腹上の[8]

 王都だけでは飽き足らず――?
 覚えのない悪行について非難されたリスカは混乱しつつ、フェイの台詞を胸中で幾度も反芻した。
 どういう意味かは分からぬが、自分は確かに、何らかの災難に巻き込まれているようだった。
 こうしてリスカが理不尽にも囚われの身に落ちフェイの尋問を受けることとなった原因は、恐らく花びらを買い求めにきたティーナにあるのだ。彼女が関与し陰で糸をひいていると考えて間違いない。ただ、事態はどうも、リスカが倫理に背いて彼女に、その、卑怯卑劣な行為を強要したなどという簡単な理由により悪化したのではない気がした。第一、リスカは女であるのだが。
 リスカは、はっと気づかれぬよう自分の身体を意識する。
 まだ性別転換の術は解けていない。とすると気絶してから半日も過ぎていないのだ。リスカが操る性転換の術は、花びら一枚の使用ならば、およそ半日程度で効力を失うのである。
「愉快であっただろうな? 人がお前の思惑通りに堕ちていくさまを眺めるのは」
「お待ちいただきたい。あなたは何か誤解をされているようです」
 全体像は未だ不明なものの、フェイが何を糾弾しているのかについてはおおよそ把握できつつあった。
「何が誤解なものか! お前の媚薬とやらで、何人の者が命を落としたと思う!」
「お待ちを。私が売る媚薬には、命を揺るがすほどの強い効力はないのです」
 大変だ、とリスカは青ざめた。
 全く誤解もいいところだが融通の利かぬこの騎士に、明らかな醜聞に違いない貴族達の腹上死の原因を作った犯人だという不名誉な嫌疑をかけられているらしいのだ。
「見え透いた弁明をするか。フィティオーナ夫人が、全て白状したのだぞ。お前が王都で死に至る媚薬を売りさばき、捕らえられる前にこの町へ逃亡して――再び悪徳を広めようとしているのだ」
「――愚かな!」
 何だその馬鹿げた曲解は、とリスカは仰天した。
 ありえない。リスカの媚薬は本来、恋人同士の密やかな愉悦の時間のためにと作ったものなのだ。最近、妙にばか売れするため多少気になってはいたが、それにしたって同じ客に三枚以上の媚薬の花びらを売るような真似などしなかった。常連の客も中にはいたが、リスカはしつこいほどに、再度の服用には必ず期間を置くように、と使用に関する注意を促してもいた。第一、一枚あたりの媚薬の効果は、およそ二時間程度のものだ。一、二枚ならば副作用などあるはずもなく、また、それを服用したところで我を忘れるほどの強烈な快楽に支配されるわけでもない。ほんの少し快楽の度合いが高まる、といったささやかな程度なのである。更に言えば、リスカは貴族になどこの花を売ったことがない。悲しいかな、貴族のような身分ある者は、町外れにぽつりと存在するリスカの店をわざわざ訪れたりしないのだ。商売の対象はあくまで小金を持った平民達なのである。
 腹上死の犠牲は、王都はともかく今のところ、この町の平民には出ていない。惜しげもなく命を散らすのは全て裕福な暮らしに慣れすぎて倦んでしまった貴族なのだ。平民達は、きちんと節度を守っている。世情に流されて生きるしかないと嘆きつつも彼等は自分の暮らしを決してないがしろにはせず、ほんの一時だけ日々の忙しなさを忘れるために貴族を真似て軽い媚薬を使い、甘い夜を愉しむにすぎない。平民は貴族達ほどの学も品もないが、案外理性的で現実的なものだ。夢は束の間見るからこそ、香しく貴重なのだと知っている。
 リスカの店は殆どがこういった堅実な生活を営む平民を顧客としている。……中には隣の奥さんと危険な情事を楽しむ、と豪語する強者もいたが。ま、まあ目を瞑ろう。冗談かもしれぬし。
 話がずれたが、とにかく、貴族はリスカの店になど来ない。
 唯一の例外だった客がティーナだ。ゆえにリスカは彼女が護衛も連れずに一人で店に現れた時、その美貌も含めてだが……ひどく驚いたのだった。
 リスカが都を騒がせた犯人などと、愚かしい誤解にもほどがある。
「愚かだと!?」
 怒気を放つフェイを見て、リスカは咄嗟に口走ってしまった自分を呪った。
 しまった、こういう男は怒らせると手に負えぬのだ。貴族は我が強く侮辱に敏感な者が多い。
 危惧通り、フェイは荒い手つきで鉄格子の鍵を開け、ずかずかと狭い檻の中に押し入ってきた。思わず息を呑んで見上げるリスカの顎を、乱暴に掴む。
「誰が愚かだと!?」
 口は災いのもとだ。顎を掴むフェイの手の強さに顔をしかめながら、激しく自分を罵った。
「非道卑劣な魔術師になど、侮辱を受ける謂れはない!」
 フェイは鋭く吐き捨てると同時に腕を振り上げ、手の甲でリスカを叩き払った。手の甲でとはいえ相手は一応訓練をしているだろう騎士で、リスカは見た目こそ男の姿だが、所詮は非力な女にすぎない。頬を襲った力に耐えきれず、身体が呆気なく吹き飛んだ。背中に鉄格子が当たり、一瞬、その痛みに息ができなくなる。暴力的な気配を感知した罪人達の、うあーうあー、と悲しげな鳴き声が虚ろな牢全体に木霊した。延々と反響する悲痛な彼等の声は、まるでリスカと痛みを共有しているかのようだった。
「うるさい!」
 フェイは、赤子のように泣く罪人達にも怒りを露にした。厳しい声音に罪人達が怯えて、ざわざわと身体を引きずる音が聞こえる。巨大な虫が地の上を蠢いているように思えた。
 正気を失った罪人達を相手にしても仕方がないと思い直したのか、最終的にその怒りの矛先はリスカに向かう。
「あっ」
 青年騎士が更にリスカへ接近した。石床の上に横たわり、背の痛みをやりすごそうとするリスカの右腕を、濡れた布を搾るように、片手で乱暴に捻り上げる。
 ぼう、と松明の明かりがひどく間近で揺れた。不吉な赤い残像がくっきりと鮮明に網膜に焼き付くほどの距離だった。
「あっ、あああああっ!!」
 突然襲った掌への凄まじい衝撃に、堪えきれず悲鳴が漏れた。何が起きたのか、思考が追いつかない。
 嘔吐しそうになるほどの激痛。逃れたくても、しっかりと手首を押さえられていて動けない。
 ――痛いっ!
 肉の焼ける嫌な匂いがした。
「あっ、あああっ、あ」
 大量の汗が一度に吹き出し全身を濡らした。首を振り、自由な片手でフェイを叩いたが、解放は許されない。
 信じられなかった。悪夢でも見ているようだった。
 自分の掌に、松明が押し付けられている。
 悲鳴が聞こえる。自分のものか、罪人達のものか、定かではない。意識が遠のき、身体がわずかに痙攣した。
 掌に炎が燃え移り、リスカは戦慄した。
 身動きすら忘れて呆然とするリスカを一瞥したフェイは、皮肉な表情を浮かべてさっと立ち上がり、失笑した。そして、固い靴の先でリスカの手を焼く炎を踏み消した。再び襲いくる新たな痛みに、喘ぎ声が漏れる。
 ――なぜ!?
 分からない。分からない。フェイはまるで私怨をぶつけているようにすら思える。
 なぜ、自分を標的にする!?
 痛い、助けて、と激痛に負けて膝を折りそうになる弱い自分を感じた。恥も外聞もなく懇願しそうになる自分を押し止めたのは、決して勇気や誇りなどといった高尚なものではなかった。
 今、最も耳にしたくない人物の声が響いたためだ。
「御機嫌よう、リカルスカイ様」
 
●●●●●
 
 ティーナ!!
 闇の中でも際立つ美貌。首飾りや耳飾りがきらと美しく松明の光を弾く。
「わたくしを覚えてくださっているようですね、光栄です」
 ティーナははんなりと笑った。禍々しい牢獄の有様に、些かも怯える気配はない。
「――なぜ」
 よもや自分のものとは思えぬ、険しい低い声が漏れた。
「なぜ、と申しますか? それはあなた様が一番よくお分かりのはず」
 分からぬ。覚えのない告発によって不当な嫌疑をかけられ、見知らぬ痛みを与えられる自分のどこに真実が隠蔽されているという。
「困った方」
 ティーナは悩ましく吐息を落とした。どれほど艶美な仕草であっても、リスカはもう見蕩れる気にはなれなかった。
 怒り、驚愕、憎悪、困惑などといった負の感情が自分の中で渦を巻いている。
「リカルスカイ様と二人でお話をさせていただけませんか?」
 ティーナはこの場に似つかわしくない溌剌とした笑みを浮かべて背後に視線を向けた。
 その時、初めて、彼女の背後に一人の青年貴族が佇んでいることを知った。
 松明の明かりが届かないため、容貌は見て取れない。ただ、躊躇う気配のみが伝わった。
 フェイは尋問を途中で遮られたためか不満げな表情を見せたが、ティーナの笑顔に気圧され、渋々と松明を手渡した。
「――お待ちを」
 リスカは無意識の内に、踵を返したフェイを呼び止めた。
 無視されるかもしれないと思ったが、予想に反してフェイは律儀に振り向いた。
「小鳥は」
「……何?」
 虚を突かれた様子でフェイが立ち尽くす。
「あの、白い小鳥は」
 フェイは一瞬、呆気にとられた顔をした。何を訊かれたのか、咄嗟に理解できなかったようだ。
「鳥?」
「私の店にいた小鳥は」
「お前」
 戸惑いと軽い驚きを窺わせる声音だった。
「無事なのですか」
「――お前、何を言っているのだ」
 次第にフェイの顔が厳しくなる。
「何を言っている。お前、お前は! 鳥など、知るか!」
 リスカは自分の右手を強く握りしめながら、意地で睨みつけた。
「くだらぬ、たかが鳥一羽の安否など!――殺したさ、俺が殺した!」
 フェイはまるで……癇癪を起こした子供のように顔を歪め、吐き捨てた。
 リスカは唇を噛み締める。駄目だったのか。稚い小鳥すら救えず、自分の身さえ守れない。何と非力なことか。
 ああいけない、卑屈になればなるほど自分の存在意義を見失う。
 けれども、肉体に与えられる痛みというのはこうも容易く精神を揺さぶり、思考に影を落としてくれる。
 いや――おそらく自分は、セフォーによって心の何かを変えられたのだろう。他人と関わることで感情の起伏が激しくなり、自分を通して世界を見つめるのではなく、世界を通して少しずつ自分の存在を確かめるようになった。この変化は、魔術師としてあるまじきことだろうか?
 ……所詮、不具の魔術師ゆえに、自分自身の感情すら制御できない。
 噛み締めた唇は、錆び付いた血の味がした。
「――よろしいかしら?」
 聞き惚れるような玲瓏とした声が響く。
 項垂れるリスカよりも、フェイは過剰な反応を示した。はっと我に返った様子で、静かに状況を見守っていたティーナを振り返る。
 不可思議なことだが、ティーナに声をかけられるまで、フェイはリスカの返答を待っていたようだった。
 己は、きっと悪人ではない。だが、万人を愛せるほどの博愛主義者でもない。憎い者は憎い。暴力を振るって恐怖を植え付けようとする存在に、好意は抱けない。これほどの仕打ちをしてくれたフェイの心情を慮る懐の広さなど、リスカは持ち合わせていない。小鳥の状態を知った今、早くどこかへ行ってほしかった。
 フェイだけではない。ティーナも他の者も、全て消えてしまえばいい。
 リスカは震える息を吐き出し、精神をどうにか統一させようとした。心を守る枷はリスカをそう簡単には、狂気へと落としてくれない。痛みから逃れる術はなく、自分自身の限界とも対峙させられる。
 痛みをやりすごそうと苦心する間に、フェイと、ティーナの背後にいた青年が去った。他にも複数の足音が聞こえた。リスカからは死角となる闇の中に、別の騎士が待機していたらしかった。
 リスカは全身を襲う悪寒を堪えて立ち上がり、背筋を伸ばした。本当は我を忘れて転げ回りたいほど、炎の熱で焼かれた掌が痛い。
「一体どういうことなのか、説明していただけますか」
「立派ですね、リカルスカイ様」
「私がどうであろうとよろしいのです。私はあなたに理由を求める」
「理由」
 吐き気を伴う目眩に、視界が幾重にも重なって見えた。
「理由以外には、何も求めてくださいませんか」
「私があなたに求めるものは、この状況を説明する言葉以外にありません」
「厳しい方」
「どうでもよろしい。なぜ、私が覚えのない罪で裁かれねばならぬのか、説明をしてください」
「理由など。振られた女がなすことに、正しき論などございますか」
 ティーナは心底楽しそうに、唇を綻ばせた。誘いを断られたことなどで、微塵も心を痛めていない証拠だった。では、その真意は何だ。
 リスカは視線をしっかりとティーナの双眸に重ねようとした。万全とはとてもいえぬ今の体調で、魔力を必要とせぬとはいえ、正確に暗示をかけられるか、ひどく心もとなかった。
「いけませんわね、リカルスカイ様。魔術師の眼は、緋眼とも呼ばれます。闇を払う炎のように真実を見抜き、意のままに相手を操るのでしょう」
 ティーナは手品の種を発見した幼い少女のように誇らしげな目をして笑い続けていた。
 ティーナも魔術師の事情には詳しいのだ。リスカは、万事休すに近いなと落胆した。
「私などの気をひけぬ程度で、あなたの何が汚されましょう? ティーナ、あなたのように若く、美しく、聡明な人ならば、そう、全てを捨ててでも愛を勝ち取りたいと望む者がおりますでしょうに」
 それこそ長蛇の列をなすほどティーナを求める男が現れるだろう、と皮肉もなくリスカは思う。美とは、時に剣よりも鋭い武器となる。人を従わせるのは、何も力だけではない。美であり、知であり、財であったり。
 リスカの台詞の、どこが気に障ったのか――突然、ティーナが表情の一切をなくした。ほんの一瞬のことで、すぐに妖艶な微笑で隠されてしまったが。
「わたくし、気に入らぬ方の愛などいりません」
「だが、あなたは、私を愛しているわけではない」
 というかその前に実は自分、女性なんですよとは正直に告白できない雰囲気だった。女性でもかまわないと言われそうな気もして、恐ろしくもあったのだが。
「ふふふ。リカルスカイ様。あなた様に最後の手を差し伸べます」
「私はそのようなことよりも、説明を」
 ティーナは微笑したまま檻の中へ足を踏み入れ、ゆるりと優雅に手を差し伸べた。リスカは束の間手の痛みを忘れ、額を押さえたくなった。何を考えているのか、さっぱり分からない。
「わたくしの手を取りなさい。リカルスカイ=ジュード」
 声音は一変して、驕慢な女王のようだった。
「助かりたいでしょう。無実であるのに投獄されるなど、お嫌でしょう。わたくしに助けを求めなさい。ならばあなたをここから出して差しあげます」
 無実であると、やはりティーナは知っているわけだ。
「ティーナ。あなたですか。死に至る媚薬を私が広めたなどと、虚偽の言葉を騎士に伝えたのは」
「死に至る媚薬は実際に売られていますのよ、リカルスカイ」
「だが、私には関わりなきこと」
「媚薬の程度の差こそあれ、あなたもお売りになっている。言い逃れできません」
 それを指摘されると返す言葉もない、とは言えない立場だ。
「私は法を破っていない」
「同じこと」
「違います」
 ティーナは少し感情的な表情を浮かべた。――崩せるだろうか?
「なぜならば、私は死を招かない」
 彼女の仮面を崩せねば、リスカは現状を打破できない。冷や汗がとまらなかった。
「私は死を招かないのです。フィティオーナ」
「私は――」
 ティーナは一歩、こちらへ踏み出そうとした。
 やったか。リスカがそう希望を抱いた時――
 
 
「私の可愛い人を誘惑せぬよう。ねえ、リル」
 聞き馴染みのある声が突然、聞こえた。



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