F2:29


 私の側にというよりサザ王子の側に寄ったイルファイたちが皆一様に難しい顔をして床に膝をついた。率帝の視線を受けて、率使の一人が床に地図を広げる。
「殿下、響様、見ていただけますか」
 地図を見てほしい、ということらしい。私は頷いたあと、すぐ横に寝そべっているエルのお腹の毛を撫でながら地図を覗き込んだ。ああ、エルったらそんな、お腹を上にして寝転がっちゃって。撫でてほしいのかなあ。
「今後の行軍についてだがな。結論として、絶えず移動しながら人員を増やすという案、場所を一つ確保するという案、どちらも危険があることにはかわりがない。だがやはり国民を蘇生させていく点を考えれば、無理をしてでも今拠点となる地を得ておいた方がいいだろう」
「一体どの地が適しているかを話し合ったのですが。比較的危険の少ない――つまりはレイムの出現数が少ない地であれば、我々側の被害も最小限で済むことでしょう。しかし、こういった規模の小さな村や集落であれば、以前イルファイ殿が指摘したように設備の面で問題が出てきます」
 イルファイと率帝の話に耳を傾けつつ、私は地図を凝視した。
「そこでだ。何を選択したところで危機は避けられない。ならば別の観点をもって拠点となる地を選べばよい」
「別の観点?」
 イルファイの言葉に私はきょとんとした。
「そうだ。ガレ国は神国。このあいだ、神々が生み出した『歪み』と『色』の話を聞かせただろう」
 うん、それはすっごくよく覚えている。イルファイったらあの時、肝心の話を脱線させて、神々にまつわるとんでもないエピソードを聞かせてくれたんだった。
「神国ゆえガレ国内には大小様々な神殿の建設数が多い。だがこれらの中でも特に要とされる神殿がある。まずはこの王都に存在する主神殿――」
 イルファイが自分の指を地図上の王都に置いた。
「そして、ラヴァンの神殿、その地から右へ移り、コルティティの神殿、更にワイカの神殿、アンズィナの神殿、メルランの神殿」
 イルファイは重要な神殿がある地の名をあげながら、指を動かした。いびつな手の形をした国の中を動くイルファイの指には迷いがない。
 あれっと思った。イルファイの指の動きを線で繋いで想像してみると、まるでそれは……なんていうか、最終的に風車みたいな形になると気づいたためだ。ええと、王都の神殿を中心にして四つの三角形が作られ、そして離れた場所にぽつんと一つ存在する。つまり、要である神殿の数は全部で十だ。神の数と同じ。それに、随分王都付近に集中している。まるで、離れた一点の他は王都を囲むように。
 私は首を捻りながら思ったことをそのまま口に出した。風車みたいな図になるね、と。
「まさしくその通り」
 イルファイがとても嬉しそうににやりと笑った。うん、イルファイは本当にこういう話が大好きというか、大得意だ。
「言葉通り、風車だ。『色』――『四季』の巡りを、風の巡りと照らし合わせているためにな」
 まさか本当に風車をモチーフとしているとは思わなかったので、びっくりした。というかこの世界にも風車があるんだ。
「季節の巡りは、豊かな恵みを大地にもたらす。春の息吹は生命を生み、夏の光は活力を、秋の大地は収穫を、冬の気配は安息を。つまりこれら神殿は、恵み豊かであれ、と大地に仕掛けた壮大な術の楔であり、神々の生みし『四季』を讃える図を描いている」
 うわあこの国って本当に神様との繋がりが濃いんだと感心してしまった。建設物の位置も重要な意味がある。中国とかでいう風水みたいな感じなのかな?
 もしかして、王都を中心として作られる四つの三角形って、春夏秋冬をそれぞれ表しているのかも。
「察しがいいな。そう、これらは四季それぞれを司っている」
 すごいや、まさに巡り巡って『四季』なわけだ。
 神話が本当に、大地の中に溶け込んでいる。
「また、この王都も同時に包み、守護結界としての役割も果たしている。神官らの巡礼地としてもな」
 巡礼……季節の巡りを、ここにも重ねているんだろう。何重にも意味を持っているんだ。
 私は風に吹かれてくるくる回る風車を連想した。巡る季節が恵みを生み、守護と変わり、王都を守っている。
 もしかしたら私が知らないだけで、日本の地にもこういう隠された意味があったりしたのかな。たとえば京都とか、すごく謎めいた過去が隠されていそうな感じがする。もっと色々なことに目を向けてみればよかったと後悔した。自分が暮らしていた土地の歴史でさえ全然知らないという事実に気づき、少し衝撃を覚えた。
 ふと、日本にいたころテレビで見た世界七不思議を思い出した。確かピラミッドとかが七不思議の一つに数えられていた気がする。世界繋がりで、世界三大美女なんかも思い出してしまった。クレオパトラと楊貴妃と小野小町だっけ。
 エヴリールにも世界三大美女の話とかあったりするのかな。
 そんな他愛のない考えを弄んだり、エヴリールの謎に思いを馳せて気を緩ませていた時だった。
「今、この国は終わりの危機に瀕している――換言すれば、冬の状態だ。ゆえに、呪法の意味をもって逆の、春の地から制していく、というのはどうか。要となる十の地をおさえることは、この国を制すると同義だ。つまり、呪術の意に則り地を正していけば、自然と浄化が働き、国民すべてを斬り回る必要がなくなるのではないか」
 まだ続いていたイルファイの説明に、慌てて耳を傾けた。呪法の意味をもって?
 ああ、ガレ国は神国で大地にも様々ないわくや術が施されている。だから冬の状態である現在の荒廃をとめ、制するために、わざと逆の春を意味する場所を手始めに正そうということか。
 そうすれば――この、フォーチュンが仕掛けた壮大な荒廃の呪に、亀裂を入れられる。蘇る大地の守護が力を取り戻し、やがて呪を打ち破って、全員を斬らなくてもよくなる。
 そういうアプローチがあるって、今初めて気づいた。
 すごい、やっぱり私一人だけの力では無理で、こうして皆で力を合わせて前に進むことが大事なんだ。
「春を司る地は……」
「ラヴァン方面だ」
 イルファイの簡潔な言葉に私はびくりとし、目を見開いた。イルファイの真剣な眼差しとぶつかる。
「そう、ラヴァン。春を司る地で、我らの存在するこの地から最も近い要の神殿だ。数奇なものだ、お前もこのラヴァンに着目していたな。そしてその神力と共鳴し加護を得られると」
 私は口を開き、けれど言葉を発さずにただ視線だけをイルファイに向けた。
 ラヴァン。
 これが因果というものなのだろうか――どうあっても、その地から目を逸らすことはかなわないのか。
 先ほどまでの高揚感がすっと凍り付いた。
「響?」
 イルファイが怪訝そうに名を呼んだ。
「響」
 リュイまでも気遣わしげに名を呼んだけれど、返事ができない。感情の塊が喉につっかえており、その苦しさに思わず口許を手で覆った。
「どうした」
 サザ王子があでやかな色の目をこちらに向けてくる。
 吐き気が強まった。逃げられない。どうあっても運命の流れはラヴァンをはっきりとさしている。
 私は立ち上がり、皆に背を向けて数歩進んだ。ざわりと背後の空気が動揺を伝えて動く。けれども彼らを気遣う余裕をすぐに取り戻せない。逃げ出しかけた自分の足を辛うじてストップさせるのが限度だった。
 私は虚空を睨んだ。ラヴァン。行くしかないのか。まだ全然覚悟が決まっていないこの状態で。
 違う、私の覚悟など、この世界にも運命の流れにも関係がない。突き進まなければそこで道も希望も閉ざされる。
「――分かりました。ラヴァンに決めましょう」
 私は振り向き、元の場所には戻らずこの場に立ったまま皆に言葉を返した。
「けれども、転移を利用してラヴァンに到着した後、その地を正す前に、訪れなくてはならない場所があります」
「何?」
 イルファイが探るような目をしてたずねた。私は感情を押し殺し、その目を真っすぐに見返す。
「ウルスへ。そこへ行く必要がある」
「ウルス……?」
 不思議そうに首を傾げるイルファイの横で、リュイが顔を強張らせ、信じ難いものを見るような目をして私を凝視した。
「ウルスとは……ラヴァンの近隣か? なぜ折角訪れたラヴァンを後回しにしてまで、ウルスを優先させる必要が」
「理由は後ほど分かります。その前に、皆さんに聞いてもらわなければいけないことがある」
 私はイルファイの疑問を切り捨て、あえて強い口調で言った。今、なぜ、という理由を問われたら、正気の答えを返せないためだった。
「神剣での蘇生は可能です。サザ王子も神剣を持てる。それはいい、だけど、蘇生のチャンス……蘇生が可能となる機会は、一度だけしかないんです」
 空気が凍り付いた。
 特に、サザ王子とカウエスやユラスタ、つまり二度神剣で斬った人間が蘇らずにレイムのまま死んだという事実を目撃した人々が顔を蒼白にした。
「どういうことだ?」
 イルファイも立ち上がり、私の前に立って深刻な顔を作った。
「今の時点では、神剣でしか蘇生させることができない。私の力がまだ弱いし、イルファイが言った呪術を仕掛けていくには、やっぱりまず戦う以外にないです。だから今は神剣を頼りにするしか道がありません。でも、その神剣にさえ限度がある。一度しか、蘇生させられないんです」
「なぜだ」
「一度真剣で蘇った人が、また穢され、レイムに戻る。その人を再び蘇生させることはできないんです。もう一度神剣で斬ったとしても、人には戻らずレイムのまま息絶える」
「なぜ分かる」
「それは――」
 私は目を閉じ、そしてすぐに瞼を開けて、睨むようにこちらを見るイルファイに言葉を投げた。
「その事実を、目にしたからです」
 聡いイルファイは、私が何を言いたかったかすぐさま理解したらしく、息を呑んだ。
「だからどうか皆さん、無茶をしないでください。命は何度も奇跡を受け付けない」
 まるで憎まれ口のような言葉をたたき出す自分に嫌悪しながらも、とめられない。
 これは保身だ。イルファイが気づいたように、他の人達だってそのうち理解する。なぜ二度の蘇生が不可能か。目撃したという言葉がどんな事実を示すか。
 そうすればまたこの人たちに、責められると思った。救いにきたはずなのに殺したのかと。
 だからその糾弾を封じるために、脅すような台詞を吐いた。なんて卑怯だろうと思った。それでも――ラヴァンへ、ウルスへ行けば、今寄せられるはずだった糾弾よりも尚激しい憎悪を向けられるはずだ。
 私は何も強くない。何度も批判や憎悪を受け止められない。
 たとえ仮であっても、これが神の眷属を名乗る人間の考えることだろうか、と一瞬自分に嫌悪した。だけど、自分を否定し続ければ、いずれ行動にもその負の感情が表れるようになるだろう。自分でさえ認められないというのに、他人が信頼を見せるはずがない。
 私は一旦自分の思考を打ち消した。考えすぎては駄目だ。結果を出せば認められる。
「まずはラヴァンに転移を。そこからすぐにウルスへ向かいます。支度をしてください」
 偉そうによく言う、と嘲笑う自分の心の声を無視して、私は皆へそう伝えた。
 皆のもの言いたげな目も全部遮るようにして、自分の支度をするふりをするためエルの方へ行き、バッグの中身を確認する。飲料水が本当に残り少ない。どこかで補充しなければこの先全員が苦しむことになるだろう。全てが全て、不足していると感情のままに苛立ちを見せたくなる。
 荒んでいる場合じゃない、落ち着かないと。
 そっと深呼吸した時、イルファイやリュイたちがこっちへ近づいてきそうな気配を感じ取った。咄嗟に拒絶の念がわき、彼らに対して完全に背を向ける体勢を取った。虚空へと投げた視線は、偶然その先に立っていたカウエスとぶつかった。いつもおどおどとしていて滅多に誰かと視線を合わせようとしないカウエスが、珍しくも私をじっと見ていたことに違和感を覚えた。自然と足がそっちへ向かう。
「カウエス、ラヴァンへ行く準備をしてね」
 平常心、平常心、と胸中で繰り返しながら、動こうとしないカウエスに声をかける。
「……どうしてですか?」
「え?」
「なぜ今、あんなことを言ったんですか」
 私は薄く浮かべていた愛想笑いを消し、まるで責めるような色を乗せているカウエスの目を見返した。
「あんなこと……?」
「今は皆、不安で一杯ですよ。それなのにわざわざ、蘇生は一度きりだと告げるなんて。今でさえ限度なのに、余計不安を煽るようなことを、なぜ言ったんですか」
 カウエスは両脇に落としている手を拳の形にして強く握りながら、他の人には聞こえないような小さな声で告げた。私は返答につまった。
 確かに、皆の不安をひどくかき立てた発言だっただろう。けれども、今伝えなくてはこの先――
 あとで知られた場合、知っていたのになぜ黙っていたのかと詰られるじゃないか。
 胸の中にどろどろとした嫌な感情が広がる。これもまた保身だろうか。
「せっかく黙っていたのに。ユ、ユラスタさんも、今は言わない方がいいって、だから僕も黙っていたのに」
 そうだった、ユラスタやカウエスは庭堂で、二度の蘇生は不可能であるという事実を目撃していたのだった。
 心の表面がやすりで削られたかのように、ざらざらになっていく。
 すっごく嫌な気持ちが芽生える。ユラスタが言わない方がいいと判断したから、それに倣うの? じゃあカウエス自身の意見はどうなの。人の判断を自分のものにして、それで私を責める権利がどこにあるの。
 狡いと思った。ううん、羨ましいという妬みから派生した卑劣な非難だ。私だって、誰かに判断を預けてしまいたいよ。
「……どんなに苦しい事実でも、今、受け入れてもらわなければ、覚悟をしてもらえないと思ったから。何度でも蘇生ができるともし思っていたら、レイムに再び襲われそうになった時、自分の命を簡単に投げ出してしまうかもしれない。それは不可能なんだと最初から気をつけていたら、心構えが違ってくると思う」
 生きることに対する執着を捨てないでほしい。
 醜い妬みを底に封じ込めて、真実を告げた理由を淡々と説明した。
「そんなむごい心構えなんて」
「死なないでほしいから。自分の力で、自分の命を守ってほしいから」
 たとえ誰かの救いの手があったとしても、本人が死に物狂いで自分の命に執着しなければ意味がない。
「そんなの、勝手だ」
 カウエスが下を向き、声を震わせてぽつりと言った。
「勝手……?」
「誰もが、戦える力があると思うんですか。誰もがあなたみたいに、強いと思うんですか」
 私が強い?
 心底驚いた。こんな私が、強いと思われている?
「皆があなたのように覚悟を抱けるはずがないですよ。それは、強い人の言い分じゃないですか。どうしたって強くなれない人もいるのに」
「覚悟を、簡単に抱くことなんてできないよ。私だってとても怖いと思うけれど、でも」
「でもできているじゃないですか。それにあなたには、神力があって、月迦将軍の信もある!」
 カウエスが顔を上げて、頬を紅潮させた。
「押し付けないでください! あなたみたいに、英雄のようになれない人だってたくさんいるんだ」
 愕然としてしまい、声が出ない。
 何の冗談を言われているのだろうかと本気で思った。
 英雄? 一体誰が?
「よ、世の中には! 英雄が誉れを受けて輝く裏で、存在さえ気づいてもらえない者だっている。あなたたちは、いつだって同じ立場に立つ英雄の安否しか、気にかけないじゃないか。本当は、名前さえ覚えていないような僕らの生き死になんて、どうでもいいんでしょう。強く、立派な者しか必要ないんでしょう!」
「カウエス」
「だから、簡単に惨い事実を告げて、覚悟を決めろと言えるんだ。僕、僕らのことなんて石ころくらいにしか思っていないから! 強くなれって言われても、分からないですよ。僕だって、懸命に追いつこうとしているのに! 顧みてもくれないのに、押し付けるばかりだ。僕らのことなどこれっぽちも考えていないから!」
 違う……違う違う!
 大声で自分の思いをぶちまけてしまいたい。この神力がなければ、私なんてそれこそ誰の歯牙にもかけてもらえないちっぽけな存在だ。その他大勢、という言葉で括られてしまうような、ちゃんと一人の人間として数えてももらえない小さな存在。もし本当に私が、何もせずとも人目を集める優れた人間なら、天界へ飛ばされた時、オーリーンたちの方から助力を願ったはずだろう。だけども現実はどうだったか。逆の反応をされたのではなかったか。
 これほど英雄という言葉から程遠い人間はいないと思う。そもそも、英雄という表現さえ、違和感どころか異世界語に聞こえてしまうほど馴染みがない。物語の中でしか見ないような言葉だ。
「違う、それは、絶対に違う」
 なんとかその言葉だけを絞り出した。胸にわいたこの感情をうまく伝えられない。
「庭堂で、ガノッサ殿にも、同じようなことを言ったじゃないですか。耐えられないってあんなに怯えていたのに、無理矢理耐えろと命じて。ただ命じるばかりだ。どんなに苦しくて辛いか、知ろうともしないくせに」
 発熱した時のように、じわっと身体が痺れ、虚脱感に襲われた。
「強い人は、皆勝手だ」
 カウエスはもう私と目を合わせようとしなかった。
 それでも、何かを言わなければと思って口を開いた時、カウエスがびくりと肩を揺らして私の背後に目を向けた。
 振り向くと、いつからそこにいたのか、ロアルが立っていた。
 なぜロアルが、と疑問に思った瞬間、敵意がこもった目を向けられた。
「殿下に取り入ることが成功して、ご満足?」
 ロアルの厳しい表情から、視線を逸らせない。
「私はあなたをよく知りません。けれど、知っても知らずとも、あなたを認めません。リュイ将軍に、何をしたの。あなた一人のために地位も名誉も仲間も全て捨てさせるなんて。リュイ将軍を、狂わせるおつもりなの」
 悔しさの中に憤りをこめて、ロアルが唇を震わせていた。
 さっき、今は誰にも責められたくないと思った。その矢先に批判されている。保身を選んだ代償が、この事態なのだろうかと頭の片隅で納得した。
 私は反論の言葉を殺し、無言で二人の側を離れた。
 もういいや……。
 
●●●●●
 
 ラヴァンへ向かうためには、まず転移の間へ移動しなければならなかった。
 この何日かで、イルファイは術をいくつか習得できたと言っていたし、率使たちも随分魔力が復活したらしいので、転移の間へ向かう途中で魔物が出現しても、それほど懸念する必要はないとのことだった。
 先頭を率使たちが守り、あいだに戦えぬ人たちを挟んで、後尾を騎士が固めるという配列で転移の間を目指した。私はエルにまたがり、最後尾を進んだ。気持ち的に、皆から離れていたかったためだ。
 けれどもなぜか私の隣にはイルファイがいる。
 イルファイは禁書を読みながら歩いているので、少し足元が危うい。注意した方がいいのか迷い、結局は何も言えないでいた。でもいつ転んでもおかしくなさそうだ。
 私はエルの背から降り、もしイルファイがこけた時には支えようと思って、自分の足で歩くことにした。実はそれまでエルの背に乗っていたのは、誰にも話しかけてほしくなかったためだった。
 皆の足音をぼんやりと聞きながら進む。周囲の様子を確認する気力もない。私が警戒せずとも、何か異変があれば勘の鋭い誰かが気づくだろうと無責任な考えを持った。
 曲がり角に差し掛かった時だった。
 先をゆく皆の姿が一瞬だけ見えなくなった瞬間、ぶっきらぼうな動作で突然肩に腕を回された。
 ぼんやりしていたために飛び上がるほど驚き、腕の持ち主であるイルファイを見上げた。イルファイは片手で禁書を持ちながら熱心に読んでいる。ちらともこっちに視線を向けない。
 けれども、肩に回った手が宥めるように動き、ぽんぽんと背を軽く叩く。それから一度頭に乗せられ、ぐしゃっと乱暴に撫でる動作を取る。
 おかげで髪が乱れた。あとで縛り直した方がいいかもしれない。
 文句を言おうと思ったのに、声にならなかった。
 乱暴だけど労りを含んでいるような手にすがりたくなってしまい、困った。
 イルファイ、狡いや。
 こんなふうに――不意打ちのように優しさをくれるから、やっぱりこの国の人たちを憎んだり嫌ったりできなくなる。
 一人だけ逃げ出すことが、できなくなる。
 大人って、どうしてこういう絶妙のタイミングで誰かの辛さを労ることができるんだろう。そういう経験は何歳になったら積んでいけるのか。
 私は言葉を発するかわりに、恐る恐るイルファイの腰帯を握った。
 先を歩く誰かが振り向くその時まで、イルファイの腰帯を掴みながら歩きたいと思った。

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