私も皆を信頼できなくなりつつある。
ううん、信頼できるかどうかの問題じゃなく、きっとこれまでの経験によってよくも悪くも多彩な色を持つ判断材料がたくさん目の前に積み上げられため、一つ一つを確かめると同時に少しずつ恐れが芽生えたんだと思う。レイムや魔物に向けるような、分かりやすい恐怖とはまた違う。危害を与えられるかもしれない、そういった類いの恐れではなく、何をしても結局は線を引かれて疎外されるんじゃないかという不安で気持ちが萎縮しているんだろう。言葉はちゃんと通じるのにいつまでも心は繋がらなくて、一人途方に暮れてしまっている状態だ。
寂しい、と意識しないまま胸中に弱い思いを広げてしまい、また身体が強張った。ソルトを抱きかかえる腕に力を込め、一層身を丸める。
一体どうすれば、百年経っても瑞々しい緑の葉を広げる樹木のように強く毅然としていられるんだろう。様々なことを知れば知るほど自分の悪い点が浮き彫りになり、失敗だけを繰り返してしまっている。
うっとりと微笑み手足を自然に伸ばしたくなるような、そういう優しい気持ちってどんな感じだっただろうか。このままじゃいつまでも苦悩の中から這い出せないため、あたたかく安らぎを感じられるようなことを懸命に考えてみる。けれど私が考えられる喜びや優しさなんて、たかが知れていた。想像力が豊かな方じゃないので、どうしたって実際に体験した過去の出来事に目を向けることになる。美味しいものを目一杯食べたこととか、クリスマスや誕生日に友達と騒いだこととか。なんて地味でささやかな幸せ。ああリップぬりたい。そうだ、バッグの中にリップが入っているはずだ。この世界に来てから一度も使っていない。
幸せなこと、あとは何があったかな。
どれも片手に軽く乗せられる小箱にしまえそうなほどありふれた出来事や願望なのに、まるで夢物語のように遠い感覚に変わっていた。不思議だなと思う。幸せなことがなぜこんなにも胸を刺し、喉をからからにさせるんだろう。
この国の全員を連れて景色のいい場所へ遊びに行きたいな。そうしたら皆眉間の皺を消して笑顔になるんじゃないかと思えた。青空の下で穏やかな風に吹かれながら皆で「いい眺めだね」って喜び、甘くさえ感じる草の匂いや雲間から差し込む透き通った光を身体の芯までしみ込ませたい。何でもいい、ごく日常的な、稚いほどの単純な幸せを全部分かち合えたらきっとどんなに。
ソルト、私、寒い。
身を必死に丸めても自分の身体に熱を感じられなかった。指先も冷たく、まるで氷の上に丸裸で放り出されたかのような拠り所のない感覚だけが存在する。すごく寒い。
主、と気遣わしげなソルトの声が心に響いた。そのすぐあとを追うようにして『ひびき』と悲しげな声も降ってきた。
今の、エル?
ゆっくりと視線を動かした時、エルが応えるようにきゅんっと鳴いた。遮断していた外の世界が荒波のような勢いで戻ってくる。
「エル」
私は声を出し、驚いた。自分の声がすごくひびわれていて雑音のようだった。
きゅうきゅうとエルが必死な様子で忙しなく鳴き、長い尾を揺らした。どうやら身を起こしたいらしかったけれど、私がお腹部分を枕にしているため動けないようで、そわそわとした気配を強く滲ませている。お腹の毛がいつも以上にふくふくと上下してるよ、エル。
そろそろ現実を受け入れようと思ったけれど身体を起こせない。全身の骨を抜かれてしまったみたいにぐにゃぐにゃだ。困って顔の角度だけを何とか変えた時、すぐ近くに座っていたらしいリュイと目が合った。リュイが驚いた表情を浮かべて咄嗟のように手を伸ばしてきた。
リュイの動作で私が起きていることに気づいた他の人達も、ざわざわとし始めた。
リュイは何も言わず、ただそっと私の顔を撫でた。身体を起こしたいのに腕さえ持ち上げられなくて焦りを抱く。身を丸めるとか、然程負担とならない動作だったら平気なんだけれど大きく動かすのが駄目らしく、無理矢理腕を上げようとすると途端に悪寒が走ってしまうようだ。
――主は限度を超えて動きすぎた。肉体の治癒が優先されているために消費された神力がまだ戻っていない。
これまでの疲れが一気にきた状態に近いのかな。ソルトの説明に、内心で頷いた。
「響様、私の声は聞こえますか」
バノツェリと口論していた率帝も近くに寄ってきて身を屈め、心配そうな顔を見せた。
うん、と肯定する私を見て、いくらか表情を緩める。
「動けますか」
ごめん、それはもうちょっと休まないと駄目かも。後ろめたさを感じつつも今度は、ううん、と反対の返事をした。すると再び率帝の表情が曇ってしまう。不謹慎だけれど、率帝は憂い顔も綺麗だ。
本人には絶対言えないようなことを考えている時、遠慮がちな態度でクロラが率帝に近づいた。手には徳利みたいな形のぽっこりした瓶を持っている。
「水を」
率帝がクロラから徳利みたいな瓶を受け取ってこっちを見たけれど、私は困った視線しか返せなかった。身を起こせないし、今は何もほしくない。身体が寒いので冷たい水は飲みたくなかったというのが本音だ。
どう返事すればいいのか迷っていると、リュイがふっと静かに動き、私の身体の下……首の付け根あたりと膝裏に手を差し入れ、慎重な仕草で持ち上げた。
「リュイ?」
今の私、本当に骨なし状態なので焦ってしまった。首が仰け反りそうになっている。
どこへ運ばれるのかとびっくりしていたんだけれど、リュイは私を抱き上げたあとすぐにそっと座り込んだ。私は目を丸くしてしまった。これってリュイに抱き込まれている状態じゃないだろうか。
神殿か砦の方で衣類を調達したらしく、リュイは別の服に着替えていた。ぐにゃっとしている私の身を少し横向きにして自分の胸に寄りかからせたあと、マントみたいな長い外套の前を開き、すっぽりと包み込む。
ぐにゃぐにゃ状態な身体とは裏腹に心は驚きで硬直していた。ええと、リュイ。
あたたかいし楽な体勢だとはいえ緊張するというか、どきまぎするというか。リュイに両腕で抱えられ尚かつその上から覆うようにして外套に包まれているため、私自身は顔の上半分だけなんとか出せている感じだ。ちなみに私が抱えていたソルトは、抱き込まれる前にすぐ側の床に置かれてしまった。白い刀身を持つ琥珀も同じようにして並べられていた。
リュイ、あの、皆の視線が集まっているような気がするよ。
動揺しつつ目を動かしてリュイの顔を見上げると、以前の時を再現したようなすごく辛そうな眼差しとぶつかってしまった。でもその月色の目は潤んでいるんじゃなく、どこか乾いているような印象だった。私は少し身を震わせた。この世界に広がっている枯渇した大地を連想してしまったせいだ。まるで荒廃しているような目だった。
きっと前よりもリュイは傷ついているんじゃないかと気づき、おろおろしてしまった。
腕を持ち上げることはできなかったけれど今の体勢を取らされた時、手の位置がちょうどリュイのお腹近くにだらんと垂れ下がる感じになっていたので指先だけ力を入れて彼の衣服を掴んでみた。かすかな合図に気づいたらしいリュイの身体が一瞬びくりと反応した。必死に顔を歪めるのを堪えているような表情をされた。日が暮れて足元に落ちる影がより濃く、長くなるように、私のおろおろ加減も誤摩化せないほどはっきりと強くなる。
リュイ、とそう呼びかけようとした時だった。
きゅんっと切ない鳴き声を一度響かせたエルが、口を開きかけた私の顔に鼻先をどすっと押し付けてきて擦り寄る仕草を見せた。ううん、擦り寄るというか、痛た、エル、嬉しいし可愛いんだけれど口回りの短いヒゲが頬にちくちくと!
一生懸命な感じで顔も舐めてくる。あぁ私の顔、洗顔状態かも。うわ待って、それ舐めるというよりもう齧るに近いから。困るような、やっぱり嬉しいような気持ちだ。エルが心の中で何度も私の名前を呼んでいるのが伝わって、ふわりと心に温もりが広がった。
「聖獣、響が呼吸できなくなるぞ」
と呆れた声が聞こえた。イルファイだ。
人の言葉がわかるらしいエルが、イルファイの台詞にびっくりしたらしく、身体がまん丸に見えるくらい毛を膨らませて少し離れた。可愛いなあエル。
率帝がちょっとエルを警戒しながらも、ハンカチに似た薄い布で私の顔を優しく拭ってくれた。かなり気恥ずかしい。
と、照れていたら、今度はクロラが目の前に膝を落として、おちょこみたいな可愛い杯に水を注ぎ、私の口元に運んでくれた。ど、どうしよう、なんか皆に看病されているというか、すごく気遣ってもらっている。今、水はあまり飲みたくないんだけれど、絶対断れない状況かも。
「ああ、待て。身体が冷えているのだろう」
イルファイが髪の毛をがりがりとかき回したあと、クロラをとめて杯に手を近づけた。ごく短い呪文を紡いでいる。
その後、一口飲ませてもらった水は冷たくなかった。どうやら魔術であたためてくれたみたいだった。普通の水とは違って少し苦みがある反面、喉を通ったあとはスッとする。薬湯みたいなものかな。
更にその後、微妙に渋い顔をしたバノツェリが毛布を一枚持ってきて、リュイごとといっていいのか、外套にすっぽり包まれている私の上にそれをかけてくれた。瞬きして見上げたら実に不機嫌そうな表情をされたけれど。
うわぁ本当にどうしよう。もしかして重病人だと思われているのかもしれない。
すぐに動けるようになるから! という意味をこめて次にリュイを見上げると、怯みそうになるくらいの勢いでじいっと凝視されてしまった。毛布と外套の下、私の身体を抱きかかえている腕が密やかに動く。だらりと垂れ下がっている私の指に、あたたかい手が触れた。包み込むようにきゅっと手を握られる。剣を持つ人特有の固い指だ。毛布効果と二人分の体温で、すぐに汗ばみそうになっている。
正直、以前みたいにエルと三人だけで旅している時ならそれほど気恥ずかしくなかった。今は皆の視線があるため、途方もなく甘やかされているようなこの状況に本気で狼狽えてしまう。
「響様、申し訳ありませんでした」
バレないよう気をつけつつ大きく葛藤していた時、辛そうな感情を乗せた率帝の声が聞こえた。
えっと、何だろう。
「軽率でした。現状を甘く考えすぎていた。……いえ、私自身に焦りがあった。まずは動くべきと考えていましたが、それよりも先におそらくは配慮が必要だったのですね」
率帝の言う配慮って、ばらばらになっている皆の心のことだろうか。
「己の立場を定めようとして頑なになっていたようです。そしてやはり大きな恐れに追われてもいた。秩序なき行動が招くなにがしかの事態から目を背け、論もなくただ突き進むような愚を犯しました。結果として犠牲を出し、あなたの力を激しく削ることになってしまった」
お許しを、と率帝が深く頭を下げた。
私はぎょっとし、無意識に誰かのフォローを求めて視線をさまよわせた。そもそもは私が頼りにならなかったせいだし途中で責任を放棄するような真似をしてしまったのだから、率帝が謝罪することじゃない。
ディルカにすごく睨まれそうだ、と戦々恐々としつつ反応をうかがう。
あれ、と別の意味で狼狽してしまった。ディルカも結構近くにいたんだけれど、ただ視線を落としているだけだった。
「あなたは私達の判断に殆ど反論しなかった。けれども我らの判断が招く過ちはあなたが償った。――なぜこの国が滅びに傾いたのか思い知ったような気がします」
そんな待って、と私は慌てた。あまり反論しなかったのはこの国についてよく分からなかったためだし、色々悪い方に考えて不貞腐れていたし、何より皆に嫌われたくなかっただけだもの。どうしよう、話がより深刻な方に向かっている気がする。
「あの、率帝」
私の声ってば、どうしてこんなに聞き取りにくくなっているの!
――神力がない状態だと説明しただろうに、もう忘れたか。本来主は異界の存在なのだぞ。
というソルトの説明、分かったような分からないような。
つまり神力の援護が少ないから、異世界語翻訳機能が苦心しているとかかな。
――主の言葉は神の旋律として響く。大気の異なる世界ゆえ、声も神力に守られている。
ごめん、あんまりよく理解できなかったけど、とにかく全体的に力不足で声が聞き取りにくくなっているんだよね。
私の理解力のなさにがっくりしたらしいソルトが、それきり沈黙した。うう、頭悪いと思われてる。
「治癒の術を幾度か施したのですが、あなたの疲労は深かった」
と、率帝がぽつりと告げた。さっきのリュイみたいにじいっと見られてしまう。
しまった、今ちょっとの間、ソルトとの会話に気を取られていた。
「呼気がひどく弱かった。有であるもの、無限にあらず。私はその理を忘れていたようです」
ううん、率帝の話もなにげに難しい。
「私、平気。少ししたら、動ける」
どう言っていいか分からず、たどたどしく子供っぽい返事をしてしまった。なんかもう、知性の差が辛いかも。
あぁ何だか痛ましい目で見られてる。ソルトに恰好いい言葉遣い、あとで教えてもらいたい。
「眠りについている間、全く娘らしからぬ不気味な顔をしていたぞ。こう、このような」
と、イルファイが自分の眉間にわざと深い皺を寄せ、ぎゅうっと唇をへの字にして、私がいかに変な顔をして寝ていたか再現してくれた。……嬉しくない、優しくない!
「イルファイ殿!」
率帝が、キッと振り向き、私の顔真似をしてほくそ笑んでいたイルファイを睨んだ。
駄目だよ、エル、イルファイに噛みつこうとしたら。というか、リュイもバノツェリもそんな睨まずに。騎士の何人かも半眼でイルファイを見据えている。
あれ、でも。
なんだか、なんだか。
不意に鼻の奥がつんとした。胸が締め付けられるような感覚は、悲しいとか辛いという気持ちのせいじゃなかった。
少しだけ、打ち解けられている気がした。
「率帝、まずは謝罪ではなかろう」
と、イルファイが、唸るエルに怯えつつもつらりと告げた。
「何を」
「それではまた我の押しつけだ。そうではなくな、娘の目覚めなのだから別の方法があるだろうに」
たぶんイルファイは暗い雰囲気を払拭しようとしてわざと軽口を叩いているんだろう。こういう明日の見えない厳しい状況だから特に。
「私ならば、よく戻ってきたとねぎらうがね」
あっそうだった。イルファイの制止を振り切って砦の方に向かったんだった。イルファイ、ごめんね。
「だが、年の近い率帝ならば、また違おうな」
驚いた表情を浮かべている率帝に、イルファイは更に言葉を続けた。イルファイって、もしかして率帝をからかうのに命をかけているんじゃ。真面目な弟を翻弄するお兄さんみたいな感じだ。
「甘く微笑でも見せて娘をなごませてやればいいものを、真っ先にしかめ面とは気が利かぬ」
率帝がぎょっとし、次いでぱあっと顔を赤らめた。率帝ってリュイよりも真面目っぽい。
「このような時に、戯れを」
「人は笑みを知る種だ。また、笑みに意味を見出そうとする種だ。笑みは安らぎをもたらす。なぜかといえば、笑い顔を作るには不屈の力が必要なのだ。その力を、見る者は心で受け止める」
イルファイは真面目に答えた。不思議とその言葉は、すとんと胸に落ちた。
「よく戻った、娘」
イルファイが無造作にごりごりと私の頭を撫でた。
他の人達は唖然としたけれど、イルファイが見せた邪気のない笑顔に、私は嬉しくなった。
本当だ、笑顔ってきっと力がある。
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今更なんだけれど、室内の様子を詳しく観察することにした。
ここはたぶん主神殿の隠し部屋なんだろう。なんだかあたたかい匂いのする部屋だ。率帝の説明によると部屋の壁に清浄効果を持つ樹液を塗布しているため、安らぎをもたらす香りがするのだとか。
人の数が前よりも増え密度が上がったはずだけれど、室内は手狭さを感じさせず結構広々としている。それに扉を隔てたもう一室も利用できるみたいだった。そっちも同程度の広さがあるとのことで、睡眠や休憩を取る時に使っているようだ。どちらの部屋もテーブルや長椅子などを含む大型の調度類は全部壁際に移動させたらしい。色々な道具を並べた棚もある。あと、自分達が持ち込んだ荷物も壁際に置いていた。色々な法具も発見したくさん運び込んだらしいから結界を長く保つこともできる。三日くらいは余裕のようだ。
なぜ三日とあえて日数を出したかといえば、原因はもろに私だった。動けるようになるまで数日は必要だとイルファイ達にきつく言われてしまったんだ。だから、それまではこの部屋で全員待機となった。勿論、中にはあまりいい顔をしない人もいたけれど表立っての反発はなかった。
それにしても今の私、すごい待遇……というか体勢というか、うう。リュイに抱きかかえられた状態で毛布に包まり、更に周囲をエルが寝そべって取り囲んでいる、という状態が継続中だ。今気づいたんだけれどエルってばいつの間にか、リュイを認めている。以前はリュイが私に触れるとすごく警戒していたのに、今はそれほどでもなくなっているんじゃないかな。
リュイって体温高いなあ、とつい変な方向に思考を巡らせてしまった。男の人は皆そうなんだろうか。話がずれるけれど、三春叔父さんも体温が高くて暑がりだった。叔父さんは「情熱家だから身体も熱いんだ」なんて冗談を言っていた。男の人は情熱家が多いのかなあ。
ふうっと意識を集中させると、リュイの鼓動が身体に伝わった。少し心臓の音が速い気がする。何か心配事があるのかな。
正直、エルとリュイの側が一番安心できる。ずっとこのまま守られていたいような気分が生まれる。今よりもっと情けない自分の姿をエルたちは知っているからその分取り繕う必要がなく、他の人達と接する時よりも楽なんだと思う。
こそりと視線を動かして、他の人達の様子をうかがった。
どうも今はお昼あたりらしい。女性陣が食事の用意を始めている。騎士達は武器の手入れをしていて、率使は法具を確認していた。やっぱり以前の時のようにいくつかのグループで固まっている状態だった。
「響、眠った方が」
近くにいるイルファイたちには聞こえないような、ごく小さな声でリュイがそう言った。
身体はすごく怠いんだけれど、もう完全に眠気はなくなっている。大丈夫と答えようとしたら、リュイはずっと繋いでいた指を外して、壊れ物を扱うかのような繊細な手つきで私の頬を包んだ。
「まだ顔色が悪い」
そう囁いて頬を包んでいた手を少しずらし、人差し指と中指を私の唇に乗せた。私は内心であたふたとした。だって私の唇ってば今、無惨なくらい乾いていてかさかさだと思うし! よく考えれば寝起きのすっごい顔、リュイに思いきり見られている。
自分の顔がじわじわと赤くなっていくのが分かった。恥ずかしさと焦りと憂鬱、色々な感情が混ざり合っている。
あぁもう、今速攻でリップを使いたい! エル、お願い私のバッグを取って、と本気で頼もうとした時だった。
ふとリュイが視線を落とし、床に置いてある薬湯の入った杯を見つめてしばし考え込むような顔をした。いつでも飲めるようにって、率帝がそこに置いてくれたものだ。
視線が外れたので安堵したんだけれど、すぐにまた大きく動揺する羽目になった。
リュイが自分の指を薬湯で濡らしている。何をするんだろうと思った瞬間、その濡れた指が私の唇に置かれた。
一瞬目を点にしたあと、うわぁと内心で悲鳴を上げてしまう。多分、唇が乾いてぱりぱりに見えたから湿らせてあげようと考えてくれたんだろうけど、もう本当にいたたまれないというか、頭に血がのぼる。
私は呻きそうになるのを必死に堪えた。リュイは真剣な顔のまま、まずは下唇の端から中央へ、形にそってゆっくりと指を滑らせた。少し硬い感触の指は刺激を与えないようにとの配慮だろうか、唇の膨らみを押し潰すのではなく表面を慎重に優しく撫でる動きをしていた。確かに刺激や痛みは全然ないけれど、その代わり、触られた所からひりひりと熱をもっていくような気がした。呼吸もまともにできないし、目も閉じられない。
リュイは過保護すぎる、と心の中で叫んでしまった。お願いだからこの必死な表情に気づいてほしい。
羞恥が募りに募って、小さく声を上げてしまった。そこでようやくリュイが驚いたような顔を見せ、硬直した。数秒見つめ合い、お互いに狼狽する感じになった。
「そ、そんなに荒れてる?」
私は無理矢理声を出した。何も言わずにいる方が、より恥ずかしさを意識してしまう気がしたためだ。
唇が荒れているかとたずねたんだけれど、声の調子もまだ随分ひび割れていた。妙に低くなっていて、男の人の声みたいだ。
「眠りについている時、あなたはずっと苦しげに唇を噛み締めていた。声を漏らさぬようにしていたのでしょう」
と、説明されたけれど自分では分からなかった。
「唇が切れている箇所が」
そうなの? 特に痛みは感じない。身体の感覚が今鈍くなっているせいかもしれなかった。
ちょっと反応に困り、もう一度リュイを見上げると、自分の方が痛みを感じているような、陰りある目とぶつかった。またそっと私の頬に手を置き、親指を軽く唇の方へとずらしてくる。顔に触れる手は、大きくてあたたかい。
うう、今更だけれど、すごい至近距離だ。エヴリールの人って他者に触れる行為とかにあまり抵抗がないのかな。
「響」
「う、うん」
不自然なほど瞬きを繰り返してしまう私のこめかみの上あたりに、リュイが唇を近づけた。
「どうすれば、いいのか」