F2:26


 まるで影めいた青い滑らかな敷布が突然目の前に広がった気がした。
 私とサザ王子を取り囲んでいたレイムたちが一斉にぎゃあっと泣き叫び、逆毛を立てた猫のごとく大仰な動作で飛び退いた。それもそのはず、七十七将の中に数えられる強大な魔物のベリトベッテが突然現れ、息詰まるほど濃厚な魔力の気配を滴らせてレイムたちを睥睨したからだ。
 私はサザ王子の頭をぎゅうっと抱えたまま、目の前に立つ大魔の背――青一色の影みたいな姿を持っているため前後の見分けがつきにくいけれど多分背中だと思う――を唖然と凝視した。今まで完全に沈黙していたのになぜ突然ベリトは姿を見せたのだろう。正直なところ、今の瞬間までベリトの存在を完璧忘れていた。
「ベリト?」
 恐る恐る呼んだら、目の前に存在する青い影の、顔というか後頭部にあたるだろう位置にぷくりと小さな泡が浮き出た。よく見ると泡じゃなくて目だ。うう、ベリト、後頭部側に目を動かせるの。
 さっき私が作り出した赤い獣が、レイムだけでなくベリトまでも警戒するような動作をしてこっちの横に戻ってきた。
 ベリトの後頭部に出現した一つの目がくるっと回り、赤い獣を捉えたようだった。なんかじいっと見ている。駄目だよ、この子を脅かしちゃ!
 焦りつつ心の中で訴えた時、ベリトの青い身からぷくぷくと複数の泡が飛び出て宙に浮いた。ぎょっと見守る間にその泡が形を変え、柄のない鎌のような三日月型の鋭い刃となって、後退し始めていたレイムたちを襲った。
 その硬質な輝きを持つ刃に身を切り裂かれたレイムたちが、耳鳴りがしそうなほどの悲痛な叫びを上げてのたうち回った。恐怖が連鎖したのか、他のレイムたちもまたぎゃあぎゃあと興奮した呻き声を響かせる。
 ベリト、どうしていきなり守ってくれたんだろう。これ、私に味方してくれていると判断していいんだよね?
 思いがけない強烈な援護による急展開に、思考がすぐには追いついてくれない。ベリトの攻撃のおかげで、完全にとはいかないまでも少しずつレイムが逃げ始めている。
 隣に寄り添ってくれていた赤い獣が不意に動き、何かをくわえて戻ってきた。それは先ほどとらえたヒタラの屍だった。皆を転移させるのに血を使ったあと、余裕がなくて床に放置していたんだったと思い出す。体液を抜いたし、レイム達に踏まれたりしたために丸々としていた胴はべこりと潰れ、捩じれかけている。殆ど体液は残っていない。これではもう、二度目の転移は無理なんじゃないだろうか。
 目の前に置かれたヒタラの屍を戸惑いながら見ていると、赤い獣が一声鳴き、役目を終えたとばかりに身の形を崩して耳飾りに戻った。私はその耳飾りをそうっと手に取り、迷ったあと襟元につけた。さっき無理矢理耳から引っ張って取ってしまったため、ピアスの穴が潰れているだろうと思い、服にさしたんだ。
 どうしよう、と悩んでいる間に、ベリトがすごい働きを見せてくれた。本人は一歩も移動していないんだけれど、次々と攻撃を仕掛けて屋上に蠢いていたすべてのレイムを後退させ、地上に落下させるという荒技的な戦法を取っていた。
 いくらベリトの強さがずば抜けていても、これから続々と集まってくるだろうレイムのすべてを退治はできない。だけど今この瞬間、しばらくの安全を作ってくれたのは確かだ。
 奇想天外といいたくなるほど一変した展開に感情が追いつかず、攻撃をやめたベリトがくるっとこっちに向き直して見下ろしてくるのにも反応できなかった。ちょっとの間、ベリトとお見合い状態になる。
 再び、どうしよう、と焦ったんだけれど、いつもであれば助言をくれるソルトの声は聞こえなかった。多分距離的に離れすぎたため、声が届かないのだろう。とりあえず、ベリトは屋上からレイムを一掃し、助けてくれた。私を襲う気配もない。
 ううん、と頭をひねった。
 もしかして、私が何か言うのを待っているんだろうか?
「えっと、ベリト……ありがとう」
 ぱちりとベリトの目が瞬いた。返事のかわりに瞬いたのかなと思ったら、なんとなくベリトに親しみがわいた。
「まだベリトが私を認めてくれていないのは分かってる。だから……えっとね、私、今後もたくさんベリトに頼ると思う。でもベリトが嫌だなって思ったら、遠慮せず無視してくれていいからね。それで、助けてやってもいいかなって思った時は、力を貸してくれたら嬉しい」
 ぽつぽつとつっかえながらも、早口で言葉を紡いだ。
 なんかうまく言えないけれど、突然ベリトが沈黙して協力してくれなくなった理由、今になって納得できた。闇雲にべったりとただ頼るだけだったからだ。ごく当然のように命じて、傲慢にもそれが叶えられると思い込んでいた。私が主に相応しいか決めかねていた状態のベリトは、こういう他人まかせで軽薄な態度を見るうち、次第に失望したんじゃないだろうか。そこで、危機を迎えた時私がどういった行動を取るか、見定めようとしたのかもしれない。
 ベリトの中の基準はまだ全然分からないけれど、とりあえず助けてくれたってことは、もう少し私を観察してみてもいいと思い直してくれたんじゃないかなと思う。
 というか私、ベリトの名前まで勝手に略しているけれどいいのかな。
「あの、ベリトがなんか困ったことがあったら、いつでも言ってね。私にできることがあるなら、協力するからね」
 いつものごとく頭の悪そうな言い方になってしまったけれど、伝えたいことは全部言葉にできた。あんまり長々とお喋りしている時間もないし。
 緊張しつつベリトの出方を窺っていると、出現したときと同様にいきなり青い敷布のような身体が崩れた。すっと地面に溶け込むようにして消える。はっとして自分の親指の爪をみれば、そこに人型めいたベリトの印が戻っていた。私の視線を受けて、かすかに印が震えた気がした。
 ベリトって寡黙だなあ、とずれた感想を抱いてしまった。
「響」
 苦しげなサザ王子の声が聞こえ、我に返った。呑気に茫然としている場合じゃなかった。ベリトの攻撃で屋上からはレイムの姿が消えた。けれども時間の経過とともに再び出現するだろうことは容易に想像がつく。
 サザ王子が私の腕を掴み、なんとか腰を上げようとしていた。けれども、力が入らないようで、顔を大きく歪めた。
「サザ王子」
 私は慌てて彼の服を掴んだ。サザ王子が一度荒く息を吐き、辛そうな態度で私の肩に額を置いた。その身を支えようと条件反射で背中に腕を回した時、ぬるりとした感触が掌に伝わった。
 身体が強張る。顔の一部に火傷を負っただけでなく、背中にも傷を受けていると気づいたためだ。
 一刻も早く手当てをしなければいけない。
「響、戻れ」
 サザ王子の掠れた声が、私の首元にぶつかった。
「お前だけならば、戻れる」
「王子、しっかりして」
 無理矢理でも立たせようとしたけれど、私の力ではサザ王子の身体を持ち上げられない。
「己の過ちくらいは理解している。このように見窄らしい姿を、皆の目には触れさせない」
「何言ってるの!」
「体面の問題ではない」
 サザ王子が顔を上げ、至近距離でこっちを見た。囁くようなその声はどこか熱を帯びていた。
「私の弱さを見ただろう。ろくに剣も扱えぬ。この身分がなければ、何の役にも立ちはしない。もう充分だ、私をこれ以上惨めにさせるな」
「サザ王子ってば!」
「お前が恐ろしい。強大な神の力を確かに持つ。そして誓い通りに人を救う。ならば、私は。王族である以外に意味を持たぬ、その一点のみを求められているのに人一人救えない」
 心を絞るようにして低く語られた告白に、私は言葉を失った。
 サザ王子はやっぱり、私が以前感じた恐れと同じ色をした感情を抱いたんだと思う。自分の居場所がなくなるようなどうしようもない不安だ。だって、何かを求められているのに、その期待に応える力が自分にはないと自覚するのって泣きたくなるほど辛い。罵られるのも、見限られるのも嫌だ。
「……王子、初めてレイムを斬った時、怖かった?」
 私の腕を掴むサザ王子の指に力がこもった。きゅっと引き結ばれた唇を見つめる。
「私ね、初めて斬った時、死ぬほど怖かった。うまく斬れなくて、本当に怖かった。だけど平気だって振りをした。そうしなきゃいけないって必死に思ったよ」
 サザ王子の視線がこっちを貫いた。顔の一部が焼けただれてしまっている。でもこの、とても綺麗な目は無事だった。
「本当は、今でも怖い。これ、秘密ね。斬るのが怖いし、慣れてしまうのも怖い。怖くてたまらない、そう思ってしまうこともまた怖い。なんで私はこんなに怖がりなのかな」
「――それほどの神力があっても?」
「うん。この力がなければ何もできない」
 サザ王子の目が見開かれる。
 私はふと、音を拾った。もう長くは話し続けられない。ベリトが追い払ったレイム達が再び集まり出している。壁を這う音、鳴き声。近づいてきている。
「さっきサザ王子に無理矢理、怖いって言わせようとしてた。ごめんね、サザ王子も同じなのかなって思ったら、安心できる気がしたのかもしれない。卑怯だけれど、同じ気持ちだったら慰め合ったり頑張れたりすると思ったんだ」
 だんだん自分の声が早口になった。レイムの接近する音に脅かされ、拭いようのない深い恐怖がびりびりと全身に広がっていく。いつもいつも怖がってばかりだ。
「この怖さを私はきっといつまでも克服できないと思う」
「だが、お前は確かに人を蘇生させ救っている」
 でもひとりよがりの救いだ、と辛い現実を噛み締めた。
「……サザ王子もだよ。ちゃんと助けた」
「違う、私はただ、己の価値を守るために、ただ斬った。人であるとは思いもしなかった、醜い化け物を切り裂いたとだけ! 私は王子であるのに、国の者を化け物だと!」
 ずるりずるりと壁を這う音。近い。私は震える息を飲み込んだ。
「皆が見限る、己すら守れぬ王子だと。化け物など斬りたくもない、私の過ちと弱さがまた国の者を苦しめる」
「サザ王子!」
「帰れない、とても皆の所へなど!」
 私はお腹の奥に力を溜め、力ずくで王子の顔を上げさせた。
「サザ王子、帰れる」
「放せ!」
「嫌だ、絶対」
 睨みつけると、サザ王子は唇を歪めた。
「だって怖い、サザ王子が死ぬのが怖い」
 私が言うと、サザ王子が歪めた唇をさっきよりもぎゅうっと強く噛み締めた。泣きそうな、脆い眼差しだった。武人然とした見た目とは裏腹に、本当はとても心の繊細な傷つきやすい人なんだろう。そして捨てられない身分に苦しみ、尚かつ縋って、自分を騙してきたんだろうと思う。
「王子、私が死ぬのは怖いと思ってくれる?」
 私は視線をずらした。屋上の手すりから蠢く何かが顔を出した。来た。レイムたちだ。
 サザ王子もレイムの気配に気づいたのか、はっとして振り向こうとする。私はその動きをとめた。
「そっち、見なくていい。サザ王子の言葉で、私はきっと頑張れる」
 サザ王子の目が歪むように揺れる。涙が溢れて、こぼれそうになっている。
「大人でも王子でも怖がっていいんだと思う。怖さを消さなくていい」
 自分が言われたいと思っている言葉をぽつりと口にした。
 サザ王子が俯くようにしてもう一度私の肩に額を押し当てた。ゆっくりとしがみつき、私の背中に腕を回してくる。――すべてが恐ろしい、と小さな掠れた声が聞こえた。その告白を聞いて、安堵と罪悪感を覚えたけれど、突き詰める余裕はなかった。
 手すりを乗り越えてくるレイムを見据えながら、私はすぐ側に転がっているヒタラの潰れた屍に手を伸ばした。
「私、王子と一緒に帰る」
 こっちに近づいてくるレイムたちが、嬉しそうな甘い声で鳴いた。
「お願い、だから一言だけでいい。生きたいとそう言って」
 私は自分を奮い立たせたあと、思い切ってヒタラの屍の中に指を突っ込んだ。冷たくなっている屍。その潰れた身の中から、柔らかくぬるりとした塊をちぎるようにして引きずり出した。多分、心臓に当たる臓器だ。サザ王子が顔を上げる前に、大きな背中に片腕を回す。ぎゅっとサザ王子を抱きしめるような体勢を取ったあと、ヒタラの心臓を持った方の手を自分の顔に近づけた。手の中の潰れた心臓はぬめぬめとしている。魚の臓腑に似ていた。
 転移をしてみせる。
 私はその臓腑に一度唇を押し付けた。生臭く、腐っているようなひどい匂いが鼻をつく。
 額に力を集中させた。それから、心臓を握ったままその手をサザ王子の首に回した。
 ベリトの気配が絶えていることに安心したのか、慎重な動きをとっていたレイム達が喜び勇んでこっちに駆け寄ってくる。
 歪め、空間。
 間近に迫るレイムの姿を凝視しながら、手の中の心臓を一息に握り潰した。ぐちゅっと嫌な音が耳に届いた時だった。指の隙間から垂れ落ちる心臓のかけらが糸状に変化し、くるりと私たちを包む。
 突然、空間がぶれた。柔らかい粘土を押し潰した時のように周囲の景色がどろりと歪む。私は目を凝らした。額が異常に熱い。空間の出口はどこなのか。
『ひびき』とたどたどしく懸命に呼ぶ声が聞こえた。エルだ。そこに帰ってみせると激しく思った瞬間、意識が真っ白になった。額から走る熱に身体を引き裂かれたような気がした。ぱしんと何かが弾ける音が聞こえた。
 
●●●●●
 
「――響!」
 リュイの切羽詰まった声が聞こえた。
 目が痛い、というか、全身が痛い。頭の中が耳鳴り状態で、周囲の様子さえよく分からない。
 何より息が苦しかった。無意識に呼吸をとめていたためだと気づき、喘ぐようにして大きく息を吐いた。
 空間を自在に操るというヒタラの心臓を使ったとはいえ、本来の神力の質を捩じ曲げて転移を行ったせいか、身体におもりを乗せられているかのように重い。
 新鮮な空気を求めて何度も喘いだ。目がちかちかする。
 私の名と、サザ王子を呼ぶ声が何度も聞こえた。遠ざかったり近くなったりと、ひどくうねっているように聞こえた。
 きゅんっとエルの声が聞こえ、頬にざらっとした濡れた感触が伝わる。だんだんと視界がはっきりしてきた。
「エル」
 転移はちゃんと成功したみたいだった。視線を巡らせればそこは皆のいる部屋で、心配そうな目をするエルやリュイの姿が見えた。よかった、カウエスたちの転移も成功していたようだ。彼らの無事な姿も見える。
「殿下!」
 バノツェリの悲愴感溢れる声に、私は視線を下げた。息苦しいと感じたのは、サザ王子がこっちの背中に両腕を回して強く抱きついていたためでもあるようだった。互いを支え合うようにして床に膝をつけたポーズだ。
「サザ王子」
 もう大丈夫だと伝えたくて名前を呼んだら、サザ王子が本当に微かに首を振った。私の肩に額をつけて顔を伏せているような体勢だったので、首筋に王子の髪の毛が触れて少しくすぐったかった。
 顔を上げようとしないサザ王子の身体は必要以上に緊張し強張っていた。もしかしてさっきまでの私みたいに息をとめているんじゃないだろうか。慌てて顔を上げさせようとしたけれど、サザ王子は頑なに動こうとしない。
 そこで、ぼんやりと気づいた。今は、誰にも表情を見られたくないのではないかと。
 どうしよう、とサザ王子の身体を見下ろした時、きゅうきゅうと鳴いて私たちの回りを忙しなく歩いていたエルがうなじあたりに鼻先を押し付けてきた。くすぐったい。
「わ」
 エルがもぞもぞと動いて身を低くし、私の背中を軽くどつくような真似をした。乗りなさい、って言っているに違いない。
 サザ王子を抱えつつ危うい体勢ながらもなんとかエルの背中に乗り、はらはらした顔をする皆に視線を向けて、頭を下げた。
「すみません、少しの間、サザ王子と二人だけにしてください」
 バノツェリや騎士たちから不満と警戒が色濃く滲む眼差しをもらってしまった。イルファイとか率帝はサザ王子の怪我の具合を懸念するような顔をしている。けれど明確な反論の声が上がらずにすんだのは、私たちを背に乗せてくれたエルが牙をむいてあきらかな威嚇の仕草を皆に見せているためだった。ごめんねエル、悪役をさせてしまった。
 もう一度頭を下げたあと、心の中でエルに合図を送った。他の人の目を遮るため、休憩用として使用されているもう一室の方へ移動してもらいたかった。心の声が届いたのか、エルが低く鳴き、片隅に置かれていたソルトをぱくっとくわえたあと、お願い通りもう一室の方へ足を向けた。よかった、ちゃんとソルトも皆と一緒にこっちへ転移していた。
「響」
 頭突きでもう一室の扉をぶち破ろうとするエルの大胆な行動にちょっぴり焦っていた時、イルファイが近づいてきた。何だろうと思って顔を向けると、小さな袋を差し出された。どうやら薬の類いらしい。サザ王子の背に腕を回していたので、体勢を崩さないよう注意しつつもなんとかそれを受け取った。
 イルファイは他には何も言わず、頭突きを繰り返そうとするエルをとめて、かわりに扉を開けてくれた。
 のそのそとエルが中に入っていく。こっちの方には誰もいなかった。どうやらサザ王子の帰還を待つため、全員が最初の一室の方に集まっていたようだった。
 背後で扉がしまった音がした。エルは寝台かわりの布が敷かれている方へ歩み寄ったあと、そっと身を低くした。こっちにしがみついている王子の背を抱えつつも私はエルの背から滑るようにして布の上に移動した。私たちが布の上に座ったあと、エルがくわえていたソルトをすぐ側に置き、ちょこりと忠犬のように大人しく座った。思い切り甘えたい、といういじらしい空気が伝わってきたけれど、こっちの深刻な雰囲気を察して必死に我慢してくれているらしかった。ごめんね。
「サザ王子、もう大丈夫――息をして」
 耳元で囁いた時、私の背に回していたサザ王子の腕の力が一瞬強くなった。それを感じた瞬間、サザ王子が身をかすかに震わせ、絞り出すようにして大きく息を継いだ。やっぱりずっと呼吸をとめていたらしい。
「大丈夫、帰ってきたよ」
 もう怖くないと言いながら、肩を揺らして荒く息をするサザ王子の背を撫でた。息苦しさが原因か、それとも荒ぶる感情のためなのか、苦しげに眉を寄せているサザ王子の目から幾つも幾つも涙がこぼれていた。
「少し休もうね」
 心を刺激しないよう小さな声で促すと、サザ王子に両腕を強く掴まれた。溢れる涙を拭ってあげたいけれど、腕を掴むサザ王子の力は強く、身動きできない。戸惑ううちにサザ王子が寄りかかってきてこっちの首の下に額を押し付け、その後ずるずると崩れるように全身の力を抜いていった。ちょっとびっくりしたけれど、脱力しているサザ王子の頭の位置をずらして自分の膝の上に乗せる。大人しくなったサザ王子の様子を窺いながら、さっきイルファイにもらった薬の袋を開いた。
 とりあえず、サザ王子が落ち着きを取り戻し皆の前に出られるようになるまで応急処置をしておいた方がいい。
 肩をはだけさせて、薬を塗布した。ううん、あとで率帝達にきちんと手当てしてもらわないと。着替えも必要だ。顔を伏せようと少し抵抗するサザ王子を宥めながら仰向かせ、もつれている髪を軽く整えたあと、今度は頬の火傷の具合を見る。
 これは、完全には治らないかもしれない、と暗い気持ちになった。目はぎりぎり無事だけれど、こめかみから頬、そして首の途中までが赤く焼けただれている。きっとすごく痛いに違いなかった。躊躇っている場合ではないかもしれない。すぐにでも率帝たちを呼ぼうか。
「王子、傷の手当て、ちゃんとしよう」
 そうお願いすると、きつく瞼を閉ざしていたサザ王子がゆっくりとこっちを見上げた。
「必要ない」
 すっごく必要だと思う。
「あとでいい。今はこのまま、休息を」
 サザ王子は静かな声でそう言い、疲れた様子で再び目を閉じた。
 その返答に困りながらも、火傷に触れないよう慎重な仕草でサザ王子の目元を拭う。
「……他者の前で泣くのは、七の時以来だ」
 ぽつりと呟かれた声に、私はちょっと微笑んだ。
「サザ王子は我慢強いんだね」
「そうではない、王族たる者が人前で感情のままに泣くことは許されないと……」
「七歳の時は、何が原因で泣いたの?」
 雑談が気を安めるのかもしれないと思ってたずねると、サザ王子は薄く瞼を開き、わずかに唇の端を曲げた。なんだか悔しそうというか、言いたくなさそうな渋い顔だ。
「兄王子に、庭園の噴水の中に突き飛ばされた。その時、周囲には父王の他、複数の従者がいた。全身を濡らして茫然と立ち尽くす私の姿が滑稽だったのか、皆が笑った」
 う、うん、それは確かに泣きたくなる。
「だが、当時の涙と、今は違う。いつになれば、これはとまる?」
 本気で分からないというふうにたずねるサザ王子の表情は、途方に暮れた子供みたいだった。
「サザ王子の心と身体が、もういいよって言うまでだと思うよ」
「そのように思ってもとまらない」
「じゃあ、もっとたくさん流すといいよ。涙って自浄作用があるんだって」
 私はもう一度サザ王子の目元を拭った。
「だがこの後悔と弱さは、浄化されない」
 サザ王子はわざと否定の言葉を口にすることで、私からの反論を待っているように見えた。
「でも、泣いたら、生きてるなあって感じがするよ。たくさん泣いたら特に。目がひりひりするし、鼻の奥が痛くなるし。悔しい、辛いってすごく思う。心が身体を動かしてる、生きているから泣いてしまう。私もサザ王子も、こんなに生きている」
 艶めく葡萄色の目にまた涙が浮かんでこめかみに流れた。私はその、透明な涙を溢れさせる目という小さな湖を覗き込んだ。
「生きて帰ってこれた。お帰りなさい、王子様」
 サザ王子が瞼を震わせ、その後細く息を吐いた。
「響、あなたは、私を許すか?」
「え?」
 どういう意味だろう。皆の反対を押し切って結界の外に出たことについてだろうか。許す、という言い方は相応しくない気がした。けれどもこっちを見上げるサザ王子の目にはまだ涙が浮かんでいて、とても不安そうに揺れている。迷いつつも、うん、と頷いたらサザ王子は安心した様子で身じろぎした。
「困らせて、すまない」
「ううん、こっちこそごめんね。私ったらすごく不審人物だよね。いきなり世界を掻き回すような真似をして、ごめんね」
 どんなに普段は冷静で気丈な人であっても、蘇生直後に壊れた世界とたくさんのレイムを目にすれば、正常な判断などできないだろう。重い責任を背負っているからこそ極端な考えにとりつかれてしまう。そういう心の動きをないがしろにして、むりやり突き進もうとしてしまったのは私だった。この人達は、感情を持たない人形とは違う。ソルトが言った通りだ。打てば響くように、鮮やかな反応を返す「ひと」だった。
「響」
「うん」
「私の側から離れずに」
 うん? と首を傾げた時、サザ王子がふっと身体の力を抜いた。眠りについたというよりも、起きているのがもう限界で気を失った状態に近いようだった。
 サザ王子の意識が完全になくなっているのを確認したあと、横で見守っていてくれたエルに目を向けた。少し考え、イルファイを呼んでもらおうと決めた。治癒ができそうなのは率帝、クロラあたりだろうけれど、一番冷静なイルファイを呼ぶのがいいような気がしたためだ。
 エルはちょっぴり私に擦り寄りたそうなそわそわした素振りを見せつつも、視線の意図を汲んで扉の方に向かってくれた。がりがりと前足の爪で扉を引っ掻き、向こうに待機しているだろう彼らに合図している。慎重な感じで外側から扉が開かれ、何人かの不安そうな顔が覗いた。こっちに来たそうな表情を見せる人々をエルが制し、イルファイに向けてがうっと合図していた。
 少しの時間のあと、サザ王子の着替えらしき布と薬を持ったイルファイがこっちの部屋に入ってきた。他の人は駄目、という感じで番犬よろしくエルが扉付近を守っている。
「殿下のご様子は」
 イルファイが声をひそめてそう言い、私たちのすぐ側に膝をついてサザ王子の全身に素早く視線を走らせた。その目が肩の傷と顔の火傷を捉えた時、厳しさをまじえた暗い色を滲ませた。
「これは、酷いな」
 低い声で独白したあとイルファイは口を閉じ、意識を失っているサザ王子の手当てを黙々とした。その後、着替えをさせるためにサザ王子の頭を私の膝から移動させ、そっと横たわらせる。手当てや着替えをさせるイルファイの動きはよどみがなく、滲ませる気配も何か強くて、私が手伝うのを拒否しているような感じがしたため、ただぼんやりと見ているしかなかった。そういえば私自身もいくつか怪我をしていたけれど、何だか頭や額あたりが痛かったし全身もだるく感じられたので、自分で手当てをする気力を抱けなかった。扉付近にいたエルがこっちに戻ってきて心配そうに鼻先を押し付けてくる。私はエルに寄りかからせてもらうことにした。不思議なことに、助かったはずなのにあまり喜びがなかった。
 サザ王子の着替えなどを終わらせたイルファイが小さく嘆息し、身体の向きを変えてようやくこっちを見た。
「さて、お前にも手当てが必要だ」
 イルファイの声がいつもより素っ気なく響いた。私が当惑しているのに気づいたらしく、さっきよりも深めに溜息を落としている。
「本来であれば、よくぞ殿下の命を守り戻ってきた、とねぎらうべきなのだが」
「……ん」
「これは、覚悟をした方がいい」
 イルファイがあぐらをかくようにして座り直し、片手でぐちゃぐちゃと髪を掻き回した。
「殿下の顔の傷、大きく痕が残るだろう。レイムの毒に焼かれたのだな」
「うん」
「治癒の術をもってしても完治は難しい。そもそも治癒とは、やわらげる、という程度のものでしかない」
 気難しそうな顔をして、イルファイはこめかみを押さえた。
「お前にとっては不本意だろうが……さすがにな、この私でさえ、どうも悪しき感情が生まれるのだ。殿下が深手を負った。それも、顔に消えぬ傷だ。この場合の顔とは、個人の顔の問題にとどまらぬ。王家の、国の顔だ」
 イルファイの抑揚のない静かな声に、俯いてしまった。本当に、そうだ。私だって、もし顔に大きな火傷を負ったらすごく辛い。サザ王子の場合は、そういった気持ちだけじゃなくて重い責も背負い、苦しむことになるんだ。
「忠誠心の薄い私でさえこうだ。事情を顧みずに、まずはお前を責めたくなっている。もはやただの娘ではない、巨大な神力を宿す者だと認識しているがために。とすれば、王家の信望者であるバノツェリ殿や騎士たちがどう捉えるか――分かるな」
「……うん」
 イルファイの言葉が胸の底に落ちた。責められて当然だ。サザ王子のことだけじゃない。一人、蘇生したはずの人がレイムのまま死んでしまったのだから。



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