腹上の[7]

 リスカは肌寒さを感じて、目を覚ました。
 あれ? と未だ混濁している意識の中で疑問に思う。随分寒い。
 セフォーは――、そう、セフォーだったら、いつもリスカが転寝すると毛布をそっとかけてくれたり、抱き上げて寝室へ運んでくれるのに。
 ああそうだ、セフォーは外出しているのだ。花びらを包む保護紙と、料理に使う食材を買いに町へ出かけたから。ここにはいない。
 とても寒い。
 リスカはぼんやりと視線をさまよわせた。身体の感覚が鈍く重いというのに、腹部と頭部の痛みだけは分かる。どういうことだろう?
 目を開けているはずなのに視界は閉ざされたままで、変化が見えない。薄闇ではなく、真の闇がリスカを押し潰そうとしているかのようだった。リスカは痛みを堪えつつ、身を起こした。芯まで冷えている固い石の床に、寝かされていたようだった。
 ここは自分の知らぬ場所だ。
 ようやく意識が明瞭なものとなる。警戒を伝える心の声。何事が起きている?
 吐き気を誘う異臭にリスカは気づく。
――いや、異臭などという生易しいものではない、と認識を改めるに至り、緊張で身体が強張った。これは死臭だ。深く淀んだ闇の中に、紛うことなき死の匂いが充満している。
 リスカは震える息を吐き出した。息が凍り付くほどこの場所はひどく寒い。
 手探りで床に触れると、随分湿った場所であるのが分かる。床石の表面にはどうやら無数の亀裂が走っているらしく、その隙間に泥なのか苔なのか判然としない濡れた塊がびっしりと詰まっていた。指先に触れた不快な感触を拭いながら、なんだかまるで地下牢のようだとふと思い、愕然とした。地下牢。比喩ではなく、事実なのではないか?
 はっとリスカは息を呑み、意識を外へ集中させた。かすかにだが、獣の叫びに似た悲痛な呻き声が遠くから聞こえる。人の気配だ。けれども、生き物の熱を感じない。
 尋常ではない場所だ、と更なる緊張に襲われる。
 額に冷や汗が浮かび、喉の奥が震えた。不用意には動けぬ。この闇に、目が慣れるまでは。
 リスカはしばらくの間、冷気が漂う闇色の虚空を見詰め続けた。闇は次第に、朧げながらも真相を明かしてくれる。
 牢獄。
 やはり、リスカは牢獄の中に寝かされていたのだ。
 左右と前方に錆び付いた太い鉄格子が並ぶ檻。背後のみが荒削りな石壁だった。寝台などという気の利いたものは存在せず、不浄の場所すらも設けられていない狭く不吉な空間だ。リスカは試しに正面の鉄格子を掴み、軽く揺すってみたが、微塵も揺らぐ気配はなかった。掌に、鉄格子の表面から剥がれ落ちた錆が付着するのみだった。
 ――違う、これは。
 錆ではない。
 血だ。
 鉄格子に、乾いた血が付着していたのだ。
 リスカは、ひゅっと息を吐いた。息苦しさに襲われるほどの濃厚な死臭。遠くから響く獣の子のようなどこか甘い呻き声。神経をゆっくりと狂わせる不快な声。
 ――落ち着け。心を乱すな!
 リスカは己を叱咤し、きつく唇を噛み締めた。自分は魔術師の端くれなのだ。不用意に取り乱すなど、してはならぬ。
 浅い呼吸を繰り返し、闇に浮かぶ自分の手を見据える。闇の濃さに負けて、自分の手は輪郭がぼんやりと曖昧に霞んでいた。
 まずはなぜこのような場所で気を失っていたのか、理由を正しく把握するべきだ。責任の所在は分からずとも、事の発端を明かす鍵は己のどこかに存在するはずだった。たとえどれほど理不尽極まりない些細なきっかけであったとしてもだ。
 さあ探せと己を急かし、再度闇を強く見据えた。
 不意に、先ほど感じた人の気配が予想よりも近い場所にあると悟る。
 近いどころではない。
 真横ではないか。
「――!?」
 リスカは悲鳴を上げ損なった。
突然、ガシャンという金属音が左側から響いたのだ。その音が闇の奥へとどこまでも反響し、呆然とするリスカの耳に突き刺さる。
「な――!!」
 まるで、狂った獣が檻に衝突したかのような音だ。
 獣。
 違う、獣では――。
「あ、ああ、ああううううあああ」
 甘い甘い呻き声。錯乱した者の壊れた声。鉄格子の隙間に顔を押し込んで、硬直するリスカを覗き込む二つの目。
 あああぁあぁぁぁう、とどこか嬉しげに二つの目を持つ者が叫び、恍然と笑んだ。
 それは最早、人ではなかった。
 リスカは束縛されたかのように目が離せなかった。光が差さぬ牢の中だというのに、異形と化したその姿はなぜか鮮明に浮かび上がった。闇さえ沈黙させる異様な歪みが形を取り、動いていたのだ。
 溶けている。
 人間が、生きながら溶けている。
 檻に絡み付くその者の手は、既に黒く壊死していた。指先がない。骨まで腐敗し、削られている。手首の骨が剥き出しの腕で、鉄格子を楽しげに抱え込んでいるのだ。
 顔は手当のしようがないほど醜く変形していた。濁った右目は落ちかかっている。辛うじて、腫れて盛り上がった頬肉が支えているのだ。頬の周囲の肉は膨張しているのに、首から下の襤褸布を纏った肉体は水分を失い枯れた老木のようだった。肉という肉が抉り取られているかのように痩せ衰えている。
 唇も鼻も崩れ、滲み出た体液に塗れていた。髪は最早、抜け落ちている。
 リスカは無意識に後ずさった。冥府から蘇った死者と対面しているような気がして意識の表面が波立つ。人間は、これほど無惨に変わり果てた姿となっても生きていられるものなのか。
 ――何なのだ、ここは。
 後退りするリスカの背に、右側に並ぶ鉄格子が当たる。圧迫感を与えるほど天井が低く狭い牢獄に、逃げ場はない。
 ――セフォー。
 純粋な強さを宿す剣術師の顔が、どうしてもうまく思い出せない。ああ、ひどく遠い。リスカは、檻の向こうではんなり笑っている異形の者を見詰めたまま懸命に、鮮やかな髪と入れ墨を持つ剣術師の顔貌を脳裏に描こうとした。
 魔術師ならば、この声を魔力に乗せて届けられる。遠く離れた者に、内なる声を送れる。
 けれども、花術師のリスカはそういった容易い術さえ、血塗れで足掻いても操れぬ。
 恐ろしい、ここは恐ろしいです、セフォー。
 リスカが祈るようにそう思った時、不意に背後の檻の外から誰かの腕が伸び、無防備な肩に絡み付いた。
「――っ!!」
 リスカは全身を粟立たせ、伸びてきた腕を無我夢中で振り払った。
 転がるようにして飛び退き荒い呼吸で振り向くと、右側の檻の中にも壊死した肉体を動かす人間の凄惨な姿があったのだった。
 リスカはようやく、頑丈な鉄格子で仕切られた檻が両隣に幾つも並んでいるという事実に突き当たった。まさしくここは牢獄なのだ。それも――重罪人を隔離するための、極秘に作られた地下牢だ。
 では、この正視に耐えぬ酷い姿の者達は、余程の悪行を働いて捕縛された罪人に違いない。これより先は一生日の光を見ることなく、時間も季節も置き去りにし腐りゆく己の四肢を抱えながら、孤独な闇の中で死ぬ運命。……そのような恐ろしい場所に、なぜリスカまでが幽閉されるのだ?
 左右からにじり寄る狂気の塊と化した罪人を、リスカは交互に眺めたあと、彼等の手が届かぬ檻の中央まで這い戻って、しばし身を震わせた。
 自分の両腕で肩を抱きしめる。すると、手がぬるりとべとついた。つい先刻、罪人に掴まれた肩に何かがべとりと付着していた。罪人自身の、溶けた肉の塊だった。リスカは激しい嫌悪を抱き、嘔吐しそうになるのを必死に堪えた。
 地上に存在する地獄。生きながら味わう地獄。正気すら溶かす重い闇。
「――あ」
 リスカは全身を強張らせた。時折、痙攣するように肩が震える。
 石の床を打つ誰かの確かな足音が、必死に恐怖と戦うリスカの耳に届いたのだ。
 揺れ動く橙色の大気がリスカの目に映った。松明を持った何者かがこちらへ接近してくる。
 ――フェイ!
 リスカは知らず知らずのうちに、険しい表情を浮かべていたようだった。
 松明の光にリスカの姿がさらされると同時に、相手の姿も見て取れた。
 フェイ。リスカを捕らえに店へ姿を現した、傍若無人な青年騎士だ。
 リスカはようやく気を失うまでの時間を思い出し、怒りを覚えた。
 傷ついて弱々しく落下する小鳥の白い羽根。
 振り上げられた、華奢な瑞刀の柄。
 穢れた人殺し、と吐き捨てた騎士の冷たい声。
「起きたか」
 忙しなく過去を辿って唇を強く引き結ぶリスカに、嘲笑を含んだ低い声がかけられた。
「人殺しには、住みやすい場所だろう?」
「――仰る意味が分かりません。私が一体誰を殺めたというのです」
 胸に広がる憎悪を抑えて冷静な声を出せた自分を、褒めてやりたくなった。この横暴な騎士には、死んでも狂乱する惨めな姿など見せたくなかった。
「強がりも大概にするがいい」
「なぜ私が捕われなければならないのです」
「その不遜な態度をいつまで貫けるか、見物だな」
 噛み合わぬ不毛な会話に、リスカは声を荒げて罵倒したくなるほど苛ついた。セフォーとの会話も全く噛み合わないが、この男の場合は心底不快感が伴う。
「教えていただきたい。いかなる理由で私は捕らえられている?」
 最早、身分や立場などに遠慮をしている場合ではなかった。リスカの知らぬところで、決して歓迎できぬ災いを秘めた何かが起きている。
「白々とよくも言える! さすがは情に薄い非道な魔術師よな。益の為ならば己が生む堕落の術で幾人が命を落とそうと、我関せずと言うわけか?」
 私の術?
「……覚えておられぬのですか? 私は正規の魔術師ではなく、砂の使徒だとあなたの仲間が口にしたはず。堕落の術など一体誰に施したと――」
「性根もそこまで下劣だと、いっそ見事なものだ」
 そのような評価などに興味はないのだから早く説明しなさい、と本気で怒鳴りたくなった。
「俺に仲間などおらぬさ。あの者どもは部下よな。部下は仲間と言わぬ」
 性根もそこまで高慢だといっそ愉快です、とリスカは腹立たしさのあまり内心で毒づいた。大体、誰があなたの心情を明かせと頼んだのだ。というか、変なところにこだわる方がおかしい。
 リスカは苦痛にさえ感じるほどの焦燥感を味わいながら、騎士が手に掲げている松明の明かりをじっと見据えた。闇を払う炎の熱は安堵よりも不吉なものをもたらした。
 騎士はどこか悪意をたたえた視線をリスカに投げつけ、靴先で鉄格子を軽く蹴り上げた。
「王都のみでは飽き足らず、この町までも悪徳で染めるつもりか」
「――何ですって?」
 リスカは耳を疑った。



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