一花撩乱/月夜遭遇[4]
「……?」
とても、とても暖かい何かに包まれている感触がして、リスカは目を覚ました。
よく身体に馴染んだ心地の良い温もり。
柔らかな毛布だ。リスカの毛布の中にはほんの少し、穏やかな香りがする香草を入れている。その匂い、優しさが、当たり前のようにリスカの身体を抱きとめている。
――いつ寝台にもぐりこんだだろう?
リスカは覚醒しきらない頭の片隅で、のんびりとそのようなことを考えた。
確か自分は、一人寂しく木陰で眠ってしまったのではなかっただろうか。
そういえば、なぜ木陰などで居眠りしたのだろう。
……木陰?
「あああっ!?」
瞬時に記憶が蘇り、掠れた悲鳴を上げて、リスカはいきおいよく跳ね起きた。
「な……なっ……何?」
自分の寝室だ。夢ではない。
「あれ?」
わけが分からない。なぜ呑気に寝台の上で自分は寝ているのだろう。いや、その前に、一体いつ自宅に戻ったのだ?
慌てて室内を見回すと、何事もなかったようにとまではいえないものの、あれほど荒らされていたはずの部屋は隅々まで奇麗に掃除され、しかもきちんと整頓されていた。散乱していた瓶の破片やら紙の切れ端やらを自分が片付けたという記憶は全くない。絶対していないと言い切れる。
まさか盗賊が一夜で改心し良心を迷惑なほど発揮させて清掃したのかという考えがよぎったが、馬鹿馬鹿しくてすぐに却下した。ありえない。ありえても、してほしくない。
はっと気づいて毛布をはぐと、これまたいつの間にか膝の傷の手当もされている。腕にこびりついていた泥も丁寧に拭われている。
ありがたいと感謝するより、一体誰が何の目的で……と未知に対する恐怖心が芽生え寒気が走った。
激しく動揺しつつ視線を何気なく扉に向けると、目覚めてから一番ありえないと思うものを目撃してしまい、うひえぇえ、と叫びなのか何なのか分からない奇妙な声を上げてしまった。
家の前に立っていた全身白ずくめの身分性別年齢その他諸々一切不明な人物が扉によりかかって、ゆったり腕組みしつつ、静かにリスカを見詰めていたのだ。
いいいいいつの間に、とリスカは驚愕し、心の中で泣き叫んだ。
さっきは間違いなく、いなかった。数秒、呆然としていた間に突然降って湧いたのだ。
うぐ、とリスカは喉の奥で呻いた。
全身をすっぽり白い布で覆っており露出している部分といえば目元だけだったが、その背の高さから判断して、初めて見た時感じたように性別はやはり男だろうと思う。ああ、こういう占い師めいた奇異な衣装を何というのだったか。幼い頃に読んだ、架空の世界を描いた物語の登場人物に似ている。確かジプシーなどといったか。どう見ても異質だ。
いやいや、格好などこの際どうでもよろしいのだ。
睨まれている間違いなく睨まれているどうしようもなく睨まれている、とリスカは唱えたこともない呪文のように胸中で繰り返し、青ざめた。
目が、唯一覗く目が、射殺す意思を持っていそうなほど鋭く冷たい。絶対零度の眼差しだ。大地も凍る氷河の瞳だ。
また目の色が銀なだけに、冷酷さに拍車がかかっているというか磨きがかかっている。
目を逸らしたいが、頑丈な縄で幾重にも束縛されたように全く身動きできない。
リスカは数分の間、魂を飛ばして硬直した。
絶体絶命! と我を取り戻したのは、暗殺請負人のごとき無情な目をした白ずくめの人物が、睨み合う状況に飽いたのか、ゆらりと扉から背を起こして、こともあろうにリスカの方へ接近してきたためだった。
あらゆる意味において、盗賊達の夜襲に苦しんだ夜よりも絶望した。何かもう普通の殺され方はできないだろうという壮絶な確信を抱いてしまった。
生皮をはぐとか、逆さにして血を一滴残らず搾り取るとか、手足をもぎ取るとか、最悪に痛い拷問手段を正確無比に脳裏に描いてしまう。
全身が、押し寄せる恐怖と威圧感と冷気に耐えきれず、微かに震え出した。怯えぬ方が普通ではない。
白ずくめの危険人物は全く足音を立てずに近づいてきたあと、寝台に片足を乗せ、ひどく間近なところからリスカの顔を覗き込んだ。リスカは氷の鞭で首を強く締められているかのような錯覚を抱いた。
「気分は」
「はいっ!?」
情けないほど声が裏返る。
「気分はどうかと」
想像通りの低く抑揚のない声に、再びリスカは凍り付く。もし、このやたらと響く低い声に耳元で「殺す」と囁かれれば、それだけであっさり死ねる自信があった。
「まだ熱が」
熱が何でしょう私に熱があることが殺したいほど気に障りますかすみません、という気分になり、ふっと意識が遠のきそうになった。この時点でリスカは自制心を殆ど手放している。魔術師の戒めや自己暗示など、氷の眼差し一つで軽く霧散していた。全身全霊を打ち込んで降伏すれば助かるというのなら、幾らでも戒めを解いてしまいたいという切実な心の声が聞こえる。
「もう一度眠った方が」
それは永遠の眠りにつけという意味で仰っているんでしょうか、と半ば本気で思った。
「水は」
「うあぁうう」
もういけない。言語能力にまで異変を感じる。
水責め、溺死、水死体、と三段論法が脳裏に浮かんだ。
「喉が乾いているのでは」
獰猛な獣が獲物に狙いを定めたかのように、ゆっくりと銀の瞳が眇められ、同じく銀の睫毛が伏せられる。美しい色だとか感嘆する前に、発散される重圧感が尋常ではなかった。強大な魔力の原石に触れてしまったようにすら感じた。
……魔力?
はたりとリスカは現実を把握した。思わずまじまじと銀の双眸を見詰め返す。いや、即座に逸らしてしまったが。
覚えのある怜悧な気配。高貴で上等。これはもしや。
「あなた、魔剣を?」
持っているのか。半信半疑というより全面的に信じたくない思いで呟いた。語尾は勿論、恐怖で震えている。
刹那の間を置いて、銀色の瞳が肯定を示すように一度瞬いた。露出している目の周囲を見ると、少し浅黒い滑らかな肌を持っているようだった。若い男のようだ。
リスカは混乱しつつも、必死に考えを巡らせた。森の中に置いてきた魔剣。目の前の男から、その気配が感じられる。ということは、彼が魔剣の所有者になったのだろうか。
胸中にじわじわと広がる底知れぬ恐怖と戦いつつ男の全身をそっと観察してみたが、剣を腰にぶらさげてはいなかった。白い長布の中に隠してるようには思えない。
怪訝に思って、再度数秒、見詰め合った――正確には視線を指一本分目の位置より下にずらしたが。
死を覚悟し質問してみようと決意したのは、一分以上煩悶したあとだった。
「あの」
声まで死にそう、と自分で悲しくなる。
「あなたに感謝を」
と、リスカの決死の覚悟などあっさり無視して男はそう言った。
「か、感謝?」
感謝よりもまず視線を外してください、と胸中で懇願しつつ、リスカは条件反射で鸚鵡返しに訊ねた。
男の視線は一瞬の揺らぎもなく、リスカの顔に定まったまま外れない。居心地の悪さではなく心臓に悪かった。
「初めてでした」
男の言葉は端的かつ吹っ飛びすぎているため全く意味不明だが、問いつめる気を持つことだけでさえ勇気を必要とした。
「美しかったのです」
「は、は……?」
さっぱり分からない。
「注ぎ込まれる命は、雨のように潤いをもたらした」
何の詩ですか、と一瞬惚けたが、氷河期に突入している目とばっちりかち合って、またも思考が瓦解した。
鉄塊よりも重い沈黙が流れて、呼吸が苦しくなる。実際、息をとめていたのだが。
リスカは、自分が人生最大に悲愴感を滲ませた顔をしているだろうと思った。
白ずくめの男は、灰と変わる寸前のリスカをしばし見詰めて、小首を傾げた。
「始末はしました」
「……始末?」
一体何を始末したのか、その言葉がどう自分に関係するのか予測不可能だった。懲りずに鸚鵡返しで訊ねたが、口にした直後に聞かねばよかったと臓腑がねじれるほど後悔する。どう取り繕っても始末という言葉は、処分とか殺害とかの物騒な文字に繋がるような気がしてならなかった。猛烈な威圧感を漂わせる男が口にしたと思えば、とても部屋のお片づけ、整理整頓、などという実に可愛らしく清潔な意味合いの別語としてではなく、惨殺、虐殺、殺戮やらの極めて凄惨な言葉に通じていると受け止める方が自然だ。心から杞憂であってほしいと願わずにはいられない。
そうだ、なんだかよく分からぬが現実に室内は掃除されている、きっとそのことを指しているのだと、とにかく無理矢理一縷の望みに縋ってみた。
「全て殺したということです」
が、男はあっさりと希望を打ち砕いてくれた。
「ここここ殺しましたか」
返事はしたが、心臓を一撃で打ち砕かれた感じがした。身体中に氷をつめこまれた気にもなった。
男は何の感慨もなさそうな顔をしてごく当たり前に頷いた。仰天する方が異常だと言いたげだった。
一方、最後の望みを奪われたリスカは崩壊寸前だった。平常心は失われ、精神統一の暗示もとうに解けている。暗示というのは自分よりも圧倒的に強大なものを前にすれば、容易く無効化してしまうようだ。
一体、何を、誰を、殺害したというのだろう。もしや町中の人間を次々と手にかけたというのか。全て、とわざわざ言うからには、一人や二人のはずがない。ああ、やはり罪なき人間を大量虐殺したのか。リスカは絶望感を超えて虚無感すら覚えた。
現実を知るのが恐ろしすぎて、何を殺したのか、聞くに聞けない。
いや、待て。
そういえば、昨晩、リスカは既に雑木林の中で屍の山を目撃しているではないか。
あれはあなた様の仕業ですか、と言いかけたが、やめておいた。代わりにふと疑問が湧く。
あの非情な所行の主が彼だとして、瀕死の魔剣をなぜ放置していたのだろう。
刃毀れの具合がひどい魔剣を見て、もう使い物にはなるまいと判断したのだろうか。
リスカが剣の状態を検分している間、彼は一体どこにいたのかという謎も残る。
……ずっと見張られていたとか?
自分の考えに絶句するリスカを眺めていた男は、軽く眉をひそめた。
ついに私も臨終を迎える時が……とリスカは身震いした。魔物達に取り囲まれた時でさえ、今ほどには恐れなかった。
男がじっとリスカを見据える。何かを訴えたいようだというのは辛うじて察したが、その内容を全然突き止めたいとは思わなかった。むしろ知らないまま死ねた方が絶対に幸福だと思った。
「……嫌ですか」
嫌? 嫌!?
どうしようもないほど話が噛み合ない。男の言葉は説明不足の見本として標本にしたいくらいだった。
しかも、リスカの返事を待っている様子だった。
これほどの難題を突きつけられた試しはない。
もし嫌ですと返答すれば、瞬殺されそうだ。好きですと答えた場合、リスカが殺戮を肯定する極悪人に成り下がる。
……好き嫌いの意味で問うているのではないという可能性も考慮せねばならない。
何のことだと訊ねたいが、男はどうも、リスカが話の内容について理解しているとの勝手な前提の上、返答を待っているようだった。主語のない台詞を繰り出されて理解できるものかと説教したいが、それは永遠の夢で終わるだろう。
「迷惑ですか」
そりゃあ、いきなり殺しましたなんて報告されれば精神的に迷惑だ。
肌を抉るような眼差しも、ひたすら迷惑だ。
「……気に入らないですか」
気に入らない? 益々分からない。
リスカは困惑した。ほんのわずか冷静になって男を注視する。
見る角度を変えれば、今にも斬りかかってきそうな氷の刃物を連想させる男の眼差しは、躊躇や切なさといった感情を滲ませているととれなくもない。我が身の今後の安全を考慮して、むしろそう思いたい。
「ううん」
答えようがなくて、唸ってしまう。
「……では剣の姿になります」
どういう思考を働かせたのか、男は勝手に結論づけて目を伏せた。
うん?
あっと気づく。
今更、気づいたのだ。
察するのが遅すぎるというべきだ。恐怖心を限界まで膨らませ、別の意味で舞い上がってしまったのが悪い。
「魔剣ね……」
リスカは軽く額を押さえた。
魔剣魔剣、と疲労感の中、反芻する。
簡単な事実が目の前に存在するではないか。
魔剣を所持しているのではない。
――男が魔剣そのものなのだ。
ということは。
「あなた、魔物……魔物様なんですか」
様、をつけてへりくだるのもどうかと思ったが、魔剣となった魔物の魂が人型に変貌するなど、尋常なことではない。
魔術師が好む性転換や変身の術とは扱う式の配列からして見事に異なる。まず、肉体という基盤となるものを剣に変えるなんて、生命の理を根底から書き換える作業に等しい。生命現象を持つ存在を、無機に属する物体へ変化させるという驚異――構築する術式の複雑さや難解さ、伴う危険を想像するだけでうんざりするほどだ。だからこそリスカは最初、男が魔剣自身だなんて思いもしなかった。
少し和らいでいた恐怖が一気に膨らんだ。
人に課せられた必要不可欠な「限界」の壁や受諾すべき普遍の矛盾をいとも容易く凌駕するのは、大抵の場合人外の生き物と決まっている。
王の名を冠する魔物か、将軍級の魔物か。何にしても、リスカの微々たる力で左右できる容易い相手ではない。
「いいえ」
平淡な口調で否定される。
「違うんですか?……でも、魔剣って」
男はゆっくりと目を細めた。睨んでいるのか、微笑んだのか。どちらであっても恐怖を誘う。
「私、剣術師ですよ」
男は一拍置いたあと、そう告げた。