腹上の花[5]
硬質ゆえに迷いのないセフォーの視線が痛かった。
魔術師は、その気になれば読心術をも操れる。
だが、禁忌なのだ。
他人の心に満ちる密やかな声を断りなく奪うのは、禁忌なのだ。
リスカはにこりと笑みを深めた。
そして、僅かな後ろめたさを抱きながらも自分の心に盾を作る。
リスカとて、不具であろうが術師の一人。
もしセフォーが無断でリスカの精神に手を伸ばせば、気づく。
心を読む術は、独特の浮遊感を対象者に与えるのだ。
先回りして盾を作らずとも、セフォーは卑劣な真似などせぬかも知れない。後ろめたさを覚えるのは、心への侵入を防ぐために身構えるという行為が、考え方によってはセフォーの人格を侮り貶めているとも取れるためだ。
彼の性は、時に残酷であっても浅はかではない。愚劣な行為に溺れるほど、弱い人ではないだろうと思う。
弱い者ほど、他人の心に溢れる偽りなき感情を探りたがるのだから。
セフォーは強く、気高い。
――正直を言うと、リスカは何度か思ったことがある。透視されているのではないかと。
一つ注意せねばならないのは、読心の術と透視は似て非なるものだという点だ。
読心術は他人の心が発する装飾なき声を盗む。
透視は心の形――声よりももっと曖昧な、雰囲気に近い画を視る。
画は、心が描くもの。混沌としていて、抽象的なものである。
絵画の世界に置き換えて考えると容易い。抽象画は作者の心の在り方を示していると、よく言われるはずだと思う。あるいは心の眼で視た景色だと。
セフォーに関しては強大な魔力を有するがために、意識的ではなくとも視えてしまう時とてあるかもしれない。そうだとすると、セフォー自身であっても不意の透視をとめようがない。ゆえに責めるべきことではなかった。逆に知りたくもない心の画が視えて、迷惑にすら感じているだろう。
ただ読心術は、さすがに意志を必要とする。透視とは異なる。
――誰にも持ち得ぬ力に恵まれたセフォーでも、他人の心を読みたいと疼く思いを抱えることがあるのだろうか?
分からない。
やはり、よく分からない。
リスカは一旦、思考を断ち切った。
「では、お言葉に甘えます。セフォーも気をつけて」
セフォーはまだ、視線を逸らさなかった。
リスカは俯き、そっと席を立った。
過ちは、こうして積み上げられる。
取り返しがつかないほどに。
●●●●●
さすがに小鳥を町まで連れて行く気はないようで、リスカと共に自宅待機を命じられた。
お留守番だ。
「お前はセフォーが恐ろしくないのだね」
セフォーが出かけたあと、リスカは店の入り口に置いた椅子に座り、ぼんやりと膝の上に乗せた小鳥を見遣る。
入り口の側に置いた古い揺り椅子は、リスカの指定席だ。思索に耽るにはちょうどいい。目の端に映る豪華な長椅子には、セフォーが不在の今、どこかよそよそしいものを感じてしまい座る気になれないのだ。
小鳥は膝の上を歩き回り、不思議そうに首を傾げてリスカを見上げた。
「人とは、分からないものだ」
リスカはひとりごちる。
「そして、難しいものだ」
リスカの人生は孤独が当然だった。魔力の不自由さという問題に加え、正規の魔術師達から冷遇されることの多い砂の使徒ならば仕方がない。抱かねばならぬ孤独がいつもあったのだ。我が身の一部として当たり前に――。
今は、ないのか?
「ああ」
どうなのだろう。
これだけは言える。セフォーの気配は未だ恐ろしい。畏怖の念が絶えずつきまとい、リスカを必ず躊躇わせる。
傲慢なほどの凄まじい重圧感。卓抜している全て。魔力。
あらゆるものが、光のように強い。
ゆえに眺めているのは辛いのだ。側にいれば、自覚のあるなしに関わらずどうしても気後れする。真っ直ぐにその視線を、見返せない。
けれども――寂しい。
姿が見えなくなると、寂しいのだ。
一抹の不安。胸を占める寂寥感。おかしなものだ、とリスカは苦笑する。矛盾している感情が我が身にある。
リスカは小鳥を潰さないよう庇いながら、慎重に腰を浮かせて文机の上の瓶へ手を伸ばした。
性別を転換させる花びらを、一枚取り出す。
額に当てると、一瞬、身体を搾られるような不快感が走る。自分の肉体が男女の理を乱して作り替えられる、その不快感。
リスカは吐息を漏らした。
なぜこうしていつものように性別を変えてしまうのか、自分でも理由を説明できない。習慣だから、というのは詭弁であろう。
「私は」
瓶を戻し、小鳥の羽根を指先で撫でる。喜びを示すように小鳥が羽根を持ち上げ、指先に嘴をこすりつけてきた。
「私は、人という生き物を知らないのだ」
落ち着いた環境の中で、人と深く接する機会などなかった。どのようにしてつき合うのか、どの程度の距離を保つべきなのか。何一つ知らない。学ぶ前に痛みを受け、立ち向かう気力をなくして無様に逃げたのだ。
世界のあらゆるものは自分の中に存在すると思っていた。
だが、世界のあらゆるものは、自分が触れる何かの中に見えるのだ。
「ではどうすれば」
生じる迷いに唇をきつく引き結んだ時、からりと乾いた音がした。
リスカは、はっとして振り向いた。
客が店の扉を開けたと思ったのだ。
「――?」
リスカは怪訝な表情を浮かべ、幾度も瞬いた。
客ではない。
警備の為に町を巡回する兵士ではなく――騎士。
なぜ、騎士が。
リスカは内心で渋面を作る。この町に配属された騎士の評判はすこぶる悪い。身分をかさにきて、好き勝手に横暴な振る舞いを繰り返しているという。できるならば関わりたくない者達なのだ。
騎士は三人いた。
リスカに近づいてくる男は、おそらく二十代半ばあたりだろうか。何の苦労も知らぬ甘い表情の中に、己への誇りが透けて見える。剣の腕はあっても、実践では生かしたことがないという者の特徴を実に備えている青年騎士だった。まず、異様なほど身なりを整えることに気を配っている。万が一の時、それでは素早く動けぬだろうと呆れるほどに。藍色をした天鵞絨の外套に、装飾を施した優雅な衣服。磨かれた長靴。極めつけは傷一つない真新しい剣。しかもお飾りとしての役割しか果たさぬ瑞刀である。瑞刀とは、刃渡りが肘から指先までの長さもない細い短剣だ。戦闘用ではないため、よほどの手練れでなければろくに操ることもできず、人ひとり殺せまい。
彼の背後に控える二人も、似たり寄ったりだった。
こう申しては失礼だが、身分を与えられた盗賊と変わらない。
粗野で横暴、矜持のみは果てしなく高く堅牢、の典型である。
まあ、なけなしの気品は辛うじて感じるが。
性別転換しておいて正解だったかも、とリスカは穿った感想を胸中で漏らした。
「そなたがリカルスカイ=ジュードか」
そなた、ときたか。
「はい、確かに私の名ですが、それが」
慇懃無礼なほど丁重にもてなさなければ、すぐに機嫌を損ねてしまうだろう。
「なるほど」
何が成る程なのかとリスカは内心むっとする。見下すような視線は、つまらぬ過去が脳裏によぎるので不愉快だった。
背後の二人は、検分するように視線を店内に巡らせている。
「お前は魔術師であろう?」
今度は、お前、か。
リスカは沈黙を守った。己を魔術師と人に言うことは許されない。砂の使徒ゆえに。
「魔術師ともあろうものが、落ちぶれた暮らしをしているものだ」
わ、悪かったですね、とリスカは微かに顔を引きつらせた。
「――砂の使徒だな、お前」
背後にいた二人のうち、左側に立っていた小柄な騎士がふと呟き、リスカの神経を逆撫でした。
「どういう意味だ?」
右側の大柄な騎士が不思議そうに聞き返している。一般の民にはあまり馴染みのない魔術師の実態。知らぬ者が殆どと言ってよい。大抵の魔術師は、魔道の理や自分のことについては積極的に語りたがらないものだが。
小柄な騎士には、おそらくお喋りな魔術師の知り合いがいるのだろう。
「魔術師でありながら魔術師ではない落ちこぼれさ」
小柄な騎士は物知り顔をして、鼻で笑った。
リスカは心の中で、この騎士にいつか呪詛を放ってやろうと決意した。
ぴぴぴ、と利口な小鳥が侵入者に対して鋭く鳴く。
獣はどれほど小さくても、敏感に空気を読むものである。セフォーには怯まなかった小鳥が警戒を呼びかけていることに、リスカは気を引き締めた。