撩乱/月夜遭遇[3]

 一輪の白い花、クルシアを見つけたのは、夜が最も深く濃くなる時刻をわずかに経過した頃だった。
 リスカの意識が少しずつ混濁し始めた頃でもある。
 さすがに足下が覚束なくなり、全て投げ捨てて地面に寝転びたいと切に願った瞬間、不意に風がそよいだのだ。
 風が伝える。花の命のきらめきを。
「ああ」
 思わず声が漏れた。吐息なのか感嘆なのか、自分でも分からなかった。
 気がつけばいつの間にか雑木林を抜けて、樹海という言葉が相応しい巨大な森の中へさまよい込んでいるようだった。
 追っ手の心配はもう無用だろう。というよりも、最早どうでもいいという投げやりな心境だった。
 幸いなことに、それらしい影とは遭遇していない。
 リスカはゆっくりと、握りしめた魔剣と我が身を見比べた。
 どちらも傷つき、血に塗れて酷い有様だ。
 ただ、どれほど傷ついていても、この魔剣には否定できぬ確然とした価値がある。
 恐らく、リスカの命よりも。
 漠然とそういったことを考えた。
 考えながら、既に手は一輪の可憐な花へ伸びていた。
 自分の怪我を治したところで、これまでの運命が一変するほど格別奇麗に見えるわけではない。その点、魔剣は全ての穢れを払えば、きっときっと美しく、目映いほどの輝きを取り戻すことだろうと思う。
 あぁ見てみたいな、と心底望む自分がいた。
 少し切ないような気がした。
 リスカは意識を切り替え、花の入れ墨に覆われた自分の指に、魔力を集めた。覚悟した以上の抵抗感と痛みが指先に伝わり、その刺激に精神の一部が本能的な拒絶を訴える。リスカは更に集中力を高め、己の魔力を叩き起こした。
 精神からの糾弾を無理矢理ねじ伏せて目覚めさせた魔力は思惑通りには定まらず、暴れ狂う龍神のように猛り、体内を秩序なく縦横無尽に駆け巡ってはリスカの精神を食い荒らす。魔力が制御できないと苦痛はそのまま我が身に還る。魔術は便利である分、扱い方によってやはり諸刃の剣であると再認識させられる。
 ……ちょっと、辛いなあ。
 奔放に暴れる力が表面にまで噴き出してしまい、皮膚を破った。耳鳴りがするくらいの頭痛に襲われて目が霞む。それでも指先に刻まれた花の模様が少しずつ色づき始め、リスカは安堵した。
 炎に触れたかのような、痛いほどの熱が指先に集まる。花の模様が淡く輝き、天の邪鬼な魔力がようやく正しい方へと流れ出す。
 花術師で唯一よかったと思う点は詠唱を必要とせぬことだろう。
 リスカの魔術は言葉には従わぬ。瑞々しく咲き誇る花にのみ、恭順の姿勢を見せる。
 十分に魔力を集めた指先で、ひっそりと儚く蕾を広げる白い花に触れる。神秘に包まれた深き夜の静寂を壊さぬよう、ゆっくりと花びらを一枚千切り取って、一気に魔力を注ぎ込む。クルシアの花びらは一輪に五枚。一枚目、二枚目と失敗し、瞬時に燃え上がって灰になった。焦燥感が滲み、舌打ちしてしまう。三枚目は途中までよかったが、一部分花びらの方が萎れていたため、流し込まれた魔力に耐えきれなかった。四枚目は先端部分が虫にくわれて変色しており、使い物にならない。
 最後の一枚に、研ぎ澄まされた望みを託す。
 さあ、生命の泉よ、迸れ――。
 咲き誇れ、舞い狂え、叡智の花、豊穣の華。
 指先を細い針で貫かれたかのような、一瞬の鋭い痛みが走った。喜びに似た痛みだ。
 次の瞬間には、気力を振り絞って作り上げた治癒の花びらが完成する。
 空を渡る鳥が落とす羽根よりも軽く頼りない一枚の小さな花びらに、残されていたありったけの魔力が注ぎ込まれている。
 何とか成功したと安堵を含んだ達成感に息をつくと同時に、全身の力が抜けてくたりとその場に座り込んでしまった。寒々しく感じるほど、気力も魔力も体内から抜け落ちている。
 まずい、あとで気絶するかも、と苦笑が漏れた。後悔は感じないのだから、不思議なものだ。
 リスカは早速完成させたばかりの花びらを魔剣に乗せた。
 魔剣はしばらくの間何の反応も見せなかったが、突然、覚醒したかのように、キン、と金属音を響かせた。
 刃の上に乗せた白い花びらが早くも形体を崩し始める。輪郭が溶け出し、水を吸い込むように、花びらにこめられた魔力が剣の中へ流れていく。
 湖面に生じた波紋のように、剣の中へ注がれた魔力がざっと波打った。瞬きする間に、魔剣は回復していた。呆気ないと感じるほどだった。
「美しいね」
 賞賛の声が漏れるのは仕方がない。
 美しい。リスカは詩人ではないから、巧みな表現で魔剣を誉め称えることができない。
 先端へいくにつれて徐々に鋭さを増す細身の刀身は、すらりと真っ直ぐに伸び、月明かりに目映く冴え渡る。銀色の複雑な蔦の模様は、まさに典雅で艶美。鋼も骨も容易く斬り落としてしまいそうな切っ先の鋭利さは、剣を握る者ならばどのような美酒よりも強い快楽の源となるだろう。剣の美貌に心奪われ、強靭な白刃の威力に酔い痴れる。思う存分与えられる淫靡な高揚感。月夜に円を描いて翻る凶器の軌跡を、幾度も夢想せずにはいられない。
 魔を秘めたるものは、かようにして甘く、美しい。
 リスカは少しの間、時を忘れて魔剣の輝きを堪能した。幸か不幸か、絶え間なく押し寄せる足の痛みと目眩のせいで、魔剣が発する脅威をそれほど感知せずにすんでいた。
 自分が主になりえないのは、心底残念だ。
 リスカはふらつきながらも、魔剣に対する僅かな未練を打ち消すべく、呼吸を整えて立ち上がった。
 最後にもう一度魔剣を眺め、そして丁寧にすぐ側の樹木へ立て掛けた。
 持って帰りたいのは山々だが、リスカの手には相応しくない。これほど大層な値打ち物を持ち歩いて、万が一、あの野蛮な盗賊達に出くわし、折角癒した魔剣を強奪されるのはたとえ想像の中でも我慢ならなかった。まあ、魔剣の方も盗賊達に盗まれるなど許せぬだろうが。
「出会うべくして出会う者が現れる時まで、森でゆっくり眠るとよい」
 森の葉は主となりえぬ者を排除して、運命を担った者を正しく招いてくれるに相違ない。
 リスカは微笑み、静かに魔剣へ背を向けた。
 目眩を堪えて夜空を仰げば、上弦の月が艶やかに夜を彩っている。
 月と魔力は結びつく。
 月光の恩恵に縋って、魔力が体内に再び満ちるまで、しばらくリスカも一時の安息に身をまかせようと思う。
 
●●●●●
 
 涼やかな夜に見守られ、ようやく目覚めた時には、既に太陽が天空を駆け上がっていた。
 日差しの強さから、時刻はもう正午をかなり過ぎていると分かる。
 リスカは重い瞼を指先で強くこすったあと、緩慢な動作で身を起こした。
 ここはどこだろうとぼんやり考えて、周囲の景色を確認し深い溜息を漏らす。
 そうだった。昨夜森の中を歩き回るのに疲れ果て、適当な木の幹に寄りかかった途端、気絶するようにして眠ってしまったのだ。
 露出している顔や手は長時間外気に晒されていたため氷のように冷たかったが、防寒効果のある術仕込みの外套をまとっていたお陰で身体の芯までは凍えていない。夏は唸るほど暑く冬は木々が凍り付くほど気温が低下するという厄介な国の、この微妙な季節に、冷気漂う森の中で一晩明かせば「一歩間違えるとあわや凍死寸前」という目にあっても不思議はなかったが、昨夜はいつもより暖かい日であったらしい。足の怪我が熱をもっていて、寒さなど感じる余裕がなかったのも不幸中の幸いだった。
 今も身体は燃えるように熱い。怪我のせいで熱が更に上がったらしい。
 野花を運良く発見したとしても体力の消耗が激しいため、さすがに魔力は使えそうにない。
 身体が鉛のように重く、かなりの汗をかいていたが、倦怠感を伴う熱よりも喉の乾きの方が深刻だった。
 ……もう、自棄だ。
 リスカは真っ直ぐ店への帰路を辿ることにした。
 他に帰る場所なんて、ない。
 
●●●●●
 
 とは思いつつ、店が近づく頃になると、熱でふらつく足は自分の心情を如実に表して更に歩みが遅くなった。
 昨夜の盗賊達がまだその辺をうろついていたら、どうしよう。
 今ならば間違いなく抵抗できない。
 しなくてもいい最悪の状況を想像し、余計に気分が悪くなる。
 けれど、暖かい寝台と水が恋しくて、躊躇いつつも我が家へと続く道を辿ってしまう。
 リスカの自宅兼店は、町の大通りから外れた寂しげな場所にある。
 民家も少なく、活気とは無縁の場所だ。
 なにせ、リスカは花術師。
 野花が無料で入手できる森付近に店をもった方が、都合がいいというものだ。
 確かに町の中心部から離れているため不便な点も多いが、隣町へと行き来する道に沿った場所でもある。町民達ばかりではなく、遠方より訪れた旅人が立ち寄るのを期待して、あえて町外れに店をかまえたのだ。
 ……この微妙な立地条件が今回の悲劇を招いたといえなくもないが、今更嘆いても仕方がない。
 リスカは店の外観が窺える場所まで到着したあと、ぽつりぽつりと立つ木の影に身を寄せ、不審な気配がないかしばし様子を眺めた。
 たった一日しか空けていないのに、途轍もなく懐かしく感じる我が家。
 煉瓦作りの、少し屋根が歪な、小さな建物だ。
 部屋数は多くないが、一人暮らしの身には十分な広さがある。家のすぐ側には様々な花を栽培する庭があり、遥かな遠い異国から取り寄せたサクラという名の不思議な木で、その周りを囲っている。
 井戸の側には、これまた異国から取り寄せたウメという名の珍しい木を植えていた。蛇足だが家の煉瓦に絡まっている植物は、またまた異国で栽培されているフジなる名を持つ花で、それらは春になると、奇麗な色合いの蕾を見せてくれる。
 か、帰りたい。
 思わず木陰で涙ぐみ、そっと目元を覆って嘆息した。
 毛布に包まり、手足を思い切り伸ばして休みたい。甘い砂糖菓子を口に入れて、和みたい。
 ――けれども。
「ああ、神よ……」
 あなたはどこまで無慈悲なのか。本気で恨まずにはいられない。
 家の前に、明らかに不審な人物が立っているではないか。
 頭から足下まで全身すっぽりと白い布で覆われたその姿は、どう見ても余所者でしかなく、不吉な予感を伴う胡散臭さしか感じられない。お前様は異国のインチキ占い師か、と精神的な余裕をなくしつつあるリスカは胸中で毒づいた。
 遠目での判断なため絶対とは断言できないが、背丈がありそうなので男性ではないかと思う。流石に年齢まではこの距離では読み取れない。巡回にきた警備団の兵士という身なりでもない。昨夜の盗賊達の仲間かどうかも分からないがその可能性は強いと考え、慎重に今後の対策を練るべきだろう。
 泣いていいかな、とリスカは胡乱な目で空を見上げた。
 熱と絶望感が増しに増し、くらくらする。
 目の前に我が家があるというのに、帰れない。
 こんな不条理、あるだろうか。
 リスカは木陰に座り込み、膝を抱えて、世界と神と家の前に立つ怪しげな占い師風の人物を平等に呪った。
 呪詛を胸中で吐き散らす内に体力の限界がきて、森の中をさまよった昨夜と同じようにいつの間にか眠ってしまったが、夢の中でも自分は孤独に木陰から空を見つめていた。
 リスカは夢の中で一粒だけ、涙を零した。

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