F2:19
怒濤の質問攻撃をやめたあと、私は胡座をかき背を丸めて太腿の上に肘を乗せ、そこで頬杖をつくといった行儀の悪いポーズを取りながら、自分専用に作成したメモ帳の地図を目の前に置き、床に広げている地図と何度も見比べた。
こんな体勢を取ったためか、隣で片膝を立てて座っていたリュイと、地図を挟んで斜め右側にいたバノツェリが少し咎めるような視線を同時に向けてきた。うう、視線が痛いけれど、このポーズ、楽なんだもの。
エルがいそいそと側に寄り添い、身を丸めたあと、私の太腿にぴたんと鼻先を押しつけて見上げてきた。この仕草は可愛いな。猫とか犬くらいの大きさなら膝に乗せてあげるんだけれどなあ、とほのぼのした気持ちになりエルの鼻の上を撫でていたら、バノツェリたちに更に強い視線を向けられてしまった。その体勢は娘としていかがなものか、というお咎めをたっぷり含んだ彼らの心の声が聞こえたような気がした。
「そうか、やっぱり地区によって出現する魔物たちの種類が違うんだね」
さりげなく二人の視線を無視しながら、独白した。
皆の記憶を頼りに重要な事柄を地図に細かく書き込んだんだけれど、その結果の一つとして、騎士ではない人でも倒せるような小魔しか出現しない地域もあれば、王都のように様々な力量の魔がさまよう場所も存在するという事実が浮かび上がった。こうなるといささか厄介だ。情報が全て出揃っていないため、各地区における魔の出没基準がどうなっているのか現時点では判断しかねる。土地が宿す加護の強さが関係しているのか、単純に環境の具合……たとえば豊かな自然が溢れているとか、実りをもたらす田園の類いが多いとかが直接の原因となっているのだろうか。
頬杖をついていない方の手で持っていたペンをくるりくるりと回したり、頭部分をかりかり齧って考えに没頭していた時、こほんと咳払いが聞こえた。何だろうと不思議に思って手をとめ視線をあげると、渋い顔をしたバノツェリに軽く睨まれた。もしかして、ペンを齧るなんてはしたないと無言で注意されたんだろうか。ペンを齧るのは無意識の癖だったりする。バノツェリって結構躾や礼儀に厳しいのかも、と内心で小さくこぼしつつ肩をすぼめた。戦々恐々と視線を巡らせれば、率帝やサザ王子までもがなんとも言えない顔でこっちを見ている。……ガレ国の女性って、書き物をしている途中で思索に耽る時ペンの頭部分をつい齧ったりしてしまう癖とかないのかな。ちなみにエルは私の動作を真似しているのか、かりかりと琥珀の柄の飾り部分を噛んでいた。ねえエル、あどけない目をして誤摩化そうとしているけれど、実は琥珀に対する密かな嫌がらせなんじゃ。駄目だよ、琥珀を食べたら。
「まずはラヴァンを手始めに正したいと言っていたな」
イルファイがいつものごとくわさわさと自分の髪を乱し、私のメモ帳に興味津々といった目を向けながら聞いてきた。
「うん」
「ラヴァンは本来ならば千五百以上の民が暮らしているのだが、町の性質上、近辺の住民の出入りが激しいからな。ただ、レイムと化す前に死した者も多数いる。それを踏まえた上で概算すれば、五百前後となるか。――無謀ではないか? レイムの総数に対して神剣の数はあまりにも少ない。たとえば騎士や我らの術で、ある程度レイムの動きを封じたとしても、最終的に蘇生を果たすには神剣の力が必要なのだろう。殿下とお前のみしか使えない現況下で、五百以上を斬るというのか」
深く考えなくても不可能に近い。というのも私の剣技はソルトの力を借りているだけで、肝心の基礎体力はこちらの騎士たちと比較した場合およそゼロに等しい。勿論、なんとしてでもやり遂げたいと急く気持ちだけなら有り余ると断言したいくらいにすごくある。けれどもこういう感情面の話ではなく現実を直視した時、いくらソルトの力で補ってもらってもこの体力のなさはどうしたってすぐに改善できないし奇跡的な飛躍もありえないため、必ず途中で息があがりへばってしまうだろう。
イルファイの冷静な指摘に言葉を返せず項垂れた。私ったら足を引っ張り過ぎだ。
「ラヴァンではなく周辺の村をまず一つ、正すというのは? 小規模の村であれば人口も少ないでしょう。百未満の集落もあるはず」
率帝が地図を眺めながら意見を挟んだ。
「確かにラヴァンと比べれば危機も減るだろう。だが今度は、そういった村であれば設備が整っていない、という点が問題になってくる。ラヴァンの粛清にこだわるのは、地の加護と神力の強度のためだな?」
イルファイがこっちに視線を向けて確認するように言った。私は深く頷いた。うん、シールだけじゃなくてあとで色々と他のものもあげるね、という全く別の思惑も含めつつだ。
「一気に村や町を正すことのみに固執するのはどうなのか。移動を繰り返しながらでも少しずつ人員を増やしていくという方法では立ち行かぬのか」
バノツェリが人々を見回しながら異見を差し込んだ。
「いや、今の状態では延々と行軍を続けるというのも厳しいだろう。予期せぬ事態が起きた場合、その後の行動を統制できず散り散りになる危険性がある。だが一つ安定した地を確保していれば、不測の状況下での避難所となり皆の心構えもおのずと変わってくる。また、レイムは土地に執着するという傾向があるのだろう。それは裏を返せば、レイムの移動範囲はある程度限定されているという意味にも取れる。ならば、その地一つ正せば随分と危険が減る」
「確かに。それにくわえて、現在のように結界を四六時中構築せずにすみますね」
地図から顔を上げた率帝が虚空に視線を投げて想像した光景を眺めているような素振りを見せ、慎重な響きがこめられた声音でイルファイの言葉に賛同を示した。バノツェリは少しあご髭を撫でたあと、二人に視線を向けた。
「仮に一つの地を正せたとしても、昼夜魔物の襲撃を警戒する必要があるだろう。人が活動していると分かれば、飢えた獣や魔物が他方から集まってくるのではないか」
「そこで問題になるのが、正した村の設備だな。また、地によっては結界の強度にも差が生じるだろう。構築しやすいのはやはり加護を得ている地、神殿がある地だ」
「そうですね。魔法は魔力のみならず大地の力も必要とします。地中に眠る大地の生命力には濃度が存在する。更に穢れの多い地では構築が難しい」
次第に錯綜していく彼らの話を聞きながら、私もぽつぽつと考えてみた。この場所からの移動方法も充分に考慮しなきゃならない。バノツェリが案じた通り、日中でも魔物が不意に出現するためだ。それを思えば、全員を引き連れて王都を練り歩くのはやはり無謀といわざるをえない。ならば移動時間を短縮する意味でも可能な限り転移を利用した方が今のところはベストであり、唯一の選択といえるのではないだろうか。そう、何せこの国は面積が広すぎだ。その上、電車やバスなどの便利な交通手段がない。
あと、ラヴァンの浄化を特に重要視した理由は――レイムの状態から人に戻った時、戦い慣れした人がいるんじゃないかと考えたためだ。確かリュイは、ラヴァンには護舎が建築されていると言っていた。つまり、武器の扱い方を知る兵や騎士が常時駐在していたということになる。
嫌な言い方をあえてすれば、小さな村だと人々を複数蘇生させたとしても、すぐに剣や槍を取って魔物と戦える者は少ないんじゃないだろうか。今でさえ余裕のない状態だ、これはちょっと厳しい。
けれどイルファイの指摘は正しく、たった数本の神剣ではラヴァンに数多く存在するレイムの全てを蘇生させることなどとても不可能だ。拠点を持たずに移動しながら地道に人員を増加させていくという方法も危険が多く、小さな集落を攻略しても設備の面で不安が大きい。これって本当、進退窮まる困難な状況じゃないだろうか。動きようがないっていうか、どの道を選択しても相当の危険や被害を覚悟しなきゃいけないっていう絶望的な未来が見える。
「村の設備や人員数も問題だろうが、それとは別の視点で動くというのは――…」
イルファイたちがあれこれと意見を交換して、並べられた案を吟味している時だった。わずかに身をずらしたサザ王子が私に顔を向け、考え込むような表情を浮かべながら口を開いた。
「神剣について聞きたいのだが。お前が天界より持ち込んだものが一本、そして王家と砦にて保管していたのがそれぞれ一本。では、その真白の剣は一体どこから持ってきたのか」
サザ王子の視線が一度、エルが密かに前足でつついている琥珀の方へと移った。そういえばソルトはずっと沈黙している。どうやら、琥珀の方に向いているエルの意識を刺激しないよう沈黙を守っているみたいだった。エル、そんなに琥珀をいじめちゃ駄目。
「……分からないんです。気がつけばこの剣が手元にあった」
「眷属たるお前が作り出したと解釈していいのか」
私の曖昧な返答に、釈然としない様子を見せながらサザ王子がもう一度質問をぶつけてきた。明確な答えを求めているんだろうと気づいたけれど、琥珀に関しては説明のしようがなかった。……琥珀がどうやって作られたものであるのか、その点だけはうっすらと分かっている状態だ。
神剣の生まれ方を今この場で口にする気にはなれない。明らかなくらい感情的なところから芽生えた頑な拒絶が全身に満ちていて、冷静な思考を全部潰していく。いいじゃないか、琥珀は琥珀としてここに存在するのだから、と無造作に強く言い切りたいほどだった。
「ごめんなさい、琥珀についてはいずれ説明します」
サザ王子がしばし口を噤み、緊張で身体を硬くする私を探るようにじっと見つめた。リュイの心配そうな視線を感じたけれど、そっちに顔を向けて表情を取り繕うことはできなかった。
突然サザ王子が立ち上がった。今後の行動についてを相談していたイルファイたちが一斉に口を閉じ、何事かという怪訝な目をしてサザ王子を見上げる。
「ヒビキといったね。少し二人で話をしたい」
「え?」
私はぽかんとした。サザ王子が軽く片手をあげ、側にいた皆に「離れろ」というふうに合図する。
この中で一番偉いのはサザ王子なためか、皆戸惑いをあらわにしながらも身を起こし、すぐにその命令に従ってもう一室の方へと移動した。でもリュイとエルは動かずに私の様子をうかがっていた。
「月迦将軍、お前も」
皆の動きを見ていたサザ王子があまり抑揚のない声で催促した。リュイはわずかに頭を下げて視線を外したけれど、表情を硬くしたまま動かない。
「彼女に危害を与えるようなことはしない」
えっ、と驚いてしまった。私の身を心配してこの場にとどまってくれていたの?
移動しようとしないリュイを見てサザ王子が小さく吐息を落とし、私の方に視線を投げた。
しばらくおろおろとしたあと、もしかして、と一つの仮定を抱く。
リュイは私に仕えるみたいなことを言っていた。その言葉を遂行するために私の命令以外は聞かず、側を離れようとしないのだろうか。
「リュイ?」
まさかと思いながらも小さく呼びかけてみると、リュイがふっと顔を上げた。返答のかわりなのか、ゆっくりと瞬きを見せる。
今抱いた仮定は正しかったと驚愕の中で悟った。
どうしよう。リュイに何て言えばいいのだろうか。ここで「離れて」と口にするのは命令したも同然の意味を持つため、暗に自分が主人であると認めたことになり、この先リュイに対する皆の……特に王家関係の人や騎士たちの心証は間違いなく悪化する。かといって同席を黙認すれば、王子様であるサザ王子の面目を潰すことになりかねない。
内心でひとしきり悩んだあと、リュイの指をそっと掴んだ。
「リュイ、ここにいる?」
義務や責任感からではなくて自分の意志でここにいたいと望むのか、とたずねたつもりだった。
「王家の血を受け継ぐ者として、彼女と話がしたい。下がれ」
リュイが答える前に、王子が溜息まじりに再度命じた。今度はわずかに威をうかがわせる強めの口調だった。いくら私に仕えると言ってもリュイはまだ王家に対する忠誠心を残している状態だと思うので、王子の厳然たる命令には逆らい難い部分があるんじゃないだろうか。私に対する気遣いと王子への忠義の間に挟まれてきっと苦悩するに違いない。
私は「大丈夫」の意味をこめて、押し黙っているリュイに笑いかけた。
「サザ王子とお話するね」
命令しているんじゃないってことを匂わせるために、気軽な口調を心がけた。
リュイは何か言いたそうな顔をしたあと、ようやく身を起こし、サザ王子の命令に従った。
エルは素知らぬ振りをして私の側に座ったままだ。聖獣であるエルに関しては扱いを決めかねているらしく、とりあえずのところは黙認するつもりらしい。
リュイが奥の部屋に消えたのを見届けたあと、サザ王子と一対一で向かい合った。一体何の話をするつもりなんだろう、と大きな不安を抱く。
この不安を正面から見据えなければならないけれど、どんな形をしているのか知ってしまうのは苦痛に思えた。自分に対する疑惑、恐れ、不信、憎しみ、失望、どれをとっても確実に歩む意欲を打ちのめす辛い形をしており、想像するだけで胸がぎゅうっと痛み身体が凍り付く。無邪気な子供のように腕を伸ばして、何かを語るサザ王子の口を塞いでしまえたら、あるいは自分の耳を塞いでしまえたらどんなに気持ちが楽になるだろうか。でもそんな真似をしたって何も変わらないし、自分の評価を覆すための最初の認識となるだろう大事なきっかけを自ら遠ざけるようなものだった。
いつだって迷ってしまう。どうすればいいんだろうと考えるかたわらで、誰かが先にアクションを起こしてくれるのを密かに心待ちにしているんだろう。
やっぱり私は純粋じゃない。知る喜びを求める子供のように、なぜ、どうして、と疑問に思う事がたくさん生まれ胸の中でひっきりなしに飛び交っているけれど、それはどれも、何か不都合な事態を招いてしまった時先回りをして言い訳を作っておくための狡い下心から湧いてくるものだ。
「まず本心を伝えておく。だが己の考えを伝えるのは、軋轢や不和をいたずらに生みたいのではなく、私達を蘇生させたという行為に対する誠意である旨を分かってほしい」
硬質な口調で伝えられた前置きに、私は了承の意味をこめて頷き、居住まいを正した。正座をすると、なんとなく背筋がぴんと伸びるような気がする。
「幽鬼と化した人々を蘇生させたこと、また、大いなる神力を宿すこと、この国のものではない神剣を所持していること、そして聖獣を僕としていること、これらは確かに真実であり、疑いの余地はない。けれども」
王子の不思議に奇麗な色をした目が一切の感情を排除し、私の姿を鏡のように映した。
「失われた神の眷属であること、その点は未だ認めがたい。先にあげた幾つかの真実を見ても尚、信じがたい」
実際に目を瞑りはしなかったけれど、もし心に瞼があったとしたら、きつく閉じてしまっていただろう。あぁやっぱり。
「理由なく信じぬと言っているのではない。容姿に関しては――もし神の眷属であるというのが真実であれば、とりたたてこだわるべき点ではないだろうと考えている。では何が影を落とすのかと言えば、お前が見せる落差がまず一つ」
「落差……?」
思わず顔を上げて呟いた私を一瞥したあと、サザ王子はわずかに眉をひそめ、宙の一点を見つめた。
「先程の会話を聞いて判断したことだ。我が国について無知という前提ではあったが、異質に映るほど常識に欠けているようには見えない。逆に、様々な事柄について基盤となる最低限の知識はあり、私達にした質問の内容を見ても機知に富んでいるのが分かる。これもまた、眷属ならば聡明であって当然と言えるのだろうが――しかし、自然の振る舞いや雑談をかわす時の口調は、まるで普通の娘と変わりがない」
ぎくりとした。素のままの自分は歓迎されないという言葉が色鮮やかに蘇り、再び牙をむいて襲いかかってくる。
「それに、言い方は悪いが、その利発さは人為の域を超えていない。天上の者が持つ突き抜けた才知ではなく、人と同様、修学により備えた知識で裏付けされた範囲の才と見受けられる。要するに、利口ではあるが、多少の学を持つ人間ならば何も珍しくない、というありふれた域にとどまっている。ところが、率帝やイルファイが一目置くほどの、非の打ち所がない膨大な神力を宿している。この落差が不可解でならない」
自分の何気ない振る舞いや会話がこうして密かに、何者であるかという判断の材料にされていたと知り、血の気が引いた。それも、好悪などの感情ではなく、理性でもって存在を細かく切り分けられている。
両腕に鳥肌が立った。日頃からもっと神様の眷属っぽく上品な態度を取るべきだったんだろう。だけど、本物の眷属を知らないために、どういう振る舞いをしていいか分からなかった。
「しかしこの点については、我らの緊張を解くため、あえて気安い対応を見せたのかとも考えた」
サザ王子は取りなすようにそう付け足したけれど、私は自分の指先が冷たくなっていくのを強く意識した。
「もう一点、不審を覚えることがある。お前は、全てを語っていない」
不意にサザ王子の口調ががらりと変わり、詰問の響きを帯びた。
「国に救済をもたらす、その役目を担っているというのなら、なぜ秘密事を抱くのか」
「それはっ」
咄嗟に反論しようとしたけれど、サザ王子が軽く手を振り、黙るよう合図をした。
「無論、協力的とはいえぬ我らの態度にも問題があるのだろう。ゆえに、私が抱く不審は些細なものかもしれない。しかし、一点の曇りもなく信頼できるとはやはり言えない。本当に救済のためなのか、と疑える部分が多い。なぜなら大抵の場合、その秘された部分が本質であり、重要となるためだ」
国の頂点に最も近い位置に立つ人からきっぱりと信頼できないと言われ、私はショックを隠しきれなかった。自分の中に存在する真実を、目に見える文字に変えて提示することが許されるのなら今すぐそうするだろう。どんなことでも腹を割って話せばきっと分かり合える、とはもう思えない猜疑心に囚われた自分がいる。だって言葉って、話す時期や受け取り方によっては全く逆の意味を持つ時がある。きっとタイミングの神様って存在するんじゃないだろうか。
悔しいのか悲しいのか、辛いのか、分からなくて頭が痛くなった。
「それでも、人々を見るお前の眼差しに濁りはない。仮にまがまがしさを隠し持っているのだとしたら、月迦将軍があれほど親身に庇うはずがない。彼がお前に寄せる信は、身から滴らせる神力の確かさに支えられているものだけではなく、ある程度の時間を共有した者が見せる親しさが多く含まれている」
サザ王子が最終的に話をどこへ落ち着かせようとしているのか、理解できなくなってきた。
「ただ、率帝については正直、善悪ではなく神力の部分に心酔しているかのように見えた。彼は特定の分野においては造詣が深いが、率使の性質上、外の世界に疎い。知を有しながらも、力の質のみに目を奪われる場合が多いというべきだろうか。だが、彼は率使の冠。彼が平伏すれば、率使も皆、従順に倣う」
「……え?」
「月迦将軍も同様だ。将軍本人の能と武勲に敬服し、従う騎士が数多く存在する」
なんか、すごく嫌な内容の話を語られている気がした。
「つまりお前は、既に二つの権力を掌握している状態と言えよう。だがお前は政には関知しないと宣言した。実際、それは本心に見える。知識や力を持ちながらも無関心であるという状態に、不安を覚える。無関心であるがゆえにその価値さえ顧みず、気紛れに何者かへ権力を譲る時がくるのではないかという危惧だ。それは、困るのだ。王家の者として」
「そんなこと、しません」
「執着せぬ分、巧みな弁舌をもって懇願されれば、容易く譲り渡すのではないか。聖なる者は純真であるという前提が事実ならば。決してそうはならないと誓えるのだろうか」
心の隙間に切り込むかのごとく強く言われて私は自信を失い、咄嗟に頷けなかった。だって、純真だとは全然思わないけれど、頭のいい人に言いくるめられたらどうなるか自分でも分からない。
「お前は真実、権力を求めないか」
「求めません」
「ならば」
サザ王子が私の方に少し身を乗り出し、しっかりと視線を合わせてきた。私はどきまぎした。奇麗な目に惑わされそうになる。
「私の判断に、今後は従ってもらえるだろうか」
「え?」
「私は王の子。この国を正し、守りたい。権力を無作法に分立させたくはない。指導者が複数になれば、必ず対立が生まれる」
そう、なのだろうか。
サザ王子は本物の王子様で、この国の人だ。だったら、政の内情に詳しいだろう彼の言う事に従って、この先進んだ方がいいのだろうか。確かに、彼が皆を諭せば深刻な諍いは起きないだろうし、安心感も得られるだろう。迷いの多い私の判断よりもずっと価値が大きい気がする。
「従ってもらえるか?」
サザ王子が囁くように言って、顔を覗き込んできた。なんだか焦ってしまい、その綺麗な目から逃げたい気持ちが強くなって、頷きかけた時だった。
――飼い馴らされるな、主!
突然胸に響いたソルトの鋭い忠告に、はっとした。
ふと瞬いて視線をずらせば、床にお腹をつけてぺたりと座っていたはずのエルも身を起こし、サザ王子を睨んでいた。
――人の下につくな。権の域で王家の上にも立とうとするな。主は神の眷属、人の思惑の中に埋もれるな!
叱責するかのような厳しい声に、熱を宿した理性が勢いよく戻ってくる。
そうか……サザ王子の言に従うのは、王家が持つ権力に寄り添うことになる。よくも悪くも、この神力が王家の意思でふるわれてしまうという意味なんだ。それって結局、権力にはまってる状態に違いない。
「いいえ」
私は息を吸い込んだあと、動揺を抑えて、サザ王子の目をちゃんと見返した。
――さあ、言え。主の意思と判断は、人に渡らぬと。何者かに握られるものではなく、照らすもの。主はひとえに耿然たる陽のごとく、荒廃を照らし嘆きを払う灯火たれ。
ソルトの言葉に、私は心の中で頷いた。
「何者にも従えない。私の判断は、権力の動きを捉えてではなく、ただ一つ、国と人の蘇生のみに向けられる」
サザ王子がわずかに瞠目し、身じろぎした。
サザ王子がなぜ私を支配下に置こうとしたのか、本当のところはよく分かっていない。様々な方面を見据え、危惧したんだろうと漠然と思うだけだ。私の存在に不安を覚えたために。
「……信頼がほしいんじゃないんです。認められたいわけじゃない」
これは正直、嘘だった。実際は喚きたくなるほど認めてほしいと思う。信じてほしい、分かってほしい。
だけど、自分に対する理解ばかりを優先して望んだら、またきっとどこかで大きな犠牲が――それでは本末転倒にしかならない。
「この国に、救いがほしいんです。命そのものではなく、命を包む光が救い」
サザ王子がきゅっと唇を引き結び、私を見た。
私も膝の上でぎゅっと拳を作り、サザ王子を見つめた。
「あなたも、光です。……私は、あなたの命を動かせたでしょうか」
蘇って後悔していないかと聞いたつもりだった。
しばらくの間、まるで睨み合っているかのように視線を交わらせた。
緊張感が限界に達しそうになって酸欠状態になった時、サザ王子が視線を落とし片手で額を覆った。長い髪がさらりと揺れて、俯く彼の顔に影を落とし、表情を見えなくした。
「……あの」
私は少しおろおろとして、小さく呼びかけた。
「――非礼を、詫びる」
「えっ」
質問に謝罪が返ってきたので、びっくりする。
サザ王子はどうしてなのか、俯いたまま両手で顔を覆ってしまった。見つめ合っていた時よりも長く沈黙が続き、次第にいたたまれなくなってきた。
「あのう」
こういう時って、なんて話しかければいいんだろうか。対人スキルのない自分に項垂れつつも、あたふたと声をかけてみる。
「サザ王子」
「すまない、私は」
な、なんだかサザ王子の声、どっぷりと落ち込んでいる感じがする。ええと、ここは力一杯慰める場面なのかな。
動揺加減に拍車がかかった私は咄嗟に意味不明の笑みを浮かべ、顔を覆ったきりのサザ王子の手首あたりにそっと触れた。
「私こそ、何も力になれなくて、ごめんなさい」
サザ王子が顔を覆っていた手をどけ、ゆるゆると視線を上げてこっちを見た。
うわぁ何気ない仕草だと思うのに、すごく艶かしいというか! あぁそうじゃなくて、サザ王子の目、底まで行ってるというくらい自責の色が浮かんでいる。
なんか意外……という感想は失礼かもしれないけれど、今までちょっと冷淡に見えるくらい平静を保っていたし、いかにも王子って感じで傑然としていたし、見た目は武人、双眸美人で……これは関係ないか、ええと、とにかく、こんなふうに率直というくらい落ち込んで鬱々とした姿を見せるとは思わなかった。
「いや、そうではなく、私が……」
とサザ王子が視線を揺るがせ慌てた様子で言い、途中で、はっとしたように言葉を切った。更に意外な感じだ。一瞬目を疑ってしまったんだけれど、少し、その顔立ちには似合わない消極的な表情だった気が。
あれ、あれ? となぜか私までつられて狼狽してしまった。サザ王子のイメージが分からなくなってきた。
「今の話は内密に」
サザ王子はぱっと顔を背けたあと、どこか取り繕った態度を見せ、今までのように平淡な声でそう言った。
狐につままれたような心地になり、呆気に取られながらも私は一応頷いた。