腹上の花[4]
リスカは夢の中で、次のようなことを真剣に考えていた。
セフォーと出会って以来、一体自分は何度気絶しただろうかと。
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さてさて、翌日である。
リスカは気を失ったあと、朝まで眠ってしまったらしい。
麗しき容姿を持った女性のお誘い攻撃による疲労が原因か、はたまた剣術師様の奇想天外な言動のためか。
まあ、十分な睡眠が取れたので、よしとしよう。
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「起きましたか」
うーん、と寝台の上で呑気に身体を伸ばした時だった。
起き抜けに聞くにはかなり心臓に悪い平淡な声が響いたのだ。
「せ、セフォー」
身体を伸ばす途中の間抜けな体勢でリスカは固まった。
怒濤のごとき勢いで、ごちゃごちゃと記憶が蘇る。
恐る恐る状況を確認してみると、廊下で気を失ったはずが、いつの間にか寝台で寝かされている。夢遊病者ではあるまいし、自分の足でここへ辿り着いたはずがない。
となると。
「起きましたか」
扉付近の壁に寄りかかっているセフォーは、仮面として壁に飾りたいほどの見事な無表情を顔にはりつけていた。毎日これほど変化に乏しい人も珍しい。よく観察すれば、衣服は別のものにきちんと取り替えられているのだが。
「はい、あの、起きました」
セフォーはリスカが返事をするまで、辛抱強く訊ねる。
やはりというか何と言うか当然、私を寝室へ運んでくれたのはあなたですか、と聞くのが怖かった。
「では隣へ」
「その、いえ、着替えてからでも……いいですか」
セフォーは頷き、去り際に「食事が」と例の端的言葉を発した。
意訳は、「食事の用意ができていますよ」である。
リスカは間抜けな顔で、しばしの間、セフォーが消えた扉を見詰めていた。
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衣服を替えつつ、リスカは昨日の記憶をゆっくり辿ってみた。
思い出そうとするだけで心拍数が上昇し、更には身体中の血が沸騰するかのような感覚に襲われ、衣服を掴む手が震えてくる。
視線はふらふらと定まらず、窓から寝台へ、寝台から小机へ、小机から本棚へと忙しなく揺れ動く。要するに、意識ははっきり覚醒しているものの、何も目に入らない状態だった。
リスカは着替えの途中でたまらなくなり、檻の中の獣よろしく狭い私室をうろうろと歩き回った。
昨日、我が口が紡いだ、というより勝手に飛び出した台詞の数々、思い返すと絶句ものである。
愛らしい小鳥さんを救うためとはいえ、聞きようによっては、その、いやいやいや、凄まじい台詞。
何て言っただろう自分、などとしっかり覚えているくせに自問してしまう。そのくらい激しく動揺している。
すすすすす好きだと言いましたねリスカ、と挙動不審に歩き回りつつ自分に確認を取った。しかも追加で、側にいてだの離れるなだのと。
「ひあああああぁ」
リスカは勢いよくうずくまって頭を抱え、奇声を発した。駄目だ、言葉の意味を考えると自分は瞬時に砂へ変わり、容易く崩れ落ちるだろう。
深い意味のある言葉ではない、そうだそうだとも、と冷や汗ならぬ脂汗を拭って破裂しそうな胸を宥めてみたが、あまり効果はなかった。
かの有名な剣術師様に、なんということを。
そ、それは今現在、リスカの護衛……従者か執事のようだが……給仕もしてくれるが……などを請け負ってくれているが、実態は「抹殺」「始末」、とどめに「駆除」を得意とする掃除の達人なのである。掃除の意味が普通と異なり、すこぶる恐怖だが。ああ言葉まで壊れかけてきている。重症だ、処置の仕方も分からない。
「うう」
昨日の出来事を思い返して鼓動が最も不自然に跳ね上がるのは、セフォーの言葉であったりする。
――すっ、好きだと、いいい愛しいと!
ふらっと目眩に襲われ、床に伸びた。もう悲鳴すら出ない。
リスカは……無邪気に「それどういう意味?」などと疑問に思えるほど子供ではない。
だが、何事もなく平静に振る舞えるほど、いわゆる、何と言うか、まあ、色々様々な艶めいた経験があるわけでもない。
言葉の意味を理解していながらも、「ねえどういうことかしら?」などと知らぬ顔で聞けるような、小悪魔さんになれるはずもない。艶事の駆け引きに応じる自分の姿など全く想像できぬ。
――待て、色恋沙汰の話と決まったわけではないのだし。
大いなる勘違いをして一人暴走すれば、かかずともよい恥をかく。
落ち着け冷静になるのだリスカ。
深呼吸をして、リスカは立ち上がった。
服をきちんと着込んで、もう一度身体に空気を取り入れる。
「あ」
そういえば、小鳥は。
リスカはまた別の意味で青ざめ、転倒しそうになりながら急いで部屋を飛び出した。
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「ぴ」
隣の部屋に身体を滑り込ませ視線を巡らせた瞬間、リスカは二度目の目眩を起こした。
――乗っている。セフォーの頭の上に、小鳥さんがちまりと乗っている。
いけない、笑うなリスカ! 笑っては命が危ないっ。
しかし、吹き出したくなるような光景に、リスカは堪え切れず肩を震わせてしまう。
セフォーの顔が全く無表情であることが、余計に笑いを誘うのだ。小鳥は気持ち良さそうに、つくつくとセフォーの髪をつついているのである。刃に似た白銀の髪に、白い小鳥が半分埋もれているのである!
小鳥が肩に乗っているというならば、別に面白くはない。ただ、頭はいけない。愉快だ。
笑わずにはいられぬ、この眺め。セフォーの髪が鳥の巣状態である。
ぐぐ、とリスカは呻き、全身に力を入れた。
「食事を」
「ぴ」
リスカは口元を固く覆った。
小鳥を頭に乗せて平然と食卓に皿を並べるセフォーの姿が……冷気を常にまとっているにも関わらず……おかしさがあって妙にはまる。
「く」
と、リスカは涙目になりつつ、天井を見詰めて笑いが溢れぬよう耐えに耐えた。
既に先ほどまでの深刻な苦悩は奇麗さっぱり霧散していた。
「か、顔、洗ってきます」
この時吃ったのは恐怖のためではない。必死に笑い声を上げないよう苦心しているのだ。
「はい」とセフォーが真顔で答える。
小鳥を頭に乗せたまま。
リスカは――全速力で階下へと逃げた。
駆け込んだ調理台の影で思う存分笑い転げたのは、秘密の話。
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「仕入れに」
食事の途中、セフォーがそう言った。
「あ、それは私が後で行きますから」
リスカは匙を持つ手をとめ、口の中の食べ物を慌てて飲み込み、答える。
セフォーの「仕入れに」という言葉の意味は「商品の花びらを客に渡す際必要な保護紙と、ついでに食材なども含めた生活用品を買ってきましょうか」である。
「いえ」
「でも……」
あなたが買い求めに行くと、店主が恐怖のあまり気絶するんじゃ……とリスカはかなり失礼な心配をした。
なぜかセフォーも食事をする手をとめて、じっとこちらを睨みつけ……ではなく、凝視する。ちなみに小鳥は食卓の上に移動して、小さな小さな木の実の欠片を一心不乱に齧っている。
「あの、セフォー」
「気を」
はい、一人になる間、気をつけなさいという意味ですね。
「やはり、私が町へ行った方がいいのでは」
恐る恐る窺うと、セフォーは微かに目を細めた。内心「ひあっ」とリスカは悲鳴を上げた。頬を氷で撫でられた気分である。
「いえ、何でもありません」
すみませんでした余計なことを言って、と謝りかけた時、セフォーがゆっくりと食卓に肘を乗せ、軽く頬杖をついた。
「よろしいですか」
「は…い?」
「結界を」
リスカはつい姿勢をよくして拝聴したあと、ふと困惑した。
セフォーの外出中は結界を作って自分の身を守り、大人しく待っていなさい、と言いたいのだろう。
――しかし。
結界は、今現在、作れないのである。
理由は単純。結界用の花びらが、ない。
セフォーがこの間探してくれた花の中には、残念ながら結界に使われる花が見当たらなかったのだ。
あまりそのことを深刻に捉えずにいたのは、セフォーが毎日護衛をしてくれたためで。
――そう、抜き出た力を宿すセフォーの存在が、既に強固な結界の役割を果たす。
夜の暗さと果てしなさに憂慮の溜息を漏らす日々など、リスカはいつの間にか忘れていた。眠れぬ時間も孤独も全て、鮮やかな日常に覆われ、忘却の彼方。
「リスカさん」
返事は? とセフォーが催促する。
「あ、はい」
リスカは上の空で頷いた。
花びらはない。
結界は作れない。
だが、そのことをセフォーに伝えることができない。
なぜ?
セフォーは怒らぬ気がする。
なのに、なぜ、言えぬのか。
リスカは自分の胸の内を探る。深く深く。
――ああ、理由は。
折角楽園の花を見つけてくれたセフォーの親切に、影を落としてしまう気がして。
結界用の花がないと正直に言えば、この剣術師様は恐らく出かけないのだろう。リスカの手が空く時間を待って、その後町まで同行してくれるのだろう。高値だが護符となる宝具が売られている店もあるため、出費さえ惜しまねばたとえセフォーが側にいない時でも身を守れる。
結界を作れぬ今のリスカにとっては必需品になるだろう。
セフォーは案外過保護ゆえに、護符を持ち歩きなさいと、いつもの端的言葉で言うかもしれない。
そうして――、
リスカの知らない間に、知らない場所まで、花を探しに行くのでは?
リスカは一度、瞼を閉ざした。
切ないのだ。
それはなぜか、ひどく切ない。
申し訳ないと思う気持ちの他に、言葉にはならぬざわめきが胸に広がる。不安定な感覚だ。
「リスカさん」
「はい。――はい、セフォー」
リスカは少し顔を伏せて、微笑む。
「分かりました。きっとそうします」
嘘をつく。
できない約束をしている。
この嘘は、自分のみを切り裂けばよい。
リスカはそう思った。
「きっと」
言い聞かせるように、自分に念を押してしまう。
小鳥がふとリスカを仰ぐ。
リスカは小鳥にも、微笑を向ける。
「大丈夫です、セフォー」
嘘を紡げば、その者は罰するべき偽善者となるだろうか。
舌は悪魔が祝福せしもの。
なぜならば、舌は虚言を乗せ、外へと押し出すものである。
垂れ流される虚偽の言霊。
痛いのだ。
嘘をつくのが、とても痛い。
大きな、大きな偽りよりも、日常の中の些細な嘘や食い違いの方が、よほど人を悲しませるものなのだとリスカは知った。
リスカは微笑したまま、嘆く心を持て余す。