F2:24


 どうすればこの危機を切り抜けられるか、私の手当てをしてくれるサザ王子をなんとはなしに見つめながら考えた。
 まずは残りの法具に何があるのか確認しなければならない。それから――。
「お前一人のみならば、率帝たちのもとへ戻れるか?」
 サザ王子の小さな声が聞こえ、その意味を理解して目を見開いた。他の人達には聞こえなかったようだった。
「いいえ、戻れない」
「それは、戻る術がないという意味ではないだろう」
 真面目な顔でそうたずねたサザ王子を、少しの間無言で見返した。
「サザ王子、私も本当はとても怖い」
 先程のサザ王子よりももっと小さな声で告げた。
「けれど一番怖いのは、私だけが生き残ることです。生き残ることが嫌なんじゃなくて、他の人達を置き去りにしてしまいかねない自分が怖い」
 うまく説明できなくてもどかしさを覚えながらも、サザ王子の綺麗な目を見つめ続けた。
「王子のさっきの言葉、じんときた。現実は自分の行動、意思で変えられる。本当にそうだといい」
「――分からない。神の眷属でありながら、なぜこれほど人間的なのか」
「あの、私もよく分からない。でも、人間らしいのって、罪かな?」
 どうしたって私は皆に認めてもらえるような神々しい存在にはなれない。
「やっぱり、失望する?」
 サザ王子には、あまり取り繕った言葉を使えない気がした。上辺だけの言葉じゃすぐに見破られてしまうと思ったためだ。
「その問い掛けが、人らしいとは思う」
 溜息まじりに言われて、困ってしまった。えっと、どういう意味なんだろう。
「サザ王子は、怖くない?」
 聞き返すと、眉間に皺を寄せられた。
「私が恐怖に屈することはない」
「うーん、そうじゃなくて、怖いと思わない?」
「恐れを吐き出すつもりはない」
 きっぱりと答えるサザ王子を思わず半眼で見てしまった。意固地だ! つい意地悪な気持ちが湧いてしまう。
 どうして政治家って……違った、ここは日本じゃなかった、とにかく、どうして偉い人たちって、わざと婉曲に婉曲に、幾重もの装飾で本質を覆い、わかりにくい答えを口にするんだろう。
 以前、三春叔父さんは当然のように、「それが外交には絶対的に必要だから。直接的な断定のみの回答は、よほどの場合でない限りしてはいけないもんだ」って言っていたけれど、意味が分からないよ。私の理解力がないせいなのかな。でも今は、曖昧なんて許したくない!
「答えになってません。怖いか怖くないかって質問だよ」
「質問自体に意味がない」
 私は思わず唇をへの字に曲げた。サザ王子って頑固だ。こうなったら絶対本心を言わせる。
「意味がなくてもいいもん。ちゃんと答えてくれるまで聞き続けるからね」
「なぜこだわる」
「こだわりたいから」
「今この場で役にも立たぬ言葉を聞いてどうすると」
「言葉全部が役に立たなくちゃ駄目なの? だったら言葉って可哀想だね。いつもそんなに重い責任を背負わなきゃいけないなんて」
 むっとした目で見られてしまったけれど、負けない。
「ねえ言葉だって時々息抜きしたくなるよ、きっと。きっちり抑制された意味だけじゃなくて、たまには心にぷかぷか浮かぶ他愛ない意味をそのまま素直に表現したいはずだと思う。特にサザ王子の中の言葉なんて、絶対そう思ってる」
「馬鹿な」
「私神様の眷属だもん。あー見える、サザ王子の言葉が苦しそうだなあ」
「やめないか!」
 びっくりするほどきつい拒絶の声で遮られてしまった。女性陣だけじゃなくカウエスたちにもその声が届いたらしく、驚きと緊張を滲ませた顔でこっちを見ていた。
「私を、踏みにじるな」
 サザ王子がはっきりと怒りをこめて私を睨んだ。
 一瞬身が硬直したけれど、すぐに体内の血が激しく巡って熱くなるような感覚を覚えた。違う、心を踏みにじろうとしたわけじゃない。馬鹿にするために、本心を言わせたかったんじゃない。
 だってサザ王子はいつも自分自身よりも、周囲にどう映るか、どう振る舞えばいいかを悲しいほどに優先させている気がしたためだ。それはきっと王族の者として必要な心がけなのかもしれないけれど、私はこの国の人間ではなく部下でも家来でもないから、こうして二人で話している時は自分を殺して取り繕うことなんてないと言いたかった。でも余計なお世話だったのだろうか。
 それともサザ王子は……私が懐柔を企んでいると思って警戒したのかな。さっきまでは本当にサザ王子の気持ちを楽にしたいと思っていたのに、下心で近づいたと誤解されたかもしれないという解釈に気づくと、実はそれこそが自分の隠された本心だったのだろうかと不意に流されそうになる。正しい心が見えない。
 目を逸らしてしまったら自分の弱さに屈服してしまう気がして、必死にサザ王子を見上げ続けた。
 サザ王子もまた敵に挑むような容赦のない目をして私を凝視している。
 
 ――哀れなことだ。憂苦するばかりの不断の王子。
 
 突然、それまで沈黙していたソルトの声がぽつりと胸に響いた。
 ソルト、どういう意味?
 
 ――以前の主と実に似ている王子だ。だが、主の質には柔らかさがあった。憂念を捨てきれぬこの王子は弱さの部分が硬質すぎるのだろう。
 
 分からない、ソルト。私は王子のように、生まれた時から何かの辛い重責を担っていたわけじゃないよ。
 もう少し説明してほしいと思ってソルトに答えを求めたけれど、そこでぱたっと沈黙されてしまった。
 この場に満ちる、肌を刺すような緊迫感は長く続かなかった。建物の外側から不吉な音が聞こえたためだ。それは爪を立てて引っ掻く音とも叩く音ともまた異なった。強いて言えば何かがじゅっと溶けているような――。
 一体何の音だろう、と妙に引っかかった。
 
 ――壁が溶かされている。
 
 ソルトの厳しい声が聞こえ、背筋が粟立った。
 溶かされている?
 私は床に置いていたソルトを掴んで立ち上がり、懸命に目を凝らして壁を見つめた。勿論いくら凝視したところで壁の外が透けて見えるわけじゃない。ソルトが教えてくれた言葉の意味をもう一度考えてみる。そういえばレイムの中には毒素をもった体液を吐き出すものも存在したはずだった。つまりそういった特殊な能力を持つレイムか、あるいは魔物が庭堂内に侵入するため、体液を飛ばして壁を溶かそうとしているのではないか。
 思い至って、はっと我に返り、怪訝そうな顔をしているカウエスたちに素早く視線を向けた。どうしよう、もし今考えたことが正しいのだとしたら、夜明けまでこの場に留まり身を守ることは無理だろう。けれども、外へ出ればレイムたちと戦わなくてはいけなくなる。どうしたらいい。
「響様?」
 カウエスが不安そうな顔をしておずおずと近づいてきた。まだ皆は壁が溶かされ始めているという事実に気がついていない。
 カウエスの薄い色の瞳をじっと見返したあと、私は唇を引き結び、残りの法具の数を確認した。どうすればこの危機から抜け出せるのか。私が囮になって道を切り開く? でも彼らだけでエルたちの所へ戻れるだろうか。ぎりぎりの所までは同行し、法具を使って進んでみるべきなのか。早く決断しなければならない。なぜなら、夜が深まれば更に不利な状況を招く。やっぱり、この庭堂に避難したのは間違いだった?
 ベリト、と私は大魔の名を心の中で呼んだ。返事はない。完全に静観に回っている。この場を切り抜く度量があるかどうかを見定めるつもりなのだろうか。魔物の心中は計りきれない。
 どうする!
「……どうした」
 法具を前にして黙り込む私の様子にただならぬものを感じたらしきサザ王子が、先ほどとは違う警戒の色を目に浮かべて質問した。
「ここから出ましょう」
 壁が溶け落ちる瞬間まで待つよりも、一刻も早くここから脱出した方がいい。樹界で一夜を凌ぐという方法があるけれど私の意思だけでは構築できないし、神剣の怨嗟を解放して身体を操ってもらうこともできない。
 なぜなら今、ソルトから強い拒否の思念が届いているためだ。最初の頃とは異なり、ソルトは毒舌ながらもどうしてか私の安全を重要視し始めている。血を使うこと、身体を操ってもらうことをもう許してくれない。安易に無理矢理従わせてしまえばようやく築けたソルトの信頼を失う羽目になる。
 正直、ここまでソルトに結界の構築を嫌がられるとは思わなかった。
「なぜ今出なければ?」
 サザ王子の短い問いに、なんて答えるか一瞬だけ迷った。
「夜明けまでこの壁はもたないんです」
 サザ王子が息を呑んだ。
「どうしてそんなことが分かるんだ」
 話を聞いていたらしきユラスタが半信半疑というよりは切羽詰まった様子で怒鳴った。
「レイムが壁を溶かそうとしているの。このままだと逃げ道がない状態で、レイム達がなだれこんでくる」
「しかし、外へ出たとしても――」
 ユラスタは呼吸の仕方を忘れたような表情を浮かべ、途中で言葉を切った。その後に続く言葉は聞かなくても想像できる。外へ出たとしても同じだ。レイム達と鉢合わせする事態は変わらない。
 それでも夜が深まる前に外へ出た方がまだ助かる確率がある、そう言おうとして口を開きかけた時だった。じゃりっと濡れた砂を削り取るような不快な音がはっきりと耳に届いた。今度は私だけでなく、他の人全員にも聞こえたはずだった。
 きゃあっと甲高い声が突然上がり、私は驚きで肩を揺らし、振り向いた。
 私たちの会話と外から聞こえた音の意味を結びつけ、現状がどうなっているのか理解したらしいガノッサが悲鳴を上げたんだ。
「嫌、嫌っ!」
「ガノッサ!」
 両手で耳を押さえ叫び出すガノッサをとめようとしたのか、女性達の中では一番冷静だった美人が彼女に手を伸ばした。
「もう嫌!」
 けれどもガノッサは美人の手を振り払い、混乱した態度で身を翻して上階へと続く階段へと勢いよく走り出した。その動きにつられたようにしてロアルやユラスタまでもが追っていく。
「待って!」
 私の制止の声は役に立たなかった。苛立ちに似た焦燥感をぐっと押し殺して私も彼女たちのあとを追う。軋む段を上がり二階へ辿り着いたあと、慌てて視線を巡らせば、屋上へと続く天井の開口部を押し開けて外へ出ようとするガノッサの姿が見えた。
「屋上から逃げることができるんじゃないですか?」
 後方に続いていたカウエスが掠れた声で言うのに、少し振り向いた。屋上へ出るところまではいいとしても、そのあとレイム達が待ち構えている地上へどうやって降りればいいのか。エルがいない今、大きく跳躍してレイムをかわすことは不可能だった。
 私は本当に指導者には向いていないんだと痛感する。庭堂にこもる、という選択がそもそも間違いだったと今更ながら理解した。何かを選んだ時の未来の展開を全然想像できていないじゃないか。
 一体何度過ちを繰り返せば気が済むというんだろう。大人になりきっていないから、なんていう言い訳は誰にも通用しない。
 冷や汗が滲む額を乱暴に拭ったあと、屋上へと姿を消したガノッサたちを追った。
「ガノッサ!」
 私は低く叫んだ。屋上は何かを乾燥させたりちょっとした洗い物を干す時に利用していたのか、物干竿みたいな棒や布の端切れ、木箱の類いが片隅に転がっており、転落防止のためらしき手すりが低めに設置されていた。建物自体はそれほど大きくないけれど、屋上は割合広めに設計されているらしかった。
 ガノッサは手すりの一部が壊れている場所へと足を向けていたけれど、私の言葉で立ち止まり、ぎこちなく振り向いた。
 彼女を追いかけていたロアルや美人さん、そしてユラスタもこっちに顔を向けた。
「死にたい、こんな悪夢、もう見たくないのです」
 ガノッサが泣きながら高い声で叫んだ。
 彼女は屋上から飛び降りようと考えていたのかと分かり、視界がぶれた。怒りのような、恐怖のような、目まぐるしくも強い感情が一瞬胸をよぎる。その波が消えたあとで、自分が彼女の悲痛な叫びに深く傷ついたのだと納得した。
「だって、また魔物に殺されてしまうのでしょう、ずっとずっと夜が続くのでしょう、どうしてそんな悪夢が耐えられますか!」
 ここでもまた、蘇ったことを拒絶される。なぜなら、世界が壊れたままだ。平和も幸せもないから打ちのめされずにはいられない。本当にくるかどうかも分からない未来の平穏を想像するだけでは心の支えにすらならない。夢は気持ちに余裕がなければ見られないものだと知った。
「……でも、そこから飛び降りないで」
 どうすればガノッサを引き止められるのか分からない。無我夢中の中で飛び出した言葉は、それだった。
「そっちへあなたが飛び降りたら、私、受け止められないよ。だから、お願いだから、こっちに来て。そうしてくれたら、私必ず、あなたの手を掴むから」
 手にしていたソルトを一旦床に置き、必死に両手を伸ばした。今一歩でも彼女に近づけば追いつめられたと誤解されて、飛び降りてしまうんじゃないかという予感がしたためだった。
「飛び降りてほしくない、死んでほしくない、もう誰かが死ぬの嫌だ」
 涙を浮かべるガノッサの目を見返しながら、刻むように呟いた。闇の中でも、彼女の身体がぶるぶると大きく震えているのが分かる。弱い光を投げかける月が悲しげに見下ろしている。
「私には夜を壊すことができない。けれど、きっと悪夢を終わらせる」
 がりがりと壁を引っ掻く音がした。屋上にいる私たちの声を聞いたレイムや魔物が、壁をよじ登ってきている!
「一緒に、皆で、朝を迎えよう」
 抉られるような苦しさや不安を胸の中で何度も殺しながら、一言一言を大事に紡ぐ。それでもガノッサは自分の身をきつく抱きしめたまま動こうとしなかった。どうして私の言葉には彼らを動かす力がないのだろうと俯きたくなる。
 がりっと再び嫌な音がした。屋上の手すりに、何かが引っかかるのが見えた。壁をよじ登ってきた魔物の舌がロープのように手すりに巻き付いたのだった。
 駄目だ、ガノッサがこっちに来るのを待つ余裕がない。そう判断してソルトを掴んだ時だった。キッと顔を上げた美人がいきなり動いてガノッサの腕を掴み、引きずるようにしてこっちに駆け寄ってきた。
 きゃあ、とガノッサが悲鳴を上げた。駆け寄ってきた美人がガノッサをこっちに突き飛ばすような感じで腕を離したためだ。転びかけるガノッサを咄嗟に片腕で支えた。
「悪夢の中でも現実の中でも、女であるなら戦う者の邪魔をせず、勝利を祈りなさい」
 美人が強い口調で言い、愕然としているガノッサを見下ろしていた。他の人達も条件反射のような動作でこっちの近くに来ていたんだけれど、やはりガノッサのように驚いた表情を浮かべて美人を見つめていた。
「女は男のために勝利を祈り、男は女のために勝利を掴むもの――あら、ごめんなさい、あなたは戦う少女でしたわね」
 美人は強張っていた顔に、不敵な笑みを浮かべた。それは無理矢理作り出したかのような表情だったけれど、なんだか「頑張れ」とぽんと背中を押されたような気持ちになった。ソルトを手にしているから視界はクリアでよく見える。美人も本当はガノッサのように、身体を恐怖で小さく震わせていた。それでも笑みを作っているのだと分かり、炎を投げ込まれたかのように胸が熱くなった。
「勝ちます、守ります」
 私も必死に笑みを作った。それと同時にガノッサの横をすり抜け、手すりを乗り越えてこっちに飛びかかってきた巨大ムササビのような魔物の胴部分を横殴りに払い、くるりと身を翻して勢いをつけ、両手で垂直にソルトを振り下ろす。とどめをさしたと感触で分かったので、確認はしなかった。すぐさま体勢を整えて低く走る。手すりの向こうから一体のレイムが姿を現したためだった。一つ足で、手が五本もついた巨躯のレイムだった。
 
●●●●●
 
 乱戦、という言葉が不意に思い浮かぶような戦い方をしていた。
 壁をよじ登ってくるレイムたちを斬る間に、庭堂の壁が溶かされたらしく内部からもレイムが侵入してきているようだった。屋上に出るための扉はしめたけれど、それもすぐに溶かされるだろう。
 どうすればこの場を切り抜けられる。ソルトを操りながら考えたけれど、何も案が浮かばない。だって退路がどこにもない。
 
 ――主、迷うな!
 
 だって、どうしたらいいのか!
 心の中で、ソルトの声に怒鳴り返した。エルもいない、夜明けはまだ来ない、レイムたちに囲まれている、結界を構築できる人がいない!
 ああほらやっぱり、と詰るような自分の声が響く。ほらやっぱりこういう最悪の結果になった。危険な目にあうって分かっていたじゃない。誰が悪い? 意地悪く問う自分の声から必死に逃げようとしても逃げられない。
 恰好つけてる場合じゃないよ、と唆す自分の声。私は悪くない、こんな状況を作ったのはサザ王子じゃないか。だったら彼が責任を取るべきで――だから、何?
 やめてよ、私は憤りをこめてソルトを振るった。これで何体のレイムを斬ったのか。蘇生を見届けられない。一瞬の余裕さえない。大きく息をはいた時、ぎゃあっと、身が捩じれるような凄まじい悲鳴が背後で響いた。我に返り、慌てて振り向く。
 レイムの悲鳴ではなかった。さっき蘇生させたばかりの男性が、別の方向から現れたレイムの餌食になっていた。全身に悪寒が走る。ユラスタやサザ王子は女性達を守るので精一杯だった。助けなければと思うのに、私自身もまだ、今相手をしているレイムから逃れられない。
「う、ああっ!」
 殴りつけるようにしてソルトをレイムに突き刺した。そして早く、その男性の元へ駆けつけようとして――足が止まった。間に合わなかった。
 レイムに貪られた男性の肉片がぐじゅぐじゅと音を立てて溶解していた。人の魂がもし目に見えるなら、こんな感じなのか。怨霊のような霧が一瞬見えた気がした。それもまたレイムが落とす闇より濃厚な影の中に溶けていき――こんな、まさか。
 
 ――動け、足をとめるな!
 
 ソルトの声が遠い。だってこんな。
 レイムは大地が落とす影の中から夜とともに生まれる。ゆえにレイム自身も、ある意味では大地の一部。そして今は既に夜だ。レイムの影から、レイムが生まれる。それも、変貌途中ではなく、完全体のままで。だってもう夜が到来しているから。
 そうだ、よく考えれば、レイムに身体を貪られるというのにどうして再び夜の訪れと共に出現するのか、不思議だった。貪られる間にレイムの毒を浴びた魂、あの霧のような命の残滓が、大地に、影に溶けるためだ。今まで私は、夜の訪れとともに出現するレイムしか見たことがなかった。夜の最中に現れるレイムをこの目で確認するのは初めてだった。……前に一度、蘇生させたばかりの女の人が再びレイムに飲まれたけれど、あの時は逃げてしまったために最後まで見ていない。
 
 ――主!
 
 分かっている。
 何度だって蘇生させてみせる。誰の命もとりこぼさない。
 一体何のためにここへ来たのか。この問いがいつでも心の中にある。まるで、呪うように問われている。
 私は駆けた。灯火となるのなら、諦めることなんて自分に許してはいけない。
 再びレイムと変わった男性を、祈りをこめて切り裂く。
 蘇れ、蘇れ。何度でもその言葉を繰り返して、縋った。だってそれこそが、私がただ一つ持つことができる、支えだ。
「響様」
 カウエスの声が聞こえた。彼は必死の形相で、男性を再び殺したレイムをとめていた。でも私の視線と意識は、蘇るはずの男性に釘付けだった。
 蘇れ。
 蘇って、生き返って。
「――なぜ?」
 ソルトを握り締めたまま、私は掠れた声で宙に独白した。
「どうして?」
 ひどい痛みがこめかみを襲った。
 再度の蘇生が果たされない。
 さっきの男性は、レイムのまま死んでいた。
 目の前に転がる屍を私は凝視した。断ち切られている胴体。死んでいる。神剣であるソルトで斬ったから、一度死んで、そして蘇生されるはずなのに、醜い姿のまま死んでいる。
 ソルトが手から滑り落ち、屋上の床に転がる固い音が響いた。
 危険の最中なのに、別のレイムがまた手すりをよじ上ってきているというのに、立ち尽くしたまま身体が動かない。
「響!」
 サザ王子の声も、レイムの雄叫びも、ソルトの訴えも全部遠い。
 私の中の、支えとなっていたものが崩れ落ちた。夜の暗さが目の中にしみ込み、希望を真っ黒に染めた。
 ああ、分かった。
 神剣による蘇生のチャンスは一度しか得られないのだと。

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