腹上の花[3]
さて――
あの手この手でお誘いをかけてくるティーナをどうにか宥め、金貨も持ち帰らせることに成功した後。
リスカはとんでもなく疲労困憊していた。
けれども、神はまだリスカに試練を与えるつもりらしい。
●●●●●
「あの、セフォー」
ああリスカしっかり、語尾が震えている、と自分を叱咤激励し会話の糸口を急いで探す。
「何というか個性的……いえ、強烈な印象のご婦人でしたね」
現在の精神状態ではとても接客できぬため早々と店じまいし、店の二階に移動したあと、居間代わりの部屋で再びセフォーのお茶を飲むこととなったのだ。ちなみに一階が店、二階が私的空間という構造だ。ただし、風呂場や調理場などは一階にある。店の奥の奥には、狭いながらも倉庫代わりの小部屋と仮眠室があったりする。
「ですが、すごい美人でしたね。あれほど奇麗な人も珍しい」
ぴぴぴ、と小鳥が同意を示してくれたが、セフォーは表情を変える事なく静かにお茶を飲んでいる。
その無反応ぶりに、閣下、私の話を聞いていますか、と訊ねたくなった。
「……あのう」
気まずい、と思った瞬間。
「美人?」
セフォーがようやく発した短い言葉を聞いて、リスカは杯を両手で包んだままぴきりと固まった。
「あれが?」
うぐぐぐぐぐ、とリスカは死にそうな声で呻いた。
今なら、ふっと息をかけられるだけで自分は脆く崩れ落ちるだろうと確信する。
「あれ」呼ばわりですか。滅多に見かけぬ絶世の美女を「あれ」と閣下はお呼びになるのですか。
セフォーが持つ美人の基準を知るのが恐ろしい。
「いえ、いや、うあ」
セセセセフォー様、何かお怒りに、もしや私の言動が目障りと感じられたのですか、と青ざめずにはいられなかった。
「なぜ」
ああ、このような時まで端的言葉!
なぜという極めて短い問い掛けのみでは、全く意図が掴めない。
あと一声、いや、高望みは決してしないので、せめてあと一文字だけでも追加してほしい。
内心暴風雨にさらされて喘いでいるリスカを尻目に、セフォーは優雅な仕草でお茶を飲んだあと、空になった杯を丁寧に食卓に置いた。
「なぜあなたは」
……すみませんセフォー。一声と望みましたが「あなたは」という言葉を付け足されても、意味がさっぱり分かりません。
リスカは食卓に突っ伏しそうになるのを必死で堪えつつ、ううむと首の後ろをかいて、考えをまとめる時間を少しでも稼ごうとした。セフォーとの会話は常に何かを試されているような錯覚を抱き、緊張感がつきまとう。手抜きの対応は許されない気がするのだ。
セフォーは食卓に両腕を乗せたあと、かすかに苛立ちを含んだ視線を寄越した。真正面から銀色に凍る眼差しを受け止めてしまったリスカの心情は、最早言わずもがなである。
「その姿を」
相変わらず無駄な言葉を一切省いたぶつ切りの台詞だったが、ようやく意図を把握できた。
要するに死神閣下は「なぜ今も男へと性別を変えるのだ。そのようななりをしているから同性に誘われ、面倒な事態を招いてしまうのだぞ」とリスカを叱責しているらしい。
ぴぴぴ、と食卓の上で一人遊びをしていた小鳥が、セフォーの不機嫌さを悟り、縮こまるリスカに同情的な声をかけて……と思うのは都合が良すぎるだろうか。
「ご、ごめんなさい」
吃らずにはいられない。全て私が悪いのです、と大袈裟に反省して床に身を投げ、泣き伏したい気持ちだった。
その前に、崖から身を投げよとセフォーに指令を下されるかもしれない。さくりと斬り捨てられる可能性もありそうだ。
不必要なほど不吉な想像を巡らせて項垂れるリスカの様子に呆れたのか、セフォーが小さく溜息をついた。うう、伝説の剣術師様が溜息をついている。
「また」
何が、また、なのでしょう……。
「また来るでしょう」
ああ、あの美人さんがまた店に来るかもしれないという意味ですね。
「どうするつもりなのです」
リスカは――先刻の、彼女の容姿やら言動やらを色々と思い出して、つい赤面した。
夕食の誘い、お茶会のお誘い、読書のお誘い、歌劇鑑賞のお誘い。果ては間接的な夜伽のお誘い……ううううう、未知なる誘惑の数々に、艶事関連が苦手なリスカは茫然自失状態である。
貴族はなんとも積極的で、己の欲求に忠実らしい。
しかしながら、客には男として通しているリスカの正しい性別は、女なのである。
困惑していると、セフォーはこれ以上はない冷酷な瞳をリスカに向けた。視線だけでリスカの部屋を凍らせるだろう。心なしか、元気であったはずの小鳥の鳴き声もか細くなっている。
「あれは面倒です」
閣下の仰る、あれ、とはやはり、くだんの美女のことであろう。しかし。
「面倒とは……?」
「いいですね?」
「は」
「駆除しますよ」
「駆除……?」
数秒の沈黙が降りた。時間を止める氷の沈黙である。炎も逃げ出す冷たさだ。
「……」
――駆除!!
「始末」でもなく「抹殺」でもなく、「駆除」ですか!!
何かもう、害虫を相手にしているかのような容赦ない表現である。
ち、違う、呑気に解説している場合ではない。
「待って。待ってください。死神閣……ではなくて! セフォー」
冷や汗がどっと吹き出した。危ない。害虫表現に気を取られ、死神閣下様、と口走るところだった。
「駆除、駆除だけはどうか」
他の人間が言えば戯れ言にしか聞こえぬこの馬鹿げた台詞。セフォーが発したことにより、死を司る神の無情な宣告にも等しく聞こえる。
リスカの脳裏に美女の惨殺死体が浮かぶ。目鼻口耳、ばっさりと削ぎ取られている。単なる想像に終わらず、実際にそうなる確率がすこぶる高い。
しかも、セフォーは立ち上がったではないか!
「セフォー!」
ちらりとこちらを見たが、セフォーは無言で出て行こうとする。
ひああああ、とリスカは胸の中で思い切り叫び、狼狽えた。駄目だ。
本気だ。閣下は本気で、やる。
倫理も禁忌も罪悪感も関係なく、面倒だから駆除するというその簡潔な意思通りに躊躇いなく動けるところがセフォーの凄さだ。
「待って」
美女駆除計画遂行のために廊下に出たセフォーを、リスカはもつれる足で追った。
どうしようどうしたらああどうすれば、などと激しく混乱した頭でぐるぐる考える。
「い、行かないで」
自暴自棄だった。
というより、壊れた言葉で頭の中が埋め尽くされ、最早意識も半分飛んでいた。
「行かないで。離れないでっ」
人間、極限状態に陥ると、自分自身の言動を正しく制御できぬものである。
「わ、わわ私の側に、いてください!」
叫んだ瞬間、別の意味で魂が離脱しかけた。
何ですか、自分の台詞は!
嘘です今のなし、聞かなかったことにしてください誠心誠意謝ります、と前言撤回し恩赦を得られるまで平伏したくなった。美女よりも先に己の惨い亡骸が作られてしまいそうな予感がして、とても冷静ではいられない。
リスカは失神する直前だった。
閣下が、セフォーが、くるりと方向転換し、珍しくかつかつと靴音を高く響かせて、絶句しているリスカに接近する。その音がまるで、冥界を治める死王の靴音に聞こえるのはどうしたことか。
「リスカ。リスカさん」
名を呼ぶセフォーの声音が寒気立つほど冷酷で、返事をする勇気も気力も体力も熱意も根こそぎ奪われた。
……リスカはあまりの恐ろしさと己の愚かしさに、腰がくだけた。
くにゃりと膝が崩れて、その場に倒れる。
「……」
いや、倒れなかった。
床に激突するより先に、こちらへ戻ってきたセフォーが腕を伸ばして抱きとめてくれたのだ。
「あわわわわわ」
言語能力抹消、である。
目を瞑ると、そっと頬に触れる手があった。まさか顔を引き裂く気ですか、と大いなる誤解をリスカはした。
頬を撫でる指先は驚くほど繊細だったのだ。容易く死を生む人の指先とは思えぬくらいに。
「リスカさん」
あれ怒っていない? とリスカは片目を薄く開けて様子を窺った。
「あなたは」
低い声が囁き声に変わった時――
「ぴぴぴぴ、ぴっぴっ」
などと軽やかな鳴き声を上げつつ、半開きの扉から小鳥さんが飛んで来て、ぽてりとリスカの頭に不時着した。
ああ神よ。
リスカよりも美女よりも先に小鳥の氷付けが作られる確率高し。
セフォーがすうっと息を吸い込み、実に間の悪い登場を果たした小鳥をひたりと見据えたのだった。
ううむ、小鳥の心臓でさえ違う意味で鷲掴みにする剣術師様の脅威的視線。
さすがの小鳥さんも、ぴっ、と一声鳴き……哀れ凝固して、リスカの頭からころりと転がり落ちた。
リスカは慌てて両手を差し出し、落下する小鳥を救出しようとした。
が!!
セフォーは、なんともはや、小鳥さんを、肩に乗せて愛でていたはずの小鳥さんを、無慈悲にも手で払い落とそうとしたのだ!
「邪魔なのですよ」
小鳥を一瞥したセフォーは、愕然とするリスカに平然と言った。真顔で。
「せ、セフォー」
再度の試練が訪れる。命運を懸けた度胸試しのようだと言うのは不謹慎か。
「でもっ、でも」
「いいのですよ」
と、セフォーは冷たく遮り、小鳥さんを握り潰そうとして。
ああもう冗談ではなく本当に命を賭して死神閣下の動作を封じるべし、と小鳥の未来を守るために、リスカは強敵を前にした孤高の剣士のごとく悲壮な覚悟を固めた。
「セフォー。セフォード」
目を回して固まっている小鳥さんを急いで片手に乗せ、そのままの勢いで危険な気配を漂わせている閣下にしがみつく。要するに抱きつくと見せかけて、小鳥さんを乗せた手をセフォーの背後にまわしたのだが。セフォーの手が届く範囲に小鳥を置くと、間違いなく握り潰されるだろう。
「可愛いです、小鳥は。か弱く、稚く、悪意のない生き物なのです。鳥の歌声は神が祝福せしもの。殺してはいけない。……セフォー、一瞬でも愛しいと感じたものを手にかければ、その度に己の何かが失われる。あなたは強い。強いあなたは、容易く弱き者を殺めてはならぬのです」
すみません偉そうなことを、とリスカは内心で深く詫びた。
「わ、私は、その、小鳥を愛でるセフォーを見るのが好きなのですっ」
と言えば言うほど深みにはまると気づき、最後の意地すら地の底まで墜落した時、突如強い力で抱きしめられる。予想外の出来事に驚き、手の中の小鳥さんを危うく取り落としそうになったが、自分の背骨もすこぶる心配だった。へし折る気だろうか、と九割は本気で思い、諦観を抱いた。
「好きですか」
「は……」
「好きですか」
「はあ」
セフォー、私、息ができません、と真剣に哀願したくなった。
「好き」
「は」
「そう、好きです」
「ああ」
「愛しいと」
「え、ええ」
「きっと」
「……?」
廊下で一体何をしているのだか。リスカは息苦しさと不可解な状況のお陰で、最高潮に混乱していた。小鳥は無事だが、自分、窒息しかけである。頬にさらりと淡い色の髪が触れる。銀であり白。美しく柔らかな。清らかな色だ。「ああ聖なるかな、人の子よ」などとリスカは、冥福を祈る言葉を心の中で唱えつつ虚ろに笑った。
温かさが全身を満たして、半分、恐怖も残っていて。何より抱きしめる腕の力が強く、呼吸停止の一歩手前で。
「愛しいものは、殺めません」
耳元で響いた誓いの言葉に、リスカは薄れ始める意識の中で胸を撫で下ろした。小鳥の命も、たぶん美女の命もこれにて確保。体当たりな引き止めは、どうやら成功を収めたらしい。
けれども。
「リスカ」
「セフォー、私……」
くらくらする。
「リスカさん」
「ちょっと……気絶、します……」
リスカは呼吸困難で、気絶した。