F2:25
放心している場合ではない、と叱咤するソルトの声が身体中に響いた。
強い語調に促されるようにして、ゆるりと緩慢に視線を巡らせた。壁を伝って手すりの向こうから屋上に乗り込んできたレイムの攻撃をカウエスがとめ、間を置くことなくサザ王子がとどめをさしていた。一度目の殺害なので蘇生は無事果たされる。しかしもう一度レイムに取り込まれてしまえば、神剣で斬ってももう人間には戻らず醜悪な化け物の姿のまま無惨に朽ちることになる。人として安らかに死ぬ権利すら得られないというのは、神剣ではない普通の剣で斬り殺すことよりもなお残酷ではないのか。
ぎこちなく身を屈めてソルトを拾い、息を吐く。視界は再びクリアになったし身動きできないほど深い傷を負ってもいないのに、床に落ちた膝にどうしても力が入らない。闇が背中にどろりと垂れ下がっているかのように重く、指を動かすのが億劫で仕方ない。
私はこれまで一体何を斬ってきたんだろう、とまたしても葛藤の色に汚れ始めた心の中で小さく独白した。
生かすためだと思っていた。斬る時は大抵ソルトの庇護をもらっていたから、百パーセント自分の力であるとはやはり思えず、肉を断つリアルな感触が腕に伝わってもどこかで狡く言い訳できる部分があった。少しのあいだだけ苦しさをともなう一種の試練に似た儀式のようなものだと。
ならば今、目前に転がっているレイムの屍は何なのか。
ここで初めて思い至ることがあった。
レイムを殺す場合は、蘇生ということが頭にあったから色々な言葉で自分の行為を正当化できた。でも生来異形とされている魔物についてはどうなるのだろう。レイムも魔物の一種と考えるべきなのか。そして、レイムのまま死んだのならそれはある意味、以前は人間だったこととは関係なく最後まで「レイム」という存在として認識するべきなのだろうかと思う。
化け物も魔物も、この世界で生きることを許された一つの命に他ならないのでは? 人間みたく心臓が動いているかどうかという問題じゃない。
魔物は人にとってよくない存在だし見た目もグロテスクなものが多数を占めるため、気味が悪いから殺すのはいやだという単純な嫌悪を交えた感想の他、特に何も思っていなかったんじゃないだろうか。私が無造作に殺してきた魔物が迸らせる断末魔は、身が竦むほど激しい命の叫びだったはず。今、こうしてレイムの状態で死んでいる姿を見なければまったく気づきもしなかっただろう。
魔物たちも悲しくて泣く時があるのだろうか? 喜びや優しさに胸が満たされる時もあるだろうか。
何よりも、シンプルな事実が目の前にある。そうだ、私の心が受け止められるかどうかなんてそれこそ関係ない。言葉の装飾や余計な感傷を全部取り払った先に見える、厳然とした動かせない事実だ。
私、今本当に、自分の手で人を殺したことになるんじゃないか。神力で作った間接的な攻撃じゃなくて、この手で命を斬った。自分の行為とその後にもたらされる結果に、折り合いをつけられない。
――主、いい加減にしろ!
苛立ちを明らかにしたソルトの叱責に、繰り返し目を瞬かせた。
サザ王子がレイムを仕留めたけれど、まだ手すりを乗り越えて屋上に飛び込んでくるレイムが多数いる。きっとこれからもっともっと凄惨な時刻が訪れる。ああ勝たなければ、と改めてソルトの柄を握り締めた。風邪を引いた時のように足元から悪寒が這い上がってきて、柄を握る指をこまかく震わせた。真冬の冷気が体内で暴れているかのようだった。
誰かに言い訳をしたい、慰められたいと不意に強く思った。本来なら私はこの世界に対して何らかの責任があるわけじゃないし、年齢的にも守られていいはずだし、次元の異なる平和な場所で普通に暮らしていただけだ。こんな考えを過去に何度抱いただろう。
殺すのは嫌だ、と心ではっきり感じてしまった。過去の、綺麗な手のままで笑っていられた自分が何より羨ましいせいで、今の状態に大きな迷いが生まれる。ことあるごとに弱くなる。
だってなんか、私がここに来たせいで、皆がもっと辛い目や酷い目にあっているんじゃない? こんなはずじゃなかったのに。
やだもう、殺してばっかり。
もう――逃げたい。
――ふざけるな!
ソルトが本気で怒っている。
呼応して、私の心にも、かっと怒りのような、暗く燃える感情が生まれる。その醜い感情の正体をつきつめてしまえばきっともう駄目だと思った。何が駄目なのか分からないけれど、とにかく駄目だ。だから勢いよく、まるでその感情を踏みつけるかのように足に力を入れ、躍りかかってくるレイムに接近して叩き斬った。腕がじんと痺れた。ソルトの心が急速に離れていく。その反動で自分の身体が重く、負担がかかっている。
――愚か者め、だから主は弱いというのだ。己の哀れみに理非を見出せればそれで満足か! 都合のいい時ばかり許しを望むお前に誰が救われたいと思う。
うるさい!
考えることはもう嫌だ。考え続けたっていいことなんか一つもない。
どうだろうと斬れるだけ斬る、私が何を感じようと、それだけがこの場の真実じゃないか。
●●●●●
ソルトと意思の疎通がうまくいかなくなったためか、疲労の度合いが深く、早かった。反面、何も思わず機械的に斬り続けるのは精神的にひどく楽で、むしろこのスタイルの方が自分に合っているんじゃないかとすら思えた。
「これ以上は、もう無理だ!」
束の間の休息といっていいのか、手すりの向こうから現れるレイムや魔物の姿が一旦絶えた時だった。ユラスタが荒い息の中、刃こぼれしている剣を見据えながら掠れた怒声を上げた。レイムを斬るたびに庇わなければならない無防備な人間が増えるため、尚更戦いにくくなる。とどめを刺すのは私かサザ王子にしかできないので、その点もユラスタやカウエスにとっては戦いにくいポイントになっているようだった。
「――私がレイムを引きつけよう」
頭に巻いていた布が途中で邪魔になったらしくサザ王子は美妙な色の髪を晒していた。汗で額にはりつくその髪を無造作に払い、覚悟を決めた様子で私を見据えた。
「何人ならば、連れて逃げられる」
小さな声で囁かれたその言葉が聞こえたのは、質問を投げかけられた私と、近くにいたユラスタだけだろう。ユラスタが口を開き、信じられないといった顔をしてサザ王子の真剣な横顔を凝視していた。
サザ王子は分かっている。この状況ではとても全員を守りながら逃げ切れない。……けれども、本音を言わせてもらえば、私一人だけで逃げたとしても十分苦しい状況だ。
「梯子をおろして地上に出る。私が先導するから、お前はそのあとを」
そして連れて行ける者だけを守り、何とか生き延びろと言いたいのだろう。残りの人は全員、逃げるための囮にしろという意味だ。
含まれた意図は理解できたけれど、まずは誰よりもサザ王子を優先させなければ皆のところへ戻れない――。王家の人間である彼はガレ国を動かす大樹の一人、ここで失えば皆の絶望を深めるだけでなく確実に私は恨まれ排斥されるだろう。
今後の融通を思えば、その選択だけは絶対に回避しなければいけない。
「私のくだらぬ矜持が招いた事態だ」
「サザ王子」
「できれば、ロアルシィかレギアを連れてほしい」
レギアというのは、多分あの冷静な美人のことだろう。ふっとサザ王子の目を見つめ、ぞわりと背中に痺れのような寒気が走った。
この人は本当に王子様だ。連れて逃げるのなら戦える者――カウエスかユラスタ――の方がまだ有利となるのに、それでも最後まで守るべき対象とされる女性を優先させようとしている。
勿論、今蘇生させた人の中には彼女達の他にも女性や子供がいる。ここで特にロアルかレギアにこだわったのは、多分同行する私の立場も考えてのことだ。サザ王子が戻れなくても、その代わりに高い身分を持つ姫を助けたのだと皆に示せば、私の立場は少なくとも最悪にまで落ちることはないだろうと、きっとそう考えた。考えてくれたんだ。
ささくれていた醜い気持ちに、冷水を浴びせられた感じがした。
過ちを犯しても最後に何を選択するか、それで判断される時がある。冷徹で、でも非情なだけじゃない。現状と良心の秤がつり合っている思考。サザ王子は本物の王子様だった。他にバトンタッチできる人がいなくて神様の眷属になった偽物の私とは根本的に違う。こんなことを比較する時点で自分がどれほど小狡くいやらしいかが分かり、目を背けたくなった。
一歩後退りしてしまった。蘇生したばかりだったためにサザ王子は冷静さを欠いた危険な行動に出たけれど、この先状況をきちんと把握すれば、突然舞い込んできた私よりもずっとうまく皆をまとめあげて生かすことができるだろう。神剣だって使える。この素質こそが、生まれながらの王族という証なのか。
「響」
サザ王子が返事を促すように私の名を呼んだ時だった。
キィンと低い金属音めいた鳴き声がいきなり周囲に響いた。何の音? 私とサザ王子は同時に素早く振り向いた。再びレイムか魔物が姿を現したのかと思った。けれど予想とは違った。手すりのちょうど上あたり、闇色の虚空に浮かぶ奇妙なものを見て、私は唖然とした。
発光しているのではないかと思うくらい綺麗な薄紫色の胴、そして天使めいた銀の羽根を持った魔物が闇に浮かんでいる。見とれるほど綺麗な色を持っているのに、全体像はとても気色悪かった。なぜならその魔物の身体は、ちょっと太めの、一抱えもありそうな大きさの芋虫に酷似していたためだ。しかもトゲトゲした触覚が異常に長い。編み目のような線が入っている胴の部分からも太く長い毛が垂れている。更にはゴーグルでもはめているんじゃないかというくらい目が大きく飛び出ている。ちょぼりとした口からは数本の糸のような舌がちらちらのぞいていた。
思わず内心で「うわっ」と声を上げてしまった。私はどうしようもないくらい昆虫系が苦手だった。
――これは……ヒタラか!
ソルトの驚いた声が突然響いた。もう当分私とは話をしてくれないだろうと覚悟していたので、どぎまぎした。
ヒタラ?
その名前をどこかで聞いた覚えがある。
――空間を自在に操る希少の妖、ヒタラだ。
もしかして、転移時に使用されていた符針を作る妖虫!
以前にリュイが符針の作り方を簡単に説明してくれた気がする。
――主、お前は幸運を呼んだ! ヒタラを捕えろ。
ええ!
ぎょっとしつつ手すりの方に近づいたけれど、こんな気味の悪い昆虫系の魔物をどうやって捕えればいいのか。
胴体丸々としているよヒタラ、と内心で戦きつつその姿を見上げる。一瞬、レンズがぶれた時みたいにヒタラの姿が歪んだ。
――ぼうっとするな、ヒタラを逃がすな!
で、でもどうすればっ。
自棄気味になりながら手すりの上に身を乗せ、一応立ってみたけれど、すぐにへたりこみそうになった。高いし命綱はないし手すりの幅が細い。早く安全なところに降りたいけれど、こうしなければヒタラに剣が届かない。
「わ!」
ヒタラが一度こっちに突進してきた。床にいたのだったら軽くかわせたはずだけれど、今は足場の悪い手すりの上だ。身を捻った瞬間にバランスが崩れて落下しそうになった。
「響!」
サザ王子が咄嗟に駆け寄ってきて腕を掴んでくれなければ、レイムが蠢く地上にきっと落ちていただろう。というか、いつの間にか手すりのすぐ側まで複数のレイムがよじ登ってきている。悠長に狼狽えてなんかいられない。
――ヒタラの血は空間を捻る。主の神力とこの血で、転移が可能となるかもしれない。
あっそれでヒタラを捕えろと。
法具として開発された符針は魔法使いたちが制限をかけたため好き勝手な場所に転移ができないけれど、ヒタラの血自体には何の束縛もない。皆のところまで一息に飛べるかもしれないんだ。
などと慌ただしく納得している間にヒタラの姿が砂嵐に塗れたみたいに歪んでいく。消えてしまう前に、捕まえなくてはいけない。
「サザ王子、ヒタラを」
私の腕を掴んだままのサザ王子にそう叫んだ。私は躍り上がってきたレイムにソルトを向けた。サザ王子が片手をヒタラの方へ閃かせるのが見えた。私は一瞬だけそれを確認したあと、手すりの上という危ない場所で、咆哮するレイムの相手をするべく剣をかまえた。床に降りたいのにレイムが吐き出す体液のせいでそれができない。いつか私、本当に落ちるんじゃと冷や汗が伝った。
「響、早く!」
背後からサザ王子の急かす声が聞こえたけれど、今そっちに振り向けない!
何この捻れレイムは! 数字の8みたいに身体がよじれている。
「う、わ!」
手すりから片足が落ちて、本当に地上へまっさかさまだと蒼白になった。
「痛っ」
でも落ちたのは手すりの向こう側じゃなくて屋上側だと、背中を思い切り床にぶつけた時理解した。もがくようにして身体を起こしかけた時、そのレイムが体躯の形を変え、蛇みたいに長く伸びた。かぱっと大きく口を開け、喉の奥の真っ黒な空洞を見せつけてこっちを飲み込もうとする。ジュースミキサーみたいに透明な胴の中でごぽごぽと循環する体液の音が近くなり、むりやり頭部に埋め込んでいる白い頭蓋骨が目の前いっぱいに迫った。
思わず硬直して息を呑んだ瞬間、突然誰かに襟元を掴まれ、後方に勢いよく引っ張られた。がちゃん、と空振りするレイムの口が少し遠ざかっていた。
「立て!」
ユラスタの怒声が真後ろから届く。彼がどうやら私を引きずってくれたらしい。安堵して立ち上がるより早く、再びレイムがかぱりと口を開け、こっちに突っ込んできた。それを横からカウエスが剣で防いだ。今度はカウエスの剣を齧る羽目になり腹を立てたらしいレイムが蛇のような尾をしならせる。その太い尾は、レイムの口から剣を取り戻そうと必死になっているカウエスの脇腹をしたたかに打った。
床になぎ倒されたカウエスの身が心配になったけれど、駆け寄る前に、この凶悪なレイムをまず仕留めなくてはいけない。邪魔者を排除して再度こっちに接近するレイムを前に、私は体勢を整えがてらソルトを走らせた。レイムの開かれた口を裂き、深く切っ先を沈める。
のたうち回るレイムから素早く剣を引き抜いて、狙いを定めソルトを一閃させた。
「響」
驚異の再生を見守る余裕はなく、サザ王子の呼び声に身体ごと振り向く。
「もう持たない!」
ヒタラが空中でもがいていた。時々ぱちっと小さく火花が生まれている。
どうやらサザ王子は持っている神力でヒタラの身を束縛していたらしい。その束縛が破られると同時に、私は大きくジャンプした。見た目は巨大芋虫そっくりでかなり抱きつきたくないけれど、捕えるにはこうするしかない。
手すりに乗って大きく真上にジャンプしヒタラの胴を掴むという無謀な真似をしたのはいいものの、足がもつれて着地に失敗した。ソルトを握った状態でヒタラを捕まえたため、変な具合に足に力が入り、わずかに踵を踏み外してしまったらしい。また落下の危機、と鳥肌が立った瞬間、さっきのように襟元を乱暴に捕まれ、誰かの腕に抱え込まれた。
「なんて危ないことを!」
今度はどうもサザ王子に助けられたみたいだった。ごめんと言おうとした時、がっちり掴んでいるヒタラがキイキイ叫び、激しく羽根をばたつかせた。痛っ、羽根で顔打ってるよ、というか鱗粉すごい!
「痛いっ」
手首に噛みつかれた衝撃で、つい力を抜いてしまった。私の腕の中からヒタラがばっと飛び立つ。
逃がしちゃいけない、という焦りによる咄嗟の行動で、ソルトを突き出してしまった。ずぶりとソルトの先端が逃げ出そうとしていたヒタラの胴に刺さった。串刺し状態に近い。
しまった、血が――命が。
「レイムが!」
ユラスタの警告に、私は身を揺らした。
先程レイムの姿が束の間絶えたのは、嵐の前の静けさみたいなものだったと思い知る。レイムは仲間を尊重しない。そのため押し合いへし合いのような感じになり、今までは一、二体ずつしか上がってこなかった。だけど随分時間が経過している。
仲間を踏みつけにして――それが台代わりとなって積み上げられ足場ができたために――一気に複数のレイムが手すりの向こうから顔を出した。
レイムの鳴き声と、蘇生した人々の甲高い悲鳴が重なった。
もういけない、嬲り殺されるのは時間の問題だった。
「中央に集まって!」
考えるよりも早く、私は叫んだ。
方法なんて分からない。無我夢中で動くしかない。
蘇生した人達を急き立て、押すようにして中央に集めた。
「何を!」
悲鳴を上げて嫌がる人々の身体に、剣で串刺しにしたヒタラの血をなすりつけた。ヒタラはまだぴくぴくと痙攣していた。私は目をわずかに逸らして見ない振りをした。ヒタラの血が刀身を伝い、柄を握る手を染めた。血の色は赤が混じった灰色だった。ぬるく、どろりとしていた。
目覚めろ、神力。
ソルトの先端からヒタラの胴を抜き、唇を強く噛み締めて願った。
陣の代わりに、ソルトの先で床を斬りつけるように丸く削り、その線にもヒタラの血を注ぐ。果実と同様、ぐっと絞るようにしてヒタラの胴を潰した。ヒタラが手の中でつんざくような悲鳴を上げた。激しくもがき痙攣する感触が伝わり、私は身体が震えた。ごめん、ごめんね。
「転移を!」
低く叫び、動かなくなったヒタラを床に落として歪な輪の中に人々を押し込んだあと、嬉々として屋上に乗り込んでくるレイムを横目で見ながらソルトを深く床に突き刺した。ぐっと身体に圧力がかかる。
いくつもの悲鳴が聞こえた。削った線の中の血が、沸き立つようにまばゆく輝く。
飛べ、空間を捩じれ。
うまくいくと思った。その時、屋上に乗り込んできたレイムの中でひときわ動作の素早い小柄なものがこっちに突進してきた。はっとしたけれど、今はソルトから手を離せない。ソルトを通して陣に神力を注いでいるためだ。
レイムの長い腕が外側にいた女性の一人を掴もうとして――それをサザ王子が庇うといった光景が目に入った。
「王子!」
転移がなされる。その直前、女性の身代わりとなったサザ王子の身体がレイムの腕で払われ、陣の外へ飛ばされてしまった。
駄目だ、転移が!
――主、馬鹿め!
転移が完成される寸前、私は床に突き刺していたソルトから手を離し陣の外へと飛んだ。いいか悪いかも関係なく、勝手に身体が動いてしまった。
陣が生んだ金色のきらめきの中で、目を見開くカウエスたちの姿が映り、瞬きするより早く掻き消えた。残像のようにただ金のきらめきだけがはかなく宙を舞った。
茫然とする暇はなかった。片足を軸にして重心を支え、わずかに身を落としたあと、後方に向かって思い切り肘を入れる。背後に、サザ王子を襲ったレイムが口を開けてこっちに噛みつこうとしていたためだ。体重をかけるようにして肘を入れたため、狙い通りレイムがよろめいた。私も大きくよろめいたけれど向こうが体勢を整えるより早く身を起こし、回し蹴りの要領で蹴り飛ばす。床に突き刺していたソルトは――陣の中。サザ王子の神剣もまた、陣の中だ。女性を庇った時に神剣から手を離したのが見えた。どちらの剣も、皆とともに転移してしまったんだ。
複数のレイムがすぐ側まで接近している。
私は目を凝らしながら懐を探り、まだ残っていた法具を取り出して投げた。近づいていたレイムが法具の爆発音で怯んだ隙に、倒れているサザ王子の側に膝をつく。
「サザ王子!」
上体を必死に起こしてサザ王子の顔を見た時、私は息を呑んだ。弱い月明かりの下でも分かる。王子のおよそ顔半分と首のあたりまで、ひどい火傷を負ったように赤く爛れていた。女性を庇った時に、レイムの体液を浴びてしまったのだろうか。
レイムの体液は毒が含まれており、多量を浴びると身体を溶かされ、再び取り込まれるという。最悪の予感が頭をかすめ、顔を強張らせてしまったけれど、サザ王子が再びレイムに戻る気配は感じなかった。ちゃんと息もあり、揺さぶるうちに目を覚ましてくれた。
早鐘を打つ心臓。痛む胸を無視して、どうすべきかを考える。気を取り直したらしきレイムが私たちを見つめていた。もう抵抗の術はないだろうと感じているのか、それともこっちの恐怖を殊更に駆り立てようとしているのか、随分思わせぶりにゆっくり近づいてくる。
どうしたらいいの!
ソルトも神剣もない。法具も全て使ってしまった。どうすれば!
「逃げ……」
サザ王子が苦しげに息をつき、私の腕を掴んだ。一人で逃げろというの。
「――逃げないっ!」
分からない、分からないけれど誰かの姿がサザ王子に重なる。ぎゅうっとサザ王子の頭を抱え込み、一瞬目を瞑って俯いたときだった。さらりと耳の飾りが動いた。何かが脳裏をかすめた。
……そうだ、この耳飾りにも、小さいけれど石がついている。しかもこれは、神様たちのところでもらった装飾品だ。
法具のかわりになるんじゃないか。
どこでだろう、石の形を変えたことがなかったか。分からない、思い出せない、でも私はきっとできる。
思い出す時間はなかった。ピアス状の耳飾りだったけれど、ホールからフック部分を丁寧に外す余裕もない。私は耳飾りを掴み、ちぎるようにして思い切り引っ張った。ぶちりとやけに厚みを感じるような、耳の裂ける鈍い音が鼓膜にぶつかった。痛みなんてどうでもよかった。
こっちに飛びかかろうとするレイムを睨みながら、手の中の石を強く握った。
「――響」
サザ王子の視線を感じた。
レイムの悲鳴が轟く。
石は一瞬で真紅の毛を持つ細身の狼へと変貌し、今まさに私たちを飲み込もうとしていたレイムに噛みついた。
神様にもらった石で作った獣のためか、体躯は細身だったけれど動きはとても滑らかで強靭だった。とはいえ、たった一匹ですべてのレイムを排除できるはずがない。
まだ宝飾品がある。神様たちはアクセサリー好きだったのか、天界で着替えさせてもらった時、耳飾り以外にも色々とつけてくれた。首飾りはディルカを探しにいった時獣に壊されてしまったため、手元にない。でも耳飾りのかたっぽと、それから腕輪をいくつかつけている。そのどれにも、綺麗な石がくっついている。
また石の形状を変えようと思った。神石のある額がずきずきと痛む。確か、得手ではない使い方をすると、すごく力を消耗するはずだった。こんな痛み、慣れればなんともなくなるきっと。
馬鹿だな私、もっと早くこの方法に気づいていれば、庭堂に篭城せずとも人間を乗せられる獣を何体か作って皆の元へと帰れたじゃないか。
後悔とともに、耳飾りのかたっぽに指を伸ばした時だった。
親指の爪が急に熱くなった。これは。
「――ベリト?」
沈黙を守っていた大魔が突然気配を広げ、私の前に出現した。